第49話 王宮舞踏会、開幕です
王宮舞踏会の朝。
目覚めた瞬間、わたくしは天井を見つめて思った。
今日だけ、世界が止まればいいのに。
もちろん、止まらなかった。
世界は非常に勤勉である。
朝日は律儀にカーテンの隙間から差し込み、鳥は空気を読まずに鳴き、廊下の向こうからは侍女たちの足音が聞こえてくる。
そして、扉の外でリタの声がした。
「お嬢様。起きておられますね」
返事をする前から決めつけられた。
わたくしは、布団を少しだけ顔の上へ引き上げた。
「……寝ています」
「寝ている方は返事をなさいません」
「今、夢の中で返事をしたの」
「では、夢の中のお嬢様も起きてくださいませ」
「リタは夢にも容赦がないわね」
「本日は舞踏会でございますので」
その言葉だけで、胸がどん、と鳴った。
舞踏会。
王宮。
婚約の答え。
ユリウス様。
レオンハルト様。
セシリア様。
グランツ卿。
父上の胃薬。
全部が一気に頭の中へ押し寄せてきて、わたくしは布団の中で小さく唸った。
「リタ」
「はい」
「今日、やっぱり急に観葉植物研究に目覚めたことには」
「なりません」
「まだ言い切る前に」
「予想済みでございます」
「最強の壁が朝から強い」
「防御壁は早朝から稼働しております」
扉が開く。
リタが入ってきた。
彼女はいつも通り、完璧に整っている。
黒い侍女服。
きちんとまとめられた髪。
表情は落ち着いていて、手には今日の予定表と、小さな布袋。
布袋には、おそらくハンカチが入っている。
いや、ハンカチだけではない気がする。
「その袋は?」
「お嬢様用緊急対応袋です」
「緊急」
「ハンカチ四枚、香り袋、水飴、胃に優しい小菓子、予備の手袋、髪留め、針と糸、小型の櫛、そして」
「そして?」
「植木鉢の陰に入られた際に、素早く発見するための目印用リボン」
「最後だけ方向性がおかしいわ」
「入らせませんが、万一です」
「そこまで信用がないのね」
「逃げ癖は信用しております」
「その信用、いらないわ」
少し笑った。
笑えた。
そのことに、自分で少し驚く。
今日はもっと、朝から泣くか震えるかすると思っていた。
もちろん怖い。
とても怖い。
けれど、怖さの中に、少しだけ芯のようなものがある。
昨夜、手帳に書いた言葉。
壁ではなく、私として。
その一文が、胸の奥で小さく光っている気がした。
支度は、いつもよりずっと長かった。
湯で身体を温め、肌を整え、髪を梳き、薄く香油をなじませる。
リタの手はいつも通り正確だったが、今日はほんの少しだけ丁寧さが違う。
触れるたびに、落ち着け、と言われているようだった。
「リタ」
「はい」
「あなた、今日、いつもより優しいわね」
「いつも優しいつもりでございます」
「レオンハルト様みたいな返事」
「影響でしょうか」
「深刻ね」
鏡の中のリタが、ほんの少しだけ笑った。
「本日は、お嬢様がご自分の足で王宮へ向かわれる日ですので」
「大げさね」
「大げさではございません」
リタはわたくしの髪をまとめながら、静かに続ける。
「以前のお嬢様なら、王太子殿下の婚約者として完璧に見えることだけを考えておられたでしょう」
「……そうね」
「少し前のお嬢様なら、壁としてどこに立てば最も観測効率が良いかを考えておられたでしょう」
「そこまででは」
「植木鉢候補を確認しておられました」
「していました」
「ですが、今日は違います」
リタは、髪飾りを手に取った。
小さな星飾り。
ユリウス様からもらった銀の栞と、少し似た光をしている。
「今日は、ミリア・ロゼリアとして行くのでしょう?」
鏡の中の自分と目が合った。
薄く整えられた化粧。
まだ少し不安そうな目。
けれど、昨日よりは逃げていない顔。
「……ええ」
わたくしは頷いた。
「行くわ。怖いけれど」
「はい」
「泣くかもしれないけれど」
「ハンカチは四枚ございます」
「昨日より一枚増えたわ」
「舞踏会仕様です」
「何でも仕様にするのね」
「必要ですので」
ドレスを着る時、息が止まりそうになった。
薄い銀青の布が、身体を包む。
軽いはずなのに、重い。
責任の重さかもしれない。
覚悟の重さかもしれない。
それとも、ただ緊張で呼吸が浅いだけかもしれない。
背中の紐を結びながら、リタが言う。
「苦しくはございませんか」
「少し」
「紐を緩めます」
「いいの?」
「途中で倒れられるよりは」
「実用」
「美しさは、呼吸できてこそでございます」
リタの言葉に、少し笑った。
呼吸できてこそ。
母も言っていた。
どこへ行けば息ができるか。
わたくしは、今日それを確かめに行くのかもしれない。
支度を終えて階下へ降りると、玄関広間には父と母がいた。
母は深い菫色のドレスを纏い、いつも通り美しい。
父は正装姿で、いつもより顔が硬い。
胸元に飾り布。
手袋。
そして、懐にたぶん胃薬。
いや、絶対に胃薬。
「ミリア」
母が一歩近づいて、わたくしを見た。
その目が、ふっと柔らかくなる。
「綺麗よ」
「ありがとうございます、お母様」
「本当に、よく似合っているわ。誰かの色ではなく、あなたの色ね」
胸が熱くなる。
父は黙っていた。
あまりに黙っているので、少し不安になった。
「お父様?」
「……」
「お父様?」
「ああ」
「大丈夫ですか」
「大丈夫ではない」
「えっ」
「娘が綺麗すぎる」
父が真顔で言った。
わたくしは固まった。
母が横で楽しそうに笑う。
「あら、今日は百点ね」
「採点しないでくれ」
「お父様」
「何だ」
「胃薬は?」
「飲んでいない」
「本当に?」
「まだだ。今のところ、娘の姿で胃より胸がいっぱいになっている」
「お父様……」
「ただし、王宮に着いたら飲むかもしれない」
「現実的」
父は少し照れたように視線を逸らし、それから真面目な顔で言った。
「ミリア」
「はい」
「今日は、父も母もいる。リタもいる。苦しくなったら戻ってこい」
「はい」
「ただし、答えから逃げるためではなく、息を整えるためにだ」
父が、そんなことを言う。
胃薬を飲む父が。
わたくしは、泣きそうになった。
リタがすぐに袋へ手を伸ばす。
「まだ大丈夫よ」
「確認です」
「早いわ」
母がわたくしの手を取った。
「行きましょう」
馬車の中は、普段より静かだった。
母は穏やかに外を眺め、父は時々懐へ手を当て、リタは緊急対応袋を膝に置いている。
わたくしは、手帳を持ってきていなかった。
正確には、持って行きたかったが、リタに止められた。
『本日は手帳より、ご自分の目で見てくださいませ』
と言われたからだ。
代わりに、ユリウス様からもらった銀の栞を、小さなポーチに入れている。
レオンハルト様の手紙は、持ってこなかった。
持ってきたら、たぶん何度も読み返してしまう。
それでは前を見られない。
でも、言葉は覚えている。
君がどの道を選んでも、私は君の選択を尊重する。
ただし、私を選んだ場合は逃がさない。
怖がっていい。迷っていい。泣いてもいい。椅子は用意する。
壁ではなく君として来ることを望む。
心臓に悪い。
でも、支えにもなる。
「ミリア」
母が声をかけた。
「はい」
「今、レオンハルト様の手紙を思い出していたでしょう」
「お母様まで!」
「顔に出ていたわ」
「顔面日記帳問題が家族全体へ」
父が少し咳払いした。
「ヴァイスベルク公爵の手紙は、どんな内容だったのだ」
「お父様には刺激が強いかと」
「父は刺激に耐える」
「胃が?」
「……リタ、胃薬を」
「かしこまりました」
「耐える前に飲んだ!」
馬車の中で父は一粒飲んだ。
母は笑い、リタは水を差し出し、わたくしは少しだけ肩の力が抜けた。
この家族と一緒に行ける。
それが、ありがたかった。
王宮が見えてきた。
白い城壁。
高い尖塔。
大広間へ続く灯り。
今夜の王宮は、まるで星を集めたように輝いていた。
馬車が門をくぐる。
胸の鼓動が速くなる。
馬車寄せには、すでに多くの貴族たちが集まっていた。
華やかなドレス。
宝石。
礼服。
香水。
笑い声。
囁き声。
その中に、わたくしたちの馬車が止まる。
扉が開いた。
先に父が降り、母が続く。
父が手を差し出した。
「ミリア」
わたくしは、その手を取って馬車を降りた。
瞬間。
視線が集まった。
ぞわり、と背筋が震える。
「あれがロゼリア公爵令嬢……」
「今夜、王太子殿下との件が……」
「ヴァイスベルク公爵との噂は本当なのかしら」
「断罪夜会の時とは、また雰囲気が……」
囁きが聞こえる。
聞こえないふりをするには、少し近い。
けれど、逃げない。
リタが後ろで静かに囁いた。
「お嬢様」
「はい」
「背筋」
「分かっているわ」
背筋を伸ばす。
顎を少し上げる。
母が横で微笑む。
父がわたくしの横に立つ。
わたくしは、一歩前へ出た。
壁ではなく。
ミリア・ロゼリアとして。
王宮大広間へ続く廊下は、花と灯りで飾られていた。
春星の舞踏会。
天井からは星形の魔石灯が吊るされ、淡い光が床に落ちている。
歩くたびに、ドレスの裾の星刺繍が小さく揺れた。
まるで、夜空の上を歩いているようだ。
母の言った通りだった。
「お嬢様、足元」
「大丈夫」
「呼吸」
「しているわ」
「顔」
「何の顔?」
「逃げたい顔ではなく、少し戦う顔です」
「戦うの?」
「舞踏会は戦場だと奥様が」
「母上の教えが広まっている」
大広間の扉が近づく。
そこには、王宮侍従が立っていた。
名前を告げられる。
「ロゼリア公爵家、ご到着でございます」
扉が開いた。
光。
音楽。
人々。
広間いっぱいに広がる、華やかで、息苦しくて、美しい世界。
わたくしは、一瞬だけ立ち止まりそうになった。
その時。
「ミリア様!」
明るい声がした。
セシリア様だった。
白と淡い若草色のドレスを着た彼女が、少し小走りになりかけて、慌てて淑女らしく歩き直している。
可愛い。
ものすごく可愛い。
尊い。
わたくしの中の推し活回路が、即座に起動しかけた。
「セシリア様……今日も、なんという浄化力……」
「お嬢様」
リタの声が低く入る。
「本日は観測者ではなく当事者です」
「分かっているわ。今のは心の礼拝よ」
「礼拝も控えめに」
「信仰の自由は」
「人目があります」
「はい」
セシリア様が近づいてきて、わたくしの手をそっと握った。
「ミリア様、とてもお綺麗です」
「セシリア様こそ、今日も春の女神のようです」
「女神だなんて」
「いいえ、女神です。むしろ聖女様です。あ、聖女候補でいらっしゃいますものね。つまり公式に近い女神」
「公式?」
「いえ」
危ない。
今日も口が滑る。
セシリア様はくすくす笑った。
「ミリア様がいつも通りで、少し安心しました」
「いつも通りでしたか」
「はい。少し緊張されていますけれど」
「顔に?」
「はい」
「やはり」
顔面日記帳、聖女候補にも読まれている。
セシリア様は、わたくしの手を少しだけ強く握った。
「大丈夫です。私もおります」
「ありがとうございます」
「泣きそうになったら、私も一緒に泣きます」
「今日は、できれば泣かない方向で」
「はい。でも、泣いても大丈夫です」
その言葉に、胸が温かくなる。
リタのハンカチ。
母の言葉。
父の胃薬。
セシリア様の手。
帰り道は、ちゃんとある。
その時、広間の奥が少しざわついた。
わたくしは、そちらを見た。
ユリウス様がいた。
金の髪。
白と深い青の王太子礼装。
胸元には王家の紋章。
美しい。
でも今日は、推しとしての眩しさだけではない。
一人の青年として、そこに立っている。
彼の隣には、ダリオ様。
騎士団長の礼装姿。
赤い髪。
まっすぐな背筋。
殿下の少し後ろに立ち、けれどただ控えているだけではなく、確かに支えている。
尊い。
やはり尊い。
しかし今日は、その尊さが少し違う。
絵ではない。
関係性の供給でもない。
人が自分で選んだ場所に立っている尊さだ。
「リタ」
「はい」
「グランツ卿、解釈一致です」
「お気持ちは分かりますが、倒れないでくださいませ」
「努力します」
「善処ではなく?」
「努力します」
その瞬間、ユリウス様と目が合った。
彼は、少しだけ微笑んだ。
わたくしも、礼を返す。
王太子殿下の婚約者として。
そして、ユリウス様をちゃんと見ると決めたミリアとして。
その少し離れた場所に、もう一人。
レオンハルト様がいた。
濃紺の礼服。
銀灰色の髪。
冷たいほど整った立ち姿。
彼は大勢に囲まれているわけではない。
けれど、周囲の貴族たちは自然と距離を取っている。
冷血公爵。
そう呼ばれる男。
その目が、まっすぐわたくしを見ていた。
ほんのわずかに、視線がわたくしの顔色へ動く。
次に足元。
次に周囲。
安全確認。
この華やかな舞踏会場でも、彼はやはり彼だった。
胸が、少しだけ緩む。
そして、跳ねる。
忙しい。
レオンハルト様は、わたくしにだけ分かるくらい小さく頷いた。
逃げるな。
そう言われた気がした。
同時に。
椅子は用意している。
そんな気もした。
わたくしは、ほんの少しだけ頷き返した。
リタが横で小さく言う。
「お嬢様」
「なに?」
「今のお顔は、かなり危険です」
「どういう意味?」
「恋の旗が、もう」
「言わないで」
「倒れ」
「リタ」
「……かけております」
「言ったわね」
「控えめに」
「控えめとは」
セシリア様が隣で嬉しそうに小声で言った。
「ミリア様、レオンハルト様もずっと見ていらっしゃいました」
「セシリア様まで」
「とても素敵でした」
「味方が全員容赦ない」
そう言いながら、少し笑ってしまう。
怖い。
緊張している。
社交界の視線は痛い。
噂は刃のようにちらつく。
これから、ユリウス様との婚約の答えを出さなければならない。
レオンハルト様とも向き合わなければならない。
でも。
わたくしは、ひとりではない。
大広間の中央で、楽師たちが曲を変えた。
人々の視線が、王太子殿下へ集まる。
ユリウス様が、こちらへ歩いてきた。
一歩ずつ。
その姿は、やはり王子様だった。
前世で画面の向こうにいた、遠い推し。
でも今は違う。
わたくしの前へ歩いてくる、一人の人。
ユリウス様は、わたくしの前で足を止めた。
礼をする。
「ミリア」
声は穏やかだった。
「今夜、君の最初の一曲をいただいても?」
周囲が息を潜めるのが分かった。
王太子殿下。
婚約者。
最後かもしれない一曲。
わたくしは、ゆっくり息を吸った。
怖い。
でも、逃げない。
手を差し出す。
「はい、ユリウス様」
殿下の目が、少しだけ揺れた。
そして、優しく微笑む。
「ありがとう」
彼の手に、わたくしの手が重なる。
遠くで、ダリオ様が静かに見守っている。
レオンハルト様の視線も感じる。
セシリア様が、祈るように両手を握っている。
リタは、少し後ろで背筋を伸ばしている。
父は、たぶん胃薬を飲むタイミングを考えている。
母は、完璧な微笑みで社交界の視線を受け止めている。
王宮舞踏会、開幕。
壁ではなく。
当事者として。
わたくしは、最初の一歩を踏み出した。




