第31話 王太子妃になりたくない理由
王太子妃になりたくない理由。
そう書いたところで、わたくしの手は止まった。
ロゼリア公爵邸の自室。
午後の日差しは柔らかく、窓辺の薄いカーテンを透かして床に淡い影を落としている。
机の上には、レオンハルト様から贈られた革表紙の手帳。
横にはリタが淹れてくれた紅茶。
少し離れた棚の上には、セシリア様からいただいた花籠。
環境だけなら、落ち着いて考えるには申し分ない。
問題は、考える本人がまったく落ち着いていないことである。
「……王太子妃になりたくない理由」
声に出してみる。
重い。
言葉が重い。
王太子妃。
前世でなら、乙女ゲームのエンディング画面に輝く称号だった。
王子様に選ばれ、祝福され、幸福な未来へ――という、いかにも華やかな終着点。
けれど、ここは画面の中ではない。
王太子妃とは、ドレスを着て微笑むだけの立場ではない。
王国の未来に関わる。
政治に関わる。
王太子殿下の隣に立ち、人々の視線を受け、失敗すれば本人だけでなく家も、周囲も巻き込む。
そんな場所へ立つ覚悟が、今のわたくしにあるのか。
ない。
……たぶん、ない。
わたくしはペンを握り直し、手帳に一つ目を書いた。
『一、責任が重い。』
あまりにも率直。
だが、事実である。
続けて書く。
『二、王太子妃になる覚悟がない。』
これも事実。
『三、殿下を一人の人間として見始めたら、余計に軽く選べなくなった。』
ここで、ペン先が少し止まった。
ユリウス殿下の顔が浮かぶ。
爽やかで、優しくて、少しずるくて、思っていたよりずっと人間らしい人。
以前のわたくしは、殿下を「王太子」「婚約者」「推しカプの片割れ」として見ていた。
けれど今は違う。
ユリウスという一人の青年として見てしまった。
そうなると、軽く「婚約解消してくださいませ!」とは言いにくい。
いや、言ったけれど。
言った結果、一ヶ月の宿題を出されたけれど。
わたくしはさらに書く。
『四、殿下とグランツ卿の信頼関係を邪魔したくない。』
ここまで書いて、リタの声がした。
「お嬢様」
「なに?」
「四番目に、かなり本音が出ましたね」
ぎくりとした。
いつの間にか、リタが斜め後ろに立っていた。
お茶の差し替えに来たのだろうが、気配が静かすぎる。
「リタ、覗き見はよくないわ」
「お嬢様のペン先が止まったので、気になりまして」
「それを覗き見と言うのでは?」
「見守りでございます」
「その言葉をわたくし以外が使うと、急に怪しいわね」
「お嬢様が普段なさっていることの客観視でございます」
「痛い」
リタは涼しい顔で紅茶を置き替えた。
湯気の立つカップから、甘く穏やかな香りが広がる。
「それで、お嬢様。四番は、理由としては弱いかと」
「弱い?」
「はい。殿下とグランツ卿の信頼関係を大切に思うことはよろしいですが、それを理由にお嬢様の婚約を決めるのは、やはり少々ずれております」
「ずれている」
「はい。かなり」
「かなり」
容赦がない。
だが、分かっている。
分かっているからこそ痛い。
「……でも、邪魔したくないのは本当なのよ」
「存じております」
「殿下がグランツ卿と話す時、肩の力が抜けるでしょう。あの空気は、わたくしが隣にいる時とは違うの」
「はい」
「それを見ていると、殿下にはそういう方がそばにいるべきだと思うのよ」
「それは、グランツ卿が殿下の側近としてそばにいれば済む話では?」
「……」
正論。
大変な正論。
「リタ」
「はい」
「あなた、時々ひどいほど現実的ね」
「お嬢様が時々ひどいほど観念的ですので」
「釣り合いが取れているわけね」
「はい」
言い返せない。
リタはわたくしの手帳を見下ろし、静かに言った。
「殿下とグランツ卿の関係を大切にすることと、お嬢様が王太子妃になるかどうかは、完全には同じ問題ではございません」
「ええ」
「そこを同じ箱に入れてしまうと、お嬢様はまた“推しのため”という綺麗な言葉で、ご自分の答えを後回しになさいます」
胸に刺さった。
後回し。
本当に、最近その言葉ばかり聞く。
けれど、それだけわたくしが後回しにしてきたということなのだろう。
「……そうね」
わたくしは四番に線を引こうとして、止めた。
消す必要はない。
これも本音ではある。
ただし、答えそのものではない。
横に書き足す。
『ただし、これだけを理由にしてはいけない。』
リタが小さく頷いた。
「よろしいかと」
「先生みたいね」
「侍女でございます」
「侍女の範囲が広すぎるわ」
わたくしはペンを進めた。
『五、セシリア様を傷つける未来が怖い。』
これは、すぐに書けた。
セシリア様。
原作ヒロイン。
でも今は、わたくしをお姉様と呼んでくれる、大切な人。
もしわたくしが王太子妃になることで、セシリア様が変な噂に巻き込まれたら。
平民出身の聖女候補が、王太子妃に近づきすぎたなどと言われたら。
あるいは、わたくし自身が余裕を失い、前のミリアのように誰かを羨み、傷つける方向へ戻ってしまったら。
考えたくない。
でも、書く。
『六、以前の自分に戻るのが怖い。』
書いた瞬間、手が少し震えた。
以前のミリア。
殿下に執着し、ヒロインを敵視し、断罪される悪役令嬢。
わたくしはもう違う。
そう思いたい。
でも、人は簡単に変われるのだろうか。
立場や焦りや嫉妬に押しつぶされた時、自分でも嫌な自分が顔を出すことはないのだろうか。
クラリーナ様を見た時、その怖さを思い知った。
彼女は、ただの悪女ではなかった。
努力して、焦って、嫉妬して、間違えた人だった。
わたくしが絶対にそうならない保証など、どこにもない。
「お嬢様」
リタの声が、少し柔らかくなった。
「その不安は、持っていてよろしいと思います」
「そう?」
「はい。自分は絶対に間違えないと思っている方より、ずっと信用できます」
「でも、怖いわ」
「怖いなら、怖いとおっしゃればよろしいかと」
「またそれ」
「助けを呼べますので」
レオンハルト様と同じことを言う。
この二人、いつの間にか教育方針を共有しているのではないか。
「リタ」
「はい」
「公爵様と打ち合わせしていない?」
「しておりません」
「本当に?」
「教育方針に関しては、自然一致でございます」
「教育方針と言ったわね」
「言いました」
「わたくしは子どもではないわ」
「ご自分を守ることに関しては、時折かなり危なっかしいので」
「皆様、本当にそこだけ評価が一致しているのね」
「はい」
リタは真顔で頷いた。
わたくしは深く息を吐き、次を書いた。
『七、王太子妃になれば、好きなものを好きと言えなくなる気がする。』
書いてから、思った。
これは、かなり根深い。
前世で、わたくしは好きなものを隠していた。
全部ではない。
けれど、相手を選んだ。
笑われたくなかったから。
「いい年して」「まだそんなものが好きなの」「現実見なよ」などと言われるのが嫌だったから。
休日にイベントへ行くこと。
夜に推しカプの考察を読むこと。
誰かと誰かの関係性に胸を熱くすること。
それらは、わたくしにとって救いだった。
でも、軽く扱われると、その救いまで汚される気がした。
だから隠した。
壁になった。
王太子妃になれば、もっと隠さなければいけないのではないか。
公の立場。
王国の顔。
完璧な微笑み。
そんな場所で、わたくしはわたくしでいられるのだろうか。
「……これも、逃げかしら」
小さく呟く。
リタはすぐには答えなかった。
少し考えてから言う。
「逃げも混ざっているかもしれません」
「ええ」
「ですが、本音でもあると思います」
「本音」
「お嬢様にとって、好きなものを笑われることは、とても怖いことなのでしょう?」
胸が、ぎゅっとなった。
「……そうね」
「なら、それは軽く扱わない方がよろしいです」
リタは淡々としている。
でも、その声は優しかった。
「王太子妃になるなら、それをどこまで守れるのか。婚約を解消するなら、どのように自分の好きなものと生きるのか。レオンハルト様の隣を考えるなら、あの方がそれをどう扱うのか」
レオンハルト様の名前で、ペン先が跳ねた。
リタは見逃さなかった。
「反応なさいましたね」
「していません」
「インクが飛びました」
「ペンの調子が」
「ペンは無実です」
「最近、無実のものが多いわね」
リタは小さく笑った。
「ですが、レオンハルト様はすでにおっしゃっています」
「何を?」
「君の好きなものを、私は笑わない、と」
息が止まりそうになった。
そう。
言われた。
あの人は、わたくしの推し活を完全に理解してはいない。
たぶん、これからも完全には理解しない。
でも、笑わないと言ってくれた。
何かを大切に思う気持ちは否定しないと。
それは、わたくしにとって、とても大きな言葉だった。
「リタ」
「はい」
「公爵様は、ずるいわね」
「はい」
「肯定が早い」
「ずるいと思います」
「あなたが言うと本当にそう聞こえるわ」
「ですが、お嬢様もなかなかです」
「わたくしが?」
「はい。ご自分では逃げているつもりでも、皆様の心にかなり入り込んでおられますので」
「……そうなの?」
「そうです」
リタは、はっきりと言った。
「セシリア様も、殿下も、グランツ卿も、レオンハルト様も。皆様、お嬢様を見ておられます」
「それは、困るわ」
「困ってくださいませ」
「え?」
「困るということは、無関心ではいられないということです」
リタの言葉は、たまにレオンハルト様より鋭い。
わたくしは返事ができず、手帳へ視線を戻した。
次の理由を書く。
『八、殿下を推しとして見ていた罪悪感がある。』
これは、書くのにかなり勇気がいった。
リタが首を傾げる。
「推しとして見ていた罪悪感、ですか」
「ええ」
「お嬢様にしては、かなり核心ですね」
「そうなのよ」
わたくしはペンを置き、椅子の背にもたれた。
「殿下をちゃんと見ているつもりで、見ていなかったの。殿下とグランツ卿の関係を尊いものとして眺めて、殿下自身の悩みや弱さや、婚約者としての私への気持ちを、きちんと見ようとしていなかった」
「はい」
「そんなわたくしが、王太子妃になってよいのかしら」
「それを言うなら、以前のお嬢様も殿下をきちんと見ていたとは言えないのでは?」
「痛いところを」
「失礼いたしました」
「いえ、事実よ」
以前のミリアは、王太子殿下そのものより、王太子妃になる自分を見ていた。
転生後のわたくしは、王太子殿下そのものより、推しとしての殿下を見ていた。
方向は違うが、どちらも本人をまっすぐ見ていない。
殿下は、それを責めなかった。
ただ、今の君を知りたいと言った。
ずるい。
殿下も本当にずるい。
「……皆、ずるいわ」
「皆様?」
「殿下も、公爵様も、セシリア様も、グランツ卿も、あなたも」
「私もですか」
「ええ。逃げ道を塞いでくるもの」
「お嬢様が逃げるからでございます」
「またそれ」
「逃げなければ塞ぎません」
「逃げたい時もあるわ」
「逃げ道は安全なものを選べ、とヴァイスベルク公爵様が」
「リタ」
「はい」
「公爵様の言葉を便利に使いすぎでは?」
「実用的ですので」
レオンハルト様の影響が強い。
困ったものだ。
その時、扉が控えめに叩かれた。
入ってきたのは執事だった。
「お嬢様。ヴァイスベルク公爵様より、お手紙でございます」
ペンを落としかけた。
リタがすばやく受け止めた。
「危険でした」
「急に名前が来たから」
「訓練が足りませんね」
「何の訓練?」
「心臓の」
「できるの?」
「難しいかと」
執事は、表情を変えずに銀盆を差し出す。
王宮からの文ではない。
深い青の封蝋。
レオンハルト様からだ。
わたくしは手紙を受け取った。
開く前から、すでに心臓に悪い。
中身は短かった。
『考えすぎて倒れるな。
答えは急がなくていい。
ただし、食事と睡眠は削るな。
ヴァイスベルク』
……。
実用。
相変わらず実用。
しかし。
なぜ今なのか。
まるで、わたくしが手帳の前で悩み倒しているのを見ていたかのようなタイミングである。
「リタ」
「はい」
「公爵様は、我が家に監視魔法でも仕掛けているのかしら」
「仕掛けていた場合、私はまず掃除いたします」
「掃除で済むの?」
「比喩でございます」
リタは手紙を覗き込み、少し微笑んだ。
「よいお手紙ですね」
「これが?」
「はい」
「色気は?」
「ございません」
「断言」
「ですが、お嬢様のことをよく見ておられます」
「そこが困るのよ」
「困ってくださいませ」
「またそれ」
わたくしは手紙をもう一度見た。
考えすぎて倒れるな。
答えは急がなくていい。
ただし、食事と睡眠は削るな。
冷たいようで、雑なようで、ちゃんとわたくしを気遣っている。
甘い恋文ではない。
けれど、今のわたくしには、宝石より効く。
困る。
非常に困る。
「お嬢様」
「なに?」
「理由の九番目に、書いてはいかがですか」
「何を?」
「王太子妃になりたくない理由ではなく、考えるべきこととして」
リタは、手帳の空いた場所を指した。
「自分が安心して弱音を吐ける相手は誰か、と」
息が止まった。
弱音を吐ける相手。
それは、王太子妃になるかどうかと関係があるのだろうか。
いや、ある。
たぶん、とてもある。
王太子妃になれば、弱音を吐ける場所は限られる。
殿下の隣に立つなら、殿下に弱音を吐けるのか。
殿下を支えるだけではなく、殿下に支えられる覚悟があるのか。
レオンハルト様の隣を考えるなら、あの人に弱音を吐けるのか。
そして、あの人はそれを笑わずに受け止めるのか。
答えは。
もう、少し分かっている気がした。
わたくしは、手帳に書いた。
『九、私は、誰の前なら弱くいられるのか。』
それは、王太子妃になりたくない理由ではなかった。
けれど、きっと大事な問いだった。
「リタ」
「はい」
「難しいわね」
「はい」
「婚約解消したいだけだったのに」
「お嬢様が人を人として見始めたからでございます」
「急に深いことを言わないで」
「侍女でございますので」
もはや万能の言葉である。
わたくしは、手帳に並んだ理由を見つめた。
『責任が重い。
覚悟がない。
殿下を軽く選べない。
殿下とグランツ卿の信頼関係を邪魔したくない。
セシリア様を傷つける未来が怖い。
以前の自分に戻るのが怖い。
好きなものを好きと言えなくなる気がする。
殿下を推しとして見ていた罪悪感。
私は、誰の前なら弱くいられるのか。』
逃げ道ばかりではない。
本音もある。
怖さもある。
罪悪感もある。
そして、少しだけ未来の問いもある。
わたくしは、最後に一行書き足した。
『これは、王太子妃になりたくない理由だけではなく、私が私として立つために考えるべきこと。』
書き終えて、深く息を吐く。
窓の外では、庭の木々が風に揺れていた。
壁になりたいだけだった頃には、こんなことを考える必要はなかった。
誰かの幸福を見守るだけなら、自分の弱さをどこへ置くかなんて考えなくてよかった。
でも、もう外側にはいられない。
なら、考えなければならない。
どこへ立つのか。
誰の隣に立つのか。
そして、誰の前でなら、わたくしはわたくしのままでいられるのか。
「お嬢様」
リタが紅茶を差し出した。
「そろそろ休憩を」
「そうね」
「ヴァイスベルク公爵様からも、食事と睡眠は削るなとのことですし」
「あなた、本当に便利に使うわね」
「実用的ですので」
わたくしはカップを受け取った。
温かい。
甘さは控えめ。
でも、今のわたくしにはちょうどよかった。
「リタ」
「はい」
「王太子妃になりたくない理由を書いていたはずなのに、どんどん別の問いが増えているわ」
「よろしいのでは?」
「よろしいの?」
「はい。お嬢様は、今まで答えだけ急いでおられましたので」
リタは、淡々と言った。
「問いが増えるのは、ちゃんと考え始めた証拠でございます」
それは、少しだけ救いになる言葉だった。
わたくしは手帳を閉じる。
まだ答えはない。
婚約解消したい気持ちはある。
王太子妃になる覚悟はない。
レオンハルト様の言葉は心臓に悪い。
セシリア様は尊い。
ダリオ様は解釈一致。
殿下はずるい。
情報量が多すぎる。
けれど、逃げずに一つずつ見るしかない。
そう思った時、少しだけ笑えてきた。
「お嬢様?」
「いえ」
わたくしは手帳の上に手を置いた。
「王太子妃になりたくない理由を書いていたのに、最終的に自分探しになってしまったわ」
「お嬢様らしいです」
「褒めている?」
「半分」
「皆、半分が好きね」
リタが小さく笑った。
わたくしも笑った。
答えはまだ遠い。
けれど、白紙ではなくなった。
それだけでも、今日のわたくしにしては大きな進歩だった。




