第30話 私は壁ではなく、私として立つ
王宮小庭園での茶会は、無事に終わった。
無事に。
たぶん。
少なくとも、カップは落とさなかった。
これは大きい。
わたくしの本日の目標は、リタが勝手に設定した「婚約者候補という言葉を思い出してもカップを落とさないこと」だったので、その点においては完全勝利である。
ただし、心は何度か落とした。
王太子殿下に「君は本当に、王太子妃になりたくないのか」と問われ。
レオンハルト様に「彼女が選ぶなら、隣に立ちたい」と言われ。
セシリア様に「ミリア様が皆様に大切にされていて嬉しいです」と微笑まれ。
ダリオ様に「ロゼリア嬢が自分で選ぶべきです」と真面目に言われた。
これで心を落とすなという方が無理である。
それでも、茶会は終わった。
殿下は王太子としての用件があると言い、ダリオ様とともに王宮内へ戻った。
セシリア様は神官長との打ち合わせがあるらしく、名残惜しそうに何度も振り返りながら侍女に連れられていった。
最後まで手を振ってくださった。
尊い。
ヒロイン様の手振りには、人類を救う効果がある。
わたくしも手を振り返した。
リタは少し離れたところで、王宮侍女と帰りの馬車の確認をしている。
そのため、今わたくしの隣にいるのは。
「ロゼリア嬢」
冷血公爵レオンハルト・ヴァイスベルク様である。
なぜ。
なぜ、最後にこの方と二人になる流れが自然発生するのか。
いや、完全な二人きりではない。
王宮小庭園には侍女も衛兵もいるし、リタの姿も少し遠くに見える。
形式上は問題ない。
しかし、心臓の形式は常に問題だらけである。
「はい、公爵様」
「馬車まで送る」
「ありがとうございます。ですが、王宮内ですし、リタもおりますので」
「送る」
「今のは確認ではなく決定でしたのね」
「ああ」
いつもの通り。
短い。
そして重い。
けれど、今日はその重さが少しだけ安心にも感じられた。
わたくしは小さく息を吐き、頷いた。
「では、お願いいたします」
「珍しく素直だな」
「たまには」
「何か企んでいるのか」
「素直にしても疑われるのですか」
「君の場合は」
「公爵様。わたくしへの評価が雑ですわ」
「正確だ」
「出ました、事実」
「禁止令は却下だ」
「まだ出しておりません」
「顔に出ていた」
「本当に、顔が日記帳のように扱われますわね」
レオンハルト様は、わずかに目を細めた。
笑ったのかもしれない。
以前なら、そのわずかな変化だけで一晩悶えていた。
今も悶えそうではある。
でも、少しだけ慣れた。
いや、慣れてはいない。
耐性が紙から薄布くらいになっただけだ。
わたくしたちは、小庭園の白い石畳をゆっくり歩いた。
茶会の後の庭園は静かだった。
さっきまで賑やかだった茶卓は片づけられ始め、侍女たちが銀の茶器を丁寧に下げている。
花壇の向こうで噴水の水音がして、風が薄布の天幕を揺らした。
日差しは柔らかい。
まるで、さっきまであの席で王太子妃だの婚約者候補だの、心臓に悪い言葉が飛び交っていたのが嘘のようだ。
「疲れたか」
レオンハルト様が聞いた。
「少し」
「少しではないだろう」
「では、かなり」
「正直でいい」
「公爵様や殿下やリタに鍛えられましたので」
「いい傾向だ」
「そうでしょうか」
「ああ」
レオンハルト様は前を見たまま言った。
「君は、嘘で自分を守ろうとするより、正直に怖がった方がまだ安全だ」
「怖がる方が安全なのですか?」
「助けを呼べる」
その言葉に、胸が小さく鳴った。
助けを呼べる。
前世のわたくしは、それが苦手だった。
仕事で疲れても、つらくても、好きなものを笑われても、何となく笑って流していた。
自分の好きなものを語って、相手に軽く扱われるくらいなら、最初から壁になった方が楽だった。
誰かの幸福を外から眺める。
美しい関係を、壊さないように、触れないように見守る。
それが一番安全だと思っていた。
「公爵様」
「何だ」
「私は、壁になりたかったのです」
「知っている」
「ずっと言っていますものね」
「かなりな」
「少し恥ずかしくなってきました」
「今さらか」
「今さらですわ」
思わず笑ってしまう。
でも、その笑いはすぐに静かになった。
「壁は、楽でした」
わたくしは、ぽつりと言った。
「誰かの人生に踏み込まなくていい。誰かを失望させなくていい。自分が選ばれないことに傷つかなくていい。ただ見ているだけなら、何も壊さずに済むと思っていました」
「本当に何も壊さずに済むと思っていたのか」
鋭い。
相変わらず、逃げ道の壁ごと突いてくる。
「……思いたかったのだと思います」
わたくしは正直に言った。
「自分が関われば、何かを間違えるかもしれない。誰かを傷つけるかもしれない。あるいは、誰かにとって私は必要ないのだと知ってしまうかもしれない。それが怖かった」
「今は?」
「今も怖いです」
即答だった。
綺麗に成長して、もう怖くありません、などと言えれば物語としては美しいのだろう。
けれど、そんな簡単なものではない。
怖いものは怖い。
王太子妃になるかもしれない未来も、婚約解消して別の道へ進む未来も、レオンハルト様の隣に立つかもしれない未来も。
全部怖い。
全部、わたくしが当事者になる未来だから。
「でも」
わたくしは足を止めた。
花壇の向こうで、白い花が風に揺れている。
「壁には、なれないのかもしれません」
言った瞬間、胸の奥で何かがほどけた。
ずっと握っていた言葉を、ようやく手放したような気がした。
レオンハルト様も足を止める。
こちらを見る。
何も急かさない。
だから、続けられた。
「セシリア様が、私を信じてくださいました。殿下が、私と向き合おうとしてくださいました。グランツ卿が、私の言葉を難しいと言いながらも悪意ではないと見てくださいました。リタはずっと側にいてくれます。父も母も、私を守ると言ってくれました」
声が少し震える。
「そして公爵様は、私が傷つけばご自分も傷つくとおっしゃいました」
「ああ」
「そんな風に言われたら、もう自分だけ外側にいますとは言えません」
わたくしは、小さく笑った。
泣きそうな笑みだったかもしれない。
「皆様が、私を中へ引っ張り込んでしまったのです」
「迷惑か」
レオンハルト様が聞いた。
短い問い。
でも、少しだけ声が低かった。
迷惑か。
どうだろう。
怖い。
面倒。
心臓に悪い。
落ち着かない。
推し活に支障が出る。
リタにからかわれる。
父の胃薬が減る。
母が楽しそうにする。
いろいろある。
でも。
「迷惑では、ありません」
わたくしは答えた。
「困りますけれど」
「困るのか」
「とても。公爵様は特に困ります」
「なぜ」
「本気で分からない顔をなさるのですね」
「分かる部分もある。だが、君の口から聞きたい」
ずるい。
この人は、時々とてもずるい。
わたくしは視線を逸らし、花壇を見た。
「公爵様は、私を見つけてしまうからです」
言ってから、少し恥ずかしくなった。
でも、逃げずに続ける。
「隠したいところを、見つけてしまう。笑ってごまかしたところを、見逃してくださらない。壁になりたいと言っても、壁にしては目が離せないなどとおっしゃる」
「言ったな」
「はい。言われました。かなり覚えております」
「そうか」
「それに」
心臓が忙しい。
でも、言わなければと思った。
「公爵様が優しくすると、どう受け取ればいいのか分からなくなります」
レオンハルト様は黙っている。
わたくしは、両手を握った。
「花束ではなく不審者リストを贈ってくださるところも。手帳をくださるところも。私が傷つくことを怒ってくださるところも。婚約者候補などと、心臓に悪いことを平然とおっしゃるところも」
「平然ではない」
「え?」
思わず顔を上げる。
レオンハルト様は、わずかに視線を逸らしていた。
え。
待って。
今。
「公爵様」
「何だ」
「平然ではない、とは」
「そのままだ」
「もしかして、婚約者候補とおっしゃった時、少しは緊張しておられたのですか」
「……少しは」
少しは。
少しは!
冷血公爵様が!
婚約者候補発言で!
少しは緊張していた!
大事件である。
号外が出る。
いや、出してはいけない。
わたくしの心の中だけで盛大に鐘を鳴らす。
「公爵様」
「何だ」
「それを昨日言ってくださいませ!」
「言う必要があったか」
「あります! こちらは一方的に心臓を撃ち抜かれたと思っていたのです!」
「撃ち抜いたつもりはない」
「破壊力の問題です」
「またそれか」
「またそれです!」
わたくしの声が少し大きくなった。
近くの侍女がちらりとこちらを見たが、すぐに視線を逸らした。
ありがたい。
見なかったことにしてくれる王宮侍女、優秀である。
レオンハルト様は、少しだけ考えるように黙った。
そして言った。
「では、今後は必要に応じて言う」
「何をですか」
「私も平然ではないと」
今度はわたくしが固まった。
それはそれで困る。
冷血公爵様が「今、平然ではない」と自己申告してくる未来。
破壊力が増すだけでは?
「……公爵様」
「何だ」
「やはり言わなくていいかもしれません」
「どちらだ」
「分かりません」
レオンハルト様が、ほんの少し笑った。
はっきりとではない。
でも、分かる。
前よりずっと分かる。
その笑いが、胸の中を静かに揺らした。
「ロゼリア嬢」
「はい」
「君は、自分がどこへ立つべきか、まだ分からないと言った」
「はい」
「それでいい」
「いいのですか」
「今すぐ答えを出して逃げるよりはいい」
「逃げる前提なのですね」
「君だからな」
「信用があるのかないのか」
「ある。逃げる方向への信用だ」
「嫌な信用ですわ」
でも、少し笑ってしまった。
レオンハルト様も、ほんの少しだけ目元を緩める。
「怖いなら、怖いまま考えろ」
「怖いまま」
「ああ」
「逃げたくなったら?」
「見つける」
「公爵様、それは優しさですか、脅しですか」
「両方だ」
即答だった。
あまりにもレオンハルト様らしくて、わたくしは笑ってしまった。
笑ってから、少し泣きそうになった。
優しさと脅しが同時に成立する人。
冷たく見えて、驚くほど面倒見がよくて、不器用で、実用的で、時々とんでもない言葉を置いていく人。
この人が、わたくしの隣に立ちたいと言った。
わたくしが選ぶなら、と。
「公爵様」
「何だ」
「私はまだ、何も選べません」
「知っている」
「殿下との婚約も、自分の将来も、公爵様のことも」
「ああ」
「でも、考えます」
わたくしは、レオンハルト様を見た。
逃げずに。
「逃げるためではなく、選ぶために」
レオンハルト様の目が、静かにわたくしを映した。
「それでいい」
短い言葉。
けれど、それだけで足元が少し固まる気がした。
壁にはなれない。
でも、だからといって今すぐ誰かの隣へ駆け込めるわけでもない。
自分の足で立つ場所を探さなければならない。
それは、壁になるよりずっと難しい。
でも。
たぶん、少しだけ生きている感じがする。
遠くから、リタの声が聞こえた。
「お嬢様。馬車の準備が整いました」
現実に戻された。
ありがたいような、惜しいような。
リタはこちらを見て、一瞬だけ何かを察した顔をした。
その顔は、後で絶対に何か言う顔だった。
わたくしは少し身構える。
レオンハルト様は、何事もなかったように歩き出した。
馬車寄せまで、あと少し。
わたくしはその隣を歩く。
以前なら、横に並ぶだけで落ち着かなかった。
今も落ち着かない。
でも、逃げ出したいだけではなかった。
「公爵様」
「何だ」
「私、推し活はやめません」
なぜ今言ったのか、自分でも分からない。
でも、大事なことだった。
レオンハルト様は、少しだけ眉を動かした。
「そうか」
「そこは止めないのですか」
「誰かを傷つけず、君が自分を見失わない範囲なら」
「条件付きですわね」
「当然だ」
「厳しい」
「君は放っておくと植木鉢の陰へ戻る」
「戻りません。たぶん」
「たぶん?」
「……努力します」
「よし」
なぜか褒められた。
わたくしは、少し笑った。
「公爵様は、私の推し活を理解してくださるのですか」
「理解はしていない」
「正直」
「だが、君が何かを大切に思う気持ちは否定しない」
また。
また、そういうことを言う。
わたくしは、胸の奥が温かくなるのを感じた。
「それなら、私も」
「何だ」
「公爵様が大切にしているものを、いつか知りたいです」
言ってから、少し緊張した。
踏み込みすぎただろうか。
レオンハルト様は、すぐには答えなかった。
そして、静かに言った。
「すでに一つは知っているだろう」
「え?」
「君だ」
終わった。
完全に終わった。
何が終わったのかは分からないが、少なくとも今のわたくしの平静は終わった。
顔が熱い。
耳まで熱い。
心臓が、王宮楽団より派手に鳴っている。
「公爵様!」
「何だ」
「そういうところです!」
「破壊力か」
「分かっていらっしゃるなら控えてくださいませ!」
「控える必要がない」
「あります!」
「ない」
この人は。
本当に。
馬車寄せに着くと、リタが待っていた。
彼女はわたくしの顔を見るなり、すべてを察したように一礼した。
「お嬢様」
「何も言わないで」
「まだ何も」
「どうせ、恋です、でしょう」
「今回は申し上げません」
「本当に?」
「はい」
珍しい。
わたくしが少し安心した、その次の瞬間。
リタは静かに言った。
「手遅れですので」
「リタ!」
レオンハルト様が、ほんの少しだけ笑った。
リタまで満足そうだ。
味方が全員強すぎる。
馬車に乗る前、レオンハルト様が言った。
「ロゼリア嬢」
「はい」
「一ヶ月後の舞踏会まで、無理をするな」
「はい」
「一人で考えすぎるな」
「はい」
「答えを急ぐな」
「はい」
「だが、逃げるな」
「最後だけ厳しいですわ」
「必要だ」
「……はい」
わたくしは頷いた。
それから、少し迷って言う。
「公爵様も、ご無理はなさらないでくださいませ」
レオンハルト様は一瞬だけ黙った。
それから、静かに答えた。
「ああ」
短い返事。
でも、ちゃんと受け取ってくれた気がした。
馬車が動き出す。
窓の外で、レオンハルト様が遠ざかっていく。
わたくしは、見えなくなるまでその姿を追っていた。
リタが向かいの席で、何も言わずに座っている。
その沈黙が、少しありがたかった。
やがて、わたくしは小さく呟いた。
「リタ」
「はい」
「私、壁にはなれないみたい」
「存じております」
「知っていたの?」
「かなり前から」
「言ってくれてもよかったのに」
「何度も申し上げました」
「そうでした」
たしかに。
リタはずっと言っていた。
壁には向いていない、と。
わたくしは馬車の窓に映る自分の顔を見る。
少し赤くて、少し疲れていて、でもどこか軽い顔。
「壁ではないなら、私は何になればいいのかしら」
リタは少し考えた。
そして、珍しく優しい声で言った。
「お嬢様ご自身でよろしいのでは?」
「私自身」
「はい」
「それが一番難しいわ」
「存じております」
「リタ」
「はい」
「今日くらい、少し優しく励まして」
「では」
リタは、真面目な顔で言った。
「お嬢様は、壁には向いておりません。ですが、逃げながらでも、転びながらでも、ご自分の足で立とうとなさる方です」
胸がじんとした。
「それは、とてもお嬢様らしいかと」
今度こそ、少し泣きそうになった。
「……ありがとう」
「はい」
「でも、逃げながら転ぶのは少し格好悪いわね」
「お嬢様らしいです」
「そこは否定して」
「事実ですので」
「事実禁止令を」
「却下です」
レオンハルト様だけでなく、リタにも却下された。
わたくしは笑った。
馬車の揺れが、少し心地よい。
帰ったら、手帳に書こう。
『私は壁ではなく、私として立つ。
まだどこへ立つのかは分からない。
王太子妃になるのか、婚約を解消するのか、レオンハルト様の隣へ行くのか、自分一人の場所を探すのか。
何も決まっていない。
怖い。
でも、逃げるためではなく、選ぶために考える。』
そして、きっと最後にこう書く。
『困りましたわ。壁になるより、ずっと難しいことを言われてしまいました。』
推し活より厄介で。
婚約破棄より面倒で。
断罪イベントより心臓に悪いもの。
それが恋かもしれない、と。
まだ認めたくはない。
認めたくはないけれど。
否定する声は、少しだけ小さくなっていた。




