第35話 冷血公爵様、天然で口説かないでください
抱き寄せイベントの翌朝。
わたくしは、紅茶に塩を入れかけた。
「お嬢様」
リタの声が、いつもより半音低かった。
その声で、わたくしは我に返る。
指先に摘んでいた白い粒を見下ろした。
砂糖ではない。
塩である。
なぜ。
なぜ紅茶へ塩を入れようとしたのか。
いや、理由は分かっている。
頭の中で、昨日のことが延々と再生されているからだ。
木剣が飛んできた瞬間。
低い声。
強い腕。
濃紺の外套。
近すぎる胸元。
耳元の呼吸。
そして。
『抱き寄せイベント』
レオンハルト様が、その言葉を覚えてしまった。
よりによって、あの冷血公爵様が。
わたくしの口から出た混乱語録を、拾って、記憶して、本人の前で言った。
これはもう、王国史に残る事件である。
少なくとも、わたくしの心臓史には残る。
「お嬢様」
「はい」
「それは塩でございます」
「……分かっているわ」
「今、紅茶へ入れようとなさいました」
「新しい味覚の探求よ」
「嘘が雑です」
「では、健康法」
「さらに雑です」
リタは無表情で、わたくしの手元から塩を回収した。
代わりに砂糖壺を置く。
「こちらが砂糖でございます」
「知っています」
「本当に?」
「リタ、わたくしを何だと思っているの」
「抱き寄せイベントの後遺症で、砂糖と塩の区別が怪しくなった令嬢です」
「言わないで!」
わたくしは両手で顔を覆った。
朝食室には父も母もいる。
父は新聞を読んでいた手を止めた。
母は紅茶のカップの向こうで目を輝かせた。
ああ、まずい。
非常にまずい。
「ミリア」
父が、ゆっくり新聞を下ろした。
「抱き寄せイベントとは何だ」
終わった。
朝から終わった。
「お父様、それは」
「昨日、訓練場で木剣が飛んできたことは聞いている」
父の顔が真面目になる。
そこには心配があった。
そして、その下に、父親特有の警戒がある。
「ヴァイスベルク公爵が、お前を庇ったことも聞いた」
「はい」
「それを……抱き寄せイベントと呼ぶのか?」
「呼びません」
即答した。
しかし、リタが横から静かに言う。
「昨日、お嬢様ご本人がそうおっしゃいました」
「リタ!」
「事実ですので」
事実禁止令は、またしても却下された。
父の顔が複雑になる。
「そうか。抱き寄せ……」
「お父様、復唱しないでくださいませ」
「すまない。父として処理に時間がかかっている」
「私もです!」
なぜ父娘で同じ方向に動揺しているのか。
母は扇を持っていないのに、扇が見えるような笑みを浮かべていた。
「まあ、よかったじゃないの。怪我がなくて」
「お母様、その言い方だと抱き寄せ部分を意図的に流していませんか」
「怪我がなかったことが一番大事よ」
「それはそうですが」
「そして、助けてくださったのがヴァイスベルク公爵様だったことも大事ね」
「お母様」
「だって、あの方、反射的に動かれたのでしょう?」
「……はい」
「考えるより先に、あなたを庇った。良いことだわ」
良いこと。
そう。
良いことなのだ。
レオンハルト様がいなければ、木剣はわたくしに当たっていたかもしれない。
怪我をしていたかもしれない。
助けてくださった。
それは紛れもない事実。
問題は、助け方があまりにも恋愛イベントだったことである。
「お母様」
「なあに?」
「私は、助けていただいたことには感謝しております」
「ええ」
「ただ、その……近かったのです」
母の笑みが深くなった。
父が胃薬を探し始めた。
わたくしは言った瞬間に後悔した。
「今のは忘れてくださいませ」
「無理ね」
母は即答した。
「母親だもの」
「母親とは?」
「娘の動揺を見守り、時には少し面白がり、必要な時は背中を押す存在よ」
「面白がる部分は削れませんか」
「削れないわ」
父が胃薬を飲みながら、低く呟いた。
「ヴァイスベルク公爵には、改めて礼を言う必要がある」
「お父様」
「ああ。礼は言う。だが、それとは別に、近かった件については」
「お父様、近かった件を公爵様に確認しないでくださいませ!」
「しかし父として」
「絶対にやめてください!」
朝食室の空気が妙な方向へ行きかけたところで、執事が救いのように現れた。
「お嬢様。王宮より使いの方が参っております」
「王宮?」
「はい。ヴァイスベルク公爵様より、お手紙でございます」
救いではなかった。
追撃だった。
父が胃薬をもう一粒見た。
母の目がさらに輝いた。
リタは当然のように銀盆を受け取る。
「お嬢様」
「今、読むの?」
「差出人が差出人ですので」
「どの意味で?」
「安全確認の可能性がございます」
つまり実用。
レオンハルト様ならありえる。
わたくしは震える指で封を切った。
手紙は短かった。
『昨日の件について、改めて確認したい。
本日午後、ロゼリア公爵邸を訪ねる。
怪我がないと言っていたが、時間が経って痛むこともある。
逃げるな。
ヴァイスベルク』
逃げるな。
最後が強い。
なぜ、わたくしが逃げる前提なのか。
逃げたいけれど。
「……午後、いらっしゃるそうです」
わたくしが言うと、父は目を閉じた。
「胃薬を用意しておこう」
「お父様」
母は楽しそうに微笑んだ。
「ミリア、今日は砂糖と塩を間違えないようにね」
「お母様まで!」
こうして、わたくしの平穏な午前は消えた。
午後。
ロゼリア公爵邸の小応接室。
わたくしは、リタに髪とドレスを整えられていた。
今日のドレスは、淡い菫色。
リタいわく「怪我の確認を受ける場なので、華美すぎず、ただし顔色が悪く見えないもの」とのこと。
実用的である。
レオンハルト様の影響が、リタのドレス選びにまで出ている気がする。
「リタ」
「はい」
「今日は本当に、ただの怪我確認よね」
「少なくとも表向きは」
「表向き?」
「ヴァイスベルク公爵様が、お嬢様のお顔を見て安心なさりたい可能性もございます」
「やめて」
「事実の可能性です」
「可能性なら事実ではないわ」
「ですが有力です」
「有力とか言わないで」
リタは、わたくしの袖口を整えながら淡々と言う。
「お嬢様。昨日の件以降、かなり挙動が不審です」
「失礼ね」
「紅茶に塩を入れかけました」
「それはもう聞いたわ」
「クッションを抱いて三度転がりました」
「寝具の点検です」
「昼間です」
「昼間の寝具点検」
「苦しいです」
「自分でも分かっているわ」
リタは、少しだけ表情を和らげた。
「怖いのですか」
その問いに、わたくしはすぐ答えられなかった。
怖い。
たしかに怖い。
でも、木剣の怖さとは違う。
レオンハルト様の腕が怖かったわけでもない。
むしろ、嫌ではなかった。
そこが一番怖い。
「……昨日のことを思い出すと、落ち着かないの」
「はい」
「助けていただいたのは分かっているの。感謝しているわ。怪我をしなくてよかったとも思っている」
「はい」
「でも、近かったのよ」
「はい」
「声も、腕も、外套も」
「はい」
「なのに公爵様は、その後すぐ安全確認と座席配置の話をなさるの」
「はい」
「私だけが、恋愛イベントの直撃でばたばたしているみたいで……何だか悔しいわ」
言ってしまった。
リタは、少しだけ瞬きをした。
それから、静かに言う。
「お嬢様」
「何?」
「それは、恋です」
「また!」
「いえ、今回はかなり正式に」
「正式な恋診断とは何なの?」
「自分だけが動揺しているのが悔しい、という段階です」
「経験者みたいに言わないで」
「観察者でございます」
「あなたも観測者だったの?」
「お嬢様専属の」
敵わない。
リタはずっと、わたくしを見ている。
わたくしが壁になりたいと言いながら、誰よりも壁に向いていないところも。
推し活を盾にして逃げるところも。
レオンハルト様の名前で肩が跳ねるところも。
全部。
「リタ」
「はい」
「私は、本当に恋をしているのかしら」
「私に聞くより、ご自分に聞くべきかと」
「自分に聞いても、返事が曖昧なのよ」
「では、今は曖昧でよろしいのでは」
「え?」
リタは、珍しく優しく言った。
「お嬢様は、すぐに名前をつけたがります。推し、壁、観測、恋愛イベント。名前をつければ扱いやすくなるからでしょう」
「……」
「ですが、名前をつける前の気持ちもございます」
名前をつける前の気持ち。
それは、少し怖い言葉だった。
推し活なら分かる。
尊いなら分かる。
壁なら分かる。
恋なら、たぶん分かる。
でも、その手前の、まだ形にならないもの。
それが今、胸の中にある。
「名前をつける前の気持ち」
「はい」
「厄介ね」
「人間ですので」
「人間って面倒ね」
「はい」
リタは、少しだけ笑った。
その時、扉の外からノックがあった。
執事の声。
「お嬢様。ヴァイスベルク公爵様がお見えです」
来た。
心臓が一段跳ねる。
リタがわたくしを見る。
「お嬢様」
「はい」
「砂糖と塩はございませんので、ご安心を」
「そこから?」
「まずは事故防止です」
「実用的すぎるわ」
小応接室で、レオンハルト様を迎えた。
父は同席しようとしたが、母に「まずは怪我確認でしょう」と止められた。
ただし扉は開いており、リタも控えている。
形式上は問題ない。
心臓の形式は、やはり問題だらけである。
レオンハルト様は入ってくるなり、わたくしを見た。
顔色。
肩。
腕。
座り方。
視線が一つずつ確認していく。
甘い雰囲気など微塵もない。
完全に検分である。
「ロゼリア嬢」
「ごきげんよう、公爵様」
「右肩は」
「痛みません」
「腰は」
「痛みません」
「腕は」
「痛みません」
「眠れたか」
「……少し」
「リタ」
「昨夜は、やや寝つきが悪く」
「リタ」
「ですが、朝方にはお休みでした」
レオンハルト様の眉がわずかに寄る。
「やはり動揺していたか」
「公爵様」
「何だ」
「女性に向かって、やはり動揺していたか、と淡々と言うのはどうかと思います」
「動揺していなかったのか」
「しました」
「なら事実だ」
「事実禁止令を出します」
「却下だ」
「もう!」
いつものやり取り。
だが、今日はそのいつもが、少し恥ずかしい。
昨日抱き寄せられた相手と、いつもの調子で話す。
できるようで、できない。
わたくしの目は、どうしても彼の腕のあたりへ行ってしまう。
昨日、あの腕に引き寄せられた。
見てはいけない。
見てはいけない。
「腕が気になるのか」
ばれた。
終わった。
「見ておりません」
「見ていた」
「袖の縫製を」
「私の袖を?」
「ええ。大変よい仕立てですわ」
「そうか」
「はい」
「なら、あとで仕立屋の名を知らせる」
「そういう実用で返さないでくださいませ!」
リタが後ろで咳払いをした。
笑っている。
絶対に笑っている。
レオンハルト様は、ほんの少しだけ目元を緩めた。
「今日はよく怒る」
「公爵様が怒らせるからです」
「元気ならいい」
また。
またそういう言い方。
わたくしは言葉に詰まった。
怒らせて反応を見るのではなく、元気かどうか確認している。
この人は本当に、甘いのか実用なのか分からない。
「……ご心配をおかけしました」
わたくしは、少しだけ落ち着いて言った。
「助けてくださって、ありがとうございました」
「ああ」
「怪我がなかったのは、公爵様のおかげです」
「君が無事ならそれでいい」
短い。
短いのに、重い。
「公爵様」
「何だ」
「天然で口説かないでください」
言ってしまった。
また口が勝手に。
リタが背後で息を止めた。
レオンハルト様は、少しだけ目を細めた。
「口説いたつもりはない」
「だから天然と言っております」
「今のが口説き文句になるのか」
「なります。状況によっては」
「状況?」
「助けられた翌日に、怪我の確認に来られ、君が無事ならそれでいい、と言われた側の状況です」
「なるほど」
レオンハルト様は真面目に考えている。
やめて。
真面目に分析しないで。
「今後は注意する」
「本当に?」
「いや」
「なぜ撤回が早いのですか」
「必要なら言う」
「公爵様!」
「君が無事ならそれでいい、は事実だ」
「事実がすべて許されるわけではありません」
「なら、どう言えばいい」
問われて、止まった。
どう言えばいい。
どう言われれば、わたくしは動揺しないのか。
分からない。
そもそも、動揺しない言い方などあるのだろうか。
レオンハルト様がわたくしの無事を気にしている時点で、もう心臓に悪い。
「……分かりません」
正直に言うしかなかった。
「ですが、もう少し心臓に優しく」
「難しい注文だ」
「努力してくださいませ」
「善処する」
「絶対にしないお顔です」
「よく分かったな」
「最近、少し分かるようになってしまいました」
「いい傾向だ」
「よくありません」
言いながらも、少し笑ってしまう。
レオンハルト様も、ほんの少しだけ口元を緩めた。
その笑顔に、胸がまた揺れる。
名前をつける前の気持ち。
リタの言葉が頭をよぎった。
これは、まだ名前をつけきれない。
でも、確かにある。
レオンハルト様は、ふいに真面目な顔に戻った。
「ロゼリア嬢」
「はい」
「昨日のことだが」
「はい」
「君が怪我をしなかったのは幸いだった。だが、私は怒っている」
「怒っている?」
「ああ」
彼の声は低かった。
「君が危ない場所にいたことに。配置を確認しきれなかったことに。木剣が飛んだことに。そして、君がその後すぐ他人を安心させようとしたことに」
胸が痛んだ。
「私は」
「君は怖かったと言った。それはよかった」
「よかったのですか?」
「言えたからな」
レオンハルト様は、こちらを見つめた。
「だが、その後すぐ殿下と騎士団長を気遣った。自分の怖さを後ろへ押しやった」
「……癖です」
「知っている」
「直した方がいいのですよね」
「少しずつでいい」
意外だった。
てっきり「直せ」と言われると思っていた。
レオンハルト様は続ける。
「一度で変われるなら、苦労はしない」
「公爵様でも?」
「私でもだ」
その声が、少しだけ人間らしかった。
冷血公爵様。
何でもできるように見える人。
でも、この人にも変われないこと、苦労することがあるのだろうか。
「公爵様にも、変えにくい癖があるのですか」
「ある」
「たとえば?」
「言葉が足りない」
「自覚がおありで」
「最近よく言われる」
「誰に?」
「兄上に」
宰相クラウス様。
姿はなくても、強い。
「兄上には、何と言われるのですか」
「お前は気持ちを事務連絡にする、と」
わたくしは、つい笑ってしまった。
「申し訳ありません。あまりにも的確で」
「笑うな」
「無理です」
レオンハルト様の眉が少し寄る。
でも、本気で怒ってはいない。
「では、公爵様」
「何だ」
「今も、気持ちを事務連絡にしておられますか」
聞いた瞬間、自分でも少し驚いた。
踏み込んだ。
かなり踏み込んだ。
リタの気配が、後ろで静かになる。
レオンハルト様は、しばらく黙った。
その沈黙が長く感じた。
やがて彼は、低く言った。
「しているかもしれない」
胸が鳴る。
「怪我の確認も、安全配置の見直しも、外出経路の指定も、全部必要だ」
「はい」
「だが、それだけではない」
声が、少しだけ低くなる。
「君が傷つくのは、不快だ」
不快。
この人らしい言い方。
甘い愛の言葉ではない。
けれど、だからこそ本音に近い気がした。
「公爵様」
「何だ」
「それも、かなり心臓に悪いです」
「またか」
「またです」
「なら、慣れろ」
「無茶ですわ」
「私は今後も言う」
「だから無茶です!」
レオンハルト様は、少しだけ目元を和らげた。
「それと」
「まだあるのですか」
「ああ」
「心臓の準備が」
「私の届く場所にいろ」
準備する前に来た。
破壊力。
過剰。
完全に過剰。
「……公爵様」
「何だ」
「天然で口説かないでくださいと申し上げた直後に、それを言いますか」
「口説いたつもりはない」
「だから天然です!」
「君が私の届かない場所で怪我をする方が困る」
「安全確認ですか」
「それもある」
「それも」
「それだけではない」
また。
また逃げ道を塞ぐ。
この人は短い言葉で、どうしてこんなに踏み込んでくるのか。
わたくしは、カップを持っていなくてよかったと思った。
持っていたら絶対に落としていた。
「公爵様」
「何だ」
「私の心臓にも、安全確認をしてくださいませ」
「どうすればいい」
「今のような台詞を急に投げない」
「難しい」
「なぜですか」
「必要な時に言うからだ」
「必要の判断が強い!」
リタが背後で小さく言った。
「お嬢様、深呼吸を」
「リタ、今の聞いていたわよね?」
「はい」
「どう思う?」
「恋です」
「即答しないで!」
「かなり濃厚です」
「濃厚という言葉を使わないで!」
レオンハルト様がリタを見る。
「恋なのか」
「公爵様が聞かないでくださいませ!」
わたくしは思わず叫んだ。
リタは一礼したまま、澄ました声で言う。
「少なくとも、お嬢様はかなり動揺しておられます」
「それは分かる」
「分からないでください!」
「顔に出ている」
「顔!」
もう顔を隠したい。
しかし、ここで顔を隠すとさらに動揺を認めることになる。
わたくしは必死に淑女の姿勢を保った。
たぶん保てていない。
「ロゼリア嬢」
レオンハルト様が、少しだけ声を柔らかくした。
「今すぐ答えを求めているわけではない」
「はい」
「君は考えている途中だ」
「はい」
「殿下とのことも、自分の立つ場所も、私のことも」
「はい」
「なら、考えろ。ただし、考えるために自分を削るな」
手紙と同じ。
食事と睡眠は削るな。
倒れるな。
それは優しさであり、命令であり、安全確認であり。
たぶん、気持ちでもある。
「……はい」
わたくしは、ようやく素直に頷いた。
「努力します」
「善処ではなく?」
「努力します」
「よし」
また褒められた。
なぜだろう。
少し悔しいのに、少し嬉しい。
「公爵様」
「何だ」
「私も、一つ言ってよろしいですか」
「ああ」
「公爵様も、ご自分を削らないでくださいませ」
レオンハルト様が、少しだけ目を見開いた。
本当に、少しだけ。
でも分かった。
「私が?」
「はい。昨日の件も、今日の訪問も、書類も安全確認も。公爵様はいつも必要だとおっしゃいますが、必要を全部背負えば疲れます」
「私は」
「大丈夫だ、とおっしゃるなら、わたくしも次から大丈夫ですとだけ返します」
レオンハルト様が黙った。
リタが背後で、ほんの少しだけ満足そうな気配を出した。
勝った。
少しだけ勝った気がする。
レオンハルト様は、やがて低く言った。
「……気をつける」
「はい」
「君に言われるとは思わなかった」
「私も言うとは思いませんでした」
「なら、互いに努力だな」
「はい」
互いに。
その言葉が、妙に胸に残った。
一方的に守られるだけではない。
わたくしも、少しはこの人を気遣える。
それが嬉しいと思ってしまう自分がいた。
面会が終わる頃、レオンハルト様は立ち上がった。
「今日は休め」
「はい」
「手帳には、怪我がなかったことと、怖かったことと、無事だったことを書け」
「また指定なさる」
「抱き寄せイベントのことだけ書くな」
また言った。
わたくしは両手で顔を覆いそうになった。
「公爵様!」
「何だ」
「忘れてくださいと申し上げました」
「難しいと言った」
「難しいのですね」
「ああ」
レオンハルト様は、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「君の顔が、やはり面白かった」
「からかわないでくださいませ!」
「少しだけだ」
「少しでもです!」
リタが後ろで、ついに小さく笑った。
わたくしは振り返る。
「リタまで」
「申し訳ございません。ですが、お嬢様があまりにもお元気になられましたので」
「怒りで?」
「はい」
レオンハルト様が静かに言う。
「元気ならいい」
「またそれ!」
そう言いながら、わたくしは笑ってしまった。
困ったことに、怒っているのに笑ってしまった。
レオンハルト様も、ほんの少しだけ笑った。
冷血公爵様は、天然で口説く。
本人にはそのつもりがない。
いや、ないと言いながら、本当に全部ないのかは分からない。
気持ちを事務連絡にする人。
安全確認の形で心配をする人。
「君が傷つくのは不快だ」と言う人。
「私の届く場所にいろ」と言う人。
どう考えても、心臓に悪い。
面会後、わたくしは手帳を開いた。
リタが部屋の隅で見ているが、もう隠す気力がない。
『冷血公爵様、天然で口説かないでください。
怪我の確認に来てくださった。
右肩、腰、腕、睡眠時間まで確認された。
完全に安全確認。
でも、君が無事ならそれでいい、と言われた。
君が傷つくのは不快だ、と言われた。
私の届く場所にいろ、と言われた。
天然なのか、実用なのか、口説いているのか、全部なのか分からない。
心臓に悪い。
でも、嫌ではない。
ここが一番問題。』
最後まで書いて、ペンを置いた。
すると、リタが言った。
「お嬢様」
「なに?」
「最後の一文、昨日も似たようなことを書かれませんでしたか」
「見ていないと言っていたのに」
「顔で分かります」
「顔面日記帳問題が深刻すぎるわ」
「ですが、お嬢様」
リタは、少しだけ優しく微笑んだ。
「嫌ではない、と書けるようになったのは、進歩かと」
進歩。
そうなのだろうか。
まだ恋とは認めきれない。
名前をつける前の気持ち。
それが胸の中で、少しずつ形を持ち始めている。
怖い。
でも、嫌ではない。
やはり、そこが一番問題だ。
わたくしは手帳を閉じ、深く息を吐いた。
「リタ」
「はい」
「恋愛イベントって、参加者になると本当に疲れるわね」
「はい」
「でも」
「はい」
「次に公爵様に会うのが、少しだけ楽しみだと思ってしまうの」
言ってから、目を閉じた。
もう逃げられない。
リタは、静かに言った。
「それは、かなり進歩でございます」
「恋です、とは言わないの?」
「今日は申し上げません」
「なぜ?」
「お嬢様が、ご自分で気づきかけておられますので」
その言葉が、一番心臓に悪かった。
レオンハルト様だけではない。
リタも時々、破壊力が高い。
わたくしは手帳を胸に抱え、天井を見上げた。
冷血公爵様。
天然で口説かないでください。
そう思うのに。
次はどんな言葉をくれるのかと、少しだけ待ってしまう自分がいた。




