第41話 侍女リタ、最強の壁になる
リタは、ミリア・ロゼリアという令嬢を、長く見てきた。
朝、目覚めた時の機嫌。
紅茶の砂糖の数。
ドレスを選ぶ時の迷い方。
扇を持つ指先の力。
嘘をつく時に少しだけ上がる右眉。
泣きたい時ほど、礼儀正しく笑う癖。
誰よりも近くで。
誰よりも長く。
だから、リタは知っていた。
かつてのミリアが、王太子妃になることだけを見ていたこと。
今のミリアが、壁になりたいと言いながら、壁に向いていないこと。
好きなものを好きだと言う時、本当は少し怯えていること。
誰かに大切にされるたび、嬉しいより先に困ってしまうこと。
そして。
レオンハルト・ヴァイスベルク公爵の名前を聞くと、最近のミリアは、以前よりずっと人間らしい顔をすること。
嬉しいのに怒る。
怖いのに逃げない。
困ると言いながら、手帳には丁寧に記録する。
否定しながら、次に会うことを少し楽しみにしている。
侍女としては、実に手がかかる。
けれど、リタは内心で思っていた。
手がかかるくらいで、ちょうどいい。
無理に完璧な笑顔を貼りつけていた頃より、ずっといい。
その日の朝。
ミリアは鏡台の前に座りながら、ぼんやりと櫛を見つめていた。
櫛である。
普通は、見つめても答えは返ってこない。
だが、ミリアはここ数日、手帳、紅茶、枕、櫛など、あらゆるものを見つめる時間が増えていた。
考え事をしているのだ。
そして、その八割ほどはレオンハルトに関することだろうと、リタは見ている。
「お嬢様」
「はい」
「櫛と会議をなさっているところ申し訳ございませんが、髪を整えます」
「会議はしていないわ」
「では、相談でしょうか」
「櫛に相談するほど追い詰められていないわよ」
「昨日は枕に顔を埋めて『なぜ、半分の焼き菓子だけであんなに記憶に残るの』とおっしゃっておりました」
「リタ!」
「枕への相談は成立していたようでしたので、櫛も可能かと」
「聞かなかったことにして」
「難しいです」
「皆、忘れてほしいことほど覚えるわね」
「お嬢様の忘れてほしいことは、だいたい重要ですので」
リタは淡々と言い、ミリアの髪を梳き始めた。
今日のミリアの髪は少し絡んでいる。
昨夜、寝る前に何度も寝返りを打った証拠だ。
理由は、おそらくまた手帳である。
手帳には、レオンハルトからの言葉が増え続けている。
『君の好きなものを私は笑わない』
『今回は口説いたつもりがある』
『泣くなら座れ』
『怖いまま考えろ』
リタはそれを全部読んだわけではない。
読まなくても分かる。
ミリアの顔に書いてあるからだ。
「リタ」
「はい」
「私、最近少し変かしら」
「最近、ですか」
「そこを強調しないで」
「失礼いたしました」
「謝る気がないわね」
「はい」
「認めた」
ミリアは鏡越しにこちらを見た。
少しだけ頬を膨らませている。
令嬢としては子どもっぽい表情。
けれど、リタはその顔を嫌いではない。
昔のミリアは、こういう顔をあまりしなかった。
怒る時は綺麗に怒った。
笑う時は綺麗に笑った。
困る時も、困っていないふりをした。
今は、困ったら困る。
怒ったら怒る。
照れたら照れる。
そして、照れていないと言い張る。
面倒だ。
けれど、ずっとよい。
「お嬢様」
「なに?」
「変かどうかで申し上げるなら、変です」
「やっぱり」
「ですが、以前より生きておられます」
ミリアは、少し黙った。
鏡の中の目が揺れる。
「……それ、前にも似たようなことを言われた気がするわ」
「何度でも申し上げます」
「事実だから?」
「はい」
「事実禁止令を出したいわ」
「却下でございます」
「リタも却下する側なのね」
「私は常にお嬢様側です」
リタは、櫛を持つ手を止めずに言った。
ミリアが鏡越しに瞬きをする。
「……今の流れで、それを言う?」
「はい」
「急に真面目」
「侍女ですので」
「侍女って、そんな万能の言葉だったかしら」
「少なくとも私には万能でございます」
リタはミリアの髪を一房ずつ整えていく。
今日は王宮へ行く予定はない。
だから髪は複雑に結い上げず、少し柔らかくまとめるだけでよい。
けれど、適当にはしない。
ミリアは迷っている時ほど、身支度が乱れる。
身支度が乱れると、自分が乱れていることをさらに意識して、余計に落ち着かなくなる。
だからリタは、いつも通り整える。
それが侍女の仕事だ。
少なくとも、リタにとっては。
「常にお嬢様側って」
ミリアが小さく言った。
「本当に?」
「はい」
「私が王太子妃になっても?」
「はい」
「婚約を解消しても?」
「はい」
「レオンハルト様の隣へ行っても?」
「はい」
「誰の隣にも行かず、しばらく迷子になっても?」
「探します」
「そこは側にいるではなく、探すなのね」
「迷子ですので」
「迷子扱いが定着しているわ」
ミリアは少し笑った。
しかし、その笑みはすぐに消える。
「リタ」
「はい」
「もし私が、また壁になりたいと言い出したら?」
リタは、櫛を置いた。
そして、鏡越しではなく、正面からミリアを見るために少し横へ移動した。
「その時は、全力で邪魔をいたします」
「邪魔」
「はい」
「味方なのに?」
「味方だからです」
ミリアは言葉に詰まった。
リタは続ける。
「お嬢様が、本当に静かな場所で休みたいとおっしゃるなら、私はその場所を整えます。誰にも邪魔をさせません。茶も用意しますし、扉の前にも立ちます」
「ええ」
「ですが、お嬢様が傷つくのが怖いから、自分を外側へ追いやろうとなさるなら」
リタは、静かに言った。
「私は邪魔をします」
「……」
「かなり邪魔をします」
「かなり」
「はい。具体的には、まず植木鉢の陰を撤去します」
「実力行使」
「次に、手帳の『壁になる計画』の頁へ付箋を貼ります」
「何の付箋?」
「却下、と」
「強い」
「さらに、必要なら奥様へ報告します」
「それは強すぎるわ」
「旦那様にも」
「父上の胃が」
「旦那様の胃薬は補充しておきます」
「準備がいい」
ミリアが困った顔をする。
けれど、その目は少し潤んでいる。
リタは気づいていたが、指摘しなかった。
ここで指摘すれば、ミリアはまた笑ってごまかす。
だから、あえて少し軽い声で続けた。
「それでも足りなければ、セシリア様へお知らせします」
「セシリア様まで?」
「はい。『お姉様がまた壁になろうとしております』と」
「やめて。セシリア様が泣いてしまうわ」
「泣きながら止めてくださるでしょう」
「それは効くわ」
「さらにヴァイスベルク公爵様へ」
「最終兵器!」
「最初に報告してもよろしいですが」
「やめて。公爵様は本当に見つけに来るわ」
「ですので、壁には戻れません」
「リタ、あなた、私の逃げ道を全部把握しているのね」
「お嬢様の侍女ですので」
ミリアは、しばらく黙った。
それから、ぽつりと呟く。
「最強ね」
「恐れ入ります」
「褒めていないわ」
「存じております」
リタは再びミリアの後ろへ回り、髪飾りを選んだ。
今日は小さな真珠の飾りにする。
派手ではないが、顔色が明るく見える。
「リタ」
「はい」
「あなたは、いつから私のことをそんなに見ていたの?」
「最初からです」
「最初?」
「私がお嬢様付きになった日から」
ミリアは少し首を傾げた。
「私、どんな感じだった?」
「高慢でした」
「即答」
「嘘を申し上げても仕方ありませんので」
「それは……まあ、そうでしょうね」
ミリアは苦笑した。
前のミリア。
転生前の、原作の悪役令嬢に近かったミリア。
リタはその頃も、ずっとそばにいた。
「でも」
リタは、真珠の髪飾りを手にしたまま言った。
「高慢というより、必死でした」
「必死」
「はい。王太子殿下の婚約者として見られ、ロゼリア公爵家の令嬢として見られ、将来の王太子妃として見られ。お嬢様は、ずっと“そう見える自分”を作っておられました」
ミリアは黙った。
リタは続ける。
「その頃のお嬢様は、私にもあまり弱音をおっしゃいませんでした。ドレスが苦しくても、靴擦れができても、疲れていても、大丈夫だと」
「……今も言ってしまうわね」
「はい。かなり」
「そこは少し進歩したと言ってほしかった」
「進歩はしております。ですが、まだかなりです」
「容赦ない」
「お嬢様の侍女ですので」
「便利に使うわね、その言葉」
リタは、髪飾りを挿した。
「ある日、王宮から戻られたお嬢様が、突然変わりました」
ミリアの肩が少しだけ揺れた。
前世を思い出した日。
リタにすべてを話したわけではない。
だが、リタはあの日を覚えている。
「王太子殿下への執着をやめるとおっしゃり、壁になりたいとおっしゃり、殿下とグランツ卿の距離について熱弁なさいました」
「……改めて聞くと、とんでもないわね」
「はい」
「リタ、怖くなかった?」
その問いは、少しだけ幼い響きを持っていた。
リタは、鏡の中のミリアを見る。
「怖かったです」
「そうなの?」
「はい」
「あなたにも、怖いことがあるのね」
「ございます。私は人間ですので」
「便利な言葉」
「はい」
リタは少しだけ息を吐いた。
「昨日までのお嬢様とは違う方になってしまったのではないかと、少し思いました」
「……ごめんなさい」
「謝らないでくださいませ」
「でも」
「私は、怖いと思いました。けれど、同時に、少し安心もしました」
「安心?」
「はい。あの日から、お嬢様は以前よりたくさん変なことをおっしゃるようになりました」
「変なこと」
「壁、尊い、供給、解釈一致、抱き寄せイベント」
「最後のは忘れて」
「無理です」
「皆そう言う」
「ですが」
リタは、静かに言った。
「お嬢様は、以前よりずっと笑うようになりました」
ミリアは、何も言わなかった。
「以前より怒るようになりました。困るようになりました。照れるようになりました。泣くようにもなりました」
「それは……よいことなのかしら」
「よいことです」
リタは迷わず答えた。
「お嬢様が泣くと、私は心配します。ですが、泣けないお嬢様の方が、もっと心配でした」
ミリアの目が揺れた。
「リタ」
「はい」
「あなた、そんなことを思っていたの」
「はい」
「言ってくれればよかったのに」
「お嬢様は、以前なら聞かなかったでしょう」
「……そうかもしれない」
「今は聞いてくださいます」
「聞けている?」
「はい。時々、逃げますが」
「時々」
「かなり」
「戻した」
ミリアが笑う。
その笑みを見て、リタは少し安心した。
笑った。
泣きそうになりながらでも、笑った。
それなら大丈夫。
少なくとも、今は。
「お嬢様」
「なに?」
「私は、お嬢様に王太子妃になってほしいわけではありません」
「え?」
「婚約を解消してほしいわけでもありません。ヴァイスベルク公爵様を選んでほしいわけでも、選ばないでほしいわけでもありません」
「リタは、レオンハルト様推しではなかったの?」
「推し、という言葉の使い方が正しいかは分かりませんが、私は公爵様を有力候補として見ております」
「有力候補」
「はい。安全管理能力、観察眼、お嬢様への理解度、実用性、不器用な優しさ、顔の良さ」
「最後」
「重要です」
「リタも顔を見るのね」
「人間ですので」
「便利!」
ミリアが思わず笑った。
リタは澄ました顔で続ける。
「ですが、私が一番望むのは、お嬢様がご自分で選ぶことです」
空気が静かになった。
「誰かのためではなく、逃げるためでもなく。選んだ後に泣いても、怒っても、後悔しても、それでも自分で選んだと言えること」
リタは、鏡越しにミリアを見つめた。
「そして、その選択の中で、お嬢様が幸せになる努力をすることです」
「幸せになる努力」
「はい」
「努力しないと駄目?」
「駄目です」
「即答」
「幸せは、待っていれば勝手に落ちてくる菓子ではございません」
「菓子」
「落ちてきたとしても、拾わなければ食べられません」
「急に実用的な例え」
「ヴァイスベルク公爵様の影響かもしれません」
「影響が広がっているわ」
リタは少しだけ笑った。
「お嬢様が幸せになる努力をしないなら、私は全力で邪魔をします」
「何を?」
「お嬢様が不幸へ戻ろうとすることを」
ミリアの表情が止まった。
「……不幸へ戻る」
「はい」
「私、そんなことをしようとするかしら」
「します」
「また即答」
「お嬢様は、自分が傷つくことを軽く見ます。自分さえ我慢すれば丸く収まると考えます。自分の気持ちを後回しにします。誰かの幸せを見守れればそれでいいとおっしゃいます」
「……」
「それは、お嬢様にとって楽な逃げ道かもしれませんが、私はそれを幸せとは認めません」
リタの声は、強かった。
侍女としての控えめさを保ちながら、それでも揺るがなかった。
「私は常にお嬢様側です。だからこそ、お嬢様がご自分を雑に扱うなら、私はお嬢様の敵になります」
「味方なのに?」
「味方だからです」
同じ言葉。
今度は、もっと深く刺さった。
ミリアはしばらく黙った。
それから、困ったように笑う。
「怖いわね、私の侍女」
「恐れ入ります」
「褒めていないわ」
「存じております」
「でも」
ミリアは鏡の中の自分を見た。
真珠の髪飾りが、朝の光を受けて小さく光っている。
「少し、安心したわ」
「そうですか」
「ええ。私が間違った方向へ逃げようとしたら、あなたが止めてくれるのね」
「止めます」
「かなり?」
「全力で」
「やっぱり怖い」
「お嬢様には、そのくらいでちょうどよろしいかと」
ミリアは笑った。
今度は、ちゃんと笑った。
リタは、その笑顔を鏡越しに見て、胸の奥で静かに息をつく。
よかった。
今日も笑えた。
その時、扉が叩かれた。
ロゼリア公爵夫人の侍女が顔を出す。
「お嬢様、奥様がお茶にお誘いです。リタも同席するようにとのことです」
「私も?」
リタが少し目を瞬く。
ミリアはすぐに言った。
「お母様、何か企んでいるわね」
「奥様ですので」
「万能の母」
ミリアは立ち上がった。
リタがドレスの裾を整える。
その手つきは、いつも通り丁寧だった。
廊下を歩きながら、ミリアがぽつりと言う。
「リタ」
「はい」
「もし私が本当に幸せになれたら、あなたも嬉しい?」
リタは、少しだけ歩調を緩めた。
それから、静かに答えた。
「嬉しいです」
「どれくらい?」
「旦那様の胃薬が一ヶ月不要になるくらいには」
「それはかなりね」
「はい」
「でも、父上の胃薬は別の理由で増えそうだけれど」
「ヴァイスベルク公爵様を選ばれた場合ですね」
「まだ選ぶとは」
「まだ、ですね」
「リタ」
「はい」
「最近、あなたも逃げ道を塞いでくるわね」
「最強の壁になりますので」
ミリアは足を止めた。
「最強の壁?」
「はい」
リタは、一礼するように少し頭を下げた。
「お嬢様が壁になりたいとおっしゃるなら、私が代わりになります」
「あなたが?」
「はい。お嬢様を傷つけるものと、お嬢様がご自分を傷つけようとする癖。その前に立つ壁に」
ミリアは、言葉を失った。
リタは続ける。
「ただし、観測用の壁ではございません。防御壁でございます」
「防御壁」
「はい。かなり頑丈です」
「でしょうね」
「お嬢様が幸せになる邪魔をするものは、主人であるお嬢様ご自身であっても止めます」
「……リタ」
「はい」
「本当に最強ね」
「恐れ入ります」
「今度は褒めているわ」
「存じております」
その返事が少しだけ得意げで、ミリアは吹き出した。
廊下に笑い声がこぼれる。
貴族令嬢としては少し大きい笑い声だったかもしれない。
けれど、リタは注意しなかった。
今日くらいは、いい。
むしろ、これくらい笑っていてほしい。
お茶の席には、母が待っていた。
父もいた。
なぜか胃薬の小瓶も卓上にあった。
「お父様」
「予防だ」
「何の?」
「今日、妻がリタも同席させると言った時点で、何かあると思った」
母がにこにこしている。
「今日は、リタの働きを労うお茶会よ」
「私を、でございますか」
リタが珍しく少し驚いた顔をした。
母は頷く。
「ええ。あなた、最近とてもよくミリアを支えてくれているでしょう」
「私は侍女として当然のことを」
「当然のことを、当然以上にしているわ」
母は優しく言った。
「ありがとう、リタ」
リタが、ほんの一瞬だけ言葉に詰まった。
ミリアはその横顔を見て、少し驚いた。
リタが動揺している。
珍しい。
父も真面目な顔で頷いた。
「私からも礼を言う。ミリアが今こうして迷いながらも立っていられるのは、君のおかげでもある」
「旦那様」
「それと、胃薬の補充管理も助かっている」
「お父様、そこで胃薬を」
「重要だ」
リタは少しだけ目を伏せた。
「……もったいないお言葉でございます」
いつものリタなら、すぐにきれいな返答をする。
けれど今日の声は、少しだけ揺れていた。
ミリアは、何だか胸が温かくなった。
「リタ」
「はい」
「ありがとう」
リタがミリアを見る。
「いつも言っているけれど、今日は改めて言うわ」
「はい」
「あなたがいてくれて、よかった」
リタの目が、ほんの少しだけ揺れた。
けれど、すぐにいつもの顔へ戻る。
「お嬢様」
「なに?」
「泣かせるおつもりですか」
「リタも泣くの?」
「人間ですので」
その場に、柔らかな笑いが広がった。
リタは泣かなかった。
けれど、ミリアには分かった。
少しだけ、泣きそうだった。
その日の夜。
ミリアは手帳を開いた。
リタは部屋の灯りを整えながら、わざと少し離れている。
見ないふりをしてくれているのだ。
ミリアはペンを取り、ゆっくり書いた。
『侍女リタ、最強の壁になる。
リタは常に私の味方。
だからこそ、私が自分を不幸へ戻そうとしたら全力で邪魔をすると言った。
私が壁になりたいなら、代わりに防御壁になる、と。
私を傷つけるものと、私が私を傷つける癖の前に立つ、と。
強い。
怖い。
でも、とても心強い。』
少し考えて、さらに書く。
『私は、自分の幸せを後回しにしがちだ。
でも、私が幸せになる努力をしないと、怒る人がいる。
リタがいる。
お父様とお母様がいる。
セシリア様がいる。
殿下も、グランツ卿も、レオンハルト様も、きっと怒る。
私はもう、自分を雑に扱ってよい場所にはいない。』
ペンを止める。
胸の奥が少し熱い。
けれど、悪い熱ではない。
「リタ」
「はい」
「今日の手帳、見てもいいわ」
「よろしいのですか」
「ええ」
リタが近づいてくる。
手帳を覗き、静かに読む。
いつものように茶化さない。
最後まで読んでから、リタは小さく言った。
「お嬢様」
「なに?」
「一つ訂正を」
「訂正?」
「私は、怒るだけではございません」
「では?」
「必要なら、幸せになる努力をするまで、毎朝同じことを申し上げます」
「それは地味に強いわ」
「継続は力でございます」
「最強の壁、継続攻撃型なのね」
「はい」
ミリアは笑った。
リタも少しだけ笑った。
その笑顔は小さくて、控えめで、でも確かに人間らしかった。
「リタ」
「はい」
「私、幸せになる努力をしてみるわ」
言ってから、少し恥ずかしくなった。
でも、消さない。
逃げない。
リタは、静かに頭を下げた。
「はい。お側で見ております」
「見守り?」
「見張りです」
「言い方」
「必要ですので」
ミリアはまた笑った。
壁になりたかった。
誰かの幸せを外から見守るだけでよかった。
でも今、ミリアの前には壁がある。
逃げ込むための壁ではない。
守るための壁。
リタという、最強の防御壁が。
ならば、少しくらい前へ進んでもいいのかもしれない。
転びそうになったら、きっとリタが襟首を掴んででも止める。
それは少し怖い。
とても怖い。
でも、とても心強かった。




