第1話 悪役令嬢、前世を思い出して推しを確認する
目の前の王太子殿下が、紅茶に角砂糖を一つ落とした。
銀の匙が、白磁のカップの内側で小さく鳴る。
澄んだ音だった。
王宮の庭園には、春の花が咲き乱れている。手入れの行き届いた薔薇。白い柱に絡む蔓草。噴水の水音。貴族令嬢ならば、ここで頬を染め、婚約者である王太子殿下との優雅な茶会に胸をときめかせるべきなのだろう。
実際、昨日までのわたくしなら、そうしていた。
王太子ユリウス・エリュシオン殿下。
陽光をそのまま糸にしたような金髪。青い瞳。穏やかな微笑み。完璧な所作。完璧な声。完璧な婚約者。
わたくし、ミリア・ロゼリアは、その殿下の婚約者である。
公爵家の娘として、幼い頃から王太子妃になるための教育を受けてきた。歩き方、笑い方、紅茶の飲み方、誰にどの角度で会釈するか。たとえ靴の中で足の小指をぶつけても、悲鳴ではなく微笑みを出す。それがロゼリア公爵令嬢としての務めだった。
だから今日も、わたくしは完璧に微笑んでいた。
いた、はずだった。
「ミリア?」
殿下がわたくしの顔を覗き込んだ。
「どうした。急に黙り込んで」
「……いえ」
わたくしは反射的に微笑んだ。
長年叩き込まれた公爵令嬢の外面というものは、こういう時にだけ無駄に優秀である。
「少し、考え事をしておりましたの」
「君が茶会中に考え事とは珍しいな。いつもなら、私が少し黙るだけで話題を用意してくれるのに」
「そう、でしたかしら」
「そうだよ。君はいつも完璧だ」
殿下は何気なくそう言った。
以前のわたくしなら、その一言を宝石のように胸へしまい込んだに違いない。
けれど今のわたくしは、その言葉を聞きながら別のことで頭がいっぱいだった。
なぜなら、思い出してしまったからだ。
つい数分前。
殿下の背後に、赤髪の青年が現れた。
背が高く、引き締まった体つき。黒と深紅を基調にした騎士服。腰に剣。鋭いけれど、まっすぐな瞳。
騎士団長、ダリオ・グランツ。
彼が殿下の隣に立った瞬間、わたくしの頭の中で何かが弾けた。
いや、正確には、弾けたというより、棚から本が雪崩落ちるような感覚だった。
通勤電車。
深夜のスマホ画面。
締切前の資料作成。
上司の「これ、朝までにできる?」という悪魔の呪文。
休日のイベント会場。
薄い本の山。
推しカプ考察用のメモアプリ。
寝不足のまま飲んだコンビニコーヒー。
そして、前世で何度も遊んだ乙女ゲーム。
――『聖冠のエリュシオン』。
ここは、そのゲームの世界だ。
そしてわたくしは、よりにもよって悪役令嬢ミリア・ロゼリアに転生している。
王太子ユリウスに執着し、平民出身の聖女候補セシリアをいじめ、最後は大勢の前で断罪される女。
婚約破棄。
修道院送り。
一部ルートでは国外追放。
さらに最悪の場合、家ごと失脚。
なかなかに詰んでいる。
普通なら、ここで青ざめる。いや、実際かなり青ざめた。胃のあたりがすっと冷たくなったし、手に持ったカップを落としかけた。
だが、それ以上に。
わたくしの視線は、殿下の背後に立つダリオ様へ吸い寄せられていた。
「殿下、南門の警備配置ですが、念のため人数を増やしておきました」
「助かるよ、ダリオ。君がいると、私は余計な心配をせずに済む」
「殿下が心配事を増やしすぎるだけです」
「手厳しいな」
「事実ですので」
殿下が笑った。
ダリオ様はため息をついた。
そのやり取りを見た瞬間、わたくしの内側で、前世のわたくしが床を叩いた。
生きている。
推しが。
推しと推しが。
同じ空気を吸っている。
待ってほしい。
公式が呼吸している。
公式が、わたくしの目の前で、何気ない主従会話をしている。
しかも殿下の「助かるよ」に対して、ダリオ様が素直に照れるでもなく、当然の顔で「事実ですので」と返す距離感。
何それ。
長年の信頼関係が、紅茶より濃く煮出されている。
尊い。
いや、尊いという言葉では足りない。今この場に辞書編纂者を呼びたい。新しい語彙を作っていただきたい。人の寿命を削る関係性を表す、もっと適切で、もっと切実で、もっと胃に来る言葉が必要だ。
「……公式が呼吸している」
ぽつり、と声が出た。
しまった。
すぐそばに控えていた侍女リタが、わずかに眉を動かした。
リタは幼い頃からわたくしに仕えてくれている侍女だ。無表情に見えて、実はよく見ている。怖いほど見ている。わたくしが焼き菓子を一つ多く食べた日も、翌朝のドレスの紐を無言で一段きつく締める女である。
「お嬢様」
小さな声でリタが言った。
「今、何か」
「何も言っていないわ」
「左様でございますか」
信じていない声だった。
殿下もこちらを見る。
「ミリア、本当に大丈夫か? 顔が赤いようだ」
「大丈夫ですわ、殿下。少々、尊さに当てられただけです」
「尊さ?」
「こちらの話です。お気になさらず」
「気になる言い方をしているが」
「殿下。世の中には、気にした瞬間に戻れなくなる扉がございますの」
「……ミリア?」
しまった。
また変なことを言った。
公爵令嬢ミリア・ロゼリア、前世の記憶を取り戻してまだ五分。早くも社交界での生存能力に不安がある。
落ち着け。
まず整理するのよ、ミリア。
わたくしは悪役令嬢。
このままいけば破滅。
原因は、王太子殿下への執着とヒロインいじめ。
ならば、すべきことは明確。
一、ヒロイン様をいじめない。
二、王太子殿下に執着しない。
三、推しカプの邪魔をしない。
完璧だ。
あまりにも完璧すぎて、自分の才能が怖い。
前世のわたくしは、仕事には向いていなかったかもしれないが、推しの関係性を壊さないための距離感には命を懸けていた。イベント会場で培った列整理能力。公式供給を待つ忍耐力。解釈違いを見ても静かにブラウザを閉じる精神力。
このすべてを今、悪役令嬢生活に活かす時が来たのだ。
わたくしは壁になる。
王太子殿下と騎士団長ダリオ様の尊い信頼関係を、邪魔しない位置からそっと見守る壁に。
自分が間に挟まるなど言語道断。
前世のわたくしが一番嫌っていたのは、推しと推しの間に割って入る無粋な女だった。よりにもよって今世のわたくしがその役になるなど、そんな地獄、断罪より重い。
まずは殿下への態度を改めなければ。
今までのミリアは、殿下に好かれようと必死だった。
茶会では完璧に笑い、舞踏会では誰より美しく隣に立ち、他の令嬢が殿下に近づくと不機嫌になった。
だが、それは今日で終わり。
わたくしは、すう、と息を吸った。
「殿下」
「うん?」
ユリウス殿下が優しく首を傾げる。
その背後で、ダリオ様が静かに立っている。主を守る騎士の姿。絵画にしたい。いや、絵画では動かない。動くからいい。生きているからいい。今は集中しろ、わたくし。
「わたくし、これからは少し距離を置きたいと存じます」
言った。
言ってしまった。
リタの気配が固まった。
殿下の笑みが、ゆっくりと消える。
庭園の空気が、少しだけ静かになった気がした。
「……距離を?」
「はい」
「私と?」
「はい」
「なぜ?」
なぜ。
その問いに、わたくしは一瞬詰まった。
まさか、あなたと騎士団長様の尊い関係を守りたいからです、とは言えない。
言ったら終わる。
悪役令嬢として断罪される前に、奇人令嬢として王宮医師に診察される。
わたくしは慎重に言葉を選んだ。
「殿下には、殿下のお立場がございます。わたくしが婚約者として常におそばにいることで、かえって殿下の交友やご判断の妨げになってはならないと思いましたの」
よし。
かなりまともな理由に聞こえる。
我ながら公爵令嬢教育の勝利である。
だがユリウス殿下は、納得した顔をしなかった。
むしろ、少しだけ傷ついたような、困ったような表情になる。
「君は、私の妨げになっていると思っていたのか」
「そういうわけでは」
「では、私が君を邪魔だと思っていると?」
「違います。そうではなくて」
まずい。
話の流れが変な方向へ行っている。
わたくしは殿下の自由のために離れたいだけであって、殿下に傷ついてほしいわけではない。
違うのだ。
これは推しカプ保護活動の第一歩であって、王太子殿下にしょんぼり顔をさせるイベントではない。
殿下の背後で、ダリオ様の視線が鋭くなった。
ああ、待ってください。
その「殿下を傷つけるなら許さない」みたいな顔は大変すばらしいですが、今それをわたくしに向けないでください。
解釈は一致しています。
立場が最悪なだけで。
「ミリア」
殿下がわたくしの名を呼ぶ。
その声は、いつもより低かった。
「急にどうしたんだ。君は今朝まで、何も変わらなかった」
そう。
殿下から見れば、わたくしは突然おかしくなったように見えるだろう。
実際、おかしくなったと言われれば否定は難しい。前世を思い出し、悪役令嬢だと悟り、推しが生きている現実に打ちのめされているのだから。
けれど、言うわけにはいかない。
わたくしはカップを置き、膝の上で両手を重ねた。
指先が少し震えている。
破滅が怖いのか。
推しの前で変なことをしたからか。
それとも、殿下の目が思ったより真剣だからか。
自分でもよく分からなかった。
「わたくし、考えたのです」
「何を?」
「殿下の隣に立つ者は、殿下の幸せを一番に願えなければならない、と」
これは嘘ではない。
推しの幸せを願う気持ちは本物だ。
方向が少し、いや、かなり特殊なだけで。
「わたくしは今まで、殿下の隣に立つことばかり考えておりました。けれど、それが本当に殿下のためなのか、分からなくなったのです」
ユリウス殿下が黙る。
ダリオ様も黙る。
リタも黙る。
ああ、沈黙が重い。
これが社交界の沈黙。
前世の職場で上司が「ちょっといい?」と言った時の沈黙に似ている。嫌な汗が出る種類のやつだ。
しかし、殿下は怒らなかった。
彼はわたくしをじっと見て、それから少しだけ笑った。
困ったように。
でも、どこか興味深そうに。
「君は、本当に変なことを言うようになったな」
「申し訳ございません」
「責めているわけじゃない。ただ……驚いた」
「驚かせるつもりは」
「だろうね。君は昔から、驚かせる時ほど真面目な顔をしている」
殿下はそう言って、カップを置いた。
「距離を置きたい、か」
「はい」
「それは、婚約者としての関係も含めて?」
来た。
婚約解消への入口。
ここで慎重に進めば、破滅回避に近づく。
わたくしは頷こうとした。
その瞬間、ダリオ様が低い声で言った。
「殿下」
短い一言。
ただそれだけで、ユリウス殿下は彼を見た。
目線だけで何かが通じた。
待って。
今の何?
今の目線の交差、何ですの?
言葉はいらない、長年の信頼だけで成立する意思疎通?
やめてくださいませ。こちらは今、人生の重大局面なのに、供給が横から差し込まれると処理が追いつきません。
わたくしが内心で震えていると、ダリオ様が静かに口を開いた。
「ロゼリア嬢は、少し疲れておいでなのでは」
推しが。
わたくしを。
気遣った。
危ない。
心臓が変な音を立てた。
「い、いえ。お気遣いなく、グランツ卿」
「顔色が悪い」
「これは生まれつきですわ」
「先ほどまでは悪くなかった」
「観察力が高い……」
「何か?」
「いえ、頼もしい騎士団長様だと」
危ない。
素直な感想が漏れた。
ダリオ様は少し怪訝な顔をした。
殿下はそんなわたくしたちを見て、なぜか小さく笑った。
「分かった。今日のところは、君の言葉を受け取っておく」
「殿下」
「ただし、急にすべてを変えようとしなくていい。君が何を考えているのか、私も少し知りたい」
まずい。
これはまずい。
王太子殿下が、わたくしに興味を持ってしまっている。
違う。
そうではない。
あなたが興味を持つべきは、いずれ現れる聖女候補セシリア様であり、もしくは今まさに隣に立っている忠義深い騎士団長様であって、悪役令嬢ミリアではない。
わたくしは壁。
壁志望。
壁見習い。
少なくとも、主人公枠ではない。
「殿下、わたくしは」
「ミリア」
殿下が、少しだけ身を乗り出した。
「君は、私から離れたいと言った。でも不思議だな」
「何が、でしょうか」
「今までより、ずっと君の本音に近づいた気がする」
そんなはずはない。
むしろ今のわたくしは、本音の九割を隠している。
推しカプがどうとか、壁になりたいとか、公式が呼吸しているとか、絶対に言えないことだらけである。
けれど殿下は、わたくしの困惑を楽しむように微笑んだ。
王子様の笑顔だった。
原作なら、ヒロインの心を奪う笑顔。
それが今、悪役令嬢であるわたくしに向けられている。
違う。
ルートが違う。
どこで選択肢を間違えた。
わたくしは深く頭を下げた。
「本日は、少し気分がすぐれないようですので、失礼してもよろしいでしょうか」
「ああ。無理はしない方がいい。リタ、ミリアを頼む」
「かしこまりました」
リタが静かに応じる。
わたくしは立ち上がり、淑女らしく一礼した。
去り際、どうしても一度だけ振り返ってしまう。
ユリウス殿下が、ダリオ様に何かを小声で言っている。
ダリオ様は眉を寄せながら、それでも殿下の言葉をきちんと聞いている。
距離が近い。
信頼が深い。
尊い。
だが同時に、わたくしの背筋に冷たいものが走った。
わたくしは悪役令嬢。
原作通りなら、この二人の前でいつか断罪される。
だったら、その前に。
絶対に、道を変えなければならない。
ヒロインを傷つけない。
殿下に執着しない。
ダリオ様との信頼関係を邪魔しない。
そして何より。
わたくしは、壁になる。
目立たず、騒がず、ただ尊いものを見守る壁に。
……そう決意したはずだった。
けれど、庭園を出る直前。
背後から殿下の声が聞こえた。
「ダリオ」
「はい」
「ミリアは、あんな顔で笑う子だったかな」
「……分かりません。ただ、無理はしているように見えました」
「そうか」
短い沈黙。
それから殿下が、静かに言った。
「少し、気にしておこう」
わたくしは足を止めかけた。
やめてくださいませ、殿下。
気にする相手を間違えています。
わたくしは壁です。
壁に興味を持ってはいけません。
そう心の中で叫びながら、わたくしはリタに支えられるように王宮の回廊へ出た。
春の風が、頬を撫でる。
人生二度目の初日。
悪役令嬢ミリア・ロゼリアの破滅回避作戦は、こうして始まった。
ただし開始早々、王太子殿下の好感度が下がった気配はない。
むしろ、ほんの少しだけ上がった気がする。
……なぜですの?




