第45話 望まれるということ
望まれる、というのは怖い。
誰かに嫌われるのも怖い。
笑われるのも怖い。
失望されるのも怖い。
けれど、最近のわたくしは気づいてしまった。
好かれるのも、怖い。
嫌われるのなら、逃げられる。
笑われるのなら、傷ついた顔を隠して、壁の裏へ戻ればいい。
失望されたのなら、「やっぱり私はその程度だった」と自分を納得させられる。
でも。
望まれると、逃げにくい。
あなたがいい、と言われてしまうと、ではその「あなた」とは何なのかを考えなければならなくなる。
綺麗に整えた公爵令嬢としてのわたくしなのか。
王太子殿下の婚約者としてのわたくしなのか。
推し活で目が輝き、植木鉢の陰に入ろうとし、手帳に変な言葉を書き連ねるわたくしなのか。
もし後者まで含まれているのなら。
それはもう、逃げ場がない。
王宮舞踏会の正式招待状が届いてから、屋敷の空気は目に見えて変わった。
母はドレスの候補を三つに絞り、父は胃薬を二瓶から三瓶へ増やすか検討し、リタは「逃げ道ではなく帰り道を整えます」と言いながら、わたくしの予定表を淡々と管理している。
わたくしはというと、毎晩手帳を開いては閉じ、開いては閉じ、最終的に枕に顔を埋めるという、あまり進歩のない行動をしていた。
「お嬢様」
「はい」
「本日で、手帳を開いて閉じる動作は十二回目です」
「数えないで」
「昨日は十六回でしたので、進歩です」
「それは進歩なの?」
「少なくとも四回減っております」
「数字にすると前進しているように聞こえるわ」
「実際には、枕に顔を埋める回数が増えております」
「帳尻が合っていない」
リタは平然と紅茶を置いた。
今日の紅茶には、少し蜂蜜が入っている。
最近、わたくしの心の状態に合わせて飲み物が変わっている気がする。
侍女というより、心療茶師である。
「リタ」
「はい」
「私は今、何から逃げたいのかしら」
「一番は、レオンハルト様と正面から話すことかと」
「即答」
「昨日から、レオンハルト様のお手紙だけ三度読み返しておられます」
「四度では?」
「私が見ていた範囲では三度です」
「見ていない時にもう一度読んだわ」
「正直でよろしいかと」
失敗した。
自白してしまった。
リタはわずかに口元を緩める。
「お嬢様は、レオンハルト様のお言葉を気にしておられます」
「どの言葉?」
「君が選べ。だが、私を選ぶなら逃がさない」
「リタ!」
「かなり強い恋文です」
「音読しないで!」
「音読はしておりません。確認です」
「心臓に悪い確認よ」
わたくしは両手で顔を覆った。
そう。
気にしている。
かなり気にしている。
レオンハルト様は、わたくしを望んでいる。
それはもう、曖昧ではなくなってきた。
最初は警戒だった。
次に興味。
それから心配。
そして、いつの間にか言葉が変わっていた。
君が傷つくのは不快だ。
私の届く場所にいろ。
君の好きなものを私は笑わない。
今回は口説いたつもりがある。
私を選ぶなら逃がさない。
思い出すだけで、心臓が忙しい。
過労で倒れそうである。
「リタ」
「はい」
「私のどこがいいのかしら」
ぽつりとこぼれた言葉に、自分で驚いた。
リタは、少しだけ目を細める。
「レオンハルト様に、でございますか」
「ええ」
「それは、ご本人に聞くべきかと」
「聞けると思う?」
「聞けます」
「なぜ」
「お嬢様は、最近かなり逃げ道を塞がれておりますので」
「他人事のように」
「私も塞いでおります」
「知っているわ」
リタは、少しだけ柔らかい声で言った。
「お嬢様が本当に知りたいことなら、聞いた方がよろしいかと」
「怖いわ」
「はい」
「もし、綺麗なところだけを見ているのだと言われたら?」
「レオンハルト様は、そういう方ではないかと」
「もし、私が変だから面白いだけだと言われたら?」
「面白いとは思っておられるでしょう」
「そこは否定して」
「ですが、それだけではないでしょう」
「……そうかしら」
「はい」
リタは迷いなく頷いた。
「レオンハルト様は、面白いからというだけで、あれほど安全確認をなさいません」
「安全確認基準なのね」
「はい。あの方の愛情表現に近いものですので」
「愛情表現が安全確認」
「お嬢様にとっては、かなり相性が良いかと」
「私、そんなに危ない?」
「はい」
「即答」
「昨日、舞踏会を避ける方法として『急に観葉植物研究に目覚めたことにできないか』とおっしゃいました」
「それは逃亡ではなく研究よ」
「却下です」
「最強の壁が強い」
リタは紅茶を勧めるようにカップを少し前へ押した。
「レオンハルト様へお返事を書くのはいかがですか」
「返事?」
「はい。舞踏会の件ではなく、お話がしたい、と」
「私から?」
「はい」
「心臓が無理です」
「心臓は動いております」
「動きすぎなの」
「では、座ってお書きください」
「レオンハルト様みたいなことを」
「影響です」
「影響が深刻ね」
結局、わたくしはその日の午後、レオンハルト様へ短い手紙を書いた。
『ヴァイスベルク公爵様
先日のお手紙、ありがとうございました。
舞踏会のこと、逃げずに考えております。
ただ、少しだけお伺いしたいことがございます。
もしお時間をいただけるようでしたら、王宮西庭園の東屋にてお話しできますでしょうか。
リタも同行いたします。
ミリア・ロゼリア』
書いた後、十回ほど破りたくなった。
リタに止められた。
「お嬢様」
「まだ何も」
「破る顔をなさいました」
「顔!」
「出ております」
そして返事は、その日のうちに来た。
『明日午後。
東屋で待つ。
逃げるな。
ヴァイスベルク』
短い。
短いのに強い。
逃げるな。
また書いてある。
この方は、わたくしを何だと思っているのか。
……逃げる令嬢だと思っているのだろう。
正しい。
翌日。
王宮西庭園の東屋は、以前と同じように穏やかだった。
白い石柱。
低い花壇。
午後の光。
少し離れた位置に控えるリタ。
そして、柱のそばに立つレオンハルト様。
見慣れたはずなのに、会うたびに少し息が止まる。
濃紺の礼服。
銀灰色の髪。
整った横顔。
冷たいように見える目。
でも、もう知っている。
その冷たそうな目が、わたくしの顔色や歩幅や手の震えを、何より先に確認することを。
「ロゼリア嬢」
「ごきげんよう、公爵様」
「来たな」
「逃げませんでした」
「よし」
「褒められた?」
「褒めた」
「最近、私の扱いが訓練中の犬のようです」
「犬はもう少し素直だ」
「公爵様!」
いきなりこれである。
緊張していた胸が、少しだけ緩む。
レオンハルト様は椅子を示した。
「座れ」
「提案ですか」
「必要な提案だ」
「はい」
もう慣れてしまった自分が怖い。
わたくしは椅子に座り、レオンハルト様は斜め向かいに座った。
前と同じ、真正面から見つめすぎない位置。
気遣いなのだと、今は分かる。
それがまた困る。
優しさを理解してしまうと、もう「怖い人です」で済ませられない。
「顔色は悪くない」
「第一声が診断ではなくてよかったです」
「今言った」
「言いましたね」
「眠れているか」
「そこそこ」
「リタ」
なぜすぐリタを見る。
リタは一礼する。
「昨日は、やや寝つきが悪かったものの、明け方前にはお休みでした」
「やや」
「リタ!」
「嘘は申し上げられません」
レオンハルト様の眉が少し寄る。
「考えすぎたか」
「公爵様のお返事が短すぎるからです」
「短い方が分かりやすいだろう」
「逃げるな、の圧が強いのです」
「必要だ」
「必要が強い」
いつもの調子。
でも、今日聞きたいことは、いつもの会話の隙間に紛れ込ませられるほど軽くない。
わたくしは膝の上で手を握った。
レオンハルト様はそれに気づいたらしい。
視線が一度、手元へ落ちる。
「聞きたいこととは」
逃げ道を与えない。
この人は、そういうところがある。
「……はい」
わたくしは息を吸った。
吐いた。
リタが少し離れた場所で、静かに見守っている。
逃げるな。
でも、帰り道はある。
そう思って、口を開く。
「公爵様」
「ああ」
「私の、どこがいいのですか」
言った。
言ってしまった。
言った瞬間、心臓が全力で抗議を始めた。
なぜそんなことを聞いた。
恥ずかしい。
怖い。
今すぐ植木鉢がほしい。
だが、この東屋に植木鉢はない。
母とリタの策略だろうか。
いや、たぶん偶然。
レオンハルト様は、すぐには答えなかった。
その沈黙が長い。
長すぎる。
「やはり、今の質問は」
「考えている」
「考えなくても」
「聞いたのは君だ」
「はい」
正論。
逃げられない。
レオンハルト様は、しばらくわたくしを見ていた。
視線はまっすぐだが、突き刺すようではない。
見極めるような目。
そして、少しだけ困っているようにも見えた。
「どこがいい、と言われると難しい」
胸が、少し沈みかけた。
しかし、続く言葉で止まる。
「一つに絞れない」
「……」
今。
何と。
「公爵様」
「何だ」
「心臓に悪い出だしです」
「まだ答えていない」
「答える前から危険です」
「なら座っていろ」
「座っています」
「ならいい」
「よくありません」
レオンハルト様は、少しだけ目元を緩めた。
からかわれている。
少しだけ。
でも、彼はすぐに真面目な顔に戻った。
「最初は、怪しいと思った」
「そこから?」
「ああ」
「恋愛の話で、最初に怪しいと」
「事実だ」
「事実禁止令を」
「却下だ」
また却下。
レオンハルト様は淡々と続ける。
「王太子殿下との婚約者でありながら、殿下から距離を取ろうとする。聖女候補を敵視するどころか庇う。騎士団長と殿下を二人きりにしようとする。物陰から見て泣く」
「最後!」
「怪しいだろう」
「怪しいですけれど!」
「だから調べた」
「やはり調べていたのですね」
「必要だった」
レオンハルト様の必要は、だいたい強い。
「だが、見ているうちに分かった」
「何がですか」
「君は企んでいるわけではない」
「はい」
「ただ、だいぶ変だった」
「そこを外さない」
「事実だ」
「今日の事実は刺さります」
「だが、悪意はなかった」
ダリオ様の言葉と似ている。
君の言葉は難しいが、悪意はない。
それをレオンハルト様も見ていたのか。
「君は、自分が得をするために動いていなかった」
レオンハルト様は言った。
「殿下のため、聖女候補のため、騎士団長のため、時にはよく分からない推しという概念のため」
「推しという概念」
「違うのか」
「大きくは違いませんが、本人の口から聞くと衝撃があります」
「そうか」
「はい」
「君は、誰かの幸福を本気で願う。たとえ、その願い方がずれていても」
「ずれて」
「ずれている」
「否定はしづらいです」
「かなりずれている」
「追撃」
レオンハルト様は少しだけ口元を緩めた。
けれど声は穏やかだった。
「だが、そこが君だ」
胸が鳴った。
「誰かを悪役にしないように動くところ。聖女候補に手を伸ばすところ。殿下を一人の人間として見ようとするところ。騎士団長の選択を尊重しようとするところ」
「……」
「自分が傷つくことには鈍いくせに、他人が傷つくことには敏感なところ」
胸が少し痛む。
「それは、良いところですか」
「良いところであり、危ういところだ」
「危うい」
「ああ。放っておくと、自分を後回しにしすぎる」
「皆様に言われます」
「皆が見ているなら、よほどだ」
「返す言葉がありません」
リタが少し離れた場所で、小さく頷いた気がした。
味方の頷きが重い。
レオンハルト様は、さらに続ける。
「君は、変だ」
「また」
「かなり変だ」
「二度」
「植木鉢の陰に入りたがる」
「入りたがっているわけでは」
「入っただろう」
「入ったことはあります」
「殿下と騎士団長の訓練を見て、顔だけで倒れそうになる」
「顔だけで?」
「顔で分かる」
「顔面日記帳問題が公爵様にも」
「手帳に妙な言葉を書く」
「それは見せていないはず」
「リタ殿の反応で分かる」
「リタ!」
遠くでリタが一礼した。
味方なのに情報源になっている。
「だが」
レオンハルト様の声が、少し低くなる。
「君が好きなものについて話す時、目が生きる」
息が止まりそうになった。
「推し活、だったか」
「……はい」
「殿下と騎士団長の関係でも、聖女候補の成長でも、誰かが自分で選んだものでも。君は、それを見つけると目が輝く」
「そんなに?」
「かなり」
「恥ずかしいです」
「なぜ」
「見られていると分かると」
「見ている」
「追撃が直球」
レオンハルト様は、視線を逸らさなかった。
「君は、好きなものを好きだと認めるのを怖がる」
「はい」
「だが、好きなものの話をしている君は、隠れている時よりずっといい」
胸が、じわりと熱くなる。
「公爵様」
「何だ」
「それは、褒めていますか」
「褒めている」
「……そうですか」
「ああ」
褒められた。
推し活で目が輝くところを。
変なところではなく。
いや、変なところも含まれているのかもしれない。
「君は自分を壁にしたがる」
レオンハルト様は言った。
「だが、壁になりたいと言っている時の君は、少し寂しそうだ」
胸に、静かな痛みが走る。
「……そう見えますか」
「ああ」
「自分では、あまり」
「自覚していないだろうな」
「はい」
「だから、壁にする気はない」
声が低い。
静かで、強い。
「君は、外側にいるべき人間ではない」
「公爵様」
「少なくとも、私の前では」
心臓が、跳ねた。
「私の前では?」
「壁にならなくていい」
言葉が、深く入ってくる。
壁にならなくていい。
前にも似た言葉を言われた。
けれど今日は、もっと近い。
もっとはっきりしている。
「君が何かを好きだと言うなら聞く。理解できないことは聞き返す。危なければ止める。泣くなら座らせる」
「そこも入るのですね」
「重要だ」
「はい」
「君が変なことを言えば、変だと言う」
「言うのですね」
「言う」
「正直」
「だが、笑って傷つけるつもりはない」
涙が出そうになる。
やめてほしい。
今日の会話は、心臓にも涙腺にも悪い。
「私のどこがいいのですか、と聞いたな」
「はい」
「全部だ」
今度こそ、完全に止まった。
「……全部?」
「ああ」
「全部、とは」
「優しいところ。危ういところ。逃げ癖があるところ。変なところ。好きなものを大切にするところ。顔に出るところ。嘘が下手なところ。泣くのを我慢しようとするところ。泣いた後に恥ずかしがるところ。怒ると少し早口になるところ」
「待ってください」
「まだある」
「まだ?」
「手帳に書くと落ち着くところ。紅茶に塩を入れかけるほど動揺するところ」
「なぜそれを」
「リタ殿から聞いた」
「リタ!」
リタが、今度は目を逸らした。
裏切り。
いや、最強の壁の情報共有。
どちらにせよ、恥ずかしい。
「植木鉢の陰に入りたがるところ」
「それは減点では?」
「危険なので止めるが、含める」
「含める?」
「含めなければ君ではない」
息が詰まった。
含めなければ君ではない。
その言葉は、優しいというより、逃がさない言葉だった。
綺麗な部分だけではない。
公爵令嬢として整った部分だけではない。
失敗も、変なところも、逃げ癖も、推し活で暴走するところも。
全部。
全部だと、彼は言った。
「……公爵様」
「何だ」
「変なところも含めるのは、減点ではないのですか」
「減点ではない」
「でも、私は本当に変です」
「知っている」
「知っていると言われると傷つきます」
「変だが、嫌ではない」
「その言い方」
「むしろ、君が何も変でなくなったら心配する」
「心配?」
「ああ。無理をしているだろうから」
胸が痛い。
優しさが、痛い。
「君は、整いすぎている時ほど危ない」
レオンハルト様は静かに言った。
「完璧な令嬢の顔をしている時ほど、どこかを削っている」
「……」
「だから、変なくらいでいい」
「そんな慰め方ありますか」
「慰めではない。私の好みだ」
危険。
危険です。
今のは危険。
「公爵様」
「何だ」
「今のは口説きましたか」
「口説いた」
「即答しないでください!」
「確認したのは君だ」
「そうですが!」
顔が熱い。
もう、どうしてよいのか分からない。
以前なら、「天然で口説かないでください」と言えば済んだ。
今は違う。
本人が口説いたと認める。
逃げ道が塞がれた。
「……私は」
声が小さくなる。
「公爵様が思っているほど、良い人間ではありません」
「そうか」
「はい。推し活だって、綺麗なものばかりではありません。勝手に深読みします。勝手に尊がります。時には本人の気持ちを置き去りにしそうになります」
「ああ」
「逃げ癖もあります。すぐ壁になろうとします。自分が選ばれることが怖いです」
「ああ」
「王太子殿下にも失礼なことをたくさんしました。セシリア様をヒロイン様として見すぎていたこともあります。グランツ卿と殿下の関係も、勝手に美しく見すぎていました」
「ああ」
「それでも」
怖い。
でも聞きたい。
「それでも、公爵様は、私がいいのですか」
レオンハルト様は、少しだけ黙った。
今度の沈黙は、迷いではなかった。
言葉を選んでいる沈黙だった。
「私は、完璧な令嬢が欲しいわけではない」
彼は言った。
「君がいい」
短い。
短すぎる。
だが、胸を撃ち抜くには十分すぎた。
「君が間違えるなら、指摘する。危なければ止める。逃げれば追う。泣くなら椅子を出す」
「椅子」
「重要だ」
「はい」
「だが、それらを含めて君だ」
レオンハルト様は、まっすぐわたくしを見た。
「私は君を望んでいる」
音が消えた。
風の音も、花の揺れる音も、リタの気配も、全部遠くなる。
私は君を望んでいる。
その言葉だけが、東屋の中に残った。
「……心臓が」
「痛むか」
「違います。いつものです」
「なら座っていろ」
「座っています」
「ならいい」
「よくありません」
言いながら、少し笑ってしまった。
笑わなければ、泣いていた。
たぶん。
レオンハルト様は、わたくしの反応をじっと見ている。
「怖いか」
「怖いです」
「そうか」
「でも」
わたくしは、ゆっくり息を吐いた。
「嫌では、ありません」
言った。
かなり言った。
自分で言った。
リタが遠くで、ほんの少しだけ姿勢を正した気がした。
レオンハルト様の目元が、わずかに緩む。
「進歩だな」
「訓練記録みたいに言わないでください」
「褒めている」
「分かっています」
「そうか」
「はい」
少し沈黙。
今度は、苦しくない沈黙だった。
「公爵様」
「何だ」
「まだ、答えは出せません」
「ああ」
「殿下のことも、ちゃんと考えたいです」
「そうしろ」
「自分がどこへ立ちたいのかも、まだ迷っています」
「迷え」
「公爵様のことも、怖いです」
「怖がれ」
「泣くかもしれません」
「座れ」
「もう!」
わたくしは笑ってしまった。
レオンハルト様も、ほんの少し笑った。
たったそれだけで、胸が温かくなる。
「君がすぐに答えを出せるとは思っていない」
レオンハルト様は言った。
「むしろ、すぐに答えを出したら疑う」
「疑う?」
「考えずに逃げた可能性がある」
「信用が」
「君の逃げ癖は信用している」
「そこを信用しないでください」
「だから、考えろ」
彼の声は静かだった。
「怖いまま。迷ったまま。泣くなら座って」
「椅子の存在感が強い」
「必要だからな」
「はい」
「ただし」
レオンハルト様の目が、少し強くなる。
「私を選ぶなら、逃がさない」
来た。
また来た。
手紙にもあった言葉。
本人の声で聞くと、破壊力が違う。
「……やはり、それは脅迫状寄りです」
「恋文のつもりだ」
「強い恋文です」
「弱く言っても君は逃げる」
「否定できないのが悔しいです」
レオンハルト様は、少しだけ口元を緩めた。
「なら、強く言う」
「公爵様らしいです」
「そうか」
「はい」
わたくしは、膝の上の手を見た。
少し震えている。
でも、嫌な震えではない。
怖い。
嬉しい。
困る。
逃げたい。
逃げたくない。
全部が混ざって、どうしようもなく人間くさい。
望まれるということは、こんなに面倒なのか。
でも。
こんなに温かいのか。
「公爵様」
「何だ」
「私も、一つだけ言っていいですか」
「ああ」
「私、まだ公爵様を選ぶとは言えません」
「分かっている」
「でも、公爵様に望まれることを、嫌だとは思っていません」
声が震えた。
けれど、言えた。
「怖いけれど、少し嬉しいです」
レオンハルト様は、すぐには答えなかった。
ただ、まっすぐわたくしを見ていた。
やがて、低く言う。
「十分だ」
「十分?」
「今は、それで十分だ」
その言葉に、胸がほどける。
答えではない。
でも、逃げではない。
今日のわたくしには、それで十分。
「ありがとうございます」
「礼は」
「言いたいので」
「そうか」
レオンハルト様は、少しだけ視線を外した。
その耳元が、わずかに赤く見えたのは、気のせいだろうか。
いや。
たぶん、気のせいではない。
レオンハルト様も照れる。
それを知ってしまったわたくしは、心の中で机を叩いた。
供給。
いや、違う。
これは供給ではなく、本人の感情。
でも、尊い。
困る。
尊い。
「何を考えている」
ばれた。
「いえ」
「顔に出ている」
「顔!」
「推し活の顔だ」
「公爵様がその言葉を使いこなしている!」
「間違っているか」
「合っています!」
遠くでリタが小さく笑った。
もう駄目だ。
レオンハルト様が推し活の顔を判別するようになってしまった。
世界の進行が早すぎる。
東屋を出る頃、日は少し傾いていた。
リタが戻ってきて、わたくしの顔を見る。
「お嬢様」
「なに?」
「お顔が真っ赤です」
「夕日のせいです」
「まだ夕日には少し早いです」
「庭園の反射」
「無理がございます」
レオンハルト様が静かに言う。
「口説いたからだろう」
「公爵様!」
本人が言うな。
どうして言う。
リタが一瞬だけ目を見開き、それから完璧な侍女の顔に戻る。
「なるほど」
「リタ、納得しないで」
「本日は大きな進展があったようで」
「言い方!」
「詳細は馬車でお伺いします」
「聞かないで!」
「最強の壁として必要です」
「防御壁に報告義務があるの?」
「ございます」
レオンハルト様が頷いた。
「リタ殿には共有しておいた方がいい」
「公爵様まで!」
「君が一人で抱えると寝不足になる」
「実用的な理由」
「事実だ」
「事実禁止令」
「却下だ」
今日も、禁止令は通らない。
でも、少し笑えた。
馬車に乗る前、レオンハルト様が言った。
「ロゼリア嬢」
「はい」
「手帳に書くなら、消すな」
「また分かるのですか」
「君は今日のことを、書いてから消したくなる顔をしている」
「顔面日記帳問題が深刻です」
「消すな」
「……はい」
「全部だ」
「え?」
「怖かったことも、嬉しかったことも、私の言葉も、君の言葉も」
レオンハルト様は、静かに言った。
「全部、君だ」
最後まで心臓に悪い。
わたくしは、どうにか頷いた。
「はい」
馬車が動き出す。
リタが向かいに座り、静かに待っている。
「お嬢様」
「なに?」
「詳細を」
「早い」
「帰宅まで待つと、忘れたふりをされますので」
「しません」
「します」
「信用が」
「逃げ癖は信用しております」
「公爵様と同じことを」
わたくしは観念して、ぽつりぽつりと話した。
私のどこがいいのかと聞いたこと。
最初は怪しいと思われていたこと。
変だと言われたこと。
でも全部だと言われたこと。
含めなければ君ではない、と。
私は君を望んでいる、と。
話しながら、何度も顔が熱くなった。
リタは最後まで茶化さず聞いた。
そして、静かに言った。
「よかったですね」
たったそれだけ。
その一言で、少し泣きそうになった。
「……よかったのかしら」
「はい」
「怖いわ」
「はい」
「嬉しいわ」
「はい」
「困るわ」
「恋ですね」
「最後に刺した!」
「事実ですので」
わたくしは笑って、少しだけ泣いた。
屋敷に戻ってすぐ、手帳を開いた。
消さない。
そう約束した。
『望まれるということ。
レオンハルト様に聞いた。
私のどこがいいのですか、と。
最初は怪しいと思われていた。
変だとも言われた。かなり変だとも。
植木鉢、手帳、推し活、顔に出ること、逃げ癖、泣くのを我慢すること。
全部知られていた。
でも、全部だと言われた。
含めなければ君ではない、と。
私は君を望んでいる、と。』
ペンが震えた。
でも、続ける。
『完璧な令嬢が欲しいわけではない。君がいい、と言われた。
怖かった。
嬉しかった。
逃げたくなった。
でも、逃げたくないとも思った。
私はまだ答えを出せない。
でも、望まれることを嫌だとは思っていない。
怖いけれど、少し嬉しい。
今日は、それを言えた。』
最後に、一行。
『全部、私だと言われた。
なら私は、私のまま考えたい。』
書き終えると、手が少し震えていた。
リタが隣で、そっと温かい紅茶を置く。
「お嬢様」
「なに?」
「今日は、塩ではなく砂糖です」
「その確認、まだ続くの?」
「重要ですので」
「もう間違えないわ」
「恋をすると、人は予想外の行動をします」
「リタ」
「はい」
「あなた、本当に容赦がなくなったわね」
「最強の壁ですので」
わたくしは笑った。
怖い。
とても怖い。
でも、今日の怖さは、壁の裏へ逃げるための怖さではなかった。
誰かの前へ進むための怖さだった。
望まれるということ。
それは、わたくしが思っていたよりずっと重くて、ずっと面倒で、ずっと温かい。
そして、信じられないくらい心臓に悪い。
特に、レオンハルト様の場合は。




