第40話 冷血公爵様は泣き顔にも優しい
泣いた。
少しだけ。
たった一滴。
そう思いたかった。
けれど、王宮図書室から屋敷へ戻る馬車の中で、リタはわたくしの顔を見るなり、静かに言った。
「お嬢様。泣かれましたね」
「少しだけよ」
「はい」
「本当に少しだけ」
「はい」
「一滴くらい」
「三滴ほどかと」
「数えないで」
「数えたわけではございません。痕跡です」
「痕跡という言い方をやめて」
リタは向かいの席で、膝の上に手を揃えて座っている。
表情はいつも通りだ。
しかし、そのいつも通りの奥に、少しだけ心配があるのが分かった。
分かってしまった。
最近、人の気持ちを少しずつ見ようとしているせいか、リタの小さな変化も以前より分かるようになってきた気がする。
これは良いことなのか、悪いことなのか。
たぶん良いことだ。
ただし、心臓に悪いことも増える。
「リタ」
「はい」
「私、そんなにひどい顔をしている?」
「ひどくはございません」
「では?」
「泣いた後のお顔です」
「そのまま」
「はい」
リタは少し考え、言葉を選ぶように続けた。
「無理に笑っている時より、ずっとよろしいかと」
「……そう」
「はい」
馬車の窓の外では、王都の街並みが流れていく。
石畳。
馬車。
行き交う人々。
花売りの娘。
パンを抱えた少年。
世界はいつも通りだった。
わたくしが図書室で泣いたことなど、誰も知らない。
レオンハルト様に、好きなものを笑われるのが怖かったと話したことも。
「君の好きなものを私は笑わない」と言われたことも。
ハンカチを借りたことも。
「今回は口説いたつもりがある」と言われたことも。
……そこは思い出すとまた心臓が暴れる。
泣いた直後に口説かれる令嬢。
情緒の交通整理がまるで間に合わない。
「お嬢様」
「なに?」
「今、レオンハルト様のことを思い出されましたね」
「どうして分かるの」
「泣いた後のお顔から、急に困ったお顔になりました」
「顔面日記帳、今日は少し閉じてほしいわ」
「鍵がございませんので」
「誰か鍵職人を呼んで」
「顔用の鍵職人は存じ上げません」
少し笑った。
笑えた。
そのことに、自分で少し驚く。
泣いた後でも笑える。
それは、悪いことではないのだろう。
屋敷に戻ると、母が玄関広間で待っていた。
なぜ待っていたのか。
母という存在は、時々こちらの帰宅時間だけでなく、心の天気まで把握しているように見える。
「ミリア」
「お母様」
「お帰りなさい」
「ただいま戻りました」
母はわたくしの顔を見る。
何も聞かない。
ただ、少しだけ目元を柔らかくした。
「今日は、温かいものを飲みなさい」
「……はい」
「リタ、蜂蜜を少し入れてあげて」
「かしこまりました」
母は、それ以上言わなかった。
問い詰めない。
事情を急がない。
でも、見ている。
わたくしはその優しさに、また泣きそうになった。
まずい。
今日は涙腺が非常に弱い。
「お母様」
「なあに?」
「泣いていません」
「まだ何も言っていないわ」
「先に申告を」
「そう」
母はくすりと笑う。
「では、泣いたくなったら泣きなさい」
「先回りが強いです」
「母ですもの」
母という言葉も、万能になりつつある。
その後、自室で蜂蜜入りの紅茶を飲んだ。
温かい。
甘い。
優しい。
リタがわたくしの向かいに立ったまま、じっとこちらを見ている。
「リタ」
「はい」
「座って」
「よろしいのですか」
「今、立ったまま見守られると、事情聴取を受けている気分になるわ」
「では失礼いたします」
リタは椅子に腰掛けた。
侍女としては珍しい距離だが、最近はもうこういう時間が増えている。
「お話しされますか」
リタが聞いた。
やさしい声だった。
わたくしはカップを両手で包んだまま、少し黙る。
「……公爵様に、少しだけ話したの」
「はい」
「自分の好きなものを笑われるのが怖かったこと」
「はい」
「だから壁になりたかったこと」
「はい」
「笑われたら逃げられるけれど、笑わないと言われたら逃げられないこと」
リタは、黙って聞いていた。
その沈黙がありがたい。
「公爵様は、笑わないとおっしゃったわ。私の好きなものを軽く扱わない、と」
「はい」
「それで泣いたの」
「はい」
「少しだけ」
「はい」
「三滴かもしれないけれど」
「はい」
リタはそこで、ほんの少しだけ笑った。
「お嬢様」
「なに?」
「泣けてよかったのではないでしょうか」
泣けてよかった。
その言葉は不思議だった。
泣くことは、負けることだと思っていた。
弱さを見せることだと思っていた。
でも。
「……そうなのかしら」
「はい」
「泣くと、面倒だわ」
「人間ですので」
「またそれ」
「便利な言葉でございます」
「本当に」
わたくしは紅茶を一口飲む。
蜂蜜の甘さが、喉にゆっくり落ちる。
「リタ」
「はい」
「公爵様は、ハンカチを貸してくださったの」
「はい」
「慰める言葉は、あまり多くなかったわ」
「想像できます」
「でも、見すぎないようにしてくださった」
「はい」
「それが、ありがたかった」
言いながら、また胸が少し熱くなる。
レオンハルト様は不器用だ。
甘い言葉を言う時も、どこか事務連絡のようになる。
慰める時も、椅子や水や休息のような、実用から入る。
でも、そこに確かに気持ちがある。
最近、それが少しずつ分かってしまう。
分かってしまうから、逃げにくい。
その日の夕方。
わたくしが少し落ち着いた頃、再び王宮から使いが来た。
差出人は、当然のようにレオンハルト様だった。
父はちょうど廊下を通りかかり、その名を聞いた瞬間、胃のあたりへ手をやった。
「またか」
「お父様」
「いや、よい。命の恩人であり、娘を気遣ってくれているのだ。分かっている。分かっているが、胃が先に反応する」
「胃にまで反射が」
「父親とはそういうものだ」
父親という言葉も万能らしい。
母が横から言った。
「あなた、胃薬は食後にしておきなさい」
「まだ飲んでいない」
「飲もうとしたでしょう」
「……少し」
この夫婦、本当に人間味がある。
わたくしはレオンハルト様からの手紙を受け取った。
封を切る。
内容は短い。
『明日の午後、王宮西庭園の東屋へ来られるか。
昨日の話の続きではない。
ただ、泣いた後に一人で考えすぎるな。
嫌なら断れ。
ただし、断るなら休め。
ヴァイスベルク』
最後がやはり実用。
断るなら休め。
どういう条件なのか。
けれど、そこに妙な優しさがある。
「……明日、王宮西庭園の東屋へ、と」
わたくしが言うと、父の眉が動いた。
「東屋?」
「扉のない、開けた場所です。リタも同行します」
「当然だ」
父が即答した。
リタも即答した。
「当然でございます」
母だけが、にこにことしている。
「行ってらっしゃいな」
「お母様」
「昨日泣いたのでしょう?」
「なぜ」
「顔を見れば分かるわ」
「顔!」
「泣いた後に一人で考えすぎると、悪い方へ行くわ。話せる相手がいるなら、話していらっしゃい」
「でも」
「もちろん、嫌なら行かなくていいわ」
母は優しく言った。
「けれど、嫌ではないのでしょう?」
何も言えない。
母は本当に強い。
わたくしは手紙を見下ろす。
嫌なら断れ。
ただし、断るなら休め。
レオンハルト様らしい。
少し笑ってしまった。
「……行きます」
そう言うと、父は静かに胃を押さえた。
「そうか」
「お父様」
「行きなさい。父は胃と話し合う」
「胃と会議を」
「長い付き合いだからな」
母が笑い、リタも少しだけ笑った。
翌日。
王宮西庭園は、図書室とは違う静けさに包まれていた。
午後の日差しが木々の葉を透かし、地面に揺れる影を落としている。
東屋は白い石造りで、周囲には背の低い花が植えられていた。
リタは、少し離れた場所に控えている。
以前なら「七歩」だの「四歩」だの交渉していたが、最近は自然にちょうどよい距離を取るようになった。
これは信頼なのか、諦めなのか。
たぶん両方だ。
レオンハルト様は、すでに東屋にいた。
椅子に座らず、柱の近くに立っている。
いつも通り静かで、整っていて、少し近寄りがたい。
けれど今は、その近寄りがたさの奥にある不器用さを、少しだけ知っている。
「ロゼリア嬢」
「ごきげんよう、公爵様」
「顔色は昨日よりいい」
「第一声が診断です」
「必要だ」
「もう慣れました」
「そうか」
「少しだけです」
「十分だ」
レオンハルト様は椅子を示した。
「座れ」
「命令ですか」
「提案だ」
「今の調子で?」
「必要な提案だ」
わたくしは思わず笑った。
「公爵様は、提案も命令形になりがちですね」
「よく言われる」
「どなたに?」
「兄上と、君に」
「私も数に入るのですね」
「入る」
椅子に腰掛ける。
レオンハルト様も向かいではなく、斜め前の椅子に座った。
真正面ではない。
少し視線を外せる位置。
たぶん、わざとだ。
泣いた後だから。
見つめすぎないように。
この人は、こういうところがある。
分かりづらい優しさ。
「昨日の話の続きではない、と手紙にありましたが」
「ああ」
「では、今日は何のお話ですか」
「泣いた後の確認だ」
「それを世間では続きと言うのでは?」
「違う」
「違いますか」
「昨日の話を無理に掘り返すつもりはない」
レオンハルト様は、静かに言った。
「ただ、君は一人で考えすぎると、悪い方へ行く」
「否定しづらいです」
「だから呼んだ」
「ありがとうございます」
「礼はいい」
「言いたいので」
「そうか」
短い言葉。
けれど、昨日より少し柔らかい。
東屋には、紅茶ではなく温かい薬草茶が用意されていた。
香りが穏やかで、少し甘い。
「これは?」
「気持ちを落ち着ける茶だ」
「どなたの手配ですか」
「私だ」
「公爵様が?」
「何だ」
「いえ、意外で」
「兄上が、泣いた後の令嬢に濃い紅茶を出すなと言った」
「宰相様」
クラウス様。
見えないところで絶妙に関与している。
「兄上は、なぜかこういうことを知っている」
「ご経験が?」
「聞きたくない」
「兄弟らしいですね」
「やめろ」
わたくしは少し笑い、薬草茶を一口飲んだ。
優しい味だった。
身体の中に、ゆっくり温かさが広がる。
「……おいしいです」
「そうか」
「公爵様が選んだのですか」
「候補を三つ出させた」
「そして?」
「一番眠くならないものにした」
「実用」
「泣いた後に眠くなりすぎると、馬車で危ない」
「やはり実用」
でも、その実用が嬉しい。
困る。
嬉しいのが、困る。
レオンハルト様は、少し黙ってから言った。
「昨日、私は気の利いたことを言えなかった」
「え?」
「君が泣いた時」
わたくしはカップを持つ手を止めた。
「気の利いたこと?」
「ああ」
「公爵様、あれで十分でした」
「そうか」
「はい。たくさん言われたら、もっと泣いていたと思います」
「なら、言わなくてよかった」
「そういう判断なのですね」
「慰め方は、よく分からない」
レオンハルト様は、あっさり言った。
少し驚いた。
この人は、自分にできないことを隠さず言う時がある。
「分からないのですか」
「ああ」
「意外です」
「なぜ」
「何でもできそうに見えるので」
「できないことの方が多い」
「そうなのですか?」
「人の機嫌を取ること、冗談にうまく返すこと、泣いている相手に適切な言葉を選ぶこと」
レオンハルト様は指を折るように淡々と言う。
「貴族の茶会で、どうでもいい話に笑うこと。兄上のからかいを無視しきること。君の言う供給と解釈を完全に理解すること」
「最後は別枠です」
「そうか」
「でも、公爵様」
「何だ」
「泣いている相手に、適切な言葉が分からなくても、そばにいてくださったでしょう」
「いた方がよかったのか」
「はい」
「なら、次もそうする」
次。
次も泣く前提。
「公爵様、できれば次は泣かない方向で」
「泣くこと自体は悪くない」
「……」
言われると思わなかった。
レオンハルト様は、少しだけ視線を外した。
「泣くのを我慢して壊れるよりはいい」
「公爵様」
「ただし、立ったまま泣くな」
「え?」
「危ない」
「そこ?」
「泣くなら座れ」
言われた瞬間、わたくしは固まった。
泣くなら座れ。
慰めなのか、安全指導なのか。
いや、両方。
レオンハルト様らしすぎる。
わたくしは、こらえきれずに笑ってしまった。
最初は小さく。
それから、少し肩を震わせて。
「……公爵様」
「何だ」
「優しさの形が椅子ですわ」
「椅子は必要だ」
「分かります。分かりますけれど」
「泣いて倒れたら危ない」
「本当に実用的」
「悪いか」
「悪くありません」
笑いながら、目にまた少し涙が滲んだ。
でも、それは昨日の涙とは違った。
苦しくてこぼれる涙ではなく、少し安心して出てしまう涙。
泣き笑い。
なんとも忙しい。
レオンハルト様が眉を寄せた。
「また泣くのか」
「笑っているのです」
「涙がある」
「泣き笑いというものです」
「複雑だな」
「人間ですので」
「リタに似てきた」
「そうかもしれません」
少し離れた場所で、リタが咳払いをした。
聞こえていたらしい。
「リタ殿」
レオンハルト様が呼ぶ。
「はい」
「泣き笑いの場合も座らせるべきか」
「すでにお座りですので問題ございません」
「そうか」
「ただし、ハンカチはご準備を」
「ある」
レオンハルト様は、懐からハンカチを出した。
昨日と同じように、きちんと畳まれている。
「公爵様」
「何だ」
「準備がよすぎませんか」
「昨日使った」
「だから今日も?」
「必要かもしれないと思った」
駄目だ。
また胸が熱くなる。
この人は、こういうところがある。
甘い言葉ではなく、ハンカチを準備する。
泣くなら座れと言う。
薬草茶を用意する。
見つめすぎない位置に座る。
全部、分かりづらい。
でも、確かに優しい。
わたくしはハンカチを受け取らず、自分のハンカチで目元を押さえた。
「今日は自分のがあります」
「そうか」
「でも、ありがとうございます」
「ああ」
そこで、リタが一歩下がった。
「お嬢様、私は少し離れております」
「え?」
「薬草茶のお代わりを確認してまいります」
「リタ?」
「続けてくださいませ」
「何を!」
リタは、完璧な礼をして去ろうとした。
わたくしは慌てて呼び止める。
「待って、リタ。今のは、何かとても誤解を招く言い方よ」
「誤解ではないかと」
「何が?」
「大切なお話を」
「大切なお話と“続けてくださいませ”では雰囲気が違うでしょう!」
レオンハルト様が、少しだけ目元を和らげた。
笑っている。
絶対に笑っている。
「リタ殿は有能だな」
「公爵様まで!」
「距離の取り方がうまい」
「褒めないでくださいませ。リタがさらに強くなります」
リタは澄ました顔で戻ってきた。
「お嬢様、私は常に強いわけではございません」
「説得力がないわ」
「お嬢様の前では強くあらねばなりませんので」
その言葉に、少しだけ胸が詰まった。
リタは、いつも強い。
わたくしのために。
それもまた、簡単なことではないのだろう。
「……ありがとう、リタ」
「はい」
「でも、今は離れないで」
「かしこまりました」
リタは少し離れた元の位置へ戻った。
その距離が、今は安心だった。
レオンハルト様は薬草茶を一口飲み、少しだけ眉を寄せた。
「甘いな」
「公爵様には甘すぎますか」
「少し」
「私にはちょうどいいです」
「ならいい」
そういうところ。
本当に、そういうところである。
「公爵様」
「何だ」
「昨日、私は自分の好きなものを笑われるのが怖かったとお話ししました」
「ああ」
「今日は、その話をした後なのに、少しだけ軽いです」
「そうか」
「泣いたからでしょうか」
「たぶん」
「泣くのは、悪いことばかりではないのですね」
「ああ」
レオンハルト様は、少し考えてから言った。
「泣いた後も君は君だ」
胸が、静かに揺れた。
「泣いたから弱くなるわけではない。泣かなかったから強いわけでもない」
「……公爵様」
「兄上の受け売りだ」
「急に」
「私が言うと説教くさくなる」
「今のは、とてもよかったです」
「そうか」
「はい」
「なら、私の言葉にする」
そう言って、レオンハルト様は少しだけ目を伏せた。
わたくしは笑った。
「公爵様、時々素直ですね」
「時々か」
「はい」
「君も時々素直だ」
「時々」
「増やせ」
「命令形」
「提案だ」
「その提案、やはり命令形です」
言い合いながら、胸の奥は不思議と穏やかだった。
図書室で泣いた時は、胸の奥から何かが崩れるようだった。
でも今は、その崩れた場所に、少し風が通っているような気がする。
痛い。
けれど、息ができる。
「公爵様」
「何だ」
「私、また泣くかもしれません」
「ああ」
「逃げたい相手が自分だと分かったからといって、すぐ逃げなくなるわけではありません」
「知っている」
「好きなものを好きだと言うのも、誰かに望まれるのも、まだ怖いです」
「ああ」
「公爵様のことを考えるのも、かなり怖いです」
「私か」
「はい」
「なら、怖がれ」
「え?」
「怖くないふりをすると、また壁の裏へ行く」
レオンハルト様は、静かに言った。
「怖いままいろ。怖いまま考えろ。怖いまま、必要なら泣け」
「泣くなら座れ?」
「そうだ」
わたくしはまた笑った。
泣きそうになりながら、笑った。
「公爵様は、本当に不器用です」
「知っている」
「でも」
言葉が、少し震えた。
「優しいです」
レオンハルト様が黙った。
その沈黙が、少しだけ照れたように感じたのは、わたくしの思い込みだろうか。
いや。
たぶん、少しは当たっている。
最近、分かるようになってきた。
「そう見えるなら、悪くない」
「そこは、ありがとうでは?」
「……ありがとう」
言った。
レオンハルト様が、ちゃんとありがとうと言った。
わたくしは目を見開く。
「公爵様」
「何だ」
「今の、手帳に書いても?」
「なぜ」
「貴重なので」
「やめろ」
「では心に刻みます」
「それもやめろ」
「無理です」
リタが後ろで小さく笑った。
東屋の空気が、少しだけ明るくなる。
泣いた後の話なのに。
弱さの話なのに。
こんな風に笑えることが、不思議だった。
そして、ありがたかった。
帰る前、レオンハルト様はわたくしに小さな包みを渡した。
「これは?」
「菓子だ」
「公爵様が?」
「兄上が持たせた」
「宰相様」
「泣いた後は甘いものが必要らしい」
「宰相様は、どこでその知識を」
「聞きたくない」
「二度目ですね」
包みを開けると、小さな焼き菓子が入っていた。
蜂蜜と木の実の香り。
素朴だが、王宮菓子らしく上品。
「公爵様は召し上がらないのですか」
「甘い」
「一つくらい」
「君が食べろ」
「では、半分」
「なぜ」
「一人で食べると、少し寂しいので」
言ってから、少し恥ずかしくなった。
レオンハルト様は、しばらく黙った。
そして、焼き菓子を一つ取り、半分に割った。
片方をわたくしへ。
片方を自分へ。
「これでいいか」
「……はい」
半分の焼き菓子。
たったそれだけなのに、胸が温かい。
レオンハルト様は少し眉を寄せながら食べた。
「甘い」
「美味しいです」
「君にはちょうどいいのか」
「はい」
「なら、次はもう少し甘いものを用意する」
「次」
「嫌か」
「……嫌では、ありません」
言えた。
少しずつ。
本当に少しずつ。
嫌ではない。
嬉しい。
怖い。
でも、また会いたい。
その気持ちを、もう完全には隠せなくなっている。
東屋を出る時、リタがわたくしの横へ戻ってきた。
「お嬢様」
「なに?」
「泣き顔にも優しい方でしたね」
わたくしは、少し考えてから頷いた。
「ええ」
「実用的でしたが」
「ええ」
「椅子でしたが」
「そこは忘れて」
「無理です」
「皆、忘れてほしいことほど覚えるわね」
リタは小さく笑った。
馬車の中で、わたくしは手帳を開いた。
『冷血公爵様は泣き顔にも優しい。
ただし慰め方が実用的。
泣くなら座れ、と言われた。
優しさの形が椅子。
薬草茶を用意してくださった。兄上様の助言らしい。
泣いた後も君は君だ、と言われた。
怖いまま考えろ。怖いまま、必要なら泣け。
泣くなら座れ。
何度思い出しても、少し笑ってしまう。
でも、とても救われた。』
そこまで書いて、ペンを止める。
少し迷って、最後に書いた。
『私はまだ怖い。
でも、泣いても座れる場所があるなら、少しだけ前へ進めるかもしれない。
公爵様は不器用で、実用的で、心臓に悪くて、優しい。
困る。
とても困る。
でも、次に会うのが楽しみだと思ってしまった。』
書いた。
また書いた。
次に会うのが楽しみ。
もう、これはかなり危険な文章である。
リタが向かいから言った。
「お嬢様」
「見ないで」
「見ておりません」
「信じられない」
「ただ、お顔で分かります」
「今日は何の顔?」
リタは少しだけ微笑んだ。
「恋を否定する力が、昨日より弱くなったお顔です」
「リタ!」
「事実ですので」
事実禁止令は、今日も却下された。
けれど、わたくしはもう怒りきれなかった。
窓の外を流れる夕暮れを見ながら、借りたハンカチを膝の上でそっと握る。
追いついたら返す。
そう約束した。
でも、追いつく日はいつ来るのだろう。
心臓はまだ、少し先を走っている。
それでも今日は、悪くなかった。
泣いた。
笑った。
座った。
半分の焼き菓子を食べた。
そして、少しだけ思った。
弱いままでも、誰かの前にいていいのかもしれない。
壁ではなく。
ミリア・ロゼリアとして。




