第50話 王太子殿下、最後のエスコート
ユリウス様の手は、温かかった。
王太子殿下の手。
婚約者の手。
前世で画面越しに見ていた推しの手。
そして今、わたくしの前にいる、一人の青年の手。
その手に導かれて、大広間の中央へ向かう。
楽師たちの奏でる前奏が、星の灯りの下で静かに広がっていた。
周囲の視線が、痛いほど分かる。
ロゼリア公爵令嬢と王太子殿下。
長く婚約関係にあった二人。
断罪夜会を越え、聖女候補をめぐる騒動も越え、今日この舞踏会で婚約の行方を決めると噂されている二人。
外から見れば、きっと華やかな場面なのだろう。
美しい王太子が、婚約者の令嬢をエスコートする。
令嬢は銀青のドレスを揺らし、王太子の隣に立つ。
誰もが憧れるような一幕。
でも、その手の中にあるのは、甘さだけではなかった。
少しの寂しさ。
少しの痛み。
そして、互いに逃げずにここへ来たという、静かな覚悟。
「緊張している?」
隣から、ユリウス様が小さく聞いた。
笑顔は周囲へ向けたまま。
声だけが、わたくしへ届く。
「しております」
「正直だね」
「今日は、なるべく嘘をつかない日と決めましたので」
「いい決意だ」
「ただ、顔に出すぎないよう努力しております」
「努力はしているね」
「成果は?」
「少し出ている」
「少し」
「前よりは」
「褒めているのですか」
「褒めているよ」
その声が優しくて、胸が少し痛んだ。
ユリウス様は、いつもこうして軽く笑う。
重い話も、少しだけ柔らかく包む。
でも最近は、その笑顔の奥にある疲れや迷いを、少しだけ見られるようになった。
それが嬉しくもあり、苦しくもある。
「ユリウス様」
「うん」
「本当に、よろしいのですか」
「何が?」
「このように、最初の一曲を私と踊って」
彼の指が、ほんのわずかに動いた。
だが、表情は崩れない。
「当然だろう。今夜、君はまだ私の婚約者だ」
「……はい」
「それに」
ユリウス様は、少しだけ目を細めた。
「最後かもしれないなら、なおさら私がエスコートしたい」
心臓が、静かに沈んだ。
最後かもしれない。
分かっていた。
でも、本人の口から聞くと重い。
「申し訳」
「謝らない」
「……はい」
「謝罪ではなく、今日の一曲として受け取ってほしい」
ユリウス様は、わたくしの歩幅に合わせてくれる。
王太子として多くの視線を受けながら、それでもこちらの足元をほんの少し気にしてくれている。
その優しさが、また苦しい。
「ミリア」
「はい」
「私は、君と踊りたいんだ」
「……」
「王太子としての義務でも、社交界への見せ方でもなく」
彼は、少しだけ声を落とした。
「ユリウスとして」
喉の奥が詰まる。
駄目だ。
泣いてはいけない。
リタのハンカチは四枚あるが、ここで使うのは早すぎる。
「はい」
わたくしは、どうにか頷いた。
「私も、踊ります。婚約者としてだけではなく、ミリアとして」
ユリウス様の横顔が、少しだけ柔らかくなった。
「ありがとう」
大広間の中央に着く。
周囲が自然と空間を開ける。
王太子殿下の最初の一曲。
相手は婚約者であるロゼリア公爵令嬢。
囁き声が、波のように広がる。
「やはり婚約は継続されるのかしら」
「でも、ヴァイスベルク公爵の視線を見た?」
「聖女候補の方もロゼリア嬢を見ているわ」
「王太子殿下はお美しいけれど、どこか……」
聞こえる。
聞こえてしまう。
以前のわたくしなら、周囲の声にもっと振り回されていただろう。
悪く見られないように。
完璧な婚約者に見えるように。
誰にも隙を与えないように。
今も、怖い。
怖くないわけではない。
でも、今日は周囲の声だけを見てはいけない。
目の前の人を見る。
ユリウス様を見る。
「ミリア」
「はい」
「今、周りの声を聞いていただろう」
「聞こえてしまいました」
「だろうね」
「顔に?」
「少し」
「顔面日記帳問題が」
「今の顔は、読みやすかった」
「精進します」
「そこまでしなくていいよ」
ユリウス様が小さく笑う。
「私も聞こえている」
「殿下も?」
「もちろん。王太子は、聞こえないふりが得意なだけだ」
その言い方が、少しだけ苦かった。
「昔は、聞こえないふりばかり上手くなっていた」
「……」
「何を期待されているか。誰が何を噂しているか。誰が私を見て、誰が王冠を見ているか。そういうものばかり気にしていた」
曲の始まりを待つ間。
ユリウス様は、わたくしの手を取ったまま静かに言った。
「でも、君は最近、私ではなく、私とダリオを見て泣きそうになっていた」
「そこを」
「とても不思議だった」
「申し訳ありません」
「謝らない。面白かったんだ」
「面白かったのですか」
「うん。最初はかなり戸惑ったけれど」
「かなり」
「君が何を見ているのか分からなかった。私の王冠でも、婚約者としての立場でもなく、私とダリオの間にある何かを見て、勝手に感動していた」
「言葉にされると、やはり恥ずかしいです」
「でも、少し嬉しかった」
ユリウス様の目が、わたくしを見る。
優しく、少しだけ寂しく。
「君は、私が一人ではないことを本気で喜んでいたから」
息が詰まった。
「それは……はい。嬉しかったのです」
「うん」
「王太子殿下が、一人で重いものを背負っているように見えた時、グランツ卿がそばにいることが、とても……救いのように見えました」
「救いか」
「はい」
「私にとっても、そうだったよ」
その言葉は、静かだった。
けれど、深いところから出ているように聞こえた。
わたくしは、思わずダリオ様の方を見た。
少し離れた場所で、彼はまっすぐ立っている。
視線は会場を警戒しながらも、時折ユリウス様へ戻る。
騎士団長として。
友として。
自分で選んだ場所に立つ人として。
尊い。
けれど、今のわたくしは倒れない。
その尊さは、遠くから拝むためだけのものではないと、少しだけ分かっているから。
「グランツ卿は、今日も解釈一致です」
小さく呟いた。
ユリウス様が吹き出しそうになった。
「この場で?」
「すみません。心の声が」
「でも、ダリオが聞いたら少し困った顔をしながら受け取るだろうね」
「最近、意味を覚え始めていらっしゃいます」
「君の影響力はすごい」
「違う方向へ広がっている気がします」
「悪くないよ」
ユリウス様は、そう言って笑った。
その笑顔を見て、わたくしも笑った。
こんなふうに笑える。
最後かもしれない一曲の前に。
それが、なんだか少し救いだった。
楽師の指揮者が、こちらへ軽く礼をする。
曲が始まる合図。
ユリウス様が、改めてわたくしの手を取った。
「ミリア」
「はい」
「最後まで、私を見ていて」
その言葉は、前にも聞いた。
でも今は、違う重さを持っていた。
「はい、ユリウス様」
「王太子としてだけではなく」
「一人の人として」
「うん」
彼の手が、わたくしの腰に添えられる。
距離が近くなる。
以前なら、ここでわたくしは婚約者として完璧に振る舞おうとしただろう。
あるいは、推しと踊る供給過多に内心で倒れていただろう。
今は、そのどちらでもない。
目の前の人と踊る。
それだけを考えた。
最初の一歩。
ユリウス様のリードは、やはり美しい。
軽やかで、正確で、こちらを急かさない。
わたくしの歩幅を見て、ほんの少しだけ調整してくれる。
王太子として何度も舞踏会で踊ってきた人の動き。
けれど、その中に、ユリウス様自身の癖もある。
少しだけ、相手の不安を先に読もうとするところ。
自分の動きより、相手が転ばないことを優先するところ。
そして、完璧に見せながらも、実は少しだけ肩に力が入るところ。
見える。
今なら少し見える。
「殿下」
「ユリウスでいい」
「ユリウス様」
「うん」
「少し、肩に力が入っています」
ユリウス様が目を瞬いた。
それから、少し笑った。
「君に言われるとは思わなかった」
「グランツ卿の訓練を見学した成果でしょうか」
「ダリオが聞いたら喜ぶよ」
「本当ですか」
「たぶん表情には出ないけれど」
「解釈一致です」
「また」
ユリウス様は、わずかに肩の力を抜いた。
動きが少し柔らかくなる。
「ありがとう」
「いえ」
「ちゃんと見ているね、今の君は」
胸が痛くなる。
「見ようとしています」
「うん。それで十分だよ」
曲が進む。
回転する。
広間の光が流れる。
ドレスの裾が星のように揺れる。
周囲の貴族たちは、きっと美しい二人の舞踏として見ている。
婚約者同士の、完璧な一曲。
でも、わたくしとユリウス様だけは知っている。
これは、別れの気配を含んだ一曲だ。
終わりに向かうもの。
同時に、形を変えるためのもの。
「ミリア」
「はい」
「君と踊るのは、これが婚約者として最後かもしれないね」
来た。
分かっていたのに、胸が痛い。
「はい」
わたくしは、どうにか声を出した。
「そうかもしれません」
「寂しい?」
「……寂しいです」
嘘はつかない。
「でも、その寂しさで答えを変えてはいけないのだと思います」
ユリウス様の目が、少しだけ揺れた。
「強くなったね」
「強くはありません」
「では?」
「周りに強い人が多すぎて、逃げにくくなりました」
ユリウス様が笑った。
「リタ、ロゼリア公爵夫妻、セシリア嬢、ヴァイスベルク公」
「はい。包囲網です」
「幸せになるための?」
「お母様は、そう言います」
「いい包囲網だ」
「逃げ道が少なくて困ります」
「でも、帰り道はある」
その言葉に、わたくしは驚いた。
「殿下も、その言葉を?」
「リタから聞いた」
「リタの情報網が王宮まで」
「有能だからね」
「本当に」
リタは少し離れた場所で、きっと何食わぬ顔をしているだろう。
最強の壁。
恐ろしい。
頼もしい。
「ミリア」
「はい」
「婚約者として最後でも」
ユリウス様は、わたくしの手を少しだけ強く取った。
「なかったことにはしないでほしい」
胸が詰まった。
「私と君が婚約していた時間。上手くいかなかったことも、見ていなかったことも、すれ違ったことも」
「……はい」
「全部、失敗だったとは思いたくない」
その声は、王太子のものではなかった。
一人の青年の、少し震える本音だった。
わたくしは、目を逸らさなかった。
「私もです」
声が少し震えた。
「最後でも、なかったことにはしたくありません」
ユリウス様が、静かに息を吸う。
「以前の私は、殿下をちゃんと見ていませんでした。変わってからの私も、推しとして見すぎていました」
「うん」
「それでも、殿下と過ごした時間がなかったことになるわけではありません。私が間違えたことも、殿下に甘えたことも、殿下が私に甘えていたことも」
「うん」
「全部、あったことです」
曲に合わせて、一歩。
もう一歩。
「だから、最後でも、なかったことにはしたくありません。婚約者として終わるとしても、ユリウス様と向き合おうとした今日を、私は消したくありません」
ユリウス様の目が、少し潤んだように見えた。
だが、彼は笑った。
王太子としてではなく。
少し泣きそうな青年として。
「そう言ってくれる君だから」
彼は小さく言った。
「手放せる」
胸が、ずきりと痛んだ。
手放せる。
それは優しい言葉で、同時に痛い言葉だった。
「殿下」
「ユリウス」
「ユリウス様」
「うん」
「私、ユリウス様を傷つけていますか」
聞いてしまった。
踊りの途中で。
こんな場所で。
でも、聞かずにはいられなかった。
ユリウス様は、少しだけ困った顔をした。
「傷ついていないと言えば、嘘になる」
「……はい」
「でも、君が嘘をついて隣に残る方が、きっともっと傷つく」
その言葉が、深く刺さる。
「だから、これでいい」
「本当に?」
「完全に平気ではないよ」
「……」
「少し悔しい。少し寂しい。少し、ヴァイスベルク公に腹が立つ」
「そこも」
「人間だからね」
ユリウス様が、少しだけ茶目っ気のある笑みを浮かべる。
「でも、それでも、君を悪役にはしない。君を責めて、私が楽になる道は選ばない」
「ユリウス様」
「私は王太子だから」
そこで一度、彼は言葉を切る。
「そして、君の友人でいたいから」
友人。
その言葉は、まだ少し不思議だった。
けれど、温かい。
「私も、友人でいたいです」
「なら、約束だ」
「はい」
「もしヴァイスベルク公が君を泣かせたら、私に言うこと」
「またそれを」
「友人として文句を言う」
「王太子殿下が冷血公爵様に文句を?」
「ユリウスが、レオンハルトに」
「名前で言うと急に人間関係が近いですね」
「そうだよ。私たちは全員、役割だけで生きているわけじゃない」
その言葉に、胸が熱くなった。
役割だけではない。
王太子。
婚約者。
騎士団長。
聖女候補。
冷血公爵。
悪役令嬢。
その役割の奥に、人がいる。
今さらだけれど。
ようやく、少しずつ見えてきた。
曲は終盤に差しかかっていた。
回転がゆるやかになり、楽師たちの音が柔らかく重なる。
ユリウス様は、最後の動きへ導く。
わたくしはそれに合わせる。
この一曲が終わる。
婚約者としての最後かもしれない一曲が。
終わってほしくないような。
終わらなければ進めないような。
そんな、不思議な時間だった。
「ミリア」
「はい」
「最後に一つだけ、わがままを言っていい?」
「はい」
「この一曲が終わったら、少しだけ笑って」
「笑う?」
「うん。泣きそうな顔だと、ダリオが私を責める」
「グランツ卿が?」
「目で」
「目で」
「かなり痛い」
思わず笑ってしまった。
ユリウス様も笑う。
少しだけ、涙の気配が遠のく。
「それに」
彼は続けた。
「君には、悪役令嬢の顔ではなく、ミリアの顔でいてほしい」
「……はい」
「今の君なら、できる」
最後の音が近づく。
わたくしは、息を整えた。
笑う。
泣きそうでも。
逃げるための笑顔ではなく。
自分として立つための笑顔を。
曲が終わった。
ユリウス様が、わたくしの手をそっと離す。
周囲から拍手が起こる。
華やかで、少し遠い音。
わたくしは、ユリウス様へ礼をした。
「ありがとうございました、ユリウス様」
彼も礼を返す。
「こちらこそ、ミリア」
顔を上げる。
目が合う。
わたくしは、笑った。
少し寂しくて、少し痛くて、それでもちゃんと感謝を込めた笑顔。
ユリウス様も笑った。
その笑顔は、やはり少し寂しそうだった。
けれど、綺麗だった。
遠くで、ダリオ様が静かに息を吐いたように見えた。
セシリア様は両手を胸の前で握り、泣きそうな顔をしている。
リタはハンカチ袋に手を添えたまま、まだ出さずにいてくれた。
父は、たぶん泣くのを胃のせいにしている。
母は、完璧な微笑みで周囲の視線を受け止めている。
そして。
レオンハルト様は、少し離れた場所からこちらを見ていた。
その表情は変わらない。
けれど、目だけが静かに問いかけているようだった。
大丈夫か。
わたくしは、小さく頷いた。
大丈夫。
少なくとも、今は。
ユリウス様が、周囲に聞こえないほど小さく言った。
「次は、君自身の頁だ」
銀の栞の言葉。
君自身の頁を選べ。
わたくしは、もう一度頷いた。
「はい」
王太子殿下、最後のエスコート。
その一曲は、終わった。
けれど、何もなかったことにはならない。
痛みも、優しさも、すれ違いも、感謝も。
全部持ったまま、次へ行く。
わたくしは、壁ではなく。
ミリア・ロゼリアとして、会場の光の中に立っていた。




