第43話 父上、胃薬を飲む
父は、胃薬を飲む。
最近、頻度が上がっている。
それは、わたくしのせいである。
いや、すべてわたくしのせいではないと思いたい。
王太子殿下との婚約問題。
断罪夜会。
冷血公爵様の急接近。
母上による『ヴァイスベルク公爵家との縁談可能性について』資料作成。
リタによる最強の防御壁宣言。
そして、婚後の推し活自由度という謎項目。
これらが父の胃をじわじわと削っている。
ただ、その中心にわたくしがいることは否定できない。
ある日の午後。
わたくしは、父の書斎へ呼ばれた。
父の書斎は、屋敷の北側にある落ち着いた部屋だ。
壁には本棚。
机の上には領地経営の書類。
窓辺には、母が勝手に置いたらしい小さな花瓶。
そして机の端には、当然のように胃薬の小瓶。
堂々と置かれている。
もはや文鎮か何かのようだ。
「お父様」
「来たか、ミリア」
「はい」
父は椅子から立ち上がろうとしたが、わたくしが止めた。
「そのままでいらしてくださいませ」
「いや、娘を迎えるのだから」
「書斎に呼ばれたのは私です。お父様はお疲れでしょう」
「疲れてはいない」
父はそう言った。
しかし、目が少し疲れている。
机の端の胃薬が、妙な説得力を放っている。
「……胃は?」
「会議中だ」
「胃と?」
「私の理性と胃が、今後の方針について協議している」
「議題は」
「娘の未来」
「重い」
「重い」
父は真顔で頷いた。
わたくしは思わず笑いそうになったが、父の表情がいつもより真剣だったので、きちんと椅子に座った。
リタは扉の外に控えている。
父が「今日は少し親子で話したい」と言ったからだ。
リタは一瞬だけわたくしを見た。
逃げるな、という目だった。
最近、周囲の「逃げるな」圧がすごい。
だが、今日の相手は父だ。
逃げるつもりはない。
……少ししか。
「ミリア」
「はい」
「昨日、母上の資料は読んだか」
「はい。途中までですが」
「婚後の推し活自由度もか」
「お父様!」
「いや、私も見た。見てしまった」
「見てしまったのですか」
「机の上に置かれていた。目に入った。父親として、あれを見なかったことにするには訓練が足りなかった」
「どんな訓練ですか」
「娘の推し活自由度を冷静に受け止める訓練だ」
「たぶん世の父親の多くが未履修です」
「そうだろうな」
父は深く頷いた。
そして、机の上の胃薬を少しだけ見た。
飲むか。
飲まないか。
小さな戦いが見える。
「お父様」
「まだ飲まない」
「聞いておりません」
「言われる前に答えた」
「お母様みたいです」
「夫婦は似る」
父は軽く咳払いした。
「その、資料を見て思ったのだが」
「はい」
「母上は、ああいうところがある」
「行動が早いところですか」
「早い。非常に早い。私がまだ『ヴァイスベルク公爵……いや、しかし王太子殿下……いや、そもそもミリアの気持ちが……胃が……』と考えている間に、妻は家格、政治、婚後の自由度まで表にしていた」
「お母様は強いですね」
「強い。私よりずっと強い」
「そんなことは」
「ある」
父は即答した。
「私は、正直に言うと、まだ追いついていない」
「……お父様」
「王太子殿下は、重い」
父の声は、静かだった。
「この国の未来を背負う方だ。人柄も悪くない。むしろ良い。お前を悪役にせず、ちゃんと向き合おうとしてくださっている。それは分かる」
「はい」
「だが、王太子殿下の隣に立つということは、王太子妃になるということだ。お前がどれほど努力しても、楽ではない。笑いたくない日も笑わなければならない。泣きたい日も、泣く場所を選ばねばならない」
父の言葉は、母の資料よりもずっと感情があった。
同じ重さでも、数字や項目ではない。
父親の心配として、こちらへ届く。
「お前は昔から、我慢する時ほど綺麗に笑う」
胸が痛んだ。
「父親としては、その笑顔が怖い」
「怖い、ですか」
「ああ」
父は、少し苦笑した。
「娘が完璧に笑うと、父は不安になる。変な話だろう」
「……いいえ」
「少し怒って、少し困って、少しわがままを言っている時の方が安心する。最近は、その顔が増えた」
「それは……良いのでしょうか」
「良い」
父は、はっきり言った。
「非常に良い」
「非常に」
「父としてはな」
父はそこで、一度息を吐いた。
「だが、ヴァイスベルク公爵も重い」
来た。
わたくしは背筋を伸ばした。
父は胃薬を見た。
そして、ついに手に取った。
「お父様」
「ここは飲ませてくれ」
「はい」
父は一粒飲んだ。
水も飲んだ。
そして、覚悟を決めたように言う。
「ヴァイスベルク公爵は、重い」
「二度目ですね」
「大事なことだからだ」
「はい」
「彼は、守ると決めたものを逃がさない目をしている」
わたくしの心臓が跳ねた。
父の観察は鋭い。
母やリタとは違う。
父は父なりに、レオンハルト様を見ていた。
「昨日の木剣の件もそうだ。動きが早かった。迷わなかった。礼を言うべきことだ。それは間違いない」
「はい」
「だが父親としては、あの速度で娘のそばへ来る男は怖い」
「怖い」
「ああ。強い男だ。冷たいのではなく、決めたら退かない。お前があの男を選んだなら、おそらく彼はお前を全力で守るだろう」
父は少し間を置いた。
「同時に、お前が逃げようとしたら全力で見つけるだろう」
「……おっしゃっていました」
「本人が?」
「はい」
「そうか」
父はまた胃のあたりに手を置いた。
「言いそうだ」
「言いそうですか」
「言いそうだし、やりそうだ」
「はい」
「だから怖い」
父の声には、嫌悪はなかった。
ただ、娘を渡すかもしれない父親としての正直な恐れがあった。
「お父様は、レオンハルト様がお嫌いですか」
聞くのが少し怖かった。
けれど、聞いた。
父はすぐには答えなかった。
窓辺の花瓶を見た。
母が置いた花が、静かに揺れている。
「嫌いではない」
やがて父は言った。
「むしろ、評価している。礼もある。能力もある。お前を軽く扱っていないことも分かる」
「はい」
「だから余計に困る」
「困る?」
「嫌な男なら反対すればいい。分かりやすい。娘を傷つける男なら、父として正面から怒れる」
父は苦い顔をした。
「だが、王太子殿下もヴァイスベルク公爵も、どちらもお前を大切にしようとしている」
「……はい」
「どちらも重い。どちらも誠実だ。どちらも簡単に悪者にできない」
その言葉が、胸に染みた。
そうなのだ。
ユリウス殿下は、嫌な男ではない。
レオンハルト様も、ただ強引な男ではない。
だから苦しい。
片方を悪者にして逃げることができない。
「お前は、難しいところに立っている」
父は言った。
「父としては、できればもっと軽い相手を連れてきてほしかった」
「軽い相手」
「例えば、領地の穏やかな子爵家の三男とか」
「急に具体的」
「庭が好きで、犬を飼っていて、胃に優しい青年だ」
「胃基準」
「重要だ」
わたくしはつい笑ってしまった。
父も少し笑った。
しかし、その笑みはすぐに小さくなる。
「だが、お前の相手候補は王太子殿下と冷血公爵だ」
「候補というか、まだ」
「分かっている。まだだ。だが父の胃は、まだという言葉をあまり信用してくれない」
「お父様の胃、慎重ですね」
「私より慎重だ」
少し軽くなった空気の中で、父は机の上に置かれた一枚の紙を取り出した。
それは母の資料ではない。
父の字だった。
少し角ばった、真面目な字。
「これは?」
「私なりに考えを整理した」
「お父様まで資料を」
「妻ほど細かくはない」
紙には、三つの項目があった。
一、王太子殿下を選んだ場合。
二、婚約解消を選んだ場合。
三、ヴァイスベルク公爵を選んだ場合。
わたくしは息を飲んだ。
父は、少し恥ずかしそうに言った。
「読まなくていい」
「読んでも?」
「……笑わないなら」
「笑いません」
父が、娘に資料を見せる時にそんな顔をするとは思わなかった。
わたくしは紙を受け取る。
一、王太子殿下を選んだ場合。
『国王陛下および王家との正式協議が必要。
ミリアの体調管理と自由時間について、婚約継続前に条件を確認すべき。
王太子妃教育の負担軽減可能性を探る。
父としては心配。
だが、ミリアが選ぶなら支える。』
胸が詰まった。
二、婚約解消を選んだ場合。
『ミリアの名誉を守ることを最優先。
王太子殿下側と共同声明を出す必要あり。
クラリーナ嬢の件もあり、悪意ある噂を防ぐ準備。
婚約解消後、しばらく社交界から距離を置く選択も可。
父としては少し安心するが、ミリアが傷つくなら安心ではない。』
父らしい。
少し安心する、と書いてしまうところが父らしい。
そして、ミリアが傷つくなら安心ではない、と続けるところも。
三、ヴァイスベルク公爵を選んだ場合。
『王家との婚約解消後でなければ進められない。
ヴァイスベルク公爵本人と、ミリアの自由・生活・安全確認について話す必要あり。
相手が強すぎる。
だが、ミリアを笑わないと言った点は評価。
父としては胃が痛い。
だが、ミリアが選ぶなら、正面から話す。
逃げない。』
最後の三文字で、視界が滲みそうになった。
逃げない。
父の字で書かれている。
わたくしの周囲は、逃げるなとよく言う。
でも、父もまた逃げないと言ってくれている。
胃を痛めながら。
胃薬を飲みながら。
それでも。
「お父様」
「笑ったか?」
「笑っていません」
「少し笑っていないか」
「胃が痛い、のところは少し」
「そこは本音だ」
「はい」
わたくしは紙を胸に抱きそうになった。
だが大切な書類なので、折らずに机へ戻す。
「お父様」
「何だ」
「ありがとうございます」
父は、少し困った顔をした。
「礼を言われるほどのことではない」
「いえ。とても」
「私は、お前の代わりに選ぶことはできない」
「はい」
「できれば、父としては全部一度白紙にして、お前を半年ほど屋敷に置いて、よく寝かせて、よく食べさせて、庭でぼんやりさせたい」
「療養計画」
「本気だ」
「分かります」
父は、少し笑った。
「だが、現実は待ってくれない。一ヶ月後の舞踏会が来る」
「はい」
「殿下も、ヴァイスベルク公爵も、きっとそれぞれ動く。お前も答えを求められる」
「はい」
「その時、お前が泣くかもしれない。間違えるかもしれない。後悔するかもしれない」
「はい」
「それでも」
父は、まっすぐわたくしを見た。
「お前が選ぶなら、私はその相手が王太子殿下でも、冷血公爵でも、正面から立って話す」
声が、低く、しっかりしていた。
「胃は痛める」
「そこは入るのですね」
「入る。嘘はよくない」
父は真面目に言った。
「胃は痛める。薬も飲む。たぶん夜も少し眠れない。妻には心配しすぎだと言われる」
「はい」
「だが、逃げはしない」
涙が出そうになった。
わたくしは慌てて瞬きをする。
父がすぐに言った。
「泣くな」
「お父様」
「お前が泣くと、私も泣きそうになる」
「え」
「父親とはそういうものだ」
父の目も、少し潤んでいる。
嘘でしょう。
わたくしより先に?
「お父様、泣かないでくださいませ」
「泣いていない」
「目が」
「胃の影響だ」
「胃で涙が?」
「人間の身体は複雑だ」
無茶な理屈。
けれど、わたくしは笑ってしまった。
笑いながら、少し涙が滲んだ。
「ミリア」
「はい」
「泣くなと言っただろう」
「お父様が先に」
「私は胃だ」
「では、私も胃です」
「娘よ」
父は、困ったように笑った。
それから、ぎこちなく手を伸ばした。
頭を撫でるには、わたくしはもう大きい。
抱きしめるには、父は照れすぎる。
だから父の手は、わたくしの肩の近くで一瞬迷い、結局、机の上に置かれた紙を整えるという謎の行動になった。
不器用。
父上、本当に不器用。
でも、その迷った手だけで十分だった。
「お父様」
「何だ」
「私は、まだ決められません」
「分かっている」
「王太子妃になるのも怖いです」
「ああ」
「婚約解消も怖いです」
「ああ」
「レオンハルト様の隣へ行くことを考えるのも、とても怖いです」
「……ああ」
「でも、皆様が、私が選ぶために考えてくれているのだと分かりました」
母は地図を作ってくれた。
リタは防御壁になると言ってくれた。
父は、胃を痛めながらも逃げないと言ってくれた。
わたくしは、ひとりで選ばなくていい。
けれど、最後は自分で選ばなければならない。
「お父様」
「何だ」
「私、ちゃんと考えます。逃げずに」
「善処ではなく?」
父まで。
わたくしは目を丸くした。
「お父様まで、それを」
「リタから聞いた」
「リタ!」
扉の外から、ほんの少し気配が揺れた。
絶対に聞いている。
父は少し笑った。
「努力します、と言う方がよいらしい」
「包囲網がここまで」
「父も学習する」
「では」
わたくしは、少し背筋を伸ばした。
「努力します」
父は、満足そうに頷いた。
「よろしい」
「リタみたいです」
「そうか。あの侍女は優秀だからな」
「はい」
少し沈黙が落ちた。
穏やかで、温かい沈黙。
父はふと、机の端の胃薬を見た。
「もう一粒」
「お母様に叱られます」
「そうだな」
「夕食後に」
「予約しておく」
「胃薬も予約制に」
父は真面目に頷いた。
「娘の未来が絡む時、胃薬は計画的に使うべきだ」
「お父様、本当に」
「何だ」
「大好きです」
言ってから、少し恥ずかしくなった。
父は固まった。
完全に。
領地経営の難問にも、社交界の駆け引きにも、それなりに対応してきた公爵が、娘の一言で固まった。
「お父様?」
「……今のは」
「はい」
「胃に良い」
「胃に」
「非常に良い」
父は真顔で言った。
それから、少しだけ目を逸らす。
「もう一回言ってくれてもいい」
「お父様」
「冗談だ」
「半分本気でしょう」
「かなり」
わたくしは笑った。
父も、今度はちゃんと笑った。
その笑顔を見て、胸の奥が温かくなる。
お父様の胃は、これからも痛むだろう。
わたくしが迷うたび。
殿下から手紙が来るたび。
レオンハルト様が訪ねてくるたび。
母が新しい資料を作るたび。
でも、その胃痛の奥に、父の愛がある。
不器用で、少し情けなくて、でも逃げない愛が。
夜、自室へ戻ったわたくしは、手帳を開いた。
リタが扉のそばで待機している。
「今日は見てもいいわ」
「よろしいのですか」
「ええ。でも途中で笑わないで」
「内容によります」
「そこは笑わないと言って」
「善処します」
「信用できないわ」
わたくしはペンを取った。
『父上、胃薬を飲む。
王太子殿下は重い。
レオンハルト様も重い。
どちらも嫌な方ではなく、どちらも私を大切にしようとしてくださっているから、父上は困っている。
父としては、もっと胃に優しい青年がよかったらしい。
庭が好きで、犬を飼っていて、胃に優しい子爵家の三男。
少し笑った。』
ペン先が、少し止まる。
それから、続ける。
『父上は、自分なりに三つの道を整理してくださっていた。
王太子殿下を選んだ場合。婚約解消を選んだ場合。ヴァイスベルク公爵を選んだ場合。
どの道にも心配が書かれていた。
でも最後に、私が選ぶなら正面から立って話す。逃げない、と書いてあった。
胃は痛めるらしい。
でも、逃げない。』
視界が少し滲む。
けれど、今日は泣かない。
泣いてもいいけれど、今は書きたい。
『私は、まだ選べない。
でも、選べない私のそばに、地図を作る母上がいる。防御壁になるリタがいる。胃薬を飲みながらも逃げない父上がいる。
私は、自分を雑に扱ってよい場所にはいない。
それを、また一つ思い知った。
だから、逃げずに考える。
善処ではなく、努力する。』
書き終えると、リタが近づいてきた。
手帳を覗く。
少し読んで、静かに言う。
「お嬢様」
「なに?」
「旦那様がご覧になったら、また胃に良いと言いそうです」
「それはよかったわ」
「ただし、泣かれる可能性もございます」
「父上が?」
「はい」
「胃の影響で?」
「そのように主張なさるかと」
わたくしは笑ってしまった。
父上、胃薬を飲む。
その姿は少し情けない。
でも、わたくしにはとても頼もしかった。
王太子殿下でも、冷血公爵様でも。
わたくしが選ぶなら、父は立って話すと言った。
胃を押さえながら。
逃げずに。
それは、わたくしにとって、どんな甘い言葉よりも心強い約束だった。




