第38話 騎士団長様、解釈一致です
ダリオ・グランツという人は、実に困る。
いや、困るというのは失礼かもしれない。
だが、困る。
とても困る。
なぜなら、こちらが勝手に「こうであってほしい」と思っていた解釈を、本人が真正面から上回ってくるからだ。
推しとは時に、こちらの解釈を軽々と超えてくる。
前世でもそうだった。
このキャラはこういう子だろう、と思っていたところへ、原作の新規供給が突然とんでもない過去回想を投げ込んでくる。
読者は崩れ落ちる。
考察勢は夜通し語る。
翌朝の仕事など知らない。
今、それが現実で起きている。
しかも、供給元は本人である。
逃げ場がない。
「お嬢様」
王宮から戻った翌日の朝、リタがわたくしの手帳を見て言った。
「昨日から、グランツ卿についての記述が増えております」
「見ないでと言う気力もなくなってきたわ」
「では、見てもよろしいということで」
「それは違うわ」
「ですが、開いたまま机に置かれておりました」
「心が開いているのよ」
「手帳も開いております」
「閉じます」
わたくしは慌てて手帳を閉じた。
だが、リタの目はもう読んでいる。
この侍女は、本当に視界が広すぎる。
手帳には、昨夜から何度も同じ言葉を書いていた。
『俺たちは俺たちだ。』
ダリオ様の言葉。
短くて、不器用で、真っ直ぐで。
あまりにも本人らしかった。
「リタ」
「はい」
「推しを人間として見るのは難しいわ」
「昨日もおっしゃっておりました」
「今日も難しいの」
「難易度は一日で下がりませんので」
「正論」
「はい」
わたくしは窓辺へ向かった。
朝の光が庭の芝に落ちている。
花壇の花は穏やかに揺れ、ロゼリア公爵邸は今日も平和そうだった。
なのに、わたくしの頭の中は忙しい。
ユリウス殿下とダリオ様。
二人を眺める時、わたくしはずっと「尊い」という言葉で包んできた。
それは間違いではない。
尊いものは尊い。
殿下が少し疲れた顔をした時、ダリオ様が黙ってそばに立つ。
殿下が冗談を言うと、ダリオ様が真面目に返す。
ダリオ様が「殿下」と呼ぶ声の硬さの中に、長年の信頼が滲む。
それを見て胸が熱くなるのは、止められない。
けれど、それを“わたくしが見たい尊さ”だけにしてしまったら、そこにいる二人の苦しさや選択を見落とす。
昨日、ダリオ様は言った。
俺が殿下を支えるのは、君のためではない。
俺が選んだことだ。
それは、わたくしの胸にずっと残っていた。
その日の午後。
王宮から、再び呼び出しがあった。
今度は王太子殿下からではなく、騎士団からだった。
正確には、ダリオ様からの伝言である。
『先日の訓練でロゼリア嬢が指摘した殿下の癖について、整理したい。
もし都合がよければ、短時間で構わないので意見を聞かせてほしい。
場所は騎士団の控え室ではなく、王宮西回廊横の小広間とする。
リタ殿の同行可。
ダリオ・グランツ』
リタ殿。
ダリオ様がリタに敬称をつけている。
真面目。
実に真面目。
「お嬢様」
リタが手紙を見ながら言った。
「今、変なところに感動されましたね」
「リタ殿」
「そこですか」
「グランツ卿らしいわ」
「お嬢様は、推しの細部でよく寿命を延ばされますね」
「寿命は延びたり縮んだりしているわ」
「忙しい寿命でございます」
まったくだ。
けれど、これは断れない。
ダリオ様から意見を求められている。
訓練の役に立つかもしれない。
壁としてではなく、ミリア・ロゼリアとして。
怖いが、行くしかない。
王宮西回廊横の小広間は、静かな場所だった。
大きな窓から午後の光が入り、中央には丸卓。
壁際には訓練用の木剣ではなく、資料棚が並んでいる。
騎士団の控え室ほど武骨ではなく、応接室ほど華やかでもない。
ちょうど、真面目な話をするにはよい場所。
リタとともに部屋へ入ると、ダリオ様はすでに来ていた。
卓の上には紙が数枚。
訓練の記録だろうか。
細かい文字で、足運びや打ち込みの順が書かれている。
「ロゼリア嬢。リタ殿」
ダリオ様は立ち上がり、礼をした。
「来てくれて助かった」
「こちらこそ、お役に立てるか分かりませんが」
「前回、すでに役に立った」
推しから実用評価、再び。
心の中で何かが倒れた。
だが、今日は倒れている場合ではない。
わたくしは椅子に座り、リタは少し離れた位置へ控えた。
ダリオ様は紙をこちらへ向ける。
「殿下の足運びについて、君が言ったことを整理した」
「まあ……本当に書き留めてくださったのですね」
「必要だったからな」
「必要」
「殿下は、自分で気づいていない癖がある。俺も長く見ているせいで、逆に見落とすことがある」
それは意外だった。
「グランツ卿でも、見落とすことが?」
「ある」
即答だった。
「長く見ている相手ほど、分かったつもりになる」
胸が、少し痛んだ。
分かったつもり。
それは、わたくしにも刺さる言葉だった。
「……分かったつもり」
わたくしが呟くと、ダリオ様はこちらを見た。
「何か思うところがあるのか」
「ありすぎます」
「そうか」
「はい」
ダリオ様は、責めるでもなく、ただ頷いた。
こういうところが本当にダリオ様である。
急かさない。
でも、逃がしすぎもしない。
「わたくしは、お二人のことを分かったつもりになっていたのだと思います」
自然と口から出た。
「殿下にはグランツ卿が必要。グランツ卿は殿下を支える。そういう関係が尊い。そこまでは、たぶん間違っていないのかもしれません。でも、それを見ているうちに、分かった気になっていたのです」
「俺たちを?」
「はい。殿下が何を望んでいるのか、グランツ卿が何を選んでいるのか、その苦しさや面倒さを知らないまま、綺麗な部分だけを見ていたのだと思います」
ダリオ様は、少し考えるように黙った。
そして、紙の端を指で押さえながら言う。
「綺麗な部分だけではないな」
「はい」
「殿下は、面倒な人だ」
え。
思わず顔を上げた。
ダリオ様は真顔だった。
「殿下が、面倒」
「ああ」
「グランツ卿がそうおっしゃると、衝撃が」
「事実だ」
また事実派。
しかも、殿下への評価が容赦ない。
「殿下は、周囲に合わせるのがうまい。笑うべき時に笑える。怒るべき時に怒りを飲み込める。王太子としては必要なことだ」
「はい」
「だが、その分、自分が何を望んでいるのか後回しにすることがある。誰かを傷つけないために、自分が傷つく方へ寄せることもある」
「……」
「そして、そういう時に限って、本人は平気な顔をする」
ダリオ様の声は、淡々としていた。
けれど、その淡々の中に、長年の苛立ちと心配が滲んでいる気がした。
「グランツ卿は、殿下に腹が立つこともあるのですか」
「ある」
即答。
今日、何度目かの即答。
「かなりある」
「かなり」
「勝手に一人で抱え込む。こちらが聞いても、うまく笑ってごまかす。王太子だから仕方ないと言う。仕方ないで済ませるなと言うと、君は厳しいねと笑う」
あ。
分かる。
殿下、言いそう。
とても言いそう。
「それは……確かに、少し腹が立つかもしれません」
「だろう」
「はい」
「だから、時々強引に木剣を持たせる」
「木剣」
「ああ。言葉で吐かないなら、身体を動かせば多少は出る」
不器用。
あまりにも不器用。
だが、ダリオ様らしい。
慰めの言葉ではなく、木剣。
抱きしめるのではなく、打ち込ませる。
それは恋愛ではない。
甘い関係でもない。
けれど、確かに支えだ。
「グランツ卿」
「何だ」
「解釈一致です」
出た。
言ってしまった。
しかし、もう仕方ない。
今のは、あまりにも解釈一致だった。
ダリオ様は眉を寄せる。
「その言葉、昨日も聞いた」
「はい」
「良い意味だったな」
「最高に良い意味です」
「そうか」
ダリオ様は真剣に頷いた。
受け入れられた。
推し本人に「解釈一致」が通じつつある。
これはこれで問題かもしれない。
リタが後ろで小さく咳払いをした。
たぶん「お嬢様、布教が進んでおります」という意味だ。
わたくしは少し姿勢を正した。
「ですが、今のは本当に……その、恋愛とか、そういうものではなく」
言ってから、しまったと思った。
本人に何を言っているのか。
ダリオ様は目を瞬いた。
「恋愛?」
「あ、いえ、違います。違うというか、その、わたくしが勝手にお二人の関係を尊いものとして見ていた時、そこに余計な意味を重ねていたかもしれないと反省しておりまして」
「余計な意味」
「はい。ですが、今のお話を聞いて、少し分かった気がします。グランツ卿の殿下への忠義は、恋愛ではなく、ただの義務でもなく、人生をかけた選択なのだと」
言葉にした瞬間、胸の中が静かになった。
そう。
それだ。
わたくしが見ていた尊さの正体は、恋愛に収まるものではない。
主従。
友情。
幼なじみ。
忠義。
面倒を見ているようで、支えられてもいる関係。
どれか一つではない。
もっと大きくて、面倒で、人間くさいもの。
「人生をかけた選択」
ダリオ様が、ゆっくり繰り返した。
「少し大げさだな」
「そうでしょうか」
「俺は、そんな立派なことを考えてきたわけではない」
「そうなのですか?」
「ああ」
ダリオ様は、少し視線を逸らした。
「最初は、ただ放っておけなかっただけだ」
その声が、少しだけ若い頃の彼を思わせた。
「殿下は、周囲から見られていた。期待されていた。褒められてもいた。だが、妙に一人だった」
「一人」
「ああ。誰かの前にいるのに、一人で考えていた。子どものくせに、大人の顔をしようとしていた」
ダリオ様は、少し眉を寄せる。
「それが腹立たしかった」
「腹立たしかったのですか」
「子どもなら子どもらしく怒ればいい。嫌なら嫌と言えばいい。なのに殿下は、分かったような顔で頷く」
「……」
「だから木剣を渡した」
木剣。
何度聞いても、ダリオ様らしい。
「言葉で言えないなら、打て。俺はそう思った」
「殿下は打たれたのですか」
「ああ。最初はひどかった」
「ひどかった?」
「泣きながら振るから、足も手もめちゃくちゃだった」
殿下の泣きながら木剣。
情報が重い。
供給という言葉で消費してはいけない。
そう分かっていても、胸が震える。
「俺も慰め方が分からなかった。だから、受けた。殿下が疲れて座り込むまで」
「……それは」
何と言えばいいのか分からない。
美しい、では少し軽い。
尊い、でもまだ足りない。
あまりにも不器用で、人間くさい。
「それからですか。殿下を支えると決めたのは」
「いや」
ダリオ様は首を横に振った。
「そんな綺麗に一度で決めたわけではない」
「違うのですか」
「ああ。何度も面倒だと思った。何度も腹が立った。王太子殿下のそばにいるということは、俺自身も見られるということだ。失敗すれば殿下にも響く。自由ではない」
意外だった。
ダリオ様が、自分の不満を口にするのは珍しい気がした。
けれど、その言葉には嘘がなかった。
「逃げたくなったこともありますか」
思い切って聞いた。
ダリオ様は、少しだけ考えた。
「ある」
正直な答えだった。
「若い頃、地方騎士団への配属を希望しようか考えたことがある」
「グランツ卿が?」
「ああ」
「殿下はご存じですか」
「たぶん知っている」
「たぶん?」
「俺が言う前に、殿下が『君は王都に縛られる必要はない』と言った」
ユリウス殿下らしい。
そして、とても痛い。
「それで?」
「腹が立った」
「腹が立ったのですか」
「ああ。勝手にこちらの逃げ道を整えようとしたからだ」
ダリオ様の声に、少しだけ昔の怒りが混じった。
「俺は、殿下に命じられたからそばにいたわけではない。王家に言われたからでもない。俺が選んで立っていた。それを、殿下は自分のせいで俺を縛っていると思っていた」
「……」
「だから言った。俺の立つ場所を、お前が勝手に決めるな、と」
強い。
あまりにも強い。
そして。
「解釈一致です」
また言ってしまった。
仕方ない。
これは仕方ない。
ダリオ様が少し困った顔をする。
「またか」
「またです」
「今のも良い意味か」
「最高に良い意味です」
「そうか」
ダリオ様は、諦めたように頷いた。
わたくしは胸を押さえた。
「申し訳ありません。でも、今のお話は、あまりにもグランツ卿です」
「俺は俺だ」
「はい。だからです」
ダリオ様は、少し分からなそうな顔をした。
でも、無理に分かったふりはしなかった。
そこもまた、彼らしい。
「それで、王都に残ると決めたのですね」
「ああ」
「殿下のために」
「殿下のためでもある」
「でも、それだけではない?」
「俺が、そこに立つと決めたからだ」
短い言葉。
でも、重い。
忠義とは、ただ従うことではない。
恋愛とは違う。
依存とも違う。
相手のため、と言いながら自分の選択を消すものでもない。
自分が選んで、何度も選び直して、その場所に立ち続けること。
それが、ダリオ様の忠義なのだ。
「グランツ卿」
「何だ」
「わたくし、少し恥ずかしくなりました」
「なぜ」
「お二人の関係を、綺麗な絵のように見ていたからです」
「絵?」
「はい。殿下とグランツ卿が並んでいる。それだけで尊い。そう思っていました」
「今も思っているのか」
「思っています」
正直に答えた。
ダリオ様は、少し眉を上げた。
「そこは変わらないのか」
「変わりません」
「そうか」
「でも、その尊さの中に、面倒さや怒りや選び直しがあると知りました」
わたくしは、自分の手元を見る。
「綺麗なだけではないからこそ、もっと大切に見なければいけないのだと思います」
ダリオ様は、少し黙った。
そして、低く言った。
「君は、時々よく分からないことを言う」
「はい」
「だが、今のは少し分かる」
胸が温かくなった。
「ありがとうございます」
「また礼か」
「すみません」
「謝りも多い」
「本当に癖ですね」
自分でも笑ってしまう。
ダリオ様も、ほんの少し口元を緩めた。
その時、扉の外から軽いノックがあった。
「入ってもいいかな」
ユリウス殿下の声だった。
わたくしは思わず背筋を伸ばした。
ダリオ様はすぐに立ち上がる。
「殿下」
扉が開き、ユリウス殿下が顔を出した。
今日は政務用の礼装。
少し疲れた顔をしているが、いつものように笑っている。
「二人とも真面目な顔をしているね」
「殿下、会議は」
「終わったよ。少しだけ」
「少しだけとは」
「次の会議まで少しだけ時間がある」
ダリオ様の眉が寄る。
「昼食は」
殿下が、わずかに目を逸らした。
ダリオ様の声が低くなる。
「殿下」
「……まだ」
「食べてください」
「これから」
「今」
「ダリオ、ミリアの前だよ」
「関係ありません」
出た。
関係ありません。
わたくしは息を飲んだ。
これだ。
これなのだ。
王太子殿下であっても、ダリオ様は必要なことを言う。
遠慮しない。
殿下の体調を守るためなら、少し強く出る。
ユリウス殿下は苦笑しているが、その目は嫌がっていない。
むしろ、少し安心しているように見えた。
「分かった。食べるよ」
「ここに持たせます」
「ここで?」
「はい」
「ミリア、すまない。急に昼食会になった」
「いえ、大変よろしいかと」
わたくしは真剣に言った。
「殿下、食事は大切です」
「君まで」
「レオンハルト様にもよく言われます」
「そうだろうね」
殿下は笑った。
その笑みが、先ほどより少し自然に見えた。
ダリオ様はすぐに侍従へ指示を出した。
軽食を運ばせる。
甘すぎない茶も。
次の会議までに食べきれる量を。
手際がいい。
ユリウス殿下は少し肩をすくめている。
「ダリオは、私の食事に関して騎士団の配置より厳しい」
「殿下が抜くからです」
「少しだけだよ」
「その少しが積み重なります」
「ミリア、見ているかい。これが私の騎士団長だよ」
「はい。解釈一致です」
「解釈一致?」
殿下が楽しそうに笑う。
ダリオ様は、もうその言葉に少し慣れたような顔をした。
「良い意味らしいです」
「へえ。ダリオがミリア語を学んでいる」
「必要に応じて」
「真面目だね」
「殿下も食べてください」
「はいはい」
この空気。
軽くて、でも深い。
王太子と騎士団長。
幼なじみ。
主従。
友人。
面倒を見る者と、見られる者。
そして、時には立場が入れ替わる。
美しいだけではない。
面倒で、少し口うるさくて、相手に腹を立てながら、それでもそばにいる。
人間らしい。
だからこそ、尊い。
わたくしは、胸の奥で静かに思った。
これは恋愛ではない。
でも、愛ではあるのかもしれない。
恋とは違う、人生をかけた選択としての愛。
それを、軽々しく言葉にするのは怖い。
でも、目の前にあるそれは、確かに温かかった。
軽食が運ばれてくるまでの間、ユリウス殿下がわたくしを見る。
「ミリア、ダリオと何を話していたの?」
「グランツ卿の忠義についてです」
「ずいぶん真面目な話だ」
「はい」
「ダリオは何か恥ずかしいことを言った?」
「殿下」
ダリオ様が低く言う。
殿下は笑った。
「冗談だよ」
「殿下が、昔よく逃げていたお話を少し」
「ダリオ」
「ロゼリア嬢が、お二人を綺麗な絵のように見ていたと反省していたので」
「それを言うのですか、グランツ卿」
「必要かと」
「必要が強い」
ユリウス殿下は、少し驚いたようにわたくしを見る。
「綺麗な絵?」
「はい」
わたくしは、少し恥ずかしかったが頷いた。
「お二人の関係を、とても尊く思うあまり、綺麗なところばかりを見ていたのかもしれません。ですが、グランツ卿と話して、そうではないと分かりました」
「そうではない?」
「はい。腹が立つことも、面倒なことも、逃げたくなることも、それでも選び直すこともあるのだと」
殿下の表情が、少し静かになった。
「ダリオ、そんな話をしたの?」
「しました」
「珍しい」
「必要だったので」
「君の必要は、時々鋭いね」
「殿下ほどではありません」
「私?」
「人を勝手に場へ置くでしょう」
「それ、さっきも言っていた?」
ダリオ様は答えない。
殿下は苦笑した。
「否定できないな」
それから、ユリウス殿下はわたくしへ視線を戻す。
「ミリア」
「はい」
「私とダリオの関係を、君が大切に思ってくれているのは知っているよ」
「はい」
「最初は不思議だった。かなりね」
「申し訳ありません」
「謝らなくていい」
殿下は優しく言った。
「君は、私とダリオの間にあるものを壊したくないと思ってくれた。それは、私には少し嬉しかった」
「嬉しかったのですか?」
「うん。王太子としての私ではなく、誰かといる時の私を見てくれたから」
胸が痛む。
そして温かい。
「でも」
殿下は続けた。
「それだけで、君が自分の場所を決めてしまうのは違う」
「はい」
「私とダリオは私とダリオで、君は君だ」
昨日のダリオ様の言葉と重なる。
俺たちは俺たちだ。
そして、君は君。
「……はい」
わたくしは、深く頷いた。
「分かってきた気がします」
「少しずつでいい」
殿下が言う。
「急に全部分かろうとしなくていいよ。人のことなんて、何年一緒にいても分からない時がある」
そう言って、殿下はダリオ様を見る。
「ね?」
「殿下が分かりにくくするからです」
「ほら、こういうところ」
「事実です」
わたくしは、思わず笑ってしまった。
その笑いは、いつもの「供給に耐えきれない笑い」とは少し違った。
目の前の二人が、ちゃんと面倒で、ちゃんと人間で、それでも一緒にいることが嬉しかった。
解釈一致。
でも、それ以上に。
本人一致。
そんな変な言葉が頭に浮かんで、自分で少し笑った。
軽食が運ばれ、殿下はダリオ様の厳しい目の前で小さなサンドイッチを食べた。
「監視されている気分だ」
「実際に見ています」
「ダリオ」
「残さないでください」
「分かっているよ」
わたくしは、そのやり取りを眺めながら、静かに手帳を開いた。
リタなら後で「行儀が」と言うかもしれないが、今は書きたかった。
『騎士団長様、解釈一致です。
ただし、私の勝手な解釈に収まる方ではない。
グランツ卿の忠義は、恋愛ではなく、ただの義務でもなく、人生をかけた選択。
一度決めて終わりではなく、面倒だと思い、腹を立て、逃げたくなり、それでも選び直して殿下のそばに立つこと。
殿下は殿下。グランツ卿はグランツ卿。
二人は二人で、私は私。
綺麗なだけではないからこそ、尊い。』
書きながら、胸が少し熱くなった。
わたくしは、まだ何度も深読みするだろう。
尊いと思ってしまうだろう。
解釈一致と叫びたくなるだろう。
でも、これからは少しだけ、その先を見たい。
尊い相手が、人間として何を選んでいるのか。
その面倒くささごと、大切に見たい。
ユリウス殿下が、サンドイッチを一つ食べ終えて言った。
「ミリア、今、何を書いていたの?」
「秘密です」
「珍しい。顔には出ているけど」
「やはり顔」
ダリオ様が真面目に言う。
「良いことを書いている顔だ」
リタのようなことを言われた。
わたくしは少し驚いて、そして笑った。
「ありがとうございます、グランツ卿」
「また礼か」
「はい」
「謝りよりはいい」
「それもそうですね」
殿下が笑う。
ダリオ様もほんの少し笑う。
その二人を見ながら、わたくしは思った。
推しを人間として見るのは難しい。
でも、難しいからこそ、きっと見る価値がある。
遠くから拝むだけでは分からないものがある。
話して、間違えて、謝って、また見て。
そうやって少しずつ、人としての輪郭を知っていく。
壁では、それはできなかった。
わたくしはまだ壁への未練を完全に捨てきれない。
けれど今日、少しだけ思った。
中に入って見る景色も、悪くない。
それどころか。
かなり、尊い。




