第32話 立ちたい場所が分かりません
立ちたい場所が、分からない。
王太子妃になりたいのか。
なりたくないのか。
婚約を解消したいのか。
それとも、怖いから解消という出口へ走ろうとしているだけなのか。
レオンハルト様の隣へ行きたいのか。
それとも、あの方の言葉の破壊力に心臓を持っていかれて、一時的に判断能力が落ちているだけなのか。
分からない。
本当に、分からない。
手帳には、昨日書いた問いが並んでいる。
『王太子妃になりたくない理由』
そこから始まったはずなのに、最後には。
『私は、誰の前なら弱くいられるのか』
という、まるで人生相談の題目みたいなものに変わっていた。
自分で書いておいて何だが、重い。
とても重い。
手帳が物理的にも少し重くなった気がする。
「お嬢様」
リタが、机の横に紅茶を置いた。
「朝から三度目でございます」
「何が?」
「手帳を開いて、閉じて、ため息をつく動作です」
「数えていたの?」
「数えなくても目立ちます」
「そんなに?」
「はい。お嬢様のため息で、窓辺の花が少し俯いております」
「花にまで影響が」
「比喩でございます」
リタはさらりと言った。
最近、この侍女は比喩の使い方まで鋭くなっている。
わたくしは手帳を閉じたまま、指先で表紙を撫でた。
革の感触は落ち着く。
レオンハルト様から贈られたものだと思うと、落ち着かなくなる。
どちらなのか、はっきりしてほしい。
いや、はっきりしないから困っているのだった。
「リタ」
「はい」
「私、考えれば考えるほど分からなくなるの」
「はい」
「王太子妃になるのは怖い。でも、殿下を傷つけたいわけではない。婚約解消したい気持ちはある。でも、それが逃げなのか本音なのか分からない。レオンハルト様のことは……その、考えると心臓がうるさい。でも、それが本当に好きということなのか、優しくされたことへの混乱なのか分からない」
「はい」
「セシリア様は尊い」
「そこは分かっているのですね」
「ええ」
リタが小さく笑った。
セシリア様の尊さについては、今さら迷う余地がない。
そこだけは絶対である。
「お嬢様」
「なに?」
「奥様にご相談されてはいかがですか」
「お母様に?」
「はい」
「……笑われないかしら」
「多少は」
「多少は笑うのね」
「奥様ですので」
否定できない。
母は優しいが、面白いものを面白がる方でもある。
わたくしが「王太子妃になるべきか、婚約解消すべきか、冷血公爵様の隣を考えるべきか分かりません」などと相談したら、扇の陰で絶対に笑う。
絶対に。
けれど、ただ笑うだけではないことも知っている。
断罪夜会の前、母は言ってくれた。
悪意のない赤もあると見せてやればいい、と。
逃げずに会いなさい、と。
母の言葉は、時々とても強い。
わたくしは、少し考えてから頷いた。
「……そうね。お母様に相談してみるわ」
「それがよろしいかと」
「でも、リタ」
「はい」
「あなたも一緒に来て」
「もちろんでございます」
「逃げそうになったら止めて」
「いつも通りに」
「頼もしいわね」
「侍女でございますので」
その言葉を聞くと、少しだけ足元が安定する。
わたくしは手帳を持ち、母のいる温室へ向かった。
ロゼリア公爵邸の温室は、母のお気に入りの場所だった。
大きな硝子窓から光が入り、季節外れの花や珍しい草木が並んでいる。
奥には小さな丸卓と椅子。
母はそこで、よく手紙を書いたり、社交界の情報を整理したりしている。
社交界の情報を、花に囲まれて整理する母。
優雅なのか、戦略的なのか、よく分からない。
たぶん両方だ。
「お母様」
声をかけると、母は薄桃色の花を眺めていた顔をこちらへ向けた。
「あら、ミリア。どうしたの?」
扇は持っていない。
珍しい。
その代わり、手には剪定用の小さな鋏があった。
母が鋏を持っていると、花の手入れなのか、社交界の誰かを比喩的に切る準備なのか、少し判断に困る。
「少し、お話ししてもよろしいでしょうか」
「もちろんよ」
母は鋏を卓の上に置き、侍女にお茶の支度を命じた。
「リタも座りなさい」
「恐れ入ります」
リタはわたくしの後ろへ控えようとしたが、母が目だけで示したため、少し離れた椅子に腰掛けた。
母の前では、リタも逆らわない。
強い。
やはり母は強い。
「それで?」
母はわたくしを見た。
「王太子殿下のこと? それともヴァイスベルク公爵様のこと?」
「お母様」
「両方かしら」
「まだ何も言っておりません」
「言わなくても顔に出ているわ」
「また顔」
母まで。
顔面日記帳問題は、家系なのだろうか。
わたくしは諦めて、手帳を膝の上に置いた。
「……立ちたい場所が、分からないのです」
母は茶化さなかった。
静かに聞いてくれた。
「王太子妃になるべきなのか、婚約を解消すべきなのか。殿下の隣に立つ覚悟はないと思っています。でも、ではどこへ行きたいのかと聞かれると、答えられません」
「ええ」
「レオンハルト様は、私が選ぶなら隣に立ちたいとおっしゃいました」
「あら」
母の目がきらりと光った。
ほら。
やはり反応した。
「お母様、そこだけ楽しまないでください」
「ごめんなさい。少しだけよ」
「少し」
「かなりかもしれないわ」
「正直」
母はふふっと笑った。
けれど、すぐに表情を戻す。
「続けて」
「……レオンハルト様のことを考えると、心臓が落ち着きません。あの方は、私の好きなものを笑わないと言ってくださいました。私が傷つくことを怒ってくださいます。私が逃げようとすると見つけてしまいます」
「ええ」
「それは、嬉しいのです。でも怖いのです。見られることも、望まれることも、選ぶことも」
言葉にしてみると、胸の奥が少し痛かった。
「私は、壁になりたかったのです。誰かの幸せを外から眺めるだけでよかった。なのに、気づけば皆様が私を見ていて、私に選べと言うのです」
「ええ」
「選びたいのに、選び方が分かりません」
そこで、声が少し震えた。
リタが動きかけた気配がしたが、母が目で止めた。
母は、わたくしの言葉を最後まで待ってくれている。
「楽な場所へ行きたいわけではないのだと思います。でも、苦しい場所へ行く勇気もありません。王太子妃になれば責任が重い。婚約解消すれば殿下を傷つけるかもしれない。レオンハルト様の隣へ行けば、自分の気持ちから逃げられなくなる。どれも怖いのです」
「ミリア」
母が、静かに名前を呼んだ。
「はい」
「まず一つ、覚えておきなさい」
母は、卓の上の花を一輪手に取った。
淡い黄色の、小さな花。
「どこを選んでも、苦しいことはあるわ」
その言葉は、優しい声なのに、驚くほど現実的だった。
「王太子妃になれば、責任が重い。婚約を解消すれば、社交界はしばらく騒ぐでしょう。ヴァイスベルク公爵様の隣へ行けば、あの方の不器用さに振り回される。誰の隣にも立たず、自分一人の道を選んでも、それはそれで孤独や面倒がある」
「……はい」
「楽な場所なんて、貴族令嬢の人生にはほとんどないわ」
母は微笑んだ。
でも、その微笑みには少しだけ苦みがあった。
「お母様にも、ありましたか」
「もちろんよ」
母はあっさり頷いた。
「私だって、最初からあなたのお父様と穏やかな夫婦だったわけではないもの」
「え?」
思わず顔を上げた。
父と母は、今でこそ穏やかというか、母が父を上手に転がしているというか、何とも絶妙な関係だ。
けれど、そうではない時期があったのか。
母は懐かしそうに目を細めた。
「政略結婚だったわ。家と家のため。私はもっと自由に社交界を動き回りたかったし、あなたのお父様は真面目すぎて、最初は会話があまり続かなかったの」
「お父様が?」
「ええ。私が冗談を言っても、真剣に返すのよ」
「今も時々そうです」
「でしょう?」
母は楽しそうに笑った。
「新婚の頃、私が『この屋敷は少し静かすぎますわね』と言ったら、翌日あなたのお父様は使用人を集めて、騒音の原因を調べようとしたの」
「お父様」
ありそう。
非常にありそう。
「私はただ、もう少し賑やかな花を飾りたいという意味だったのに」
「言葉が足りませんわ、お母様」
「若かったのよ」
母は肩をすくめた。
「私は自由が減るのが嫌だった。お父様は私に嫌われていると思って胃を痛めた」
「胃薬の歴史が長い」
「ええ。あなたのお父様の胃薬とは、もう長い付き合いよ」
人間味がありすぎる。
父の胃は、夫婦関係の初期から戦っていたらしい。
「でもね、ミリア」
母の声が少し柔らかくなる。
「ある時、思ったの。私はこの結婚を、ずっと“決められたもの”として恨むこともできる。でも、ここから先の暮らしを自分で選び直すこともできる、と」
「選び直す」
「ええ。最初に与えられた場所でも、そこにどう立つかは自分で選べる。逆に、自分で選んだつもりの場所でも、後から何度でも迷う」
母は、手にした花を小さな水差しへ挿した。
「大切なのは、楽な場所を探すことではないわ。苦しくても、自分で選んだと思える場所を探すこと」
胸の奥に、その言葉が静かに落ちた。
楽な場所ではなく。
自分で選んだと思える場所。
「王太子妃になれば幸せ、なんて単純な話ではない。ヴァイスベルク公爵様の隣へ行けば幸せ、という保証もない。婚約を解消すれば自由、というほど世の中は親切ではないわ」
「……はい」
「でも、自分で選んだ場所なら、苦しい時に踏ん張れる」
母の目は、優しかった。
「誰かに押された場所だと、人は苦しくなった時に、その誰かを恨むものよ。自分で選んだ場所なら、泣きながらでも立てることがある」
「泣きながらでも」
「ええ。泣きながらでいいの。綺麗に立つ必要なんてないわ」
その言葉に、少し泣きそうになった。
綺麗に立たなくていい。
母は、いつも優雅で、美しく、強い。
そんな母からその言葉を聞くと、余計に胸にくる。
「お母様は、泣いたことがありますか」
「あるわよ」
「お母様が?」
「失礼ね。私だって人間よ」
母は笑った。
「あなたのお父様に腹が立って泣いたこともあるし、あなたが生まれて小さすぎて怖くて泣いたこともあるし、あなたが初めて熱を出した夜は、あなたのお父様と二人で交代で見ていたのに、結局二人とも眠れなかったわ」
「お父様も?」
「ええ。あの人、あなたの寝息が少し止まったように聞こえるたびに真っ青になっていた」
「お父様らしいです」
「でしょう?」
母は、懐かしそうに微笑んだ。
「だからね、ミリア。あなたが迷っているのは、悪いことではないわ。迷えるということは、ちゃんと自分の人生を自分のものとして考え始めたということよ」
その言葉で、胸の奥が熱くなる。
今まで、わたくしは物語の外側にいようとしていた。
悪役令嬢の役目から逃げ、推しカプを守り、ヒロインを幸せにしようとした。
でも、自分の人生を自分のものとして考えていただろうか。
たぶん、まだだった。
「……私、怖いです」
小さく言う。
母は頷いた。
「怖くて当然よ」
「選んで、間違えたら?」
「間違えることもあるわ」
「そこで慰めないのですね」
「嘘を言っても仕方ないもの」
母はさらりと言う。
「でも、間違えたら、そこからまた選び直しなさい」
「選び直す」
「そう。人生は舞踏会の一曲ではないわ。一度足を踏み外したら終わり、ではない。もちろん痛いし、恥ずかしいし、誰かに笑われることもある。でも、次の曲で立ち方を変えることはできる」
「……舞踏会の例えは、少し怖いです」
「一ヶ月後にあるものね」
「はい」
母の目が少しだけ楽しそうになる。
「その舞踏会で、答えを出すのでしょう?」
「はい」
「なら、それまでにたくさん迷いなさい」
「たくさん」
「ええ。中途半端に迷うより、きちんと迷った方がいいわ」
「きちんと迷う」
「そう。迷って、怖がって、時には寝不足になって、リタに叱られて、手帳に書いて、また消して」
「消す前にリタに見抜かれます」
「良い侍女ね」
「ええ。容赦はありませんが」
リタが静かに一礼した。
「恐れ入ります」
母は笑い、それからわたくしへ手を伸ばした。
手袋をしていない、温かい手。
その手が、わたくしの手を包む。
「ミリア。あなたが王太子妃になっても、婚約を解消しても、ヴァイスベルク公爵様の隣へ行っても、どこにも行かずしばらく迷い続けても」
母の声が、とても優しかった。
「私はあなたの母です」
涙が出そうになった。
ぎりぎり耐えた。
だが、母には見抜かれている。
「泣いてもいいのよ」
「今泣くと、止まらなくなりそうです」
「では、お茶を飲みなさい」
「急に現実」
「泣くにも水分がいるもの」
母らしい。
優しくて、現実的で、少しおかしい。
わたくしは笑いながら、カップを手に取った。
温かい紅茶を一口飲む。
少し甘い。
母の温室の紅茶は、いつも少し甘い。
その時、温室の扉が開いた。
父だった。
入ってきた瞬間、父はわたくしと母とリタを見て、少しだけ立ち止まった。
「あ、いや……邪魔だったか」
「あなた」
母が微笑む。
「ちょうどいいところへ」
「ちょうどいい?」
父は警戒した顔をした。
最近、父は母の「ちょうどいい」を少し恐れている。
分かる。
母のちょうどいいは、だいたい何か役目を振られる前兆だ。
「ミリアが迷っているの」
「そうか」
父の顔が一気に真面目になった。
「王太子殿下とのことか」
「はい」
「ヴァイスベルク公爵とのこともか」
「……はい」
父は一瞬、胃を押さえた。
「胃薬を持ってくればよかった」
「お父様」
「いや、大丈夫だ。今は大丈夫だ」
全然大丈夫ではなさそうだ。
母がさらりと言う。
「あなた、娘の前で胃を押さえすぎよ」
「娘の相手候補が王太子殿下と冷血公爵では、胃も押さえられたがる」
「胃を擬人化しないでくださいませ」
わたくしが言うと、父は少しだけ笑った。
それから、ゆっくり近づいてきた。
「ミリア」
「はい」
「私は、正直に言えば、どちらも重いと思っている」
「どちらも」
「王太子殿下は王国の未来を背負う方だ。お前が隣に立てば、誇らしいが、苦労も多いだろう」
「はい」
「ヴァイスベルク公爵は……あの男は優秀だ。非常に優秀だ。娘を守ってくれたことには感謝している」
父はそこで、苦虫を噛み潰したような顔をした。
「ただ、目が怖い」
「お父様」
「いや、悪い意味だけではない。あの男は、守ると決めたものを逃がさない目をしている」
それは。
分かる。
分かりすぎる。
父の観察も、なかなか鋭い。
「だから、父としては少し怖い」
父は、正直に言った。
「お前が傷つくのではないかと。王太子殿下の隣でも、ヴァイスベルク公爵の隣でも、あるいは別のどこでも」
「お父様」
「だが」
父は、わたくしの前に立った。
いつもの胃薬を求める父ではなく、ロゼリア公爵家当主としての顔。
でも、目は父親のものだった。
「お前が選ぶなら、私はその相手が王太子殿下でも、冷血公爵でも、正面から立って話す」
胸が、ぎゅっとなった。
「……怖くありませんか」
「怖い」
「即答」
「怖いに決まっている。王太子殿下はまだしも、ヴァイスベルク公爵は別の意味で怖い」
「お父様」
「だが、怖くても父親は立つ」
父の声は、少し震えていた。
でも、まっすぐだった。
「お前が自分で選んだ場所なら、私はそれを守るためにできることをする。反対すべきだと思えば反対する。話すべきだと思えば話す。胃は痛める。だが、逃げはしない」
胃は痛める。
そこを入れるところが父らしい。
でも、もう駄目だった。
涙がこぼれそうになる。
「泣くな、ミリア」
「無茶をおっしゃいます」
「お前が泣くと、私も泣きそうになる」
「お父様も?」
「父親は娘の涙に弱い」
母が横から言う。
「あなた、ミリアが赤ん坊の頃も泣き声で泣きそうになっていたものね」
「それは言わなくていい」
「言いたいもの」
「今は真面目な話を」
「真面目よ。あなたが昔からミリアに弱いという話だもの」
父が困った顔をした。
その顔を見たら、涙より先に笑いが出た。
「お父様」
「何だ」
「ありがとうございます」
「礼を言うことではない」
「言わせてください」
わたくしは、手の甲で目元を押さえた。
「私、まだ分かりません」
「ああ」
「どこへ立ちたいのか、本当に分かりません。王太子妃になる覚悟も、婚約解消を選ぶ覚悟も、レオンハルト様の隣を考える覚悟も、全部足りない気がします」
「ああ」
「でも、考えます。楽な場所ではなく、自分で選んだと思える場所を」
父と母が、静かに頷いた。
リタも、少しだけ目を伏せる。
「そして、もし間違えたら」
わたくしは、母を見る。
「選び直します」
母は嬉しそうに微笑んだ。
「ええ。それでいいわ」
温室の中に、柔らかな風が入った。
花の香りが少し揺れる。
静かで、温かい時間だった。
答えは出ていない。
何も決まっていない。
でも、今までより少しだけ、怖さの輪郭が見えた気がした。
怖いのは、王太子妃という場所そのものだけではない。
選ぶこと。
選んで、責任を持つこと。
選ばれないかもしれない自分を知ること。
そして、選ばれた時に、それを受け取ること。
それが怖い。
でも、一人で怖がらなくてもいい。
父も母も、リタもいる。
セシリア様も、殿下も、ダリオ様も。
そして、レオンハルト様も。
「ミリア」
母が言った。
「今日はもう、手帳は少し閉じておきなさい」
「ですが」
「考えすぎると、ヴァイスベルク公爵様からまた『倒れるな』と手紙が来るわよ」
「お母様」
「それはそれで面白いけれど」
「面白がらないでくださいませ」
父がぴくりと反応した。
「また手紙が来ているのか」
「昨日です」
「内容は」
「食事と睡眠は削るな、と」
父は、少し黙った。
「……正しい」
「お父様まで」
「腹立たしいほど正しい」
「父上、今わたくしと同じことを」
「同じか」
「はい。腹立たしいほど助かる、と以前思いました」
父は、ものすごく複雑な顔をした。
「娘と同じ感想を持ってしまった」
母が笑った。
リタも少しだけ口元を緩めた。
わたくしも笑った。
温室に、笑い声が混じる。
こんな風に笑える家がある。
迷って帰れる場所がある。
それは、とても贅沢なことなのかもしれない。
その夜。
自室に戻ったわたくしは、母の言いつけに反して少しだけ手帳を開いた。
リタに見つかったら叱られるので、短く。
『立ちたい場所が分かりません。
お母様は、楽な場所ではなく、苦しくても自分で選んだと思える場所を探しなさいと言った。
お父様は、私が選ぶなら、相手が王太子殿下でも冷血公爵様でも立って話すと言った。胃は痛めるらしい。
私はまだ何も選べない。
でも、選ぶことから逃げないようにしたい。
間違えたら、選び直していい。
泣きながらでも、立っていい。』
書き終えたところで、扉が開いた。
リタだった。
わたくしは手帳を閉じた。
「お嬢様」
「……少しだけよ」
「見れば分かります」
「怒る?」
「いいえ」
意外だった。
リタは静かに近づき、寝台の支度を整える。
「今日は、よいことを書かれたお顔ですので」
「そんな顔まで分かるの?」
「はい」
「本当に顔が日記帳なのね」
「読みやすくて助かります」
「助からないで」
リタは、柔らかく笑った。
「お嬢様」
「なに?」
「どこへ立つか分からない間は、ここへ帰ってくればよろしいかと」
胸が温かくなる。
「ここ?」
「はい。この屋敷へ。私のところへ。旦那様と奥様のところへ」
リタは、いつものように淡々と言った。
「迷子には、帰る場所も必要ですので」
泣きそうになった。
今日は本当に、涙腺に悪い日だ。
「……ありがとう、リタ」
「はい」
「でも、迷子扱いは続くのね」
「事実ですので」
「事実禁止令を」
「却下でございます」
やはり却下された。
でも、今夜はそれでよかった。
立ちたい場所は、まだ分からない。
けれど、帰れる場所はある。
それだけで、少しだけ眠れる気がした。




