第39話 逃げたい相手は、たぶん私自身です
逃げる。
その言葉は、最近わたくしの周りでやけに頻繁に使われる。
王太子殿下は「逃げないで」と言った。
レオンハルト様は「逃げたら見つける」と言った。
リタは「逃げ癖です」と容赦なく断じた。
お母様は「楽な場所ではなく、自分で選んだと思える場所を探しなさい」と言った。
グランツ卿は「遠くから拝むだけではなく、人として見ろ」と言った。
皆様、わたくしをどれほど逃亡犯扱いしているのか。
いや、否定はできない。
わたくしは、逃げている。
王太子妃という立場から。
殿下の気持ちから。
レオンハルト様の言葉から。
自分が誰かに望まれているかもしれないという現実から。
そして何より、自分自身から。
その自覚が、少しずつ胸の奥へ降り積もっていた。
その日、わたくしは王宮図書室の閲覧室にいた。
王宮図書室は、わたくしが好きな場所の一つだ。
高い天井。
壁一面の本棚。
磨かれた木の床。
紙と革とインクの匂い。
静かで、誰も大声を出さない。
それぞれが本や資料に向かい、自分の世界へ沈んでいる。
こういう場所は落ち着く。
前世でも、わたくしは本屋や図書館が好きだった。
誰かと話さなくても不自然ではない。
好きなものを手に取っても、誰かにすぐ笑われるわけではない。
それぞれの人が、それぞれの好きなものへ向かっている。
だから安心できた。
今日、王宮図書室へ来た理由は、表向きには「王太子妃教育に関する資料確認」である。
まだ王太子妃になると決めたわけではない。
むしろ、決めていないからこそ、知らずに逃げるのは違うと思った。
責任が重い。
覚悟がない。
怖い。
そう言うなら、せめて何が重く、何が怖いのか知るべきだ。
という、とても真面目な理由だった。
ただし、本音を言えば、少し一人になりたかった。
リタは当然ついて来ようとした。
しかし、閲覧室の入口で王宮司書と話している間に、別の女官からロゼリア家宛の届け物について確認を求められ、少しだけ席を外している。
完全な一人ではない。
閲覧室には司書もいるし、廊下には衛兵もいる。
だが、わたくしの周囲だけ、ぽっかりと静かだった。
机の上には、王太子妃の務めに関する古い記録。
読めば読むほど、胃が重くなる。
王宮内行事の管理。
外交使節への対応。
慈善事業の監督。
王太子の政務補佐。
王妃不在時の代行儀礼。
重い。
非常に重い。
王太子妃とは、思った以上に仕事である。
ドレスを着て微笑む飾りではない。
むしろ、微笑みながら仕事をする人だ。
前世のわたくしなら、思わず「労働環境を見直してください」と言いたくなる。
「……これは、軽く選べませんわね」
小さく呟く。
すると、後ろから低い声がした。
「今さら気づいたのか」
肩が跳ねた。
振り返る。
そこには、レオンハルト様がいた。
濃紺の礼服。
片手には数冊の資料。
相変わらず、足音が静かすぎる。
「公爵様」
「静かに」
「ここは図書室ですもの。承知しております」
「なら、驚いて大きな声を出すな」
「驚かせた方が言いますか」
「私は普通に来た」
「普通の方はもう少し存在感を出してくださいます」
「出したら邪魔だろう」
「出さなくても心臓に悪いです」
レオンハルト様は、わずかに目を細めた。
「心臓は昨日より落ち着いたか」
「なぜ昨日の延長で確認を」
「抱き寄せイベントの後遺症だろう」
「公爵様!」
閲覧室。
図書室。
静粛。
わたくしは慌てて口元を押さえた。
司書が遠くでちらりとこちらを見る。
レオンハルト様は平然としている。
なぜ、この人は爆弾を投げて自分だけ無傷なのか。
「忘れてくださいと申し上げました」
「難しいと言った」
「覚えなくてよい言葉です」
「印象に残った」
「消してください」
「無理だ」
「本当に、心臓への配慮が足りません」
わたくしが小声で抗議すると、レオンハルト様は向かいの椅子を指した。
「座っていいか」
「もう座るおつもりでしょう」
「確認はした」
「形式上だけ」
「重要だ」
「そういうところだけ礼儀正しいのですね」
レオンハルト様は椅子に腰掛け、資料を机の端に置いた。
司書がこちらへ近づきかけたが、レオンハルト様が軽く目で合図すると、何かを察して下がっていく。
権力。
いや、静かな圧。
わたくしは目の前の資料に視線を戻そうとした。
だが、無理だった。
向かいにレオンハルト様がいる。
それだけで、文字の意味が脳に入ってこない。
「王太子妃教育の資料か」
「はい」
「読む気になったのか」
「逃げるにしても、知らずに逃げるのは違うと思いまして」
「いい傾向だ」
「褒められました?」
「褒めた」
「素直に言われると、それはそれで困ります」
「面倒だな」
「自覚しております」
わたくしは資料の端を指で押さえた。
「思った以上に重いですね。王太子妃という立場は」
「軽いと思っていたのか」
「軽いとは思っておりませんでした。ただ、こうして実務記録として並ぶと、逃げたくなるくらい重いです」
「逃げたいのか」
その声が、少しだけ静かになった。
いつものからかいではない。
問いだった。
「……はい」
わたくしは正直に答えた。
「逃げたいです」
レオンハルト様は黙っている。
責めない。
だから続けられる。
「王太子妃になることからも、婚約解消を選ぶことからも、公爵様の言葉からも」
「私からもか」
「はい」
言ってしまった。
胸が、少し痛む。
レオンハルト様の目が、わずかに動いた。
「私から逃げたいのか」
低い声。
静かな問い。
ここで、違いますと笑えばよかったのかもしれない。
でも、もう上手く笑えなかった。
「逃げたいです」
正直に言った。
「ですが、逃げたくないです」
「どちらだ」
「どちらもです」
「面倒だな」
「人間ですので」
リタのようなことを言ってしまった。
レオンハルト様は、少しだけ目を細める。
「リタに似てきたな」
「公爵様やリタに囲まれた結果です」
「悪くない」
「そうでしょうか」
少しだけ空気が緩んだ。
けれど、核心は残ったままだった。
レオンハルト様は机の上の資料を見た。
王太子妃の務め。
婚約者としての責任。
そして、わたくしの手元の手帳。
「では聞く」
「はい」
「君は、私から逃げたいのか。それとも、自分の気持ちから逃げたいのか」
息が止まった。
図書室の空気が、急に重くなる。
紙の匂いも、窓から入る光も、遠くの司書の足音も、全部遠くなった。
私から逃げたいのか。
自分の気持ちから逃げたいのか。
その問いは、まっすぐ胸の奥へ届いた。
「……公爵様は」
声がかすれた。
「どうして、いつもそういうところを見つけるのですか」
「君が隠すからだ」
「隠しているものを見つけないでくださいませ」
「嫌なら、隠し方を変えろ」
「それは助言ですか?」
「警告だ」
「ひどい」
ひどい。
けれど、少し笑えた。
笑ったのに、胸の奥は苦しかった。
逃げたい相手。
レオンハルト様から逃げたい。
それは本当。
でも、レオンハルト様本人が怖いわけではない。
あの人の隣に立つかもしれない自分が怖い。
あの人に望まれているかもしれない自分が怖い。
あの人を、ただの冷血公爵でも、攻略対象でも、隠しキャラでもなく、一人の男性として見始めている自分が怖い。
つまり。
「……逃げたい相手は、たぶん私自身です」
ぽつりと、言葉が落ちた。
レオンハルト様は何も言わなかった。
ただ、聞いている。
その沈黙がありがたかった。
「私は、自分の好きなものを、ずっと大切にしてきました」
前世のことは言えない。
異世界転生だとか、乙女ゲームだとか、前世の会社員だとか、腐女子だったとか。
それを全部そのまま言うわけにはいかない。
けれど、全部を嘘にしなくてもいい。
気持ちは本物だから。
「でも、人に話すのは苦手でした」
「なぜ」
「笑われることがあったからです」
思い出した。
前世の職場。
休憩室の机。
誰かがスマホを覗き込み、「またそういうの見てるの?」と笑った声。
「現実の恋愛しなよ」
「いい年して」
「そういう妄想って何が楽しいの?」
軽い言葉。
悪意というほどではなかったかもしれない。
相手は冗談のつもりだったのかもしれない。
でも、その軽さが痛かった。
好きなものを、土足で踏まれた気がした。
好きだと口にする自分まで、軽く扱われた気がした。
「笑われると、好きなものまで傷ついたような気がしました」
わたくしは、机の上の手帳に視線を落とす。
「本当は、ただ好きなだけでした。誰かを傷つけたいわけでもなく、現実から完全に逃げたいわけでもなく。ただ、その好きなものがあるから、嫌な日も少し生きられた」
声が震えた。
自分でも驚いた。
こんなに奥に残っていたのか。
「でも、笑われると、好きでいる自分が恥ずかしくなりました。大切なものを大切だと言うのが怖くなりました」
レオンハルト様は、黙っている。
真剣な顔で。
わたくしは続ける。
「だから、外側にいたかったのです。誰かの幸せを見守るだけなら、自分が選ばれるかどうかを考えなくていい。自分の好きなものを差し出して、笑われることもない」
「壁か」
「はい。壁です」
今まで何度も言った言葉。
けれど今日は、少し違って聞こえた。
壁。
それは美しい比喩ではない。
逃げ場だった。
安全地帯だった。
寒いけれど、傷つきにくい場所。
「殿下とグランツ卿の関係を尊いと思って見ている間は、私は安全でした。セシリア様を可愛いと思って崇拝している間も、安全でした」
「私の場合は」
レオンハルト様が静かに聞いた。
わたくしは、少し息を詰めた。
「公爵様は、安全ではありません」
「危険か」
「はい」
即答した。
レオンハルト様の眉が、少し動く。
「私が危険なのか」
「公爵様が、というより、公爵様が私を見てくることが危険です」
「見ると危険なのか」
「はい。逃げ道を見つけられてしまいますから」
わたくしは、自分の手を見つめた。
「公爵様は、私がごまかしていると見つけます。笑って逃げようとすると止めます。壁になりたいと言っても、壁にしては目が離せないとおっしゃいます」
「言ったな」
「言われました。かなり覚えています」
「そうか」
「それに」
言葉が詰まる。
ここから先は、さらに怖い。
「公爵様は、私の好きなものを笑わないと言ってくださいました」
「ああ」
「それが、怖いのです」
レオンハルト様が、少しだけ目を細めた。
「笑わない方が怖いのか」
「はい」
「なぜ」
「笑われたら、逃げられます」
言葉にして、自分で胸が痛くなった。
「やっぱり分かってもらえなかった。やっぱり私は外側でいい。そう思えるから」
でも。
「笑わないと言われたら、逃げられません」
レオンハルト様は何も言わない。
「好きなものを、好きなまま持っていていいと言われたら。私自身を笑わないと言われたら。自分が何を望んでいるのか、ちゃんと見なければならなくなる」
視界が少し滲む。
泣きたいわけではない。
でも、胸の奥から何かがこみ上げてくる。
「だから怖いのです。公爵様が怖いのではなく、公爵様の前で逃げられなくなる自分が怖い」
言い終えた。
図書室は、相変わらず静かだった。
遠くでページをめくる音がする。
誰かが棚から本を抜く音がする。
世界は何事もなく続いているのに、わたくしの中では大きなものが崩れた気がした。
レオンハルト様は、しばらく黙っていた。
やがて、低い声で言った。
「君の好きなものを、私は笑わない」
胸が震えた。
「以前も言いました」
「ああ。何度でも言う」
「心臓に悪いです」
「それでも言う」
彼は、まっすぐこちらを見ていた。
「君が何を好きでも、私は笑わない」
「……公爵様」
「理解できないことはある」
「はい」
「君の言う尊い、解釈一致、供給、抱き寄せイベント。そのあたりは、今でも半分以上分からない」
「抱き寄せイベントは忘れてください」
「無理だ」
「そこは即答しなくていいです」
「だが、分からないからといって笑う理由にはならない」
涙が出そうになった。
やめてほしい。
図書室で泣くわけにはいかない。
王宮司書に余計な心配をかける。
「好きなものを大切にする君を、私は軽く扱わない」
レオンハルト様は、少しだけ声を落とした。
「それが君を作っているものなら、なおさらだ」
駄目だった。
一滴だけ、涙が落ちた。
わたくしは慌てて顔を伏せる。
「すみません」
「謝るな」
「癖で」
「知っている」
レオンハルト様がハンカチを差し出した。
白い、きちんと畳まれたハンカチ。
慰め方が分からない人の、精一杯の実用品。
わたくしは、それを受け取った。
「ありがとうございます」
「礼も今はいらない」
「でも、言いたいので」
「そうか」
短いやり取り。
その短さが、今はありがたかった。
長々と慰められたら、たぶんもっと泣いてしまう。
レオンハルト様は、少しだけ視線を外した。
こちらを見すぎないようにしてくれているのだと分かった。
不器用。
本当に不器用。
でも、優しい。
「公爵様」
「何だ」
「私は、逃げ癖があります」
「知っている」
「即答」
「事実だ」
「今日は反論しません」
「珍しい」
わたくしは、ハンカチで目元を押さえながら小さく笑った。
「でも、少しずつ逃げないようにしたいです」
「ああ」
「殿下のことも、グランツ卿のことも、セシリア様のことも、リタや父母のことも。そして、公爵様のことも」
言った瞬間、心臓が跳ねた。
でも、逃げずに続ける。
「自分がどう思っているのか、ちゃんと見たいです」
レオンハルト様は、こちらを見る。
静かに。
「私のこともか」
「はい」
「怖いのに」
「怖いからこそ、です」
言えた。
わたくしは少しだけ息を吐いた。
「逃げたい相手が私自身なら、どこへ逃げても同じですもの」
「そうだな」
「公爵様は、逃げたら見つけるとおっしゃいました」
「ああ」
「でも、もし逃げる相手が私自身なら」
わたくしは、少しだけ笑った。
「見つけるのが大変ですね」
「大変だろうな」
「諦めますか?」
「諦めない」
即答だった。
また。
この人は、迷わない。
「私は、君を見つける」
声が低い。
静か。
けれど、確かだった。
「君が自分から逃げても。自分を軽く扱っても。壁の裏へ戻ろうとしても」
「公爵様」
「見つける」
「脅しですか」
「半分」
「残り半分は?」
「私の望みだ」
心臓が、強く鳴った。
望み。
レオンハルト様の望み。
わたくしを見つけること。
逃げたわたくしを、壁の裏へ戻ろうとするわたくしを。
また見つけること。
「……本当に、天然で口説かないでください」
「今回は口説いたつもりがある」
時間が止まった。
今。
何と。
「公爵様」
「何だ」
「今、何と」
「今回は口説いたつもりがあると言った」
「なぜ図書室で!」
「場所は関係あるのか」
「あります! かなりあります! ここは静粛な場で、わたくしは今、泣いた直後で、しかもハンカチをお借りしていて、心臓が」
「落ち着いていないな」
「落ち着く要素がありません!」
小声で叫ぶという、器用なのか不器用なのか分からない状態になった。
司書がまたちらりと見た。
わたくしは即座に淑女の微笑みを作る。
レオンハルト様が言った。
「その笑顔は不自然だ」
「図書室の秩序を守るための笑顔です」
「なら仕方ない」
「そこで納得するのですね」
涙が引っ込んだ。
完全に引っ込んだ。
恐ろしい男である。
泣かせて、安心させて、口説いて、混乱させる。
情緒が追いつかない。
「公爵様」
「何だ」
「今のは、記録に残してよろしいでしょうか」
「手帳にか」
「はい」
「好きにしろ」
「後悔しませんか」
「しない」
「本当に?」
「ああ」
「では書きます。今回は口説いたつもりがある、と」
「正確に書け」
「正確性を求めるところですか?」
「誤解されるよりいい」
誤解。
誰に。
わたくしに?
未来のわたくしに?
いや、たぶん両方。
わたくしは手帳を開いた。
図書室で泣いた直後に、本人の前で本人の口説き文句を記録する令嬢。
この状況は何なのだろう。
でも、書いた。
『逃げたい相手は、たぶん私自身です。
公爵様に言われた。
私から逃げたいのか、自分の気持ちから逃げたいのか。
私は、自分の好きなものを笑われるのが怖かった。
だから壁になりたかった。
笑われたら逃げられる。でも、笑わないと言われたら逃げられない。
公爵様は、君の好きなものを私は笑わない、と言った。
好きなものを大切にする私を軽く扱わない、と言った。
私は泣いた。少しだけ。
ハンカチを借りた。
その後、公爵様は「今回は口説いたつもりがある」と言った。
図書室で。
心臓に悪い。
でも、嬉しかった。』
最後の一文を書いて、固まった。
嬉しかった。
書いた。
ついに。
逃げずに書いた。
レオンハルト様は何も言わない。
でも、視線は手帳ではなく、わたくしの顔にあった。
「書けたか」
「はい」
「消すな」
「なぜ分かるのですか」
「消そうとした顔をした」
「顔面日記帳問題が、王宮図書室でも」
「便利だな」
「便利ではありません」
わたくしは手帳を閉じた。
その上に、借りたハンカチをそっと置く。
「洗ってお返しします」
「返さなくていい」
「それは困ります」
「なぜ」
「思い出が増えます」
「いいのではないか」
「よくありません。処理が追いつきません」
「なら、追いついたら返せ」
「公爵様」
「何だ」
「また心臓に悪い言い方を」
「今のは口説いていない」
「だから天然!」
レオンハルト様は、ほんの少しだけ笑った。
その笑顔を見て、胸がまた熱くなる。
怖い。
でも、嬉しい。
嬉しい。
そう思えたことが、少し怖くて、少し誇らしかった。
その時、閲覧室の入口にリタが戻ってきた。
彼女はわたくしの顔を見て、すぐに何かを察した。
目元。
ハンカチ。
向かいにいるレオンハルト様。
手帳。
情報量が多すぎる現場である。
リタは一瞬だけ黙り、そして深く一礼した。
「お嬢様。お邪魔でしたでしょうか」
「邪魔ではないわ!」
声が少し大きくなった。
司書が三度目の視線を送ってきた。
今日は図書室に向いていない。
リタは静かに近づき、わたくしの目元を見た。
「泣かれましたね」
「少しだけ」
「そうですか」
「怒らないの?」
「怒る場面ではなさそうですので」
リタの声は優しかった。
その優しさに、また泣きそうになる。
今日は涙腺が危ない。
「ただし」
「ただし?」
「寝不足になるほど反芻するのはおやめくださいませ」
「まだ何も」
「今夜、絶対になさいます」
否定できない。
レオンハルト様が静かに言った。
「寝ろ」
「公爵様まで」
「泣いた後は疲れる」
「実用的な優しさ」
「悪いか」
「悪くありません」
わたくしは、少し笑った。
「悪くないのです。そこが困るのです」
リタが、わずかに口元を緩めた。
「お嬢様」
「なに?」
「逃げたい相手がご自身だと分かったなら、今日は一歩進まれたのでは?」
「一歩?」
「はい。逃げる方向が分かれば、戻る方向も少し分かります」
リタの言葉は、いつも不意に胸へ来る。
「戻る方向」
「はい」
わたくしは、手帳を抱えた。
自分から逃げていた。
でも、自分のところへ戻ることもできるのかもしれない。
好きなものを好きだと言う自分。
尊いと悶える自分。
誰かに望まれるのが怖い自分。
でも、嬉しいと思ってしまう自分。
全部、自分。
壁の裏へ押し込めなくてもいいのかもしれない。
「……そうね」
わたくしは頷いた。
「今日は、少し進めた気がします」
レオンハルト様が言った。
「なら、今日はそれで十分だ」
「公爵様」
「何だ」
「今日は優しいですね」
「いつも優しいつもりだ」
「ご自覚が?」
「ある」
「リタ」
「はい」
「どう思う?」
「分かりづらい優しさかと」
「リタ殿は正確だな」
「恐れ入ります」
リタとレオンハルト様が、なぜか少し通じ合っている。
わたくしは目を細めた。
「お二人、最近妙に意思疎通が早くありませんか」
「お嬢様に関する安全確認では、目的が一致しておりますので」
「私は管理対象なの?」
「危険物ではないが、目を離すと危ない」
「公爵様!」
そのやり取りで、ようやくいつもの空気が戻った。
涙の残る重さは、完全には消えない。
けれど、少し軽くなった。
図書室を出る時、レオンハルト様はわたくしの手帳を見て言った。
「今日書いたことは、消すな」
「分かっています」
「本当に?」
「本当に」
「ならいい」
「公爵様」
「何だ」
「ハンカチは、追いついたら返します」
レオンハルト様は、少しだけ目元を和らげた。
「ああ。待っている」
また心臓に悪い。
でも、今日は言わないでおいた。
代わりに、頷いた。
「はい」
逃げたい相手は、たぶん私自身です。
でも、逃げるばかりではなく。
少しずつ、自分のところへ戻っていきたい。
好きなものを好きだと言える自分へ。
笑われることを怖がりながらも、それでも大切だと言える自分へ。
そして、誰かの言葉を嬉しいと認められる自分へ。
道は、まだ分からない。
けれど、今日少しだけ。
壁の裏から、足を出せた気がした。




