第44話 一ヶ月後の舞踏会、逃げ場なし
逃げ道というものは、探せば意外とある。
たとえば、体調不良。
たとえば、急な領地視察。
たとえば、遠縁の親戚の看病。
たとえば、聖堂への奉仕活動。
たとえば、馬車の車輪が突然壊れる。
たとえば、庭の植木鉢と一体化する。
最後の一つは、たぶん逃げ道ではない。
ただの奇行である。
それでも、わたくしは真剣に考えていた。
一ヶ月後の王宮舞踏会。
そこで、ユリウス殿下との婚約について、ひとつの答えを出す。
そう決まっていた。
いや、正確には、そういう流れになってしまっていた。
最初は猶予だった。
一ヶ月考えなさい、と殿下は言った。
わたくしはその間に、王太子妃になりたくない理由を書き、立ちたい場所が分からないと母に泣きつき、推しを人間として見る難しさに向き合い、レオンハルト様に泣き顔を見られ、リタに最強の防御壁宣言をされ、父に胃薬を飲ませた。
我ながら、忙しい一ヶ月である。
まだ一ヶ月終わっていないけれど。
そして今朝。
王宮から正式な招待状が届いた。
封蝋には、王家の紋章。
厚手の白い封筒。
金の縁取り。
嫌になるほど正式で、逃げ場のない招待状だった。
わたくしは、自室の机の上にそれを置き、しばらく見つめた。
すると、リタが横から言った。
「お嬢様」
「なに?」
「見つめても、招待状は消えません」
「分かっているわ」
「先ほどから、少しずつ遠ざけておられます」
「目の錯覚よ」
「手で押しておられました」
「風かもしれないわ」
「無風です」
リタは容赦なく招待状をわたくしの前へ戻した。
ひどい。
昨日、最強の壁になると言ったばかりなのに、なぜ逃げ道を塞ぐ側へ回るのか。
「リタ」
「はい」
「私は、まだ心の準備が」
「招待状を読まなければ、心の準備は始まりません」
「読むと現実になるわ」
「読まなくても現実です」
「現実禁止令」
「却下でございます」
また却下。
この屋敷では、わたくしの禁止令はほぼ通らない。
わたくしは深呼吸し、封を切った。
中には、美しい筆跡でこう書かれていた。
『一ヶ月後、王宮大広間にて開催される春星の舞踏会に、ロゼリア公爵家令嬢ミリア・ロゼリア殿を正式に招待する。
王太子ユリウス殿下の婚約者としての席を用意する。
なお、本舞踏会にて、婚約継続または見直しに関する王家・ロゼリア公爵家間の協議を行う予定である。』
読んだ。
読んでしまった。
婚約継続または見直し。
王家・ロゼリア公爵家間の協議。
逃げ場なし。
言葉が全部、重い。
わたくしは招待状をそっと伏せた。
「リタ」
「はい」
「これは、見なかったことに」
「なりません」
「早い」
「お嬢様が言い終える前に答えられるほど、予想しておりました」
「優秀すぎる侍女は時に敵ね」
「味方です」
「味方が一番逃げ道を塞ぐのよ」
「逃げ道と帰り道は違いますので」
リタは静かに言った。
その言葉が、少し胸に残る。
逃げ道と帰り道。
母も似たようなことを言っていた。
休む場所、泣く場所、迷う場所は、逃げ道ではなく帰る場所。
では、今わたくしが探しているのは何か。
たぶん、逃げ道。
だから、塞がれている。
「……分かっているわ」
「はい」
「でも、怖いの」
「はい」
「舞踏会なんて、読者の期待値が高すぎる大イベントよ」
「読者?」
「いえ、社交界の皆様の」
「今、聞き慣れない言葉が混ざりましたが、流しておきます」
「ありがとう」
「後で確認します」
「流していないわ」
リタは招待状を丁寧に畳み直した。
「奥様と旦那様にもお伝えします」
「父上の胃が」
「胃薬は補充済みです」
「準備が早い」
「昨日、三瓶追加いたしました」
「三瓶」
「舞踏会前後を考慮して」
「父上の胃薬消費予測まで」
「必要ですので」
その実用主義、レオンハルト様の影響が濃い。
まさかロゼリア家全体がヴァイスベルク化しているのではないか。
少し怖い。
母に招待状を見せると、彼女は驚かなかった。
むしろ、紅茶を飲みながら頷いた。
「来たわね」
「お母様、予想しておられたのですか」
「当然でしょう。王家としても、いつまでも曖昧にはできないもの」
「それは、そうですが」
「ドレスを決めなければ」
「そこですか」
「そこも大事よ」
「まだ結論が」
「結論を出す場だからこそ、ドレスは大事なの」
母はカップを置き、わたくしをじっと見た。
「ミリア、あなたは何を着ても可愛いわ」
「お母様」
「でも今回は、ただ可愛いだけでは駄目」
「はい」
「王太子殿下への敬意を失わず、ロゼリア公爵家の令嬢として品位を保ち、同時に、あなたが自分の足で立っていると分かるドレスにしなければ」
母の言葉は、いつも途中から急に戦略になる。
「色は?」
「え?」
「殿下の色に寄せすぎれば婚約継続の意思と取られる。ヴァイスベルク公爵様の色に寄せすぎれば、周囲が先走る。白すぎれば聖女候補と並んだ時に妙な意味を持つ。赤は主張が強い。黒は重い」
「もう逃げたい」
「逃げてもドレスは必要よ」
「ドレスからも逃げられない」
母はにこりと笑った。
「淡い銀青か、薄い菫色がいいわね」
「なぜですか」
「あなた自身の色に近いから」
「私自身の色」
「ええ。誰かの隣に立つためだけではなく、あなたがあなたとして立つための色」
胸が少し鳴った。
ドレスの話なのに。
母は、いつもそうだ。
見た目の話をしているようで、本質を突いてくる。
「お母様」
「なあに?」
「もし、私が当日、やっぱり無理だと泣いたら」
「泣いてもいいわ」
「いいのですか」
「ええ。ただし、化粧が崩れるから泣くなら早めに」
「実用」
「大事よ」
母は柔らかく笑った。
「泣いても、迷っても、怖がってもいい。でも舞踏会へは行きなさい」
「逃げては駄目?」
「駄目」
即答だった。
「なぜ」
「あなたが自分の人生から逃げる顔をしているから」
母の声は優しいのに、逃げ場を与えない。
わたくしは少し俯いた。
「そんな顔をしていますか」
「ええ」
「顔面日記帳が親子にも」
「母ですもの」
万能の母。
強い。
父にも招待状を見せた。
父はまず招待状を読み、次に胃薬を見た。
そして、わたくしを見た。
「一粒飲んでから話していいか」
「はい」
父は飲んだ。
水も飲んだ。
深く息を吐いた。
「よし」
「よし、なのですか」
「よしと言わないと始まらない」
「父上らしいです」
「ミリア」
「はい」
「怖いか」
「怖いです」
「そうか」
父は招待状を机の上に置いた。
「私も怖い」
「お父様も?」
「もちろんだ。娘の婚約問題が王宮舞踏会で正式に動くのだぞ。胃が怖がっている」
「胃が」
「父もだ」
父は少しだけ笑った。
それから、真面目な顔になる。
「だが、行こう」
「……はい」
「父も行く。母上も行く。ロゼリア家として、逃げずに行く」
「はい」
「お前は一人で舞踏会へ行くわけではない」
その言葉に、胸が温かくなった。
「お父様」
「何だ」
「当日、胃薬は」
「携帯する」
「やはり」
「二瓶」
「増えている」
「予備だ」
父は真顔だった。
わたくしは笑ってしまった。
少しだけ、怖さがほどける。
その日の午後、セシリア様から手紙が届いた。
封筒には、小さな花の押し印。
可愛らしい字。
開く前から、心が少し柔らかくなる。
『ミリア様へ
舞踏会の正式招待状が届いたと伺いました。
私にも聖女候補として出席の知らせが来ています。
きっと、ミリア様は今、とてもたくさん考えていらっしゃると思います。
怖くなったら、私のところへ来てください。
何も解決できないかもしれませんが、お茶を淹れます。
甘いお菓子も用意します。
ミリア様が泣いたら、私もたぶん泣きます。
でも、一緒に泣けば少し楽かもしれません。
それから、これは私のわがままですが、舞踏会の日、ミリア様にはミリア様として笑っていてほしいです。
王太子殿下の婚約者としてでも、誰かのための悪役令嬢としてでもなく。
私の大好きなミリア様として。
セシリア・フローラ』
読み終えた瞬間、わたくしは手紙を胸に抱いた。
「セシリア様……」
「泣かれますか」
リタがすぐ横で聞いた。
「泣かないわ」
「目が」
「これは聖女様の尊さによる浄化です」
「泣いておりますね」
「まだ泣いていないわ」
「三秒後かと」
「予測しないで」
セシリア様。
なんて優しい。
なんて可愛い。
なんて強い。
ヒロイン様は、いつの間にこんなに人の心を支えられる人になったのか。
いや、最初からそうだったのかもしれない。
わたくしが「ヒロイン様」として崇拝していたその奥に、ちゃんとセシリア様という一人の人がいた。
彼女もまた、わたくしを見てくれている。
逃げ場がない。
でも、逃げ場がないのに、少し温かい。
「リタ」
「はい」
「セシリア様に返事を書きます」
「はい」
「泣いていないと書いてもいいかしら」
「嘘になります」
「まだ泣いていないわ」
「時間の問題です」
「では、泣きそうですと書くわ」
「正直でよろしいかと」
その夕方、さらに手紙が届いた。
差出人は、レオンハルト様。
封を見た瞬間、心臓が跳ねた。
リタが無言でこちらを見る。
「何も言わないで」
「まだ何も」
「顔に出ていると言いたいのでしょう」
「はい」
「言っているわ」
「顔で伝わりました」
もう顔面日記帳どころか、顔面掲示板である。
わたくしは封を切った。
『王宮舞踏会の招待状が届いたはずだ。
君は逃げ道を探しているだろう。
体調不良、領地視察、親戚の看病、馬車の故障、植木鉢との同化。
先に言っておくが、すべて却下だ。
逃げるな。
ただし、怖がることは禁じない。
泣くことも禁じない。
座る椅子は用意する。
君が選べ。
だが、私を選ぶなら逃がさない。
ヴァイスベルク』
読み終えた。
固まった。
もう一度読んだ。
逃げ道が、全部読まれている。
体調不良。
領地視察。
親戚の看病。
馬車の故障。
植木鉢との同化。
なぜ。
なぜ分かる。
「……公爵様、怖い」
わたくしは呟いた。
リタが手紙を覗き込む。
「かなり正確ですね」
「あなた、教えた?」
「教えておりません」
「本当に?」
「植木鉢との同化は、私も予想しておりましたが」
「予想されていた」
「お嬢様ですので」
わたくしは、手紙の最後を見た。
『君が選べ。
だが、私を選ぶなら逃がさない。』
これは、恋文なのか。
脅迫状なのか。
いや、両方だ。
レオンハルト様は、そういう方である。
優しさと脅しと実用が、いつも同じ封筒に入っている。
「リタ」
「はい」
「これは恋文?」
「かなり強めの恋文かと」
「脅迫状ではなく?」
「恋文と脅迫状の境界に立っております」
「境界」
「ただし、お嬢様限定で有効な文面です」
「どういう意味?」
「普通の令嬢なら怖がるだけかもしれませんが、お嬢様は今、少し嬉しそうですので」
「嬉しそうでは」
「あります」
「……少しだけよ」
「はい」
「少しだけ、安心したの」
「はい」
「逃げ道を全部塞がれているのに?」
「はい」
「おかしいわね」
「恋は少しおかしいものかと」
「リタ、最近遠慮がないわ」
「最強の壁ですので」
その言葉に、少し笑ってしまった。
レオンハルト様の手紙を、もう一度読む。
怖がることは禁じない。
泣くことも禁じない。
座る椅子は用意する。
泣くなら座れ。
あの人らしい。
わたくしは手紙を胸に当てた。
心臓がうるさい。
でも、以前ほど苦しくない。
怖い。
怖いけれど、逃げたいだけではない。
その夜。
わたくしの部屋には、招待状、母の資料、父のメモ、セシリア様の手紙、レオンハルト様の手紙が並んでいた。
圧がすごい。
紙による包囲網である。
わたくしは机の前に座り、手帳を開いた。
リタが横に立つ。
「お嬢様」
「なに?」
「本日の逃げ道一覧を作成しますか」
「やめて」
「却下印を押す準備はございます」
「本当に付箋を?」
「はい」
「最強の壁が実務的すぎるわ」
リタは小さく笑った。
わたくしはペンを取る。
『一ヶ月後の舞踏会、逃げ場なし。
王宮から正式な招待状が届いた。
婚約継続または見直しに関する協議。
ついに現実になった。
逃げたい。
かなり逃げたい。
体調不良、領地視察、親戚の看病、馬車の故障、植木鉢との同化。
全部考えた。
公爵様に全部読まれていた。怖い。』
ペンを止める。
思い出すだけで、少し笑ってしまう。
さらに書く。
『母上はドレスを決めると言った。
父上は胃薬を二瓶携帯すると言った。
セシリア様は、一緒に泣けば少し楽かもしれないと書いてくださった。
リタは逃げ道に却下印を押す気でいる。
レオンハルト様は、逃げるな、でも怖がることは禁じない、泣くことも禁じない、座る椅子は用意すると書いた。
そして、君が選べ。だが、私を選ぶなら逃がさない、と。
恋文なのか脅迫状なのか。
たぶん、両方。』
書きながら、胸がじんわり熱くなる。
怖い。
でも、ひとりではない。
それを何度も思い知らされる。
『私は、舞踏会へ行く。
泣くかもしれない。
間違えるかもしれない。
それでも行く。
壁ではなく、ミリア・ロゼリアとして。
まだ答えは出ていない。
でも、逃げずに考える。
善処ではなく、努力する。』
書き終えた。
手が少し震えていた。
でも、書けた。
リタが静かに言う。
「お嬢様」
「なに?」
「逃げ道は、いくつ残しておきますか」
「え?」
意外な問いだった。
リタは続ける。
「すべて塞ぐと、息が詰まります。奥様もおっしゃっていたでしょう。休む場所、泣く場所、迷う場所は必要です」
「……そうね」
「ですので、逃げ道ではなく、帰り道を残します」
「帰り道」
「はい。お嬢様が舞踏会で苦しくなった時、戻れる場所です」
リタは指を折る。
「一つ、私のところ。
二つ、奥様と旦那様のところ。
三つ、セシリア様のところ。
四つ、必要なら庭園の椅子」
「椅子」
「ヴァイスベルク公爵様が用意なさるかと」
「本当にありそう」
「ただし、植木鉢の陰は不可です」
「厳しい」
「安全上の理由です」
リタまで完全に安全管理側だ。
でも、ありがたい。
「リタ」
「はい」
「私は、逃げ道ではなく帰り道を持って、舞踏会へ行くのね」
「はい」
「なら、少しだけ行けそうな気がするわ」
「よろしいかと」
「でも、怖い」
「はい」
「心臓に悪い」
「はい」
「公爵様の手紙も悪い」
「かなり」
「同意するのね」
「事実ですので」
わたくしは笑った。
リタも小さく笑った。
その夜、寝る前に、わたくしはレオンハルト様の手紙をもう一度見た。
『君が選べ。
だが、私を選ぶなら逃がさない。』
心臓が跳ねる。
でも、逃げ出したいだけではなかった。
選ぶ。
わたくしが。
誰かのためだけではなく。
自分のために。
その重さに、まだ足が震える。
けれど、一ヶ月後の舞踏会は来る。
逃げ場なし。
でも、帰り道はある。
それなら。
それなら、たぶん。
わたくしは行ける。
壁ではなく。
自分の足で。




