第36話 王太子殿下の答え
王宮の午後は、妙に静かだった。
訓練場で木剣が飛び、ミリアがレオンハルトに庇われた騒動から一日。
大事には至らなかった。
ミリアに怪我はなく、セシリアも落ち着き、ダリオは訓練場の安全確認を徹底するよう騎士団へ指示を出した。
それでも、ユリウスの胸には、乾いた音が残っていた。
木剣が弾かれた音。
見学席へ飛んだ音。
そして、ミリアが一瞬、目を見開いた顔。
その直後、レオンハルトが彼女を抱き寄せた。
速かった。
ユリウスが動くよりも、ダリオが踏み出すよりも。
あの男は、迷わなかった。
ユリウスは王宮奥の小書斎で、窓の外を見ていた。
机の上には政務書類が並んでいる。
だが、文字は先ほどからあまり頭に入っていない。
扉の外で、侍従の声がした。
「ヴァイスベルク公爵様がお見えです」
「通して」
ユリウスは振り返らずに答えた。
扉が開く。
入ってきたレオンハルトは、いつも通りの無表情だった。
濃紺の礼服。
隙のない姿勢。
冷静で、静かで、何を考えているのか読みにくい顔。
だがユリウスは、昨日の訓練場で見た。
この男が、ミリアに危険が迫った瞬間、考えるより先に動いたことを。
「呼び出してすまないね、レオンハルト公」
「王太子殿下の呼び出しです。断る理由はありません」
「君はそう言うだろうと思った」
ユリウスは苦笑した。
「座って」
「失礼します」
レオンハルトは向かいの椅子へ腰を下ろした。
茶器は用意されている。
だが、二人ともすぐには手を伸ばさなかった。
少しの沈黙。
先に口を開いたのはユリウスだった。
「昨日の件、改めて礼を言うよ」
「礼を受けることではありません」
「ミリアを庇った」
「必要だったからです」
「君はいつもそれだね」
「事実です」
ユリウスは、少し笑った。
「ミリアがよく怒るわけだ」
レオンハルトの眉が、ほんのわずかに動いた。
「怒っていましたか」
「うん。たぶん、かなり」
「元気ならいい」
「それも言いそうだ」
ユリウスは紅茶のカップを取った。
一口飲む。
温かいはずなのに、喉の奥には少し苦みが残った。
「昨日、君がミリアを庇った時」
静かに言う。
「私は、動けなかった」
「殿下は木剣を弾かれた直後でした。距離もありました」
「慰めはいらないよ」
「慰めではありません。事実です」
「君は本当に容赦がない」
「必要がありませんので」
ユリウスは苦笑した。
「そういうところ、ダリオに似ているね」
「心外です」
「どちらにとって?」
「おそらく互いに」
そこで、少しだけ空気が緩んだ。
だが、すぐにユリウスは表情を戻した。
「ミリアは無事だった。だから、結果としてはよかった。でも、私は昨日、思い知らされたよ」
「何をです」
「私の隣にいることの危うさを」
レオンハルトは黙っている。
ユリウスは、手元のカップを見つめた。
「王太子の婚約者であるというだけで、ミリアは多くの視線を受ける。断罪夜会の件もそうだ。クラリーナ嬢は、私の婚約者という立場を利用してミリアを悪役にしようとした」
「はい」
「昨日の訓練も、私が招いた。私が見てほしいと思った。ミリアに、私とダリオの訓練を見てほしかった」
言いながら、自分で少し笑った。
「子どもみたいだろう?」
「否定はしません」
「少しは否定してほしかったな」
「望まれた言葉だけを返すのは不得手です」
「知っている」
ユリウスは、窓の外へ目を向けた。
庭園の木々が、風にわずかに揺れている。
「私はね、レオンハルト公。ミリアに見てほしかったんだ。王太子としてではなく、剣を持って失敗もする私を」
「見ていたでしょう」
「うん。彼女はよく見ていた。驚くほど」
ミリアは、人の距離を見る。
剣術の理屈ではなく、人と人との間にあるものを読む。
それは時に深読みで、時に誤解で、時に妙な方向へ暴走する。
けれど昨日は、それが確かに役に立っていた。
ダリオも認めた。
ユリウス自身も、ミリアの言葉で自分の癖に気づいた。
「嬉しかったよ」
ユリウスは正直に言った。
「彼女が私を、王太子でも推しでもなく、一人の人間として見ようとしてくれたことが」
レオンハルトの目が少し動いた。
「推し、という言葉を殿下まで使うのですか」
「ミリアから少し学んだ」
「学ばなくていい言葉もあります」
「君も覚えているだろう。抱き寄せイベント、とか」
レオンハルトの沈黙が、ほんの一瞬だけ硬くなった。
ユリウスは笑いを堪えた。
「図星かな」
「……彼女が言いました」
「そして君は覚えた」
「印象に残っただけです」
「うん。そういうことにしておくよ」
レオンハルトは少しだけ眉を寄せた。
こういう時、この男は分かりやすい。
普段は読みにくいが、ミリアの話になると微細に崩れる。
本人は気づいていないのかもしれない。
いや。
もしかすると、気づいていても扱い方が分からないだけか。
ユリウスは、カップを置いた。
「レオンハルト公」
「はい」
「君は、ミリアを本気で望んでいるね」
部屋の空気が、静かに張った。
レオンハルトは、すぐには答えなかった。
だが、逃げる目ではなかった。
「はい」
短い答え。
迷いはない。
ユリウスは、胸の奥に小さな痛みを感じた。
分かっていた。
それでも、本人の口から聞くと、痛みは別物になる。
「そうか」
「殿下は」
「うん?」
「殿下は、どうなのです」
今度は、レオンハルトが問うた。
「彼女をどうしたいのですか」
真正面から。
容赦がない。
この男は、言葉を飾らない。
だから腹が立つほど、逃げにくい。
「私は」
ユリウスは少し間を置いた。
「彼女に惹かれている」
口に出すと、思ったより静かな言葉だった。
もっと激しい感情だと思っていた。
だが、実際は違う。
ミリアへの感情は、ある日突然燃え上がった炎ではない。
最初は違和感だった。
変わったな、という興味。
自分から離れようとする婚約者への戸惑い。
セシリアを庇う姿への驚き。
ダリオを支えろと言われた時の奇妙な寂しさ。
断罪夜会で逃げずに立った姿への尊敬。
そして昨日、自分の剣を見て、真剣に言葉を選ぶミリアを見た時。
ユリウスは、はっきり思った。
この人を、もっと知りたい、と。
「けれど」
ユリウスは続けた。
「彼女を王太子妃の椅子に閉じ込めたいわけではない」
レオンハルトは黙って聞いている。
「私が彼女に惹かれているから、私の隣に来てほしい。そう言うことはできる。たぶん、言うべきなのだろうね」
「はい」
「でも、王太子の隣は重い。私の隣に立つということは、王太子妃になるということだ」
「そうです」
「彼女は今、自分の好きなものを好きと言うことさえ怖がっている。そんな彼女を、王宮の顔にするのは……」
ユリウスは、言葉を探した。
「間違いではないかもしれない。でも、残酷になるかもしれない」
静かな声だった。
王太子としての冷静さ。
そして、一人の青年としての苦しさ。
どちらも混ざっている。
「私は、前のミリアにも甘えていた」
ユリウスは言った。
「彼女が私に執着していたことを、重いと思いながらも、離れない安心にしていた。今のミリアにも、また別の形で甘えようとしているのかもしれない」
「自覚があるなら、まだましです」
「辛辣だね」
「事実です」
「君は本当に、私を王太子扱いしない時がある」
「必要ならします」
「必要がなければ?」
「しません」
ユリウスは小さく笑った。
「だから君は、ダリオと違う形で信用できる」
「光栄です」
「本当に思っている?」
「半分ほど」
「ミリアの半分褒めが移ったかな」
レオンハルトは答えなかった。
ただ、ほんのわずかに目元が動いた。
ユリウスは、それを見て少しだけ笑った。
そして、再び真面目な声に戻す。
「私は、一ヶ月後の舞踏会で彼女に答えを聞く」
「はい」
「それまで、彼女と話す。王太子としてではなく、ユリウスとして」
「必要でしょう」
「君も彼女と話すんだろう?」
「はい」
「遠慮は?」
「しません」
「即答だね」
「する理由がありません」
胸の奥に、小さく火花が散る。
怒りではない。
嫉妬とも少し違う。
たぶん、競争心。
ユリウスは、自分にもそんな感情があることに少し驚いた。
王太子は、欲しいものを欲しいと簡単には言えない。
けれど今、目の前の男は、迷わず言った。
遠慮しない、と。
「君は羨ましいね」
ユリウスは言った。
「そうですか」
「うん。君は、ミリアを望むと言える。私が言えば、王家の意向になる」
「殿下が言葉を選ぶ必要があるのは事実です」
「そうだね」
「ですが」
レオンハルトの声が少し低くなった。
「それを理由に、彼女へ本音を伝えないなら、それもまた不誠実です」
痛いところを突いてくる。
容赦がない。
ユリウスは黙った。
レオンハルトは続けた。
「殿下が彼女を王太子妃の椅子に閉じ込めたくないと思うのは、理解できます」
「うん」
「ならば、彼女に選ばせるべきです」
「分かっている」
「分かっているだけでは足りません」
レオンハルトは、まっすぐユリウスを見た。
「彼女は、自分が選んでいいと思うまで時間がかかる。誰かのため、殿下のため、聖女候補のため、騎士団長のため。そういう理由で自分を後回しにする」
「知っている」
「なら、彼女が自分のために選べるように、殿下も言葉を尽くすべきです」
「君に言われるとは思わなかったな」
「私も、言葉を尽くすのは不得手です」
「知っている」
「ですが、必要なら努力します」
その言葉に、ユリウスは少し驚いた。
レオンハルトが、努力すると言った。
しかも、感情に関わることで。
「ミリアのために?」
「はい」
迷いがない。
痛いほど。
「君は本気だね」
「はい」
「彼女が、私を選んだら?」
ユリウスは、あえて聞いた。
レオンハルトの表情は変わらない。
けれど、空気がわずかに重くなった。
「彼女が自分で選んだなら、尊重します」
「本当に?」
「はい」
「苦しくても?」
「苦しいでしょう」
意外なほど素直な答えだった。
「ですが、彼女が自分で選んだ場所なら」
レオンハルトは、少しだけ視線を伏せた。
「それを壊すつもりはありません」
ユリウスは、しばらく黙っていた。
この男は冷血公爵などと呼ばれている。
けれど、ミリアに関しては、驚くほどまっすぐだ。
ただ手に入れたいだけではない。
守りたいだけでもない。
彼女が自分で選ぶことを、苦しくても尊重しようとしている。
それは、簡単なことではない。
「レオンハルト公」
「はい」
「君がそういう男でよかったと思う一方で、かなり厄介だとも思うよ」
「褒め言葉として受け取ります」
「半分はね」
「残り半分は」
「恋敵として面倒だ」
初めて、はっきり言った。
恋敵。
王太子と公爵。
婚約者と婚約者候補。
立場はいくらでも飾れる。
けれど、今この場にいる二人は、ただ一人の女性を大切に思う男同士だった。
レオンハルトは、少しだけ目を細めた。
「殿下がそう言うなら、私も言いやすい」
「何を?」
「私は、彼女を諦めるつもりはありません」
静かな宣言だった。
大声でも、挑発でもない。
ただ、事実として置かれた言葉。
ユリウスは、ゆっくり息を吐いた。
「そうだろうね」
「殿下は」
「私も、簡単には聞き分けよくならないよ」
ユリウスは、少し笑った。
「ただし、王太子として彼女を追い詰めるつもりはない」
「ならば、彼女に選ばせろ」
「またそこへ戻る」
「一番重要です」
「分かっている」
ユリウスは、窓の外を見た。
庭園の向こうには、王宮の白い壁。
そのさらに向こうに、王都がある。
王太子である自分が守るべきもの。
背負うべき未来。
その中に、ミリアを巻き込むのか。
それとも、自由にするのか。
自由にしたいと思いながら、手放したくないと思っている。
人間とは本当に面倒だ。
ミリアがいつか言っていた。
人の気持ちは難しい、と。
その通りだ。
「私はね、レオンハルト公」
ユリウスはぽつりと言った。
「彼女に、私の隣を選んでほしいと思う気持ちがある」
「はい」
「同時に、選ばないでほしいと思う気持ちもある」
レオンハルトが、わずかに目を動かした。
「彼女は、王宮のために自分を削る人になってしまうかもしれない。そうなったら、私はたぶん、自分を許せない」
「ならば削らせなければいい」
「簡単に言うね」
「簡単ではありません。ですが、殿下が彼女を望むなら、それも含めて覚悟すべきです」
まっすぐすぎて、痛い。
ユリウスは少し笑った。
「君は本当に容赦がない」
「必要な話です」
「そうだね」
ユリウスは、深く息を吐いた。
「私は、彼女を王太子妃の椅子に閉じ込めたくない。けれど、彼女と向き合わずに綺麗に手放したふりをするのも違う」
「はい」
「だから、一ヶ月後までに答えを出す」
「殿下の答えを?」
「そう。王太子としてではなく、ユリウスとして、彼女に何を望むのか」
レオンハルトは静かに頷いた。
「それがいいでしょう」
「君に認められると、妙な気分だね」
「私も殿下を励ましたつもりはありません」
「分かっているよ」
そこで、扉の外から足音がした。
侍従が控えめに声をかける。
「殿下、次の会議のお時間でございます」
「分かった」
ユリウスは返事をし、立ち上がった。
レオンハルトも立つ。
会話は終わりだ。
だが、空気は変わったままだった。
部屋を出る前、ユリウスはレオンハルトへ言った。
「レオンハルト公」
「はい」
「昨日、ミリアを庇ってくれてありがとう」
「先ほども聞きました」
「これは王太子としてではなく、ユリウスとしての礼だよ」
レオンハルトは少しだけ黙った。
それから、短く答えた。
「受け取ります」
「うん」
「ただし、次は私より先に動いてください」
ユリウスは一瞬目を丸くし、それから笑った。
「厳しいな」
「彼女を守りたいのなら」
「分かった。努力する」
「善処ではなく?」
「努力するよ」
レオンハルトは頷いた。
ミリアに言う時と、同じように。
「よし」
「君に言われると、少し腹立たしいね」
「殿下も彼女と同じことを言いますね」
「ミリアと?」
「はい」
ユリウスは少し笑った。
「それは悪くない」
廊下へ出ると、ダリオが待っていた。
訓練場の報告書を持っている。
ユリウスを見るなり、彼は少し眉を寄せた。
「殿下。会議の前に、昨日の件の報告を」
「分かっている」
「見学席の位置は再調整します。補助紐も導入する方向で」
「レオンハルト公の案だね」
「妥当です」
ダリオは短く答え、そこでレオンハルトへ視線を向けた。
「昨日は、助かった」
「当然のことをしただけです」
「その当然が遅れれば怪我人が出た」
ダリオは真面目に頭を下げた。
レオンハルトは、少しだけ目を伏せる。
「次からは、出ないようにすればいい」
「ああ」
短いやり取り。
だが、そこにも信頼の芽があった。
ユリウスは二人を見て、少しだけ面白く思った。
ミリアがここにいたら、どんな顔をしただろう。
尊い、と言うだろうか。
解釈一致、と手帳に書くだろうか。
それとも、また顔に全部出てリタに叱られるだろうか。
想像すると、少し笑えた。
ダリオが不思議そうに見る。
「殿下?」
「いや。ミリアなら、今の君たちのやり取りも何か深読みするだろうなと思って」
「ロゼリア嬢の言葉は難しい」
「でも悪意はない、だろう?」
「ああ」
ダリオは、真面目に頷いた。
「悪意はない」
それを聞いて、ユリウスの胸が少し温かくなった。
ミリアは、もう一人ではない。
彼女を見ている者がいる。
自分も、その一人でありたい。
ただし、王太子としてではなく。
彼女を椅子に閉じ込める者としてではなく。
「殿下」
ダリオが促す。
「会議に遅れます」
「分かっている」
ユリウスは歩き出した。
背後で、レオンハルトも別方向へ歩き出す。
すれ違う瞬間、ユリウスは小さく言った。
「一ヶ月後、互いに逃げないようにしよう」
レオンハルトは足を止めずに答えた。
「逃げるつもりはありません」
「私もだ」
静かな火花が、廊下に残った。
王太子殿下の答えは、まだ完成していない。
けれど一つだけ、はっきりした。
ユリウスは、ミリアをただ手放すつもりも、ただ閉じ込めるつもりもなかった。
彼女に選ばせる。
そのために、自分も選ばれる覚悟と、選ばれない覚悟を持たなければならない。
王太子としてではなく。
ユリウスとして。
それは、王冠よりもずっと扱いにくい問いだった。




