第48話 舞踏会前夜、壁はドレスを着る
舞踏会前夜。
ロゼリア公爵邸は、妙に静かだった。
いや、実際には静かではない。
廊下の向こうでは侍女たちが明日の支度を最終確認している。
ドレスの皺、靴の飾り、髪飾り、馬車の時間、控え室に持ち込む小物、父の胃薬。
父の胃薬。
それは小物に分類してよいのか。
だが、リタは本気で「旦那様用緊急胃薬袋」と書かれた小さな袋を用意していた。
母は母で、明日の装いを最後まで確認し、父は父で「胃は痛いが、逃げない」と言いながら夕食を半分残しかけ、母に叱られていた。
屋敷は忙しい。
けれど、わたくしの部屋だけは、妙に時間が止まっているようだった。
目の前には、明日のドレスがある。
薄い銀青のドレス。
母が選んだ色。
王太子殿下の金にも、レオンハルト様の濃紺にも、セシリア様の白にも寄せすぎない。
わたくし自身の色。
光の角度で、青にも銀にも、淡い菫にも見える。
胸元は上品に詰まりすぎず、けれど過度に華やかでもない。
裾には小さな星の刺繍が散っている。
踊ると、夜空を歩くように揺れるらしい。
母がそう言った時、わたくしは何と返せばよいか分からなかった。
夜空を歩く。
舞踏会。
王宮。
婚約の答え。
考えるだけで、足元がふわふわする。
「お嬢様」
リタが、背後から声をかけた。
「ドレスに睨みを利かせても、明日は来ます」
「睨んでいないわ」
「先ほどから、かなり真剣なお顔です」
「これは……覚悟の顔よ」
「八割ほど怯えが混じっております」
「割合を出さないで」
「では、怯え多めの覚悟のお顔です」
「料理みたい」
リタは、机の上に温かい茶を置いた。
今日は紅茶ではなく、蜂蜜入りの薬草茶。
レオンハルト様が以前用意してくれたものに似ている。
わたくしはカップを見て、少しだけ心臓が跳ねた。
リタがその反応を見逃すはずもない。
「レオンハルト様を思い出されましたね」
「思い出していません」
「では、薬草茶の味を思い出されましたか」
「……少し」
「それを用意した方も?」
「リタ」
「はい」
「最近、あなたの追及は王宮尋問官より鋭いわ」
「お嬢様限定ですので」
「限定でも怖いわ」
リタは静かに微笑んだ。
怖い。
だが、心強い。
わたくしはカップを両手で包み、ドレスを見つめた。
「リタ」
「はい」
「明日、私、本当に行くのね」
「はい」
「王宮へ」
「はい」
「舞踏会へ」
「はい」
「婚約の答えを出す場へ」
「はい」
「……少し、逃げたくなってきたわ」
「でしょうね」
「止めて」
「止めます」
「即答」
リタは、少しも迷わなかった。
「どこへ逃げる予定ですか」
「まだ具体的には」
「体調不良は?」
「却下済み」
「領地視察は?」
「却下済み」
「親戚の看病は?」
「親戚に迷惑がかかるから却下」
「馬車の故障は?」
「公爵様に見抜かれているわ」
「植木鉢との同化は?」
「それはもう人間として危ない」
「よろしいかと」
「リタ、今のは何の確認?」
「お嬢様がご自分で逃げ道を却下できるようになったかの確認です」
「訓練だったの?」
「はい」
わたくしは思わず笑ってしまった。
笑ったら、少しだけ肩の力が抜けた。
「……逃げ道ではなく、帰り道を持って行くのよね」
「はい」
「あなたのところ」
「はい」
「お父様とお母様のところ」
「はい」
「セシリア様のところ」
「はい」
「必要なら、椅子」
「ヴァイスベルク公爵様が用意されるかと」
「本当にありそうなのが怖いわ」
「むしろ安心かと」
リタは真顔だ。
レオンハルト様の影響が、ロゼリア家だけでなくリタにもかなり浸透している。
安全確認。
椅子。
薬草茶。
逃げるな。
でも泣くなら座れ。
……思い出すと、やはり心臓に悪い。
その時、扉が叩かれた。
「ミリア、入ってもいいかしら」
母の声だった。
リタが扉を開けると、母と父が並んでいた。
母はいつも通り美しく、父は少しだけ胃に手を添えている。
だが、今夜の父の目は、意外なほど穏やかだった。
「お父様、お母様」
「眠れない顔ね」
母が言う。
「まだ寝る時間ではありません」
「寝る時間になっても眠れない顔よ」
「母の目が鋭いです」
「母ですもの」
万能の母。
もう反論しない。
父は、部屋に入ってドレスを見た。
しばらく黙った。
「綺麗だな」
「ドレスがですか?」
「ドレスも」
父は、少しだけ言葉を探した。
「明日のミリアも、きっと綺麗だ」
予想外の直球に、わたくしは固まった。
「お父様」
「何だ」
「胃薬は?」
「まだ飲んでいない」
「飲んだ後の発言ではなく?」
「失礼な」
父は真面目に言ったが、少し耳が赤い。
母がくすくす笑った。
「あなた、娘を褒めるのに毎回覚悟が必要なのね」
「必要だ。軽く言ってはいけない」
「まあ」
「娘が明日、大事な場へ向かうのだから」
父は、わたくしを見た。
「ミリア」
「はい」
「明日、私は胃薬を持って行く」
「はい」
「二瓶だ」
「三瓶では?」
「妻に止められた」
「そうでしたか」
「だが、胃薬より大事なものも持って行く」
父は、少しだけ胸を張った。
「父としての覚悟だ」
母が横で微笑む。
「今のは、なかなか良かったわ」
「採点しないでくれ」
「八十五点」
「高いのか低いのか」
「かなり高いわ」
この夫婦は、こういう時でも夫婦である。
わたくしは少し笑った。
笑いながら、胸が温かくなる。
「お父様」
「何だ」
「ありがとうございます」
「礼を言われるほどではない」
「いいえ。とても」
父は困った顔をした。
母がその横で、わたくしの手を取った。
「ミリア」
「はい」
「明日は、誰かに勝ちに行く日ではないわ」
「……はい」
「王太子殿下を傷つけないことも、レオンハルト様に応えることも、社交界の噂を抑えることも、全部大事。でも一番大事なのは、あなたがあなたの答えから逃げないこと」
母の手は温かい。
「間違えてもいいの。泣いてもいい。途中で怖くなってもいい。でも、自分を消す選択だけはしないで」
「……はい」
「あなたは悪役令嬢ではないわ」
その言葉に、息が止まった。
母は、ゲームのことも、前世のことも知らない。
それでも、今のわたくしに、その言葉は深く刺さった。
悪役令嬢ではない。
誰かのために悪役を演じる必要はない。
誰かに悪役として裁かれる未来でもない。
ミリア・ロゼリアとして、選ぶ。
「お母様」
「なあに?」
「泣きそうです」
「今泣くなら、化粧前だから大丈夫よ」
「実用」
「大事よ」
母はわたくしをそっと抱きしめた。
父は、その横で少し慌てたように立っていた。
そして、ぎこちなくわたくしの頭に手を置く。
ほんの一瞬。
でも、置いてくれた。
「ミリア」
「はい」
「明日、何があっても、お前は私たちの娘だ」
その言葉で、少しだけ涙がこぼれた。
リタが即座にハンカチを差し出す。
「準備が」
「ございます」
「早い」
「泣く予測はしておりました」
わたくしは笑いながら涙を拭いた。
母も笑い、父はなぜか自分の目元を押さえた。
「お父様?」
「胃だ」
「目元を押さえております」
「胃の影響だ」
もう、その言い訳は無理がある。
けれど、今日は追及しないでおいた。
父と母が部屋を出た後、わたくしはしばらくドレスの前に立っていた。
涙は止まった。
けれど、胸の奥はまだ温かい。
リタが静かに言う。
「お嬢様」
「なに?」
「明日は、きっと大丈夫です」
「そう言い切れるの?」
「はい」
「どうして?」
「大丈夫ではなくなった時に、支える者が多すぎますので」
わたくしは、少し笑った。
「確かに、多いわね」
「はい。かなり多いです」
「包囲網ね」
「幸せになるための包囲網です」
その時、また扉が叩かれた。
今度は使用人が、王宮からの使いの手紙を届けに来た。
差出人を見た瞬間、心臓が跳ねた。
レオンハルト・ヴァイスベルク。
封筒の文字だけで、こんなに反応する自分が悔しい。
リタが、静かにこちらを見る。
「お嬢様」
「何も言わないで」
「顔が」
「言わないで」
「はい」
わたくしは封を切った。
手紙は短かった。
『明日、君がどの道を選んでも、私は君の選択を尊重する。
王太子妃として残るなら、その道で君が自分を削りすぎないよう祈る。必要なら、遠くからでも手を貸す。
婚約解消を選ぶなら、君を悪役にさせないためにできることをする。
どちらでもない道を選ぶなら、その道を共に考える。
ただし。
私を選んだ場合は逃がさない。
怖がっていい。迷っていい。泣いてもいい。
椅子は用意する。
だが、君自身を置いて逃げることだけは許さない。
明日、君が壁ではなく君として来ることを望む。
レオンハルト・ヴァイスベルク』
読み終えた。
もう一度読んだ。
それから、手紙を机の上に置いた。
両手で顔を覆う。
「リタ」
「はい」
「これは恋文ですか」
「はい」
「脅迫状では?」
「かなり恋文寄りの脅迫状です」
「結局、両方」
「お嬢様限定で非常に有効な文面かと」
「有効すぎます」
心臓が痛い。
でも、嫌ではない。
怖い。
でも、逃げたいだけではない。
レオンハルト様は、わたくしがどの道を選んでも尊重すると書いてくれた。
そして、自分を選ぶなら逃がさないと書いた。
この人は、優しさと強引さがいつも同時に来る。
だから困る。
だから、安心する。
「椅子は用意する、ですって」
わたくしは呟いた。
リタは小さく笑う。
「公爵様らしいです」
「本当に」
「明日、本当に椅子が用意されているかもしれませんね」
「ありそう」
「その場合、私は位置を確認いたします」
「安全確認」
「はい」
レオンハルト様の影響が深い。
でも、もうそれを少し心強く思っている自分がいる。
わたくしは手紙をもう一度読んだ。
『明日、君が壁ではなく君として来ることを望む。』
壁ではなく。
わたくしとして。
それが、明日の答えの前に、まず必要なことなのだ。
「リタ」
「はい」
「手帳を書くわ」
「はい」
「見てもいいわ」
「よろしいのですか」
「ええ。今日は、見ていてほしいの」
リタは少しだけ目を丸くした。
それから、静かに頷く。
「かしこまりました」
わたくしは机に向かい、ユリウス様からもらった銀の栞を手帳に挟み直した。
星の飾りが揺れる。
君自身の頁を選べ。
その言葉を見て、ペンを取る。
『舞踏会前夜、壁はドレスを着る。
明日のドレスは、薄い銀青。
誰かの色に寄せすぎない、私自身の色だと母上は言った。
父上は胃薬を二瓶持って行く。三瓶は母上に止められた。
でも、父としての覚悟も持って行くと言った。
お母様は、自分を消す選択だけはしないでと言った。
私は、悪役令嬢ではないと言ってくれた。』
ペン先が震えた。
けれど、止めない。
『レオンハルト様から手紙が届いた。
どの道を選んでも尊重すると。
でも、私を選んだ場合は逃がさないと。
怖がっていい。迷っていい。泣いてもいい。椅子は用意すると。
そして、壁ではなく君として来ることを望む、と。
恋文なのか脅迫状なのか。
たぶん、両方。
でも、私はその両方に少し救われている。』
深呼吸する。
そして、書く。
『私は明日、壁ではなく、私として行く。
王太子殿下の婚約者としてだけではなく。
悪役令嬢としてでもなく。
推しを遠くから拝む壁としてでもなく。
ミリア・ロゼリアとして。
ユリウス様をちゃんと見る。
レオンハルト様から逃げない。
セシリア様に笑って会う。
グランツ卿の解釈一致に倒れないよう努力する。
リタの防御壁に頼る。
父上の胃をなるべく守る。
母上の選んだドレスを着て、自分の頁をめくる。』
最後の一行を書く前に、少しだけ手が止まった。
明日。
何が起きるか分からない。
王太子殿下の婚約者として残るのか。
婚約を解消するのか。
レオンハルト様へ何を伝えるのか。
怖い。
まだ怖い。
でも。
『善処ではなく、努力する。
壁ではなく、私として。』
書いた。
書けた。
リタが横で、静かに息を吐いた。
「お嬢様」
「なに?」
「よく書けました」
「子どもみたい」
「今日は、それでよろしいかと」
「そうね」
わたくしは笑った。
少し泣きそうだった。
でも、笑えた。
リタがドレスを見て、それからわたくしを見る。
「明日は、美しくなります」
「ドレスが?」
「お嬢様が」
「リタまで」
「事実ですので」
「事実禁止令は?」
「却下でございます」
いつものやり取り。
いつもの声。
だから、少し落ち着く。
「リタ」
「はい」
「明日、もし私が逃げそうになったら」
「止めます」
「もし泣きそうになったら」
「ハンカチを出します」
「もし倒れそうになったら」
「座らせます」
「もしレオンハルト様に口説かれて混乱したら」
「状況を見て、水か紅茶を出します」
「もし推し供給に耐えられなくなったら」
「人目の少ない場所へ誘導します。ただし植木鉢は禁止です」
「厳しい」
「最強の壁ですので」
わたくしは笑った。
明日のことは怖い。
でも、帰り道はある。
防御壁もある。
椅子もあるらしい。
手帳を閉じる。
ユリウス様の栞が、星のように小さく光った。
レオンハルト様の手紙を、その隣にそっと置く。
母のドレス。
父の胃薬。
リタのハンカチ。
セシリア様の手紙。
全部、明日のわたくしを支えるものだ。
夜が更けていく。
眠れるかは、正直分からない。
でも、ベッドに入る前、わたくしはもう一度ドレスの前に立った。
薄い銀青のドレス。
壁には、ドレスはいらない。
壁は踊らない。
壁は選ばない。
壁は誰かに望まれて、怖くなったりしない。
でも、わたくしは壁ではない。
怖がる。
迷う。
泣くかもしれない。
心臓も忙しい。
それでも、明日。
このドレスを着て、王宮へ行く。
「壁ではなく」
小さく呟いた。
「私として行きます」
リタが、後ろで静かに頭を下げた。
「はい、お嬢様」
その声は、いつもの侍女の声だった。
でも、少しだけ誇らしそうだった。
舞踏会前夜。
壁は、ドレスを着る。
いいえ。
壁になりたかった令嬢は、明日、ようやく自分として歩き出す。




