第47話 王太子殿下との最後の茶会
最後、という言葉は重い。
もちろん、それが本当に最後になるとは限らない。
人生は物語の章題ほど分かりやすく区切られないし、最後だと思ったものが案外続いたり、続くと思っていたものが急に終わったりする。
それでも。
舞踏会前に、ユリウス殿下と二人で茶会をする。
その知らせを受け取った時、わたくしは手帳にこう書いた。
『王太子殿下との最後の茶会』
書いてから、しばらくペンが止まった。
最後。
この茶会が終われば、次はいよいよ舞踏会。
そこで、わたくしは答えを出さなければならない。
王太子妃になるのか。
婚約を見直すのか。
それとも、別の道を選ぶのか。
まだ完全な答えは出ていない。
でも、以前よりは分かっていることがある。
ユリウス殿下を、大切に思っている。
けれど、それはたぶん、恋ではない。
そう認めるのは、少し痛い。
殿下は嫌な人ではないから。
誠実で、優しくて、わたくしに考える時間をくれた人だから。
そして、わたくしがかつて“推し”として勝手に拝んでいた人だから。
その人に、自分の本当の気持ちを伝える。
怖い。
とても怖い。
「お嬢様」
リタが、鏡台の前でわたくしの髪を整えながら言った。
「本日は、逃げる気配が少ないですね」
「褒めているの?」
「はい」
「逃げる気配が少ないで褒められる令嬢」
「以前よりはかなり進歩です」
「以前がひどかったみたいに」
「ひどかったです」
「即答」
リタの容赦なさは今日も健在である。
わたくしは鏡の中の自分を見た。
今日のドレスは、淡い薄菫色。
母が選んだ。
王太子殿下の色に寄せすぎず、レオンハルト様の色にも寄せすぎず、けれど暗くなりすぎない色。
わたくし自身の色に近い、と母は言った。
「リタ」
「はい」
「今日、泣くかもしれないわ」
「ハンカチは三枚ございます」
「準備がいい」
「一枚はお嬢様用。二枚目は予備。三枚目は王太子殿下が泣かれた場合に備えて」
「殿下が?」
「可能性はございます」
「リタ」
「はい」
「殿下を泣かせに行くわけではないのよ」
「存じております。ただ、人間ですので」
「便利ね、その言葉」
「はい」
リタは髪飾りを留めた。
小さな真珠と薄紫のリボン。
華やかすぎず、地味すぎず。
最後の茶会にふさわしい、静かな装い。
「お嬢様」
「なに?」
「本日は、推し活の顔になりすぎないように」
「ならないわ」
「王太子殿下は、お嬢様の推しであったと同時に、一人の方です」
「分かっているわ」
「はい」
リタは、鏡越しにわたくしを見る。
「だからこそ、今日はちゃんとお話しできます」
その言葉に、少しだけ胸が温かくなった。
「……そうね」
わたくしは深呼吸した。
「ちゃんと話してくるわ」
王宮の庭園は、春星の舞踏会を前に、どこか華やいでいた。
庭師たちが花を整え、侍女たちが行き交い、遠くでは楽師たちの練習音がかすかに聞こえる。
けれど、案内された小さな温室は静かだった。
大きな硝子窓から光が差し込み、淡い花の香りが漂っている。
中央に置かれた丸卓。
茶器。
焼き菓子。
そして、ユリウス殿下。
殿下は、窓辺に立っていた。
金色の髪が光を受けて柔らかく輝いている。
いつものように美しい。
でも今日は、その美しさの奥にある疲れや迷いが、少し見える気がした。
推しとしてではなく。
一人の人間として。
「ミリア」
殿下が振り返る。
微笑む。
その微笑みは優しい。
少しだけ寂しい。
「来てくれてありがとう」
「お招きいただき、ありがとうございます。ユリウス殿下」
「今日は、殿下ではなくユリウスでいいよ」
「……それは」
「難しい?」
「はい」
「正直だね」
殿下は小さく笑った。
「では、無理にとは言わない。でも今日は、できれば王太子と婚約者ではなく、ユリウスとミリアとして話したい」
胸がきゅっとなる。
「分かりました」
わたくしは椅子へ座った。
リタは温室の入口近くに控える。
完全に二人きりではない。
でも、会話を邪魔しない距離。
殿下は向かいに腰掛けた。
「紅茶は、いつものものにした」
「ありがとうございます」
「君は蜂蜜を少し入れるようになったと聞いたけれど」
「リタからですか」
「うん」
殿下がリタを見ると、リタは完璧な礼をした。
「必要な範囲でお伝えしました」
「リタは本当に優秀だね」
「恐れ入ります」
「ミリアが逃げそうになったら止めてくれる?」
「もちろんでございます」
「リタ」
「本日は特に」
「特に!」
殿下が笑う。
その笑い方が、少しだけ自然になった。
空気が緩む。
けれど、ずっと軽いままではいられないことも分かっていた。
しばらく、紅茶を飲んだ。
他愛ない話をした。
舞踏会の準備。
セシリア様が最近、聖堂で子どもたちに文字を教えていること。
グランツ卿が訓練場の安全確認を厳しくしすぎて、若い騎士たちが少し怯えていること。
父が胃薬を三瓶に増やすか悩んでいること。
「三瓶?」
殿下が目を丸くした。
「はい。舞踏会前後を考慮して」
「ロゼリア公には申し訳ないことをしている」
「お父様は、王太子殿下も冷血公爵様も重すぎると申しておりました」
「それは……否定できないね」
殿下は苦笑した。
「ヴァイスベルク公も、父親の胃には優しくなさそうだ」
「かなり」
「でも、君には?」
不意に聞かれた。
わたくしはカップを持つ手を止める。
「……優しいです」
言った瞬間、頬が熱くなった。
殿下はそれを見て、少しだけ目を細めた。
からかうような顔ではない。
ただ、静かに受け止める顔。
「そう」
「はい」
「それは、よかった」
よかった。
その言葉が、胸に痛い。
殿下は、わたくしとレオンハルト様の間に何かがあることを、たぶん分かっている。
分かっていて、よかったと言った。
どれほどの気持ちで。
わたくしは、カップを置いた。
「殿下」
「うん」
「今日は、謝りたいことがあります」
殿下は少し姿勢を正した。
「謝りたいこと?」
「はい」
「聞くよ」
わたくしは、膝の上で手を握った。
「私は、殿下を見ているようで、ちゃんと見ていませんでした」
声が少し震えた。
けれど、言う。
「以前の私は、王太子殿下という立場を見ていました。殿下の隣に立つこと。王太子妃になること。そういうものに必死で、殿下ご自身を見ていなかったのだと思います」
殿下は黙って聞いている。
「そして、変わってからの私は……今度は殿下を、別の意味で見ていませんでした」
「別の意味?」
「はい」
言いづらい。
非常に言いづらい。
だが、逃げない。
「殿下とグランツ卿の関係を、とても尊いものとして見ていました」
「うん。それは知っている」
「知っていらっしゃる」
「かなり」
「……はい」
恥ずかしい。
でも続ける。
「お二人が並んでいるところを見ると、胸がいっぱいになりました。殿下が一人ではないことが嬉しくて、グランツ卿が殿下を支えていることが尊くて。私は、それを守りたいと思いました」
「うん」
「でも、それは殿下ご自身の気持ちを、ちゃんと聞くことではありませんでした。殿下とグランツ卿を、私が見たい美しい関係として見ていた部分があったと思います」
殿下は、少しだけ目を伏せた。
「グランツとも話した?」
「はい」
「彼は何て?」
「俺たちは俺たちだ、と」
殿下が小さく笑った。
「ダリオらしい」
「はい。とても」
「解釈一致?」
「殿下まで」
「覚えた」
「広がっていますね」
「君の影響だよ」
そう言って、殿下は少しだけ楽しそうに笑った。
けれど、その笑みはすぐに静かになる。
「ミリア」
「はい」
「君は、私を見ているようで見ていなかった」
殿下の声は責めていなかった。
ただ、事実を置くようだった。
「でも、それは私も同じだ」
「殿下が?」
「うん。私は、君を見ているようで見ていなかった」
胸が少し痛む。
「昔の君は、私に好かれようとしていた。王太子妃になろうとしていた。私はそれを、正直少し重いと思っていた」
「……はい」
「でも、同時に安心もしていた」
殿下は、苦い顔で笑った。
「最低だろう?」
「いいえ」
「いいや、あまり良くはない。君が私を好きでいてくれるのは当然だと思っていた時期がある。君が私から離れないことに甘えていた」
「殿下」
「そして君が変わった時、私は戸惑った。私から離れようとする君を見て、初めて君を見ようとした」
殿下の声は、静かだった。
「情けない話だね。婚約者なのに、離れようとされてから見るなんて」
「……私も、同じです」
「同じ?」
「殿下が私を見ようとしてくださったように、私も今になって殿下を見ようとしています。王太子殿下でも、推しでもなく、ユリウス様として」
殿下の目が少し揺れた。
ユリウス様。
そう呼ぶのは、少し勇気がいった。
殿下はしばらく黙ってから、小さく言った。
「今のは、少しずるいな」
「え?」
「嬉しい」
胸がきゅっと痛む。
「殿下」
「ユリウスでいいよ、と言ったけれど、本当にそう呼ばれると、思ったより響く」
「申し訳」
「謝らないで」
殿下がすぐに言った。
「今日、謝罪ばかりの茶会にはしたくない」
「……はい」
「私も謝りたいことはある。でも、それだけにしたくない」
殿下は紅茶を置いた。
「私は、君に惹かれている」
静かな言葉だった。
分かっていた。
それでも、本人の口から聞くと、胸に刺さる。
「今の君は、変で、優しくて、危なっかしくて、時々何を言っているのか本当に分からない」
「殿下まで」
「でも、人を傷つけないように必死で考える。自分が傷つくことには鈍い。誰かの幸せを見つけると、泣きそうなくらい嬉しそうな顔をする」
レオンハルト様と似たことを言う。
でも、違う。
殿下の言葉には、少し遠くから見ているような、切なさがあった。
「そんな君を、私はもっと知りたいと思った」
「……はい」
「でも」
殿下は、窓の外へ視線を向けた。
「私は、君を王太子妃の椅子に閉じ込めたいわけじゃない」
何度も聞いた言葉に近い。
でも、今日の殿下の声は、前よりずっと人間らしかった。
「王太子妃になれば、君はきっと頑張る。頑張りすぎる。笑いたくない時も笑う。好きなものを隠す。苦しくても、王太子妃だからと自分に言い聞かせる」
「……そうかもしれません」
「私は、それが怖い」
殿下は、わたくしを見た。
「君を隣に置きたい気持ちはある。正直に言えば、ある」
胸が痛む。
「でも、君を失わないために君を閉じ込める男にはなりたくない」
静かな温室の中で、その言葉だけが深く響いた。
わたくしは、何も言えなかった。
殿下は微笑んだ。
少し寂しそうに。
「だから、一ヶ月後の舞踏会で、君が婚約解消を望むなら」
ゆっくりと言う。
「私は、君を悪役にはしない」
息が止まった。
「殿下」
「約束する。王太子としても、ユリウスとしても」
「……」
「君が私を捨てたとか、君が我儘を言ったとか、そんな噂にはさせない。王家とロゼリア公爵家で、きちんと協議した結果として発表する。必要なら、私が先に言う」
「先に?」
「私が、君の自由を尊重したと」
「それでは、殿下が」
「私も傷つかないわけじゃない」
殿下は、少し苦笑した。
「でも、君一人を矢面に立たせるよりはいい」
「そんなこと」
「ミリア」
名前を呼ばれて、言葉が止まる。
「私は、王太子だ。守るべきものがある。君の名誉を守ることも、その一つだ」
その声は、王太子だった。
でも、同時にユリウス様だった。
「そして、個人的にも」
少しだけ、声が柔らかくなる。
「君を悪役にはしたくない」
視界が滲みそうになった。
リタのハンカチ三枚準備が頭をよぎる。
まだ泣かない。
まだ。
「私は……殿下に、たくさん失礼なことをしました」
「うん」
「そこは否定しないのですね」
「嘘はよくないから」
「殿下まで」
殿下は小さく笑った。
「君は、私とダリオを二人きりにしようとして、何度も妙な場を作った」
「申し訳ありません」
「植木鉢の陰にもいた」
「それも申し訳ありません」
「私を推しと呼んでいた」
「直接はたぶん」
「顔で分かった」
「顔!」
殿下が笑う。
今度は、少し明るい笑いだった。
「でも、悪意はなかった」
グランツ卿。
レオンハルト様。
そして殿下まで。
皆、同じことを言う。
「悪意はなかったけれど、君は私を見ていなかった。私も君を見ていなかった。だから、今こうして見ようとしている」
「はい」
「それでいいんじゃないかな」
「いいのでしょうか」
「全部を最初から正しく見る人なんて、たぶんいないよ」
殿下は紅茶を一口飲んだ。
「私とダリオだって、今でも分からないことがある」
「殿下とグランツ卿でも?」
「もちろん。ダリオは分かりやすいようで、時々妙に頑固だし」
「グランツ卿らしいです」
「私がそう言うと、彼は『殿下ほどではありません』と返す」
「解釈一致です」
「出た」
殿下が楽しそうに笑った。
その笑顔に、少し救われる。
切ない話の中にも、笑えるところがある。
人間の会話は、そういうものなのかもしれない。
「ミリア」
「はい」
「ヴァイスベルク公と話した?」
来た。
わたくしの顔が熱くなる。
殿下は、それを見て少しだけ眉を上げた。
「聞く前から答えが出ている顔だね」
「顔面日記帳問題が王宮にも広がりすぎています」
「君は本当に顔に出る」
「自覚してきました」
「それも進歩だ」
「皆様、私を育成対象のように」
「逃げる令嬢育成計画?」
「殿下!」
殿下が笑う。
わたくしも笑ってしまった。
けれど、その後で、ちゃんと答えた。
「はい。レオンハルト様と話しました」
「何を?」
「……私のどこがいいのですか、と聞きました」
殿下は一瞬、驚いた顔をした。
それから、少しだけ感心したように笑った。
「君がそれを聞いたのか」
「はい」
「すごいね」
「セシリア様にも言われました」
「私も言うよ。すごい」
「心臓が大変でした」
「だろうね」
「殿下」
「うん」
「レオンハルト様は、全部だとおっしゃいました」
言葉にすると、また胸が熱くなる。
「変なところも、逃げ癖も、推し活も、危ういところも、全部含めなければ私ではないと」
殿下は、静かに聞いていた。
少しの沈黙。
やがて、殿下は言った。
「彼らしいね」
「そうでしょうか」
「うん。言葉は短いのに、重い」
「本当に」
「そして、逃がす気がない」
「本当に」
殿下は苦笑した。
「少し腹立たしいな」
「え?」
「彼は、君をちゃんと見ている」
その声には、少しだけ苦みがあった。
「私も今は見ようとしている。でも、彼はもう少し前から見ていたのかもしれない」
「殿下」
「嫉妬だよ」
あまりに率直に言われて、わたくしは固まった。
殿下は困ったように笑う。
「王太子らしくないね」
「いえ」
「でも、今日はユリウスとして話すと決めたから」
殿下は、少しだけ視線を落とした。
「少しだけ、惜しいとは思う」
胸が痛んだ。
「君が私の隣に立つ未来も、見てみたかった。今の君なら、王宮を少し変えたかもしれない。私が見落としているものを見て、変な言葉で、でも真っ直ぐに指摘してくれたかもしれない」
「……」
「君が王太子妃になったら、ダリオの訓練にも口を出して、セシリア嬢と一緒に聖堂の子どもたちを助けて、私の政務の疲れを妙な方向から笑わせてくれたかもしれない」
その未来は、少し眩しかった。
ありえたかもしれない未来。
でも。
「でも、同時に」
殿下は続けた。
「君は苦しかったかもしれない」
わたくしは、ゆっくり頷いた。
「はい」
「だから、惜しい。でも、閉じ込めたくはない」
それが、殿下の本音。
綺麗なだけではない。
少し悔しい。
少し寂しい。
少し惜しい。
でも、わたくしを悪役にはしない。
閉じ込めない。
なんて誠実で、なんて苦い人なのだろう。
「殿下」
「うん」
「私は、殿下を恋として選ぶことは、たぶんできません」
言った。
言ってしまった。
温室の空気が、少し止まる。
リタの気配も、ほんのわずかに強くなった。
殿下は、目を伏せた。
長い沈黙ではなかった。
でも、短くもなかった。
やがて、殿下は静かに言った。
「そう」
「申し訳ありません」
「謝らないで」
「でも」
「ミリア」
殿下は、少し困ったように笑った。
「謝られると、私が君を困らせたみたいになる」
「そんなつもりでは」
「分かっている。だから、謝罪ではなく、君の本音として受け取る」
視界が滲む。
今度は、少し危なかった。
「……ありがとうございます」
「うん」
「殿下のことは、大切です」
「分かっている」
「尊敬しています」
「うん」
「今まで、たくさん助けていただきました」
「私も助けられたよ」
「私が?」
「うん。君が私とダリオを見て、時々変なことを言って、でも私が一人ではないと本気で喜んでくれたこと。あれは、少し嬉しかった」
殿下は小さく笑う。
「たとえ解釈がかなり独特でも」
「申し訳ありません」
「だから謝らない」
「癖で」
「知っている」
殿下も、もう知っている。
わたくしの謝り癖を。
逃げ癖を。
顔に出ることを。
そして、それでも話そうとしていることを。
「舞踏会の日」
殿下が言った。
「正式な場で、もう一度聞く」
「はい」
「その時、君が婚約解消を望むなら、私は受け入れる」
「はい」
「ただし、これは私の我儘だけれど」
「はい」
「最後まで、私を王太子としてだけではなく、ユリウスとして見てほしい」
胸が詰まった。
「はい」
「君が私を選ばないとしても、私という人間を見た上で選ばないでほしい」
「……はい」
「それなら、少しは救われる」
その言葉が、重かった。
でも、逃げずに受け止めたい。
「ユリウス様」
もう一度、呼んだ。
殿下の目が少し揺れる。
「私は、あなたをちゃんと見ます。王太子殿下としても、ユリウス様としても」
「うん」
「そして、私も私として、答えます」
「うん」
殿下は笑った。
今までで一番、寂しそうで、でも綺麗な笑みだった。
「ありがとう、ミリア」
茶会の終わりに、殿下は小さな箱を差し出した。
「これは?」
「贈り物というほどではないよ。舞踏会の日に使う必要もない」
箱を開くと、中には薄い銀色の栞が入っていた。
星の飾りがついている。
「栞……」
「君は手帳を書くから。本にも、手帳にも使えるだろうと思って」
「ありがとうございます」
「そこに、短く刻んである」
栞の端に、小さな文字があった。
『君自身の頁を選べ』
涙が出そうになった。
今度こそ、本当に。
「殿下」
「泣かせるつもりはなかった」
「……少し、危ないです」
殿下が慌てたように視線を動かす。
「リタ、ハンカチは?」
「三枚ございます」
「三枚」
「想定内でございます」
「優秀だね」
「恐れ入ります」
このやり取りで、涙は少し引っ込んだ。
ありがたい。
最後の茶会が涙だけで終わらなくてよかった。
わたくしは栞をそっと握った。
「大切にします」
「うん」
「これは、推し活手帳に挟んでも?」
言ってから、しまったと思った。
だが殿下は笑った。
「もちろん」
「よろしいのですか」
「君自身の頁ならね」
胸が温かくなる。
「ありがとうございます、ユリウス様」
茶会を終え、温室を出る時。
殿下が一歩後ろから声をかけた。
「ミリア」
「はい」
「ヴァイスベルク公を選ぶなら」
心臓が跳ねる。
殿下は少しだけ笑った。
「逃げるのは難しいよ」
「殿下まで」
「彼は執念深い」
「分かります」
「でも、悪い男ではない」
「はい」
「君を笑わない男なら、少しだけ安心できる」
その言葉が、胸に染みた。
「……はい」
「ただし、泣かされたら言いなさい」
「え?」
「王太子としてではなく、友人として文句を言う」
「友人」
その言葉に、また泣きそうになる。
「友人で、よろしいのですか」
「私はそのつもりだけれど、嫌かな」
「嫌ではありません」
「よかった」
殿下は少しだけいつもの明るさで笑った。
「では、舞踏会で」
「はい。舞踏会で」
帰りの馬車の中で、わたくしはしばらく栞を見つめていた。
リタは何も言わない。
珍しく、何も急かさない。
しばらくして、わたくしが口を開いた。
「リタ」
「はい」
「殿下は、誠実な方ね」
「はい」
「少し、ずるいくらい」
「はい」
「嫌な人なら、楽だったのに」
「そうですね」
「でも、嫌な人ではなかったから、ちゃんと見ようと思えたのね」
「はい」
わたくしは栞を手帳に挟んだ。
王太子殿下との最後の茶会。
でも、ユリウス様との関係が完全に終わるわけではない。
形が変わるかもしれない。
痛みを伴って。
それでも、悪役として切り捨てられる未来とは違う。
自分で選べる未来へ。
夜、手帳を開いた。
『王太子殿下との最後の茶会。
ユリウス様と話した。
私は、殿下を見ているようで見ていなかったと謝った。
以前は王太子殿下という立場を、今は推しとしての尊さを見すぎていた。
殿下は、私も君を見ていなかったと言った。
離れようとされて初めて見ようとした、と。』
ペンを握る手に、少し力が入る。
『ユリウス様は、私を王太子妃の椅子に閉じ込めたくないと言った。
婚約解消を望むなら、私を悪役にはしないと約束してくださった。
でも、少しだけ惜しいとも言った。
王太子妃として隣に立つ私の未来も見てみたかった、と。
その言葉は、とても苦しくて、とても誠実だった。』
栞を見た。
君自身の頁を選べ。
『私は、殿下を恋として選ぶことは、たぶんできないと伝えた。
言うのは怖かった。
でも、殿下は受け取ってくださった。
謝罪ではなく、本音として。
私は、ユリウス様をちゃんと見る。
王太子殿下としても、一人の人としても。
そして、私も私として答える。』
最後に書く。
『最後の茶会は、終わりだけではなかった。
形を変えるための茶会だった。
痛い。
寂しい。
でも、悪役にはならない。
殿下も、私も、誰かを悪者にしない道を選ぼうとしている。
それは、たぶん、とても尊い。
今度の尊いは、遠くから拝むものではなく、人が傷つきながらも誠実であろうとする尊さだ。』
書き終えて、わたくしは手帳を閉じた。
リタが静かに言う。
「お嬢様」
「なに?」
「よくお話しされました」
「……ええ」
「泣きますか」
「今は大丈夫」
「では、温かい紅茶を」
「ありがとう」
リタが紅茶を注ぐ。
わたくしは、栞を挟んだ手帳にそっと手を置いた。
舞踏会まで、あと少し。
逃げ場はない。
でも、帰り道はある。
そして、選ぶための頁も。
わたくしは、その頁を自分でめくらなければならない。




