第37話 推しを人間として見るのは難しい
推しを人間として見るのは、難しい。
これは、かなり深刻な問題である。
推しは推しである。
遠くから見て、尊いと拝み、幸せを願い、時に供給に震え、時に解釈違いに机を叩く。
前世のわたくしにとって、推しとはそういう存在だった。
画面の向こう。
本の中。
物語の中。
手が届かないからこそ、安心して好きでいられるもの。
けれど、この世界で出会ったユリウス殿下も、ダリオ様も、セシリア様も、レオンハルト様も、画面の中にはいない。
生きている。
疲れるし、悩むし、怒るし、照れるし、怪我もする。
そして、こちらを見てくる。
こちらへ話しかけてくる。
意見を求めてくる。
わたくしを、観測者ではなく参加者にしてくる。
非常に困る。
いや、困ると言いながらも、もう完全に嫌ではないところが一番困る。
王宮騎士団の訓練場での騒動から二日後。
わたくしは、王宮内の小さな中庭にいた。
昨日、ユリウス殿下から短い手紙が届いたのだ。
『ダリオが、君と少し話したいそうだ。
訓練の件もあるし、君が気にしていることもあるのだろう?
無理にとは言わない。
場所は人目のある中庭にする。
ユリウス』
気にしていること。
殿下は、やはり鋭い。
わたくしはずっと気にしていた。
自分が、ユリウス殿下とダリオ様の関係を、勝手に“尊いもの”として眺めすぎていたことを。
彼らは二人でいると素晴らしい。
殿下にはダリオ様が必要。
ダリオ様には殿下を支えてほしい。
それ自体は間違っていないと思う。
けれど。
わたくしは、そこに自分の理想を重ねすぎていなかっただろうか。
本人たちの感情よりも、自分が見たい関係性を優先していなかっただろうか。
もしそうなら。
それは、とても失礼なことではないだろうか。
「お嬢様」
隣に立つリタが、静かに声をかけた。
「眉間に皺が寄っております」
「寄るわ」
「グランツ卿とお話しするだけでございます」
「推し本人と、自分の推し方の問題点について話すのよ。難易度が高すぎるわ」
「推し方の問題点という言い方が、すでに少々独特でございます」
「ほかに何と言えばいいの」
「人との向き合い方」
「急にまとも」
「お嬢様も、そちらで考えた方がよろしいかと」
正論。
また正論。
最近、わたくしの周囲は正論の投げ方がうますぎる。
「……そうね」
わたくしは、深呼吸した。
「人との向き合い方」
「はい」
「リタ」
「はい」
「逃げそうになったら」
「止めます」
「ありがとう」
「ただし、本日は逃げるより先に、グランツ卿に真顔で止められるかと」
「ありそう」
ダリオ様は、逃げようとした相手を力任せに捕まえる人ではない。
だが、まっすぐ見てくる。
その真面目な目から逃げるのは、かなり難しい。
中庭には、白い石のベンチと低い植え込みがあった。
王宮の中庭らしく整えられているが、派手ではない。
人目はあるが、会話が聞かれるほど近くはない。
リタが少し離れた位置へ控える。
しばらくして、足音がした。
ダリオ様だった。
今日は騎士団長としての制服姿。
赤髪を後ろへ流し、背筋はまっすぐ。
腰には剣。
見慣れてきたはずなのに、やはり胸の中で小さな太鼓が鳴る。
推しが来た。
いや、違う。
今日はそれを考える日ではない。
推しではなく、人として見る。
ダリオ・グランツという一人の人間として。
「ロゼリア嬢」
ダリオ様は、少し距離を取って足を止めた。
「時間を取らせてすまない」
「いいえ。お呼びいただき、ありがとうございます」
「殿下から聞いた。俺と話した方がいいと」
「殿下が?」
「ああ」
ダリオ様は、少し困ったような顔をした。
「あの方は、時々人を勝手に場へ置く」
「分かります」
思わず即答した。
ダリオ様が少し目を瞬く。
「分かるのか」
「はい。わたくしも、気づくと中央の席に座らされていたり、訓練の感想を求められたりしておりますので」
「ああ」
ダリオ様は納得したように頷いた。
「殿下は悪気なく逃げ場をなくすことがある」
「本当にそうです」
言ってから、わたくしとダリオ様は少し黙った。
そして、どちらともなく小さく笑った。
不思議だった。
推しと笑っている。
でも、さっきまでのような「供給ありがとうございます!」という爆発ではなく、もっと普通の、同じ人を知っている者同士の共感だった。
それが少しくすぐったい。
「座るか」
ダリオ様がベンチを示した。
「はい」
わたくしはベンチの端に座り、ダリオ様は少し距離を置いて同じベンチに腰掛けた。
適切な距離。
さすが騎士団長。
いや、今それを尊いと解釈するのではなく。
……難しい。
人として見るの、本当に難しい。
「訓練場の件だが」
ダリオ様が先に口を開いた。
「改めて、すまなかった」
「グランツ卿、それはもう」
「騎士団長としての謝罪だ。受け取ってほしい」
言葉が硬い。
けれど、誠実だった。
逃げ道を与えない謝罪ではない。
責任をきちんと置くための謝罪。
わたくしは、姿勢を正した。
「分かりました。謝罪を受け取ります」
「ああ」
「ただし、わたくしは本当に怪我をしておりません」
「それはよかった」
「それに、安全確認の見直しもしてくださっていると伺いました」
「ああ。見学席の位置、木剣の管理、補助紐、訓練中の警戒員配置。ヴァイスベルク公爵の案も取り入れた」
「公爵様の」
「実用的だった」
ダリオ様が真面目に言う。
わたくしは、少し笑いそうになった。
レオンハルト様はどこでも実用評価される。
「公爵様は、そういうところがあります」
「君は、ヴァイスベルク公爵の話になると顔が変わる」
「グランツ卿まで!」
声が少し大きくなった。
慌てて口元を押さえる。
ダリオ様は、きょとんとしている。
悪気はない。
ただ本当に、見たままを言っただけだ。
この人も事実派である。
「すまない。言わない方がよかったか」
「いえ……ただ、最近あちこちで言われるので」
「そうなのか」
「はい」
「なら、やはり分かりやすいのだろう」
「追撃」
「追撃?」
「いえ、こちらの話です」
ダリオ様は少しだけ首を傾げた。
その反応も、真面目で不器用で、やはり推しとして解釈一致――いや、今日はそれを抑える。
わたくしは深呼吸した。
「グランツ卿」
「何だ」
「今日、わたくしからもお話ししたいことがございます」
「ああ」
「少し、変な話になるかもしれません」
「君の話はだいたい難しい」
「先に言われました」
「だが、悪意はない」
胸が、少し温かくなる。
この言葉に、何度救われただろう。
「ありがとうございます」
「礼を言われることではない」
「わたくしには、礼を言うことなのです」
「……そうか」
ダリオ様は、少しだけ困ったように頷いた。
わたくしは膝の上で手を握る。
「わたくし、グランツ卿と殿下の関係を、とても大切に思っています」
「それは、何度か聞いた」
「はい。かなり何度も申し上げました」
「かなり」
「……すみません」
「いや、責めてはいない」
ダリオ様は、少し考えるように空を見た。
「ただ、最初は意味が分からなかった」
「そうですよね」
「殿下の婚約者が、俺に殿下のそばにいろと言う。殿下を支えろと言う。殿下にはお前が必要だと言う」
「改めて聞くと、かなり変ですね」
「変だ」
即答。
痛い。
でも、その通り。
「わたくしは、殿下とグランツ卿の信頼関係が、とても美しく見えました」
「美しい?」
「はい。幼い頃から積み重ねたもの。王太子と騎士団長という立場だけではないもの。殿下が弱さを見せられる相手であり、グランツ卿が自分で選んで殿下を支えていること」
話しながら、少しずつ言葉が熱を持つ。
けれど今日は、暴走しないように気をつける。
「それが、わたくしにはとても尊く見えたのです」
「尊い」
ダリオ様は、真顔でその言葉を繰り返した。
真顔で「尊い」と言われると、かなり破壊力がある。
「はい。尊い、です」
「どういう意味だ」
「ええと……大切で、壊したくなくて、見ているだけで心が洗われるような、ありがたいもの、でしょうか」
「信仰に近いのか」
「公爵様にもそう言われました」
「そうか」
ダリオ様は、真剣に納得しようとしている。
やめて。
推し本人に推し活用語を解釈させている現状が、かなり恥ずかしい。
「ですが」
わたくしは、少し声を落とした。
「最近、思ったのです。わたくしは、その尊さを大切にしたいあまり、グランツ卿と殿下を、勝手に一つの理想の形として見ていたのではないかと」
ダリオ様は黙った。
「お二人は、お二人です。わたくしのために存在している関係ではありません。わたくしが見たい形に収まる必要もありません」
胸が少し苦しくなる。
でも、言わなければならない。
「殿下にも、グランツ卿にも、それぞれの考えがあって、悩みがあって、選択がある。それなのに、わたくしは勝手に“こうであってほしい”と思っていました。殿下にはグランツ卿が必要。グランツ卿は殿下を支えるべき。そう決めつけていたかもしれません」
「……」
「それは、とても失礼だったのではないかと思います」
言い切った。
言い切ると、少し息が苦しくなった。
ダリオ様は、すぐには答えなかった。
怒っただろうか。
呆れただろうか。
気持ち悪いと思われただろうか。
推し本人に、自分の推し方の問題点を告白するというのは、なかなか地獄である。
前世のイベント会場で、作者本人に「わたしあなたの作品をこう深読みしてましたが、もしかして失礼でしたか」と詰め寄るようなものだ。
違うかもしれないが、近い。
わたくしは、返事を待った。
やがて、ダリオ様が口を開いた。
「よく分からない」
「はい」
「君の言葉は、やはり難しい」
「はい」
「だが、一つ言える」
彼は、まっすぐこちらを見た。
「俺たちは俺たちだ」
短い言葉だった。
でも、胸に落ちた。
「殿下は殿下で、俺は俺だ。俺たちの関係を、君がどう見ているかは分からない。尊いと言われても、正直よく分からない」
「はい」
「だが、俺が殿下を支えるのは、君のためではない」
それは、当たり前のことだった。
でも、その当たり前が刺さる。
「殿下が王太子だからでもある。俺が騎士だからでもある。幼い頃から知っているからでもある。あの人が、時々どうしようもなく一人で抱え込むからでもある」
ダリオ様の声は、淡々としていた。
けれど、その淡々の中に、積み重ねた時間があった。
「だが、最終的には俺が選んだことだ」
「選んだこと」
「ああ」
ダリオ様は、自分の手を見るように少し視線を落とした。
「子どもの頃、殿下はよく逃げた」
「逃げた?」
「勉強からではない。人からだ」
初めて聞く話だった。
わたくしは、思わず息を潜める。
「王太子だから、周りは皆、殿下を見ていた。だが、殿下自身を見ている者は少なかった。褒める者、期待する者、媚びる者、試す者。色々いた」
「……」
「俺は当時、そういうものがよく分からなかった。ただ、殿下が苦しそうなのは分かった」
ダリオ様らしい。
複雑な政治の機微ではなく、人の苦しさをまっすぐ見ていた。
「慰め方など知らなかった。だから木剣を渡した」
「殿下から聞きました」
「そうか」
「殿下は、そのことを覚えていらっしゃいました」
「忘れたいと言われたこともある」
「え?」
ダリオ様は、少しだけ口元を緩めた。
「泣き顔を見られたからだろう」
殿下の泣き顔。
少年時代。
木剣。
何も言わないダリオ様。
供給が重い。
いや、違う。
これは供給ではなく、思い出だ。
彼らの、本人たちの思い出。
わたくしが勝手に消費していいものではない。
「……大切な記憶なのですね」
わたくしが言うと、ダリオ様は少し考えた。
「たぶん、そうだ」
「たぶん?」
「大切かどうかを、あまり考えたことがなかった。あったことだからな」
あったこと。
それは、推し語りで美化される前の、ただの現実なのだ。
その現実が積み重なって、今の二人がある。
「俺は殿下を支える。それは俺が選んだ」
ダリオ様は、はっきり言った。
「だが、殿下のすべてを俺が背負えるわけではない。殿下にも、俺にも、それぞれの人生がある」
その言葉に、胸が痛んだ。
わたくしは、二人を一つの関係として見すぎていた。
殿下とダリオ様。
二人で一つの尊い絵。
もちろん、そう見える瞬間はある。
でも、それだけではない。
ユリウス殿下はユリウス殿下。
ダリオ様はダリオ様。
それぞれ別の人生がある。
「……すみません」
自然と謝罪がこぼれた。
ダリオ様は少し眉を寄せる。
「なぜ謝る」
「勝手に、お二人を一つの物語のように見ていました」
「物語」
「はい。わたくしの好きな形の、美しい関係として」
「それは悪いことなのか」
「悪いというより……危ないことなのだと思います。本人の気持ちを置き去りにしてしまうかもしれません」
ダリオ様は黙って考えた。
この人は、分からないことを分かったふりで流さない。
そこが誠実だ。
「君は、俺たちを操ろうとしたのか」
「いいえ!」
思わず強く否定した。
「それは違います。そんなつもりはありません。ただ……お二人が並んでいると安心したのです。殿下が一人ではないと思えて。グランツ卿がそばにいれば大丈夫だと、勝手に安心していました」
「なら、悪意はない」
「でも、悪意がなければ何をしてもいいわけではありません」
「それはそうだ」
ダリオ様は頷いた。
やはり容赦がない。
けれど、その容赦のなさがありがたい。
「なら、今後は聞けばいい」
「聞く?」
「勝手に決める前に、俺や殿下に聞けばいい。俺たちがどう考えているか」
「……聞いてもよろしいのですか」
「答えられることなら答える」
「変な質問でも?」
「君の質問はだいたい変だ」
「そうですよね」
「だが、悪意はない」
また。
その言葉。
わたくしは、少し笑ってしまった。
「グランツ卿は、わたくしの言葉を難しいと言いながら、いつも最後には悪意はないとおっしゃいますね」
「そう見えるからだ」
「それは、信じてくださっているということでしょうか」
聞いてから、少し緊張した。
ダリオ様は、まっすぐ答えた。
「少なくとも、君が殿下を傷つけるために動いているとは思っていない」
「ありがとうございます」
「ただし」
「はい」
「殿下を傷つけないとは限らない」
胸が、きゅっと痛んだ。
真剣な言葉だった。
「君がどれほど善意でも、殿下は傷つくかもしれない。婚約解消になれば、たぶん傷つく」
「……はい」
「だが、だからといって君が無理に殿下の隣に立つのも違うと思う」
意外だった。
ダリオ様が、そこまで言うとは。
「グランツ卿」
「俺は殿下を支える。だが、殿下が望むものをすべて叶えるのが忠義だとは思っていない」
声が、とても静かだった。
「殿下が間違えるなら止める。苦しむならそばにいる。だが、殿下の寂しさを埋めるために、誰かを縛るのは違う」
胸が熱くなる。
これが、ダリオ様の忠義。
ただ従うだけではない。
殿下を人として見ているからこそ、止める。
支える。
そばにいる。
「……解釈一致です」
小さく呟いてしまった。
ダリオ様がこちらを見る。
「何が?」
「あ、いえ」
しまった。
つい。
「今のグランツ卿のお言葉が、とてもグランツ卿らしくて、わたくしの中の理解と一致したという意味です」
「よく分からないが、悪い意味ではないのか」
「はい。最高に良い意味です」
「そうか」
ダリオ様は、少しだけ困ったように頷いた。
やはり解釈一致。
いや、また言っている。
難しい。
推しを人間として見るのは、本当に難しい。
尊いものは尊い。
でも、その尊さに本人を閉じ込めてはいけない。
「グランツ卿」
「何だ」
「わたくし、これからもお二人を見て、心の中で尊いと思ってしまうと思います」
「それは止められないのか」
「止められません」
「そうか」
「ですが、勝手に決めつけないようにします。殿下もグランツ卿も、わたくしの物語の登場人物ではないと、忘れないようにします」
ダリオ様は、しばらくわたくしを見た。
それから、短く言った。
「それでいいのではないか」
「いいのでしょうか」
「完璧に分かろうとする方が無理だ。俺も君の言うことは半分も分からない」
「半分も」
「だが、話せば少し分かる」
その言葉に、胸が温かくなる。
話せば少し分かる。
それは、人と人との基本なのかもしれない。
推しとファンではなく。
物語の登場人物と観測者でもなく。
人と人として。
「ありがとうございます」
「また礼か」
「はい」
「君はよく礼を言う」
「そうでしょうか」
「ああ。あと、よく謝る」
「それは……癖です」
「知っている」
ダリオ様は、少しだけ目を細めた。
「殿下も、ヴァイスベルク公爵も、君のその癖を気にしている」
「グランツ卿もですか?」
「ああ」
「皆様、本当に」
「君が自分を後回しにするからだ」
また。
やはり、そこへ戻る。
わたくしは小さく息を吐いた。
「気をつけます」
「気をつけるだけで直るなら苦労はない」
「公爵様と同じことを」
「そうなのか」
「はい。少しずつでいい、と言われました」
「なら、そうすればいい」
ダリオ様は立ち上がった。
「俺は難しいことは得意ではない。だが、君が殿下を雑に扱うつもりがないことは分かっている」
「はい」
「そして、君自身を雑に扱うなら、たぶん殿下も、ヴァイスベルク公爵も、セシリア嬢も、リタも怒る」
「グランツ卿は?」
思わず聞いた。
ダリオ様は少しだけ眉を上げた。
「俺も怒る」
その短い言葉が、意外なほど胸に響いた。
「……ありがとうございます」
「だから礼が多い」
「すみません」
「謝りも多い」
「あ」
つい笑ってしまった。
ダリオ様も、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「ロゼリア嬢」
「はい」
「君が俺たちをどう見ているかは、俺には完全には分からない。だが、君が見ているものの中に、俺たちが気づいていないこともある」
「え?」
「訓練の時のように」
ダリオ様は、少しだけ遠くを見た。
「だから、勝手に決めつけるのは困るが、見たことを言うのは悪くない」
「……はい」
「殿下にも、たぶん必要だ」
その言葉で、わたくしは少し泣きそうになった。
推し本人が、わたくしの見方を全否定しなかった。
危うさを指摘したうえで、役に立つこともあると言ってくれた。
それは、とてもありがたいことだった。
「グランツ卿」
「何だ」
「今日、お話しできてよかったです」
「俺もだ」
「本当ですか?」
「ああ。君の言葉は難しいが、黙って悩まれるよりはいい」
「そこまで見抜かれて」
「顔に出る」
「また顔」
もう、顔面日記帳問題は王宮中に広がっているのではないか。
リタが少し離れた場所で、何食わぬ顔をしている。
きっと聞こえている。
帰ったら何か言われるだろう。
ダリオ様は、剣の柄に軽く手を置いた。
「そろそろ戻る。殿下の護衛交代の時間だ」
「はい。お時間をいただき、ありがとうございました」
「ロゼリア嬢」
「はい」
「殿下のことを、これからも見ていてくれ」
息が止まった。
ダリオ様は、続ける。
「ただし、遠くから拝むだけではなく、人として」
胸に、言葉が落ちた。
重くて、温かくて、少し痛い。
「……はい」
わたくしは、ゆっくり頷いた。
「努力します」
「善処ではなく?」
「皆様、本当にその確認をなさいますね」
「よく逃げるからだろう」
「否定できません」
ダリオ様は、少しだけ笑った。
「では、また」
「はい。また」
彼は礼をして、中庭を去っていった。
背筋の伸びた後ろ姿。
騎士団長として、殿下のところへ戻る背中。
わたくしは、それを見送った。
尊い。
やっぱり、尊い。
けれど、今の尊いは、前とは少し違う気がした。
遠くの絵を拝むような尊さではない。
人が自分で選んだものを背負って歩く姿への、敬意に近かった。
リタが近づいてきた。
「お嬢様」
「なに?」
「逃げませんでしたね」
「ええ」
「謝りすぎは少々ありましたが」
「聞こえていたの?」
「少し」
「少しではない顔ね」
「顔に出ましたか?」
「リタまで顔芸を?」
「お嬢様ほどでは」
「ひどいわ」
リタは小さく笑った。
「よいお話だったのでは?」
「ええ」
わたくしは、中庭の植え込みを見つめた。
「推しを人間として見るのは難しいわ」
「はい」
「尊いものは尊いの。そこは変わらない」
「はい」
「でも、尊いからといって、わたくしの理想の形に閉じ込めてはいけないのね」
「そうですね」
「グランツ卿は、俺たちは俺たちだとおっしゃったわ」
「はい」
「当たり前なのに、とても大事な言葉だった」
リタは静かに頷いた。
わたくしは、手帳を取り出す。
立ったまま書くのは行儀が悪いが、今日はどうしても今書きたかった。
『推しを人間として見るのは難しい。
グランツ卿と話した。
私は殿下とグランツ卿を、勝手に尊い概念として見すぎていたかもしれない。
でも、グランツ卿は怒らなかった。
俺たちは俺たちだ、と言った。
殿下を支えるのは、彼が選んだこと。
殿下のすべてを背負うわけではない。
殿下を人として支える。
解釈一致。
でも、それは私の解釈に収めてよいものではなく、彼自身の人生。』
少し考えて、最後に書く。
『尊いと思うことは、やめられない。
でも、尊い相手も人間だと忘れない。
遠くから拝むだけではなく、人として見る。
難しい。
とても難しい。
でも、話せば少し分かる。』
ペンを止めた。
リタが横から覗き込む。
「よろしいのではないでしょうか」
「今日は見ても怒らないわ」
「珍しいですね」
「見られて困ることは、たぶんもう顔に出ているもの」
「その通りです」
「否定して」
「事実ですので」
事実禁止令は、今日も却下された。
でも、不思議と嫌ではなかった。
推しを人間として見るのは難しい。
でも、その難しさの中に、たぶん本当の敬意がある。
わたくしは、まだ何度も間違えるだろう。
深読みし、尊さに悶え、解釈一致と心の中で叫ぶだろう。
それでも。
彼らは彼らだ。
ユリウス殿下は、ユリウス殿下。
ダリオ様は、ダリオ様。
セシリア様は、セシリア様。
レオンハルト様は、レオンハルト様。
そして、わたくしは。
まだ少し分からないけれど。
ミリア・ロゼリアとして、彼らを見ていきたいと思った。




