第33話 推しカプ観測会、まさかの本人参加
王宮騎士団の訓練場を見学しないか。
その招待状が届いた時、わたくしは一度、静かに封書を閉じた。
そして、もう一度開いた。
文字は変わっていない。
『明後日の午前、王宮騎士団の訓練場にて、殿下とグランツ騎士団長の剣術訓練を行う。
先日の件で世話になった礼も兼ね、セシリア嬢とともに見学に来ないか。
形式ばらない場にしたい。
無理はしなくていい。
ユリウス』
殿下とグランツ騎士団長の剣術訓練。
殿下と。
グランツ騎士団長の。
剣術訓練。
わたくしは、手紙を胸に当てた。
「リタ」
「はい」
「これは、何かしら」
「王太子殿下からの訓練見学のお誘いでございます」
「違うわ」
「違うのですか」
「これは、推しカプ観測会の招待状よ」
「違います」
リタの否定は早かった。
わたくしは手紙を持ったまま振り返る。
「いいえ、これは観測会です。殿下とグランツ卿が、剣を交え、互いの呼吸を読み、幼少期から積み上げた信頼を一瞬の踏み込みで表現する神聖な儀式です」
「剣術訓練です」
「リタ、ものは言いようなのよ」
「それを言うなら、お嬢様の言いようがだいぶ特殊でございます」
「特殊ではなく解釈です」
「その解釈、本人方に聞かれたらどうなさるのですか」
「聞かせないわ。壁なので」
「壁は招待状を受け取りません」
痛い。
近頃、リタの壁論破が鋭すぎる。
わたくしは手紙をもう一度見る。
形式ばらない場。
無理はしなくていい。
殿下の気遣いが見える。
だが、その気遣いの裏で、わたくしの内なる観測者は小躍りしていた。
王太子殿下と騎士団長様の剣術訓練。
前世の乙女ゲームでは、回想と一枚絵で少しだけ語られた名場面である。
少年時代のユリウスが、王太子としての重圧から逃げ出した時、ダリオが何も言わず木剣を渡した。
泣き言を聞くでもなく、慰めるでもなく、ただ「打ってこい」と。
その後、二人は何度も訓練場で剣を交えた。
王太子と騎士。
主と臣下。
友と友。
その全部が、剣の音に重なっている。
はず。
たぶん。
絶対。
「行きます」
わたくしは言った。
「お嬢様。即答ですね」
「ええ。これは行かなければなりません」
「先日は、王太子妃になるか分からない、立ちたい場所が分からない、と深刻なお顔でしたのに」
「深刻な問題と推しカプ観測は両立します」
「便利な心ですね」
「そうでなければ生きていけませんわ」
リタは少しだけ呆れた顔をした。
でも、止めなかった。
「セシリア様もご一緒なら、心強いですね」
「そうね。セシリア様もいらっしゃるのよね」
わたくしはそこで、少しだけ冷静になった。
セシリア様。
ヒロイン様。
そして、王太子殿下と騎士団長様の訓練見学。
原作なら、これはヒロインが攻略対象の努力と信頼を見て胸を動かす場面かもしれない。
つまり。
「リタ」
「はい」
「これは、セシリア様と殿下の交流イベントにもなり得るわ」
「また始まりましたね」
「重要よ。セシリア様が殿下の王太子としてではない顔を知り、殿下もセシリア様の素直な感性に触れる。そこにグランツ卿の忠義が重なり、三者の関係性が深まる可能性が」
「お嬢様」
「なに?」
「今回は、観測しすぎて植木鉢の陰に入らないでくださいませ」
「訓練場に植木鉢はないでしょう?」
「柱や武具置き場の陰に入りかねませんので」
否定できない。
リタはわたくしをよく知っている。
そして当日。
王宮騎士団の訓練場は、思っていた以上に広かった。
白い砂が敷かれた円形の場。
周囲には木剣や槍の置き場。
少し高くなった見学席。
奥には騎士団の詰所が見える。
陽は高すぎず、風も穏やか。
訓練日和である。
わたくしは、淡い水色の外出着を選んだ。
派手すぎず、でも王宮で失礼にならない程度。
リタいわく「観測に適した色ではなく、令嬢として適切な色です」とのこと。
観測に適した色とは何かと聞いたら、「存在感を消す色を選びそうなので先に防ぎました」と言われた。
さすがである。
訓練場の入口に着くと、すでにセシリア様がいた。
「ミリア様!」
彼女は小走りで近づいてきた。
白い帽子に、淡い黄色のドレス。
訓練場という場所に少し緊張しているのか、両手を胸の前で握っている。
「セシリア様。ごきげんよう」
「ごきげんよう。あの、私、騎士団の訓練場は初めてで……少し落ち着きません」
「大丈夫ですわ。わたくしも内心は落ち着いておりません」
「ミリア様もですか?」
「ええ。別の意味で」
「別の意味?」
「尊さに備える心の準備です」
「尊さ?」
セシリア様が首を傾げる。
可愛い。
説明したいが、説明すると長くなる。
しかも、リタが後ろで「やめてくださいませ」という視線を送っている。
「つまり、殿下とグランツ卿の訓練は、きっと素晴らしいということですわ」
「はい。私も、殿下が剣を取られるところは初めて見ます」
「心して見ましょう」
「はい!」
セシリア様は素直に頷いた。
リタが小声で言う。
「お嬢様、布教しないでくださいませ」
「布教ではありません。事前説明よ」
「かなり宗教的でした」
「推し活は信仰に近いと以前から」
「公爵様にまた聞かれますよ」
その一言で、わたくしは周囲を見回した。
レオンハルト様は、いない。
今日は招待状には名前がなかった。
警備上、どこかで見ている可能性はあるが、少なくとも訓練場の見学席にはいない。
少し安心した。
少しだけ残念に思った。
……今の感情は、見なかったことにする。
見学席へ案内されると、まもなくダリオ様が現れた。
訓練用の服。
普段の礼装よりも動きやすく、余計な装飾がない。
肩幅や腕の筋肉が、いつもよりはっきり分かる。
騎士団長。
まさに騎士団長。
ありがとうございます。
世界に感謝。
ダリオ様はこちらへ歩いてくると、短く礼をした。
「ロゼリア嬢。セシリア嬢。今日は来てくれて感謝する」
「こちらこそ、お招きいただきありがとうございます」
わたくしは淑女らしく答えた。
内心では拍手喝采である。
セシリア様は少し緊張しながらも言った。
「グランツ卿、今日はよろしくお願いいたします」
「訓練を見るだけだ。堅くならなくていい」
「は、はい。ですが、騎士団の皆様の邪魔にならないかと」
「邪魔にはならない。殿下が招いた客だ」
ダリオ様の言い方は短い。
でも、怖くない。
誠実で、まっすぐ。
セシリア様も少し安心したように笑った。
そこへ、ユリウス殿下が現れた。
王太子の礼装ではなく、訓練用の服。
金髪を後ろで軽くまとめ、手には木剣。
普段の爽やかな王子様とは少し違う、若い青年らしい姿。
これは。
これは供給過多。
「ミリア、セシリア嬢。来てくれてありがとう」
殿下は笑った。
訓練着でも爽やか。
王太子力が服に依存していない。
「お招きいただき光栄です、殿下」
「今日は形式ばらない場だから、もう少し気楽にしてくれていいよ」
「気楽に」
「そう。君は気楽にしようとすると、逆に不審なほど硬くなるから」
「殿下までそのような観察を」
「分かりやすいからね」
「禁止令を出したい言葉ですわ」
「却下されるだろうね」
「誰に?」
「リタに」
背後でリタが一礼した。
「却下いたします」
「リタ!」
殿下が笑う。
ダリオ様も少しだけ口元を緩めた。
よい。
この空気、よい。
気楽なようで、長年の信頼が滲む。
ユリウス殿下はダリオ様へ振り向いた。
「では、始めようか」
「ああ」
返事が短い。
でも、それだけで通じている。
尊い。
わたくしは、手を膝の上でぎゅっと握った。
カップはない。
落とす心配はない。
見学席というのは素晴らしい。
ユリウス殿下とダリオ様が訓練場の中央へ向かう。
木剣を構える。
向かい合う。
風が、二人の間を通った。
最初に動いたのはダリオ様だった。
速い。
木剣が空気を切る音がする。
ユリウス殿下は、それを受けた。
金属ではないのに、鋭い音が響く。
木剣と木剣がぶつかり、二人の足が砂を踏む。
殿下は思っていたより軽やかだった。
王太子としての優雅さとは違う。
鍛えられた身体の動き。
きちんと積み重ねた人の剣。
ダリオ様は無駄がない。
一歩、半歩、剣の角度。
殿下の癖を知っているからこその踏み込み。
そして殿下も、ダリオ様の圧にただ押されるのではなく、次を読んでいる。
言葉がない。
でも、会話している。
剣で。
わたくしは、心の中で叫んだ。
公式が剣を振っている。
いや、違う。
これは公式ではない。
彼ら本人だ。
そう分かっているのに、心の中の限界オタクが畳の上で転がっている。
訓練場に畳はないが。
「ミリア様」
隣でセシリア様が囁いた。
「殿下、すごいですね」
「ええ」
「いつもは穏やかで優しい方ですけれど、剣を持つと少し違って見えます」
「そうですわね」
「グランツ卿も、すごく真剣で……怖いというより、殿下をちゃんと見ている感じがします」
セシリア様。
あなたの感性が鋭すぎる。
その通り。
ちゃんと見ている。
ダリオ様は、殿下を王太子としてだけでなく、訓練相手として、一人の剣士として見ている。
手を抜きすぎない。
かといって無茶に追い詰めすぎない。
殿下の呼吸を見て、踏み込みを変える。
信頼。
尊い。
「セシリア様」
「はい」
「今のお言葉、とても素晴らしいです」
「えっ?」
「グランツ卿は殿下をちゃんと見ている。これは本質です」
「そ、そうなのですか」
「はい」
力強く頷いたところで、リタが小声で言う。
「お嬢様、観測解説者になっております」
「静かにします」
しかし、静かにするのは難しかった。
訓練は数合続き、やがて殿下の木剣が弾かれた。
砂の上に転がる木剣。
殿下は両手を上げて苦笑した。
「参った」
「足が少し流れた」
ダリオ様が言う。
「分かっている。君は相変わらず容赦がないね」
「容赦していたら訓練にならない」
「そういうところは昔から変わらない」
「殿下も、逃げ癖は少し残っている」
「そこまで言う?」
「事実です」
事実派。
また事実派。
わたくしは思わず口元を押さえた。
殿下とダリオ様の会話。
自然すぎる。
長年の積み重ねが漏れている。
ありがとうございます。
このまま見学席で石像になりたい。
しかし、次の瞬間。
ユリウス殿下が、こちらを見た。
「ミリア」
嫌な予感がした。
「はい」
「今の、どう見えた?」
……。
どう見えた。
わたくしに。
聞いている。
なぜ。
観測者に意見を求めてはいけない。
観測者は壁であり、壁は発言しない。
いや、最近壁ではないと言ったばかりだった。
自業自得。
「ええと」
わたくしは淑女らしく微笑もうとした。
しかし、殿下の目は真剣だった。
ダリオ様も、こちらを見ている。
セシリア様も、なぜか期待の目。
リタは背後で「逃げるな」の気配を出している。
逃げ場なし。
「……殿下の最後の踏み込みは、美しかったと思います」
「美しい?」
殿下が少し驚く。
「はい。ただ、グランツ卿の剣を受けた直後、一瞬だけ足元が外へ流れました。たぶん、次に正面から押されると思われたのではなく、横から来ると読まれたのだと思います」
言ってから、自分で驚いた。
あれ。
わたくし、何を言っているのか。
剣術の専門知識などない。
ただ、見ていた。
人と人の距離。
視線。
呼吸。
関係性。
推しカプ観測で鍛えた、行間読み。
それが、妙な方向で働いたのかもしれない。
ダリオ様の眉が少し動いた。
「よく見ていたな」
「えっ」
「殿下は、俺が右から崩すと思って足を逃がした。だが、俺はその前に正面を押した」
合っていた。
当たってしまった。
なぜ。
「ミリア、すごいね」
殿下が笑う。
「君は剣術を習ったことがあるの?」
「ございません」
「では、なぜ分かったの?」
「その……人の距離を見る癖がありまして」
「人の距離」
殿下の目が、少し柔らかくなる。
「君らしいね」
「褒めておられます?」
「かなり」
殿下。
かなり褒め。
半分ではない。
セシリア様が嬉しそうに言う。
「ミリア様、すごいです!」
「いえ、たまたまですわ」
ダリオ様は真面目にこちらを見た。
「ロゼリア嬢」
「はい」
「もう一度、見てくれるか」
「え?」
「殿下の足運びについて、外から見て気づくことがあるなら聞きたい」
まさかの二度目。
観測者どころか、分析者にされている。
わたくしは慌てた。
「わ、わたくしは剣術の素人ですわ」
「それでいい」
「よくありません」
「剣を知っている者は、剣の理屈で見る。知らない者が気づく癖もある」
ダリオ様の声は真剣だった。
冗談ではない。
本気で、意見を求めている。
推し本人から。
どうしよう。
寿命が延びるのか縮むのか分からない。
「ミリア」
殿下が穏やかに言う。
「無理にとは言わない。でも、君が見たままを聞かせてくれるなら、私は嬉しい」
見たまま。
自分の言葉で。
昨日までのわたくしなら、逃げていたかもしれない。
壁なので、と。
でも今は。
壁にはなれないと、少し認めた後だ。
「……分かりました」
わたくしは小さく頷いた。
「ただし、素人の感想ですので」
「それでいい」
殿下とダリオ様が再び向かい合う。
セシリア様が隣で小さく囁いた。
「ミリア様、かっこいいです」
「今の私は、内心かなり震えております」
「でも、逃げませんでした」
「セシリア様までそういうことを」
「えへへ。リタ様に、ミリア様は逃げない時が一番綺麗ですと教わりました」
「リタ!」
背後を見ると、リタが澄ました顔で立っていた。
「事実ですので」
「また事実」
でも、胸が少し温かくなった。
訓練が再開される。
今度は、殿下の足元だけでなく、二人の視線も見る。
ダリオ様は攻める前に、ほんの一瞬だけ殿下の肩を見る。
殿下はそれを読んで受けようとする。
でも、ダリオ様はその読みをさらに読んで、剣筋を変える。
会話だ。
剣での会話。
わたくしは、思わず前のめりになった。
セシリア様も真剣に見ている。
リタは、たぶんわたくしが落ちないか見ている。
数合後、今度は殿下がうまく受け流した。
「よし」
殿下が嬉しそうに言う。
「今のは良かった」
ダリオ様も短く頷いた。
その後、二人がこちらへ戻ってくる。
「どうだった?」
殿下が聞く。
わたくしは少し考えた。
「先ほどより、殿下の足が外へ逃げませんでした」
「うん」
「ですが、グランツ卿が肩を見る瞬間に、殿下が少しだけ先に反応なさったように見えます」
ダリオ様が目を細める。
「続けてくれ」
「ええと……殿下はグランツ卿の癖をご存じなので、その肩を見る動きで次を予測しておられるのだと思います。でも、グランツ卿もそれをご存じなので、あえて肩で誘っているように見えました」
言い終えると、少し静かになった。
あれ。
言いすぎた?
わたくしは不安になった。
しかし、ダリオ様は小さく息を吐いた。
「殿下」
「うん」
「完全に読まれている」
「ミリアに?」
「ああ」
殿下は楽しそうに笑った。
「すごいな、ミリア」
「いえ、あの、本当に素人の」
「素人だからいい」
ダリオ様が言った。
「君は、剣ではなく人を見ている」
その言葉に、胸が鳴った。
人を見ている。
それは、わたくしがずっとしてきたことだ。
ただし、今までは勝手に物語として見ていた。
関係性を深読みし、尊いと拝み、外側から眺めていた。
でも、今は違う。
本人たちの前で、本人たちのために言葉にしている。
観測ではなく、参加。
それは少し怖くて、でも不思議と嫌ではなかった。
「ロゼリア嬢」
ダリオ様が続ける。
「君が見たことを、もう少し聞きたい」
「わたくしが?」
「ああ。殿下は、自分の癖を人に見せるのを嫌がるところがある」
「ダリオ」
殿下が少し苦笑する。
ダリオ様は容赦ない。
「だが、直すには必要だ」
「君は本当に容赦がない」
「殿下のためです」
殿下のため。
短い言葉。
そこに迷いがない。
尊い。
でも、今回はわたくしも逃げない。
「分かりました」
わたくしは頷いた。
「ただし、グランツ卿」
「何だ」
「わたくしの言葉は、時々かなり妙です」
「知っている」
「即答」
「だが、悪意はない」
胸が温かくなった。
以前も言われた。
君の言葉は難しいが、悪意ではない。
その評価が、今も続いている。
「ありがとうございます」
ダリオ様は少し困った顔をした。
「礼を言われることか?」
「はい。わたくしには」
「そうか」
殿下がその様子を見て、少し笑った。
「ミリアは、ダリオに褒められると本当に嬉しそうだね」
危ない。
それは危険な話題。
「殿下」
「うん」
「グランツ卿は素晴らしい方ですので」
「それは私も知っている」
殿下がさらりと言った。
わたくしは内心で崩れ落ちた。
知っている。
殿下が、ダリオ様の素晴らしさを知っている。
ありがとうございます。
しかし、今回は声に出さない。
出したらリタに止められる。
セシリア様が目を輝かせて言った。
「お二人は、本当にお互いをよく分かっていらっしゃるのですね」
殿下とダリオ様が、同時に少し黙った。
その沈黙がまたよい。
長い付き合いを褒められて、どう返していいか分からない男たち。
大変よい。
殿下は少し照れたように笑った。
「子どもの頃からだからね」
ダリオ様は短く言う。
「付き合いが長いだけです」
「ダリオはすぐそう言う」
「事実です」
「また事実」
わたくしが思わず呟くと、殿下が笑った。
「ミリア、君も言うようになったね」
「周囲に事実派が多すぎるせいです」
「レオンハルト公もそうだしね」
その名前で、心臓が跳ねた。
反射である。
やめたい。
殿下は見逃さなかった。
微笑む。
「今、反応した」
「しておりません」
「ミリア、嘘が下手になったね」
「昔は上手かったのでしょうか」
「作った笑顔は上手だった」
少し、胸が痛んだ。
殿下もそれに気づいたのか、声を柔らかくする。
「でも、今の顔の方が私は好きだよ」
「殿下」
「正直に困っている顔」
「それを好きと言われましても」
「うん。君はすぐ困るから」
「褒めておられます?」
「かなり」
かなり。
今日二度目のかなり褒め。
わたくしは返事に困った。
セシリア様がにこにこしている。
ダリオ様は少し視線を逸らしてくれている。
リタは背後で「はい、また一つ逃げ場が消えました」という気配を出している。
逃げ場が減る訓練場。
恐ろしい場所である。
その後、殿下とダリオ様は何度か訓練を繰り返した。
わたくしは、そのたびに気づいたことを少しずつ伝えた。
殿下が緊張すると、左肩に力が入ること。
ダリオ様が本気で踏み込む前、足音がほんの少し小さくなること。
二人とも、相手の癖を知りすぎていて、逆に深読みしていること。
言えば言うほど、二人は真剣になった。
観測会のはずだった。
なのに、わたくしはいつの間にか訓練の一部になっていた。
途中、セシリア様が小さく手を挙げた。
「あの、私も一つよろしいでしょうか」
殿下が優しく頷く。
「もちろん」
「殿下は、グランツ卿に勝とうとしている時より、グランツ卿の剣を受け切ろうとしている時の方が、少し楽しそうに見えます」
全員が黙った。
セシリア様は慌てる。
「す、すみません。変なことを言いましたか?」
「いや」
殿下が少し驚いた顔をした。
「そうかもしれない」
ダリオ様も、珍しく目を瞬いた。
「セシリア嬢も、よく見ている」
「そ、そうでしょうか」
「はい!」
わたくしが勢いよく言った。
「セシリア様の観察眼、素晴らしいです!」
「ミリア様」
「殿下は、グランツ卿との訓練で勝敗だけを求めているのではなく、自分を受け止めてもらう安心感も得ている可能性があります。これは非常に重要な」
「お嬢様」
リタの声。
「解説が長くなります」
「はい」
危ない。
また布教しそうになった。
でも、セシリア様の言葉は本当に鋭かった。
殿下は少し考え込み、それからダリオ様を見た。
「私は、君に受け止めてもらうのを楽しんでいたのか」
「俺に聞かれても困る」
「でも、そう見えたらしい」
「殿下が楽しんでいるなら、悪いことではないでしょう」
ダリオ様の返しは真面目だった。
殿下は笑った。
「君はそういうところだよ」
「どういうところですか」
「私が王太子ではなくても、同じように木剣を振ってきそうなところ」
「殿下が王太子でなくても、隙があれば打ちます」
「容赦がない」
「訓練ですので」
ありがとうございます。
わたくしは心の中で膝をついた。
今日来てよかった。
生きていてよかった。
しかし、次の瞬間、殿下がこちらを見た。
「ミリア」
「はい」
「君にも、そういう相手はいる?」
「え?」
「王太子妃になるか、婚約を解消するか、誰の隣に立つか。そういう大きな話ではなくて」
殿下は木剣を下ろし、少しだけ真面目な顔になった。
「君が、何も飾らずに受け止めてもらえる相手」
昨日、手帳に書いた問いが胸に浮かぶ。
私は、誰の前なら弱くいられるのか。
なぜ今。
なぜここで。
わたくしは答えに詰まった。
セシリア様が心配そうにこちらを見る。
ダリオ様は黙っている。
リタも、何も言わない。
そして、わたくしの頭に最初に浮かんだのは。
濃紺の礼服。
冷たいようで優しい目。
「君の好きなものを、私は笑わない」という声。
レオンハルト様だった。
わたくしは、慌てて視線を落とした。
「……まだ、分かりません」
正直に答えた。
「でも、考えています」
殿下は、少しだけ目を伏せた。
寂しそうにも、安心したようにも見えた。
「そう」
「はい」
「なら、今日の訓練も、その考える材料になればいい」
「材料?」
「うん。剣だけじゃなくて、人との距離を見る材料に」
殿下は、また少し笑った。
「君は、人の距離を見るのが得意だから」
得意。
そう言われると、少し複雑だった。
わたくしの距離の見方は、時々間違う。
深読みしすぎる。
勝手に尊いと決めつける。
本人たちの本音を置き去りにする。
でも。
今日、それが少しだけ役に立った。
殿下とダリオ様が、自分たちの癖に気づく助けになった。
セシリア様の観察も、そこへ加わった。
観測は、外側から眺めるだけではないのかもしれない。
見たものを言葉にすることで、誰かの役に立つこともあるのかもしれない。
「殿下」
「うん」
「本日は、招いてくださってありがとうございました」
「こちらこそ。君に見てもらえてよかった」
「わたくしも……参加しているようで、少し驚きました」
「参加していたよ」
「やはり」
「嫌だった?」
わたくしは少し考えた。
そして、首を横に振る。
「嫌では、ありませんでした」
その言葉に、自分でも少し驚いた。
でも、本当だった。
怖かった。
慌てた。
寿命が延びたり縮んだりした。
けれど、嫌ではなかった。
殿下は柔らかく笑う。
「それはよかった」
ダリオ様が木剣を片づけながら言った。
「また来るといい」
「え?」
「君の目は、訓練に使える」
使える。
推しに実用評価された。
これは喜んでいいのか。
たぶんいい。
だが、壁としては完全に失格である。
「グランツ卿」
「何だ」
「その評価は、光栄ですが、少し複雑です」
「なぜ」
「壁になる予定が、訓練補助になっております」
ダリオ様は真剣に考えた。
「壁より役に立つ」
「そういう問題では」
「役に立つなら、良いのではないか」
真面目。
解釈一致。
しかし逃げ場なし。
セシリア様が笑い、殿下も笑った。
リタまで少し口元を緩めている。
わたくしは、ため息をついた。
「皆様、わたくしをどんどん壁から遠ざけていきますわね」
殿下が言う。
「君が自分で歩いている部分もあるよ」
その言葉に、少しだけ胸が鳴った。
自分で歩いている。
そうなのだろうか。
誰かに引っ張られているだけではなく、わたくし自身も、少しずつ外側から中へ歩いているのだろうか。
まだ分からない。
でも、今日の訓練場で。
わたくしは、ただの観測者ではいられなかった。
それが怖くて、少し嬉しかった。
帰りの馬車の中、リタが言った。
「お嬢様」
「なに?」
「本日の推しカプ観測会はいかがでしたか」
「あなたがその言葉を使うのは珍しいわね」
「結果的に、観測会ではなく参加型訓練補助でしたが」
「言い方」
「でも、お嬢様、楽しそうでした」
わたくしは窓の外を見る。
王宮の門が遠ざかっていく。
「……楽しかったわ」
「はい」
「怖かったけれど」
「はい」
「私の見ているものが、少しだけ誰かの役に立つのかもしれないと思いました」
「よろしいことです」
「壁ではなく?」
「壁ではなく」
リタは、静かに言った。
「お嬢様として」
胸が、少し温かくなった。
わたくしは手帳を開く。
馬車の揺れで文字が少し乱れたが、構わず書いた。
『推しカプ観測会、まさかの本人参加。
殿下とグランツ卿の剣術訓練、尊かった。
セシリア様の観察眼も素晴らしい。
しかし、なぜか私が意見を求められた。
観測者のはずが、参加者になった。
怖かった。
でも、嫌ではなかった。
私は、人の距離を見ることしかできないと思っていた。
でも、それが少しだけ誰かの役に立つこともあるらしい。』
ペンを止める。
少し迷って、最後に一行足した。
『壁より役に立つ、とグランツ卿に言われた。
解釈一致。
ただし壁への道は、また遠ざかった。』
リタが横から覗き、静かに言った。
「お嬢様」
「なに?」
「壁への道は、そろそろ廃道かと」
「廃道」
「はい。草も生えております」
「ひどい」
「事実ですので」
事実禁止令は、今日も却下された。
でも、わたくしは笑ってしまった。
壁への道が廃道なら。
わたくしは、別の道を探さなければならない。
それはまだ怖い。
けれど今日、ほんの少しだけ。
歩いてみてもいいかもしれないと思った。




