第34話 抱き寄せイベントは突然に
推しカプ観測会は、わたくしの予想を大きく超えていた。
正確に言うなら、観測会ではなく、参加型訓練補助になっていた。
なぜ。
なぜ、わたくしは王太子殿下と騎士団長様の剣術訓練を見学するだけのつもりで来たのに、いつの間にか「人の距離を見る目が使える」と評価されているのか。
壁志望者への風当たりが強すぎる。
しかも、ダリオ様から「壁より役に立つ」と言われた。
推しに実用評価されたので、嬉しい。
嬉しいのだが、壁としては完全に敗北である。
その後も訓練は続いた。
ユリウス殿下とダリオ様は、木剣を交えながら、時折こちらへ視線を向ける。
わたくしは、気づいたことをぽつぽつと伝えた。
「殿下、今のところは受ける前に肩が少し上がっておりました」
「肩?」
「はい。グランツ卿が踏み込む直前、殿下が一瞬だけ防ぐ方へ意識を置きすぎたように見えました」
「なるほど。ダリオ、そう見える?」
「見える。殿下は考えすぎると肩に出る」
「君は本当に容赦がないね」
「訓練ですので」
このやり取りが自然に出てくる。
ありがたい。
非常にありがたい。
わたくしは内心で拍手喝采していたが、表面上は淑女らしく頷くだけにした。
成長である。
たぶん。
隣ではセシリア様が、両手を膝の上で握り、真剣に二人を見つめている。
「あの、ミリア様」
「はい、セシリア様」
「私、剣のことは全然分からないのですけれど……グランツ卿は、殿下に勝つためというより、殿下がどこまでできるかを確かめているように見えます」
セシリア様。
今日も観察眼が冴えている。
可愛いだけではない。
鋭い。
素直で、怖がりで、でもちゃんと見ている。
「その通りだと思いますわ」
「本当ですか?」
「ええ。グランツ卿はただ倒そうとしているのではなく、殿下が今どこまで踏み込めるか、どこで崩れるかを見ていらっしゃるのだと思います」
「すごいですね」
「はい。非常に」
非常に。
言葉を抑えた自分を褒めたい。
本当は「非常に尊いです」と言いたかった。
だが、そこまで言うとリタが止める。
案の定、背後から静かな声がした。
「お嬢様、表情が語っております」
「まだ口には出しておりません」
「顔が先に言っております」
「顔を黙らせる方法はないのかしら」
「難しいかと」
リタは真顔で答えた。
自分の顔を制御できない公爵令嬢。
社交界に向いているのか不安になる。
その時、訓練場の入口の方がわずかにざわついた。
騎士たちが一瞬だけ姿勢を正す。
誰かが来たのだろうか。
振り向くより先に、聞き慣れた低い声がした。
「続けろ。見学に来ただけだ」
心臓が跳ねた。
この声。
まさか。
いや、まさかではない。
振り返ると、そこにはレオンハルト様がいた。
濃紺の外套。
銀灰色の髪。
いつも通りの冷えた目。
王宮騎士団の訓練場にいる冷血公爵様。
なぜ。
どうして。
今日は招待状に名前がなかったはず。
「お嬢様」
リタが小声で言った。
「カップは持っておりません」
「それは安心材料ではあるけれど、問題はそこではないわ」
「深呼吸を」
「できているわ」
「少し浅いです」
「あなた、本当に呼吸まで見るのね」
「侍女でございますので」
万能の言葉。
便利すぎる。
レオンハルト様は、騎士団の副官らしき人物と短く話したあと、こちらへ歩いてきた。
近づいてくる。
近づいてくる。
わたくしの心臓の動きが、騎士団の訓練太鼓より騒がしい。
レオンハルト様は、見学席の少し横で足を止めた。
「ロゼリア嬢」
「ごきげんよう、公爵様」
「顔が赤い」
「第一声がそれですか」
「事実だ」
「本当に事実派ばかり」
レオンハルト様の視線が、わたくしの膝、手元、顔色と順に動く。
完全に安全確認である。
「体調は」
「問題ございません」
「睡眠は」
「昨夜はきちんと眠りました」
「リタ」
なぜそこでリタを見る。
リタは一礼した。
「昨夜は比較的よくお休みでした」
「比較的」
「リタ!」
「嘘は申し上げられません」
レオンハルト様は少しだけ眉を寄せた。
「考えすぎたか」
「少しだけです」
「少しだけで済んだのか」
「……少しよりは、やや」
「やや」
「公爵様、尋問のようです」
「必要確認だ」
「必要が強い」
セシリア様が、わたくしとレオンハルト様を交互に見て、少し頬を染めている。
その顔は、完全に応援団の顔だった。
やめてください。
ヒロイン様。
その温かいまなざしは今、とても逃げ場をなくします。
訓練場の中央から、ユリウス殿下の声が飛んできた。
「レオンハルト公、来ていたのか」
「警備と書類確認のついでです」
「ついでにしては、こちらを見る時間が長いね」
「危険がないか見ているだけです」
「誰の?」
「訓練場全体の」
即答。
だが、殿下は楽しそうに笑った。
「そういうことにしておこう」
レオンハルト様は無表情のままだった。
ただ、ほんの少しだけ視線がこちらへ戻る。
やめて。
その無言の確認が、一番心臓に悪い。
ダリオ様が木剣を構え直した。
「殿下、続けますか」
「もちろん。ミリアが見ている前で、あまり負けてばかりもいられないからね」
「勝ち負けにこだわると崩れます」
「本当に容赦がない」
「訓練ですので」
尊い。
また出た。
訓練ですので。
ダリオ様の真面目さが詰まった台詞。
わたくしは思わず背筋を伸ばした。
レオンハルト様が横から低く言う。
「何を見ている」
「訓練です」
「それは分かる」
「殿下とグランツ卿の信頼関係を」
「また信仰か」
「今日はまだ信仰とは言っておりません」
「顔が言っている」
「顔、やはり黙って」
レオンハルト様の目元が、ほんの少し緩んだ。
笑った。
いや、今は訓練を見る場。
集中。
集中しなければ。
ユリウス殿下とダリオ様が、再び剣を交える。
先ほどより少し速い。
殿下も慣れてきたのか、足の運びが軽い。
ダリオ様はそれを受け、時折踏み込みを変える。
木剣の音が響く。
乾いた、鋭い音。
殿下が一歩踏み込む。
ダリオ様が受ける。
殿下が体勢を低くして、右へ回り込む。
ダリオ様がそれを読んで剣を返す。
その瞬間。
乾いた音が、ひときわ高く響いた。
木剣が弾かれた。
どちらのものか分からない。
ただ、目の端で何かが回転した。
木剣が、訓練場の砂を跳ね、見学席の方へ飛んでくる。
え。
そう思った時には、もう遅かった。
身体が固まった。
セシリア様が小さく息を飲む。
リタの足音が聞こえる。
けれど、それより早く。
「危ない」
低い声。
強い腕。
視界が、急に反転した。
わたくしの身体は、横から引き寄せられていた。
背中ではなく、肩と腰を支えられるように。
レオンハルト様の腕の中。
濃紺の外套の匂い。
少し冷たい風。
近すぎる胸元。
耳元に、低い呼吸。
木剣が、わたくしの座っていた椅子の脚に当たり、乾いた音を立てて転がった。
ほんの少しの間。
訓練場全体が、止まった。
わたくしも止まった。
息も、思考も、たぶん魂も。
抱き寄せられている。
レオンハルト様に。
抱き寄せられている。
これは。
これは。
これは攻略対象がヒロインにするイベントでは?
なぜ、わたくしに来た。
なぜ、悪役令嬢に来た。
なぜ、本人参加型恋愛イベントが突然発生した。
「ロゼリア嬢」
レオンハルト様の声が、すぐ近くで聞こえる。
「怪我は」
近い。
声が近い。
心臓が危険。
「……ございません」
「本当に?」
「はい」
「どこか痛むか」
「心臓が」
言ってから、固まった。
違う。
違う違う違う。
これは口に出すべきではなかった。
レオンハルト様も一瞬、動きを止めた。
すぐ横で、リタが咳払いをする。
セシリア様が両手で口元を押さえている。
ユリウス殿下は訓練場の中央で目を見開き、ダリオ様は顔色を変えてこちらへ向かってきている。
わたくしは消えたい。
できれば今すぐ床と同化したい。
いや、砂地なので砂と同化したい。
「心臓が痛むのか」
レオンハルト様が真面目に聞く。
やめて。
真面目に聞かないで。
「違います。違いますわ。物理的な意味ではなく、その、驚きによる一時的な鼓動の乱れであり」
「なら座れ」
「すでに抱き寄せられておりますので、座る以前の問題です」
そこで、レオンハルト様がようやく自分の腕の位置を認識したらしい。
ほんの一瞬だけ、目が動いた。
そして、ゆっくりとわたくしを離した。
惜しい。
いや、違う。
離れて正しい。
今、惜しいと思った自分は反省してほしい。
レオンハルト様は、わたくしを椅子へ座らせる。
手つきは丁寧だった。
しかし顔は冷たい。
怒っている。
これは怒っている。
「リタ」
「はい」
「彼女の怪我を確認しろ」
「かしこまりました」
「公爵様、わたくしは本当に」
「確認しろ」
「はい」
強い。
レオンハルト様の確認しろは、王命のように強い。
リタがわたくしの手首、肩、袖、膝周りを素早く確認する。
「外傷はございません。強いて言えば、動揺が激しいです」
「リタ!」
「事実ですので」
「今それを言わないで」
「今だから申し上げております」
セシリア様が駆け寄ってきた。
「ミリア様! 大丈夫ですか? どこか痛いところは? 怖くありませんでしたか?」
「セシリア様、大丈夫です。本当に」
「でも、お顔が真っ赤です」
「それは別件です」
「別件?」
「ええ。訓練場特有の……熱気」
「今日は風が涼しいです」
セシリア様まで真実を刺してくる。
ヒロイン様の純粋さが、時に一番鋭い。
ユリウス殿下とダリオ様もやって来た。
殿下は木剣の方を見てから、わたくしへ向き直る。
「ミリア、すまない。私の剣だ」
「殿下の?」
「ダリオの受けを読み違えた。手首が緩んだ」
殿下の顔は、本気で青ざめていた。
爽やかな王太子の顔ではない。
自分の失敗で誰かを危険にさらした青年の顔。
「殿下、私は何ともありません」
「でも、危なかった」
「はい。ですが、怪我はありません」
「レオンハルト公がいなければ」
殿下がレオンハルト様を見る。
レオンハルト様は低く答えた。
「彼女の席が近すぎた」
「見学席の位置は騎士団で確認した」
ダリオ様が悔しそうに言う。
「それでも近い」
「……俺の責任だ」
「グランツ卿」
ダリオ様の顔が硬い。
この人は、こういう時に自分を責める。
訓練場の安全管理。
王太子殿下の剣。
見学者の位置。
全部、騎士団長として背負ってしまう。
わたくしは、慌てて言った。
「グランツ卿、どうかご自分を責めないでくださいませ。わたくしが少し前のめりで見ていたこともありますし」
「お嬢様」
リタが低く言う。
「今、余計に自分側へ責任を寄せようとしましたね」
「違うわ」
「違いません」
レオンハルト様の視線が鋭くなる。
「ロゼリア嬢」
「はい」
「君が座っていた位置で木剣が飛んできた。それ以上でも以下でもない。君が責任を引き取る話ではない」
「でも」
「でもではない」
即断。
容赦なし。
心臓に悪い。
しかし、今は少しありがたい。
ダリオ様も、深く息を吐いた。
「いや、配置は見直す。次からは見学席をもう一段下げる」
「それがいい」
レオンハルト様が言う。
「それと、見学者がいる時は木剣に補助紐をつけろ」
「そこまでするか?」
「飛んだだろう」
「……分かった」
ダリオ様が頷く。
レオンハルト様とダリオ様が安全策について話し始めた。
真剣。
非常に真剣。
わたくしはその様子を見ながら、先ほどの抱き寄せを思い出していた。
腕。
近さ。
声。
濃紺の外套。
心臓。
心臓。
心臓。
「ミリア」
ユリウス殿下の声で、我に返る。
「はい」
「本当に大丈夫?」
「はい。殿下こそ、お怪我は?」
「私は大丈夫。けれど、君を危険にさらした」
「わたくしは無事です。殿下がご自分を責めすぎる方が困ります」
「君はすぐそう言う」
殿下は苦笑した。
「人を安心させるために、自分の怖さを後回しにする」
「……」
何も言えなかった。
殿下の目も、最近鋭い。
皆、わたくしの逃げ癖を見抜くのが上手くなりすぎている。
「怖かった?」
殿下が静かに聞いた。
わたくしは、一瞬迷った。
怖くなかったと言えば、また怒られる。
だから、正直に言う。
「木剣が飛んできた時は、怖かったです」
「うん」
「その後は……別の意味で怖かったです」
「別の意味?」
殿下が少し目を細めた。
わたくしは黙った。
殿下はレオンハルト様を見た。
そして、なぜか納得した顔をした。
「なるほど」
「殿下、納得しないでくださいませ」
「してしまった」
「しないでください」
「難しいね」
セシリア様が小さく言った。
「レオンハルト様、すごく早かったです。私、何が起きたのか分かりませんでした」
「私もです」
わたくしは正直に言った。
「気づいたら、抱き寄せられていました」
自分で言って、また顔が熱くなる。
なぜ言った。
今日の口は、管理が甘い。
リタが背後で小さく息を吐く。
「お嬢様。事実ではございますが、言葉にすると破壊力がございます」
「あなたがそれを言う?」
「はい」
セシリア様は頬を赤くしながら、しかし真剣に言った。
「でも、よかったです。ミリア様が怪我をされなくて」
「ありがとうございます、セシリア様」
「私、少し泣きそうになりました」
「泣かないでくださいませ。セシリア様が泣くと、わたくしが動揺します」
「ミリア様が動揺すると、レオンハルト様が心配されます」
「なぜそこで公爵様が」
「だって、さっきからずっと見ていらっしゃいます」
え。
見ると、レオンハルト様はダリオ様との話を終え、こちらを見ていた。
本当に見ていた。
逃げたい。
でも、逃げたらまた見つかる。
「ロゼリア嬢」
「はい」
「今日はこれ以上の見学は中止だ」
「え?」
思わず声が出た。
「ですが、訓練は」
「中止だ」
「わたくしは本当に」
「君の見学は中止だ」
「私だけ?」
「君が一番動揺している」
「それは」
「違うと言えるか」
言えない。
言えないが、理由が木剣ではなく抱き寄せイベントなのが問題である。
「公爵様、訓練を途中でやめてしまうのは」
「殿下と騎士団長は続ければいい。君は休む」
「わたくしだけ退場ですか」
「退場ではない。休憩だ」
「似ています」
「違う」
ユリウス殿下が少し考えたあと、頷いた。
「そうだね。今日はここまでにしよう。ミリアが怪我をしなくてよかったけど、無理をさせる場ではない」
「殿下まで」
「私も少し落ち着きたい」
そう言われると、何も言えなくなった。
殿下も本当に怖かったのだろう。
ダリオ様も頷く。
「安全確認をやり直す。今日は終了にした方がいい」
「グランツ卿まで」
「当然だ」
推しまで当然。
これはもう無理だ。
わたくしは小さくため息をついた。
「分かりました」
レオンハルト様が少しだけ表情を緩める。
「珍しく聞き分けがいい」
「皆様が全方位から押してくるからです」
「味方が多いな」
「味方の包囲網です」
殿下が笑った。
「それはいい言葉だね」
「よくありません」
その後、見学は中止となった。
訓練場の騎士たちは安全確認に入り、ダリオ様は副官たちに指示を出している。
殿下はわたくしへ改めて謝り、わたくしは無事だと何度も伝えた。
セシリア様は最後まで心配してくれて、手を握ってくれた。
「ミリア様、今日はゆっくり休んでくださいね」
「はい。セシリア様も驚かれたでしょう」
「はい。でも、レオンハルト様が本当に素早くて……」
セシリア様は、少し言いにくそうに続けた。
「その、ミリア様をとても大切にされているのだなと思いました」
心臓が、また暴れた。
「セシリア様」
「すみません。余計なことを」
「余計ではありませんが、心臓に悪いです」
「やっぱり心臓が」
「物理的ではなく」
「恋ですか?」
「セシリア様!」
ヒロイン様が直球を覚えてしまった。
リタの教育だ。
絶対にリタの教育だ。
リタは知らん顔をしている。
帰りは、レオンハルト様が馬車寄せまで送ることになった。
なぜかではない。
当然のように。
ユリウス殿下もダリオ様も止めなかった。
セシリア様は応援するような顔だった。
逃げ場がない。
王宮の回廊を歩きながら、わたくしは隣のレオンハルト様を見ないように努力した。
見たら思い出す。
腕。
近さ。
声。
外套。
思い出す。
「ロゼリア嬢」
「はい」
「歩幅が乱れている」
「公爵様のせいです」
言ってしまった。
レオンハルト様がこちらを見る。
「私のせいか」
「……半分」
「残りは」
「木剣です」
「では、私は木剣と同程度か」
「違います。公爵様の方が心臓に悪いです」
また言ってしまった。
今日の口は完全に駄目である。
レオンハルト様は黙った。
わたくしは慌てる。
「今のは、その、助けていただいたことへの動揺で」
「嫌だったか」
足が止まりそうになった。
レオンハルト様の声は、いつもより少し低かった。
嫌だったか。
それは、抱き寄せられたことを聞いているのだろう。
わたくしは、すぐには答えられなかった。
嫌ではなかった。
全然、嫌ではなかった。
むしろ。
いや、その先を考えるな。
考えるな。
でも、答えなければならない。
「……嫌では、ありませんでした」
声が小さくなった。
レオンハルト様は、黙っている。
わたくしは、顔が熱くなるのを感じながら続けた。
「ただ、驚きました。とても。あのようなことは、普通、物語の中で攻略対象がヒロインにするものだと思っておりましたので」
「攻略対象?」
「いえ、こちらの話です」
「また君の信仰か」
「今回は信仰というより、恋愛演出の話です」
「余計に分からない」
「分からなくて大丈夫です」
レオンハルト様は少しだけ眉を寄せた。
「分かったことはある」
「何でしょう」
「君は、危険が迫っている時に固まる」
「……」
「次からは、動け」
「次がある前提は嫌です」
「ない方がいい。だが、あるかもしれない」
「はい」
「そして、危ない場所に座るな」
「座席指定でした」
「なら、指定した者に言え」
「公爵様、今日も実用に戻りますね」
「実用は大事だ」
「抱き寄せイベントの直後に安全指導をされる令嬢、なかなか珍しいと思います」
「怪我をするよりいい」
「それはそうです」
本当にそう。
この人は、甘さに見えたものをすぐ実用へ戻す。
だから、余計に困る。
どれが恋で、どれが安全確認で、どれがレオンハルト様自身の気持ちなのか。
分からなくなる。
でも、全部が混ざってこの人なのかもしれない。
馬車寄せに着くと、リタがすでに待っていた。
相変わらず仕事が早い。
レオンハルト様は、わたくしが馬車に乗る前に言った。
「今日は休め」
「はい」
「訓練のことを手帳に書くなら、怪我をしなかったことも書け」
「そこまで指定なさるのですか」
「君は余計なことばかり書きそうだ」
「余計なこととは」
「抱き寄せイベント」
終わった。
レオンハルト様が。
抱き寄せイベントと。
言った。
わたくしは馬車の段に足をかけたまま固まった。
「公爵様」
「何だ」
「その言葉を、どこで」
「君が先ほど言った」
「覚えないでください!」
「印象に残った」
「忘れてください!」
「難しい」
「なぜ!」
レオンハルト様は、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「君の顔が面白かった」
「公爵様!」
からかわれた。
冷血公爵様にからかわれた。
しかも、抱き寄せイベントという言葉を覚えられた。
もう駄目だ。
この世界は終わりです。
いや、終わらない。
馬車に押し込まれるように乗せられた。
リタが向かいに座る。
レオンハルト様は外から言った。
「ロゼリア嬢」
「はい……」
「無事でよかった」
からかいの後に、それを言うのはずるい。
わたくしは、返事に少し詰まった。
「……助けてくださって、ありがとうございました」
「ああ」
短い返事。
でも、ちゃんと届いた。
馬車が動き出す。
レオンハルト様の姿が遠ざかる。
わたくしは、しばらく窓の外を見ていた。
リタが静かに言う。
「お嬢様」
「なに?」
「本日は、抱き寄せイベントでしたね」
「リタまで!」
「私も覚えました」
「忘れて!」
「難しいです」
「皆、記憶力が良すぎるわ!」
リタは少しだけ笑った。
わたくしは両手で顔を覆う。
頬が熱い。
心臓がまだうるさい。
怖かった。
助かった。
恥ずかしかった。
嫌ではなかった。
最後の一つが、一番厄介だった。
屋敷に戻ってから、わたくしは手帳を開いた。
書くべきか迷った。
だが、書かなければ頭の中で永遠に反芻する気がした。
だから書いた。
『抱き寄せイベントは突然に。
訓練中、木剣が見学席へ飛んできた。
レオンハルト様が庇ってくださった。
反射が早すぎる。
腕が近かった。声も近かった。外套の匂いもした。
心臓が危険だった。
怪我はなかった。
無事だった。
とても怖かった。
でも、嫌ではなかった。
ここが一番問題。』
そこまで書いて、ペンを止める。
少し迷って、最後に一行足した。
『恋愛イベントは、観測するものだと思っていた。
まさか自分に直撃するとは聞いていません。』
手帳を閉じる。
その瞬間、リタが背後から言った。
「お嬢様」
「見ていないわよね」
「見ておりません」
「本当?」
「ただ、お顔でだいたい分かります」
「顔面日記帳!」
リタは真顔で言った。
「本日の結論は、恋愛イベント直撃、処理不能、でしょうか」
「読まないで!」
「読んでおりません」
「なお悪いわ!」
わたくしは枕に顔を埋めた。
推しカプ観測会のはずだった。
殿下とグランツ卿の尊い訓練を見て、セシリア様と癒やしの時間を過ごし、人の距離を見る目が少し役に立った。
それだけで終わるはずだった。
なのに、最後にレオンハルト様の抱き寄せイベントが発生した。
壁には戻れない。
それは分かっていた。
でも、こんな勢いで物語の中心へ投げ込まれるとは思わなかった。
わたくしは枕に顔を埋めたまま、くぐもった声で言った。
「リタ」
「はい」
「恋愛イベントって、観測する方が絶対に楽ね」
「はい」
「参加者は大変ね」
「はい」
「私、参加者なのね」
「今さらでございます」
今さら。
本当に今さら。
わたくしは、もう一度枕に顔を押しつけた。
心臓がまだ、落ち着かない。
抱き寄せイベントは突然に。
そして、その破壊力は、想像していたよりずっと厄介だった。




