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推しカプを見守るため悪役令嬢に転生しましたが、なぜか冷血公爵の本命になりました 〜私は壁になりたいのに、攻略対象たちが全員こちらを見てくる〜  作者: 鳳凰院暁月刃夜


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第29話 全員集合茶会はだいたい事故る

 王宮小庭園は、美しかった。


 白い石畳。

 季節の花が咲く低い花壇。

 噴水の水音。

 淡い日差しを遮るために張られた薄布の天幕。


 その下に、丸い茶卓が置かれている。


 銀の茶器。

 焼き菓子。

 果物の砂糖漬け。

 小さなサンドイッチ。

 王宮らしく、何もかもが上品で整っていた。


 だが。


 わたくしの心は、まったく整っていなかった。


「リタ」


「はい」


「帰ってもいいかしら」


「まだ到着したばかりでございます」


「では、体調不良ということで」


「今朝、朝食をきちんと召し上がりました」


「胃が今から悪くなる予定なの」


「予定で体調不良は認められません」


 リタは冷静だった。


 非常に冷静だった。


 ここ数日、わたくしの逃亡未遂への対応がさらに早くなっている気がする。


 王宮へ向かう馬車の中でも、わたくしは三回ほど「やはり本日は遠慮した方が」と言いかけ、そのたびにリタから「招待状に返事を出しております」「殿下主催でございます」「逃げ癖です」と斬られた。


 逃げ癖。


 強い言葉である。


 でも、否定しきれない。


 わたくしは小庭園の入口から、茶卓を見つめた。


 席は五つ。


 五つである。


 五人分。


 つまり、逃げ場なし。


 誰かの後ろに立つとか、少し離れた椅子に座るとか、植木の陰から観測するとか、そういう余白が一切ない。


 壁志望者に対する配慮が皆無である。


「お嬢様」


「なに?」


「植木鉢を見ないでくださいませ」


「まだ何も言っていないわ」


「お顔が、あの植木鉢なら隠れられるかしら、と仰っております」


「顔が喋りすぎよ」


「はい」


 認められた。


 もう、わたくしの顔は社交界より情報漏洩が早いのではないか。


 最初に到着していたのは、セシリア様だった。


 淡い若草色のドレス。

 胸元には小さな白い花飾り。

 昨日の緊張をまだ少し引きずっているようだったが、わたくしを見つけるとぱっと笑った。


「ミリア様!」


 ああ。


 癒やし。


 ヒロイン様は朝露のように尊い。


 わたくしは即座に逃亡欲を忘れた。


「セシリア様。ごきげんよう」


「ごきげんよう、ミリア様。今日は来てくださって嬉しいです」


「こちらこそ、セシリア様にお会いできて光栄ですわ」


「昨日、お花は届きましたか?」


「もちろんです。机の上に飾りました。あの花籠は聖域です」


「せ、聖域?」


「大切にしている、という意味ですわ」


「よかったです」


 セシリア様は少し照れたように笑う。


 可愛い。


 これだけで来た価値がある。


 いや、待って。


 今日はそういう会ではない。


 全員集合茶会である。


 気を抜いてはいけない。


 セシリア様は、わたくしの手をそっと握った。


「ミリア様。今日は、怖くありませんか?」


「少しだけ」


「私もです」


「セシリア様も?」


「はい。王太子殿下も、グランツ卿も、ヴァイスベルク公爵様もご一緒ですし……その、皆様お優しいのですけれど、緊張します」


 そう言ってから、セシリア様は小さく笑った。


「でも、ミリア様が一緒なので頑張れます」


 胸が温かくなる。


 こういう言葉を、真正面から言えるのがセシリア様の強さだ。


「わたくしも、セシリア様がいらっしゃるので頑張れます」


「本当ですか?」


「本当です」


「では、一緒に頑張りましょう」


「はい」


 手を握り合う。


 悪役令嬢とヒロインのはずなのに、完全に戦友である。


 そこへ、低い声がした。


「早いな」


 振り向くと、ダリオ様が立っていた。


 赤髪をきちんと整え、今日は騎士服ではなく、やや柔らかな礼装。

 だが腰には剣がある。


 王宮内の茶会であっても、彼はやはり騎士団長なのだ。


 尊い。


 いや、落ち着け。


 今日はカップを落とさないのが目標である。


「グランツ卿。ごきげんよう」


「ロゼリア嬢。セシリア嬢」


 ダリオ様は礼を返す。


 セシリア様が少し緊張したように頭を下げた。


「グランツ卿、先日の件では本当にありがとうございました」


「俺は任務を果たしただけだ」


「それでも、心強かったです」


「……そうか」


 ダリオ様は少しだけ困った顔をした。


 褒められ慣れていないというより、セシリア様の素直な感謝にどう返せばいいか分からない顔だ。


 大変よい。


 推しの真面目さとヒロイン様の素直さが、同じ画角にある。


 これは供給。


 王宮小庭園の新鮮な供給。


 わたくしは心の中で手を合わせた。


 が、次の瞬間、ダリオ様の視線がこちらへ向いた。


「ロゼリア嬢」


「はい」


「体調はどうだ」


「え?」


「昨日の夜会から、まだ日が浅い。無理はしていないか」


 推しが。


 推しが心配してくださっている。


 ありがたい。


 ありがたいのだが、最近わたくしは心配されすぎている気もする。


「大丈夫ですわ。少し寝不足ではございますが」


「寝不足?」


「グランツ卿、そこは追及なさらず」


「なぜ」


「色々と、考えごとが」


「考えごと」


 ダリオ様は真面目に頷いた。


「考えるのは悪くない。だが、休むのも大事だ」


「ありがとうございます」


「殿下も心配していた」


 ユリウス殿下の名前が出ると同時に、心が少し緊張する。


 そうだ。


 今日は殿下とも話す。


 一ヶ月の宿題。


 婚約解消の話。


 それを抱えたままの茶会。


 すでに事故の気配が濃い。


 その時、庭園の奥から声がした。


「皆、揃うのが早いね」


 ユリウス殿下だった。


 白と青を基調にした軽めの礼装。

 王太子としての華やかさはあるが、今日は少しだけ肩の力が抜けている。


 その後ろに、レオンハルト様。


 濃紺の礼服。

 相変わらず、静かで隙がない。


 心臓が一度、大きく跳ねた。


 駄目。


 名前だけで反応する段階は昨日で卒業したいと思っていたのに、本人登場はやはり威力が違う。


「お嬢様」


 背後のリタが小さく言った。


「カップはまだ持っておりません」


「分かっているわ」


「今のうちに深呼吸を」


「あなた、本当に実用的ね」


「公爵様の影響かもしれません」


「そこを認めないで」


 ユリウス殿下が近づき、わたくしたちは礼をした。


「今日は来てくれてありがとう。先日の夜会のこともあったから、本来ならもう少し時間を空けるべきかと思ったんだけど」


 殿下はわたくしとセシリア様を順に見た。


「皆が、それぞれ直接話した方がいいと思ってね」


「お招きいただき、ありがとうございます」


 わたくしが答えると、殿下は少しだけ笑った。


「硬いね」


「この顔ぶれで柔らかくいる方が難しいです」


「正直でいい」


 レオンハルト様が横から言った。


「逃げなかっただけ進歩だ」


「公爵様」


「何だ」


「最初の一言がそれですか」


「事実だ」


「事実禁止令は」


「却下だ」


「本当に即答なさいますね」


 セシリア様が、目をぱちぱちさせている。


 ユリウス殿下は口元を押さえ、ダリオ様は少し困った顔をした。


 レオンハルト様は平然としている。


 わたくしだけが疲れている。


「さて」


 殿下が軽く手を叩いた。


「立ち話も何だから、座ろうか」


 来た。


 席順。


 わたくしは茶卓へ視線を向けた。


 あらかじめ席札が置かれている。


 王太子殿下。


 セシリア様。


 グランツ卿。


 ヴァイスベルク公爵。


 ロゼリア令嬢。


 問題は配置だ。


 まず殿下が上座に近い位置。

 その右手側に一つ。

 左手側に一つ。

 正面に一つ。

 斜め向かいに一つ。


 わたくしは、自然に端の席を探した。


 端。


 端が欲しい。


 いや、丸卓なので端など存在しないのだが、それでも心理的な端はある。


 ところが。


「ミリアはここだね」


 ユリウス殿下が、さらりと言った。


 指し示された席は、殿下の右隣。


 そして、その反対側には。


 レオンハルト様の席札。


 つまり。


 右に王太子殿下。

 左に冷血公爵様。


 正面にダリオ様。


 斜め前にセシリア様。


 わたくしは、しばらく席札を見つめた。


「……殿下」


「うん?」


「なぜ、わたくしがここなのでしょう」


「君が今日の主賓だから」


「主賓?」


「先日の夜会で一番大変だったのは君だろう」


「主賓の器ではございません」


「では何の器だろう」


 殿下が楽しそうに聞く。


 わたくしは真面目に答えた。


「植木鉢の陰に置かれる小皿程度で」


 セシリア様が吹き出しかけた。


 リタが背後で咳払いをした。


 ダリオ様は「小皿……」と小さく呟いている。


 レオンハルト様は、わずかに目を細めた。


「君は皿にも向いていない」


「公爵様、そこは否定する場所が違います」


「よく動くからな」


「皿としての評価ですか?」


「壁よりは近い」


「どちらも目指していません」


「壁は目指していただろう」


「過去の話です」


 言ってから、自分で少し驚いた。


 過去の話。


 そう言えた。


 まだ壁になりたい気持ちは残っている。

 でも、前ほど強くしがみついてはいないのかもしれない。


 レオンハルト様の目が、少しだけ柔らかくなった気がした。


「そうか」


 たった一言。


 それだけなのに、胸が温かくなる。


 わたくしは慌てて席についた。


 逃げ場のない席へ。


 右にユリウス殿下。


 左にレオンハルト様。


 正面にダリオ様。


 斜め前にセシリア様。


 背後少し離れた場所にリタ。


 これは何の布陣か。


 王太子妃候補挟撃陣か。


 冷血公爵包囲網か。


 推しカプ観測席としては最高なのに、自分が中心に配置されているせいで落ち着かない。


 おかしい。


 わたくしは本来、殿下とダリオ様を同じ画角で眺める壁になる予定だった。


 今は、同じ画角どころか正面にダリオ様、横に殿下である。


 供給が近すぎると、人は逆に困る。


 王宮侍女が紅茶を注いでくれる。


 わたくしはカップを持つ前に、リタを見た。


 リタが無言で頷く。


 カップを落とさない。


 本日の低い目標。


 わたくしは慎重にカップを持った。


「ミリア」


 右から殿下の声。


 カップが揺れかける。


 危ない。


「はい、殿下」


「昨日は、よく眠れた?」


 左からレオンハルト様の視線。


 正面からダリオ様の真面目な目。


 斜め前からセシリア様の心配そうな顔。


 全員が見る。


 全員が、わたくしの睡眠に関心を持っている。


 なぜ。


 わたくしの睡眠状況は王国の安全保障なのか。


「少しだけ眠れました」


「少しだけ?」


 レオンハルト様が即座に反応した。


「公爵様、今のは社交辞令です」


「睡眠時間に社交辞令は不要だ」


「不要かどうかはわたくしが」


「何時間だ」


 逃げられない。


 わたくしはカップを置いた。


 目標達成。

 まだ落としていない。


「……二時間ほど」


「少ない」


 レオンハルト様。


 即答。


「ミリア、無理はしないようにと言ったよね」


 ユリウス殿下。


 優しいが圧がある。


「ロゼリア嬢、寝不足で歩くと判断が鈍る」


 ダリオ様。


 真面目な助言。


「ミリア様、今夜は早くお休みくださいね」


 セシリア様。


 癒やしの心配。


 四方向から心配が飛んでくる。


 逃げ場がない。


「皆様」


 わたくしは両手を膝の上で握った。


「わたくしは、もう少し自立した令嬢として扱われたいです」


 沈黙。


 最初に口を開いたのはレオンハルト様だった。


「なら、寝ろ」


「公爵様」


「自立は睡眠からだ」


 セシリア様が、真剣に頷いた。


「たしかに、神官長様も休息は祈りの一部だとおっしゃっていました」


「セシリア様まで」


 ダリオ様も頷く。


「行軍でも睡眠不足は危険だ」


「グランツ卿、それは少し状況が違います」


「だが、身体は同じだ」


「正論ですわ」


 殿下が楽しそうに笑った。


「ミリア、君は味方が多いと大変だね」


「殿下もその味方陣営にいらっしゃいます」


「もちろん」


「せめて少し手加減を」


「君が自分を後回しにしなくなったらね」


 またそれ。


 どこへ行っても、それ。


 わたくしは小さくため息をついた。


 すると、セシリア様が遠慮がちに言った。


「ミリア様。私、昨日の夜、少し考えました」


「何をですか?」


「ミリア様は、誰かを守る時はとても強いです。でも、ご自分を守る時は、急に迷子になってしまうのですね」


 迷子。


 柔らかい言葉なのに、妙に刺さる。


「セシリア様。迷子ですか」


「はい。あの、失礼でしたか?」


「いえ。むしろ的確で驚いております」


 自分のことになると迷子。


 その通りだ。


 目的地が分からず、地図もなく、なぜか他人の案内だけは全力でする。


 ひどい迷子である。


 レオンハルト様が静かに言う。


「だから地図を渡した」


「安全経路一覧のことですか?」


「そうだ」


「公爵様、比喩ではなく物理の地図でしたわ」


「役に立つ」


「役には立ちますが」


 殿下が笑いを堪えきれない顔をしている。


「レオンハルト公らしいね」


「殿下なら何を渡すのですか」


 わたくしが聞くと、殿下は少し考えた。


「そうだな。私は、手紙かな」


「すでにいただいております」


「なら、もう少し長い手紙を」


「殿下の手紙は優しいので、読むと心臓にきます」


「それは良い意味?」


「半分」


「誰かに似てきたね」


 殿下がレオンハルト様を見る。


 レオンハルト様は無表情だったが、ほんの少し眉が動いた。


「似ていない」


「そうかな」


「似ておりませんわ」


 わたくしも慌てて言う。


 リタが背後で小さく咳払いした。


 絶対に「似てきております」と思っている。


 言わせない。


 絶対に言わせない。


 話題を変えよう。


 わたくしは正面のダリオ様を見る。


「グランツ卿は、何を渡されますか?」


「俺か?」


「はい。迷子に」


 ダリオ様は真剣に考え込んだ。


 その真剣さがすでに尊い。


 彼は少しして、真面目に答えた。


「方角を確認する」


「物理ですね」


「迷っているなら、まずどちらへ向かっているか確認する必要がある」


「なるほど」


「それから、歩ける状態か見る。疲れているなら休ませる」


「やはり睡眠へ戻るのですね」


「重要だ」


 ダリオ様が真顔で言う。


 殿下が少し笑った。


「ダリオは昔からそうだ。私が悩んでいても、まず食べたか、寝たかを確認する」


「殿下は、寝ずに考え込むことがある」


「昔の話だよ」


「今も時々ある」


「君は本当に容赦がないね」


「事実です」


 事実。


 ダリオ様まで事実派。


 レオンハルト様と系統は違うが、確かに強い。


 そして、殿下とダリオ様のこの距離感。


 自然。


 幼なじみの信頼。


 王太子と騎士団長としての関係だけではない、積み重ね。


 ありがとうございます。


 わたくしはカップを持っていなかったので、心の中で深く拝んだ。


 すると、レオンハルト様が横から言った。


「今、何かを拝んだ顔をしたな」


 なぜ分かる。


「しておりません」


「嘘が下手だ」


「心の中まで監視しないでくださいませ」


「顔に出ている」


「顔面日記帳問題が深刻ですわ」


 セシリア様が小さく笑った。


「ミリア様は、殿下とグランツ卿がお話しされている時、とても幸せそうなお顔をなさいます」


「セシリア様」


「でも」


 セシリア様は、にこにこしながら続けた。


「レオンハルト様に見つめられている時は、幸せそうというより、逃げたいけれど逃げたくなさそうなお顔です」


 紅茶が気管に入りかけた。


 カップを持っていなかったのに。


「セシリア様!」


「す、すみません。変なことを言いましたか?」


「かなり核心です」


 リタが背後で言った。


「リタ!」


 セシリア様は慌てる。


「ごめんなさい、ミリア様。でも、その……レオンハルト様のお話になると、ミリア様はいつも少し違うお顔をなさるので」


「違う顔」


「はい。殿下とグランツ卿のお話をしている時は、舞台を見ているみたいです。とても楽しそうで、綺麗なものを大切に見ているような。でも、レオンハルト様のお話の時は、ミリア様ご自身が舞台の上にいるみたいで」


 以前も言われた。


 同じことを。


 でも、今日は皆の前だ。


 逃げ場がない。


 殿下が興味深そうにこちらを見る。


 ダリオ様は少し困った顔。


 レオンハルト様は、黙っている。


 黙っているのに、存在感が強い。


「セシリア嬢は鋭いね」


 殿下が言った。


「えっ、そうでしょうか」


「うん。私も少し思っていた」


「殿下まで」


「君は、私やダリオを見る時、どこか遠くから眺めているような顔をする。大切にしてくれているのは分かるけど、手を伸ばすつもりはないような」


「……」


「レオンハルト公を見る時は、逃げる準備をしながらも、ちゃんと目の前にいる」


 何も言えない。


 恥ずかしい。


 でも、それ以上に、言葉が刺さる。


 遠くから眺めている。


 手を伸ばすつもりはない。


 それが、わたくしの推し活だった。


 綺麗なものを外側から眺める。


 壊さないように、触れないように。


 でも、レオンハルト様は触れてくる。


 手袋越しの手。

 短い言葉。

 逃げ道を塞ぐ視線。

 安全経路一覧。

 婚約者候補。


 こちらを舞台に引きずり出してくる。


 迷惑で、怖くて。


 温かい。


「ミリア」


 殿下が静かに言った。


「君は本当に、王太子妃になりたくないのか」


 茶卓の空気が、静かに変わった。


 ついに来た。


 この問い。


 わたくしは、カップを見た。


 持っていない。


 よかった。


 持っていたら落としていたかもしれない。


 セシリア様が心配そうにこちらを見る。

 ダリオ様は殿下の横顔を見ている。

 レオンハルト様は、何も言わない。


 ただ、待っている。


「……殿下」


「うん」


「その問いに、すぐ答えられると思っておりました」


 わたくしは、ゆっくりと言った。


「以前なら、はい、なりたくありません、と。そう答えるつもりでした」


「今は?」


「分かりません」


 正直な言葉だった。


 怖い。


 でも、嘘ではない。


「王太子妃になりたいかと聞かれれば、覚悟が足りないと思います。殿下の隣に立つことの重さも、昨日の夜会で改めて知りました」


「うん」


「ですが、なりたくない理由が、推し……いえ、殿下とグランツ卿の尊い信頼関係を邪魔したくないから、だけでは駄目なのだと分かってきました」


 ダリオ様が「尊い……?」と小さく呟いた。


 聞かなかったことにする。


「セシリア様をヒロインとして、殿下を王子様として、グランツ卿を騎士として、綺麗な物語の中の方々として見ていました。でも皆様は、物語ではなく、ここにいる人です」


 言いながら、胸が少し痛む。


「殿下にも迷いがあり、グランツ卿にも選んだ忠義があり、セシリア様にも怖さと強さがある。わたくしが勝手に眺めて、勝手に守った気になってよい方々ではありませんでした」


 セシリア様の目が潤む。


 ダリオ様は、まっすぐこちらを見ている。


 殿下は、静かに聞いている。


 レオンハルト様は、いつものように無表情で。


 でも、逃げ道ではなく、足場のようにそこにいる。


「だから、今は分かりません。王太子妃になりたいのか、なりたくないのか。殿下の隣に立つべきなのか、別の場所へ行くべきなのか」


 言い切ったあと、少しだけ息が震えた。


「分からないまま、軽く答えてはいけないと思っています」


 沈黙。


 でも、嫌な沈黙ではなかった。


 最初に口を開いたのは、ユリウス殿下だった。


「ありがとう」


「え?」


「分からないと、ちゃんと言ってくれて」


「それでよろしいのですか」


「よくはないよ」


 殿下は少し笑った。


「正直、少し苦しい」


「殿下」


「でも、嘘で答えられるよりずっといい」


 胸が痛む。


 殿下は、本当にずるい。


 優しくて、でも自分の痛みも隠しきらずに伝えてくる。


「一ヶ月後、君の答えを聞かせてほしい」


「はい」


「そして私も、その時までに答えを出す」


「殿下の?」


「私が、君をどうしたいのか」


 心臓が鳴る。


 レオンハルト様の気配が、左側でわずかに変わった気がした。


 ダリオ様が静かに殿下を見る。


 セシリア様は、両手を胸の前で握っている。


 逃げ場なし。


 完全に逃げ場なし。


 全員集合茶会、やはり事故である。


「殿下」


 レオンハルト様が初めて口を開いた。


「彼女を追い詰めるな」


 声は低い。


 だが、責めるというより、線を引く声だった。


 殿下はレオンハルト様を見る。


「分かっているよ。けれど、君も遠慮する気はないだろう?」


「ない」


 即答。


 わたくしは頭を抱えたくなった。


「公爵様」


「何だ」


「ここで即答なさらないでくださいませ」


「嘘を言う必要がない」


「そういうところです」


「どこだ」


「破壊力です」


 リタが背後で小さく咳払いした。


 たぶん笑っている。


 セシリア様は頬を染めている。


 ダリオ様は完全に困っている。


 殿下は楽しそうに、でも少し真剣にレオンハルト様を見ていた。


「レオンハルト公」


「何です」


「君はミリアをどうしたい?」


 やめて。


 王太子殿下。


 やめてください。


 それは本人の前で聞く話ではありません。


 わたくしは水を飲もうとして、カップに手を伸ばしかけ、リタの視線で止まった。


 危ない。


 今持ったら落とす。


 レオンハルト様は、静かに答えた。


「彼女が自分を軽く扱わない場所に立たせたい」


 言葉が、胸に落ちる。


「そして、彼女が選ぶなら、隣に立ちたい」


 終わった。


 何が終わったのか分からないが、何かが終わった。


 セシリア様が小さく「まあ……」と呟いた。


 殿下は少し目を細める。


 ダリオ様は、わたくしの方を見て、それから視線を逸らした。


 優しい。


 推しが気遣って視線を逸らしてくれた。


 しかし、状況はそれどころではない。


「公爵様」


「何だ」


「心臓に悪いと、何度申し上げれば」


「慣れろと言った」


「慣れません!」


「努力しろ」


「無茶ですわ!」


 殿下が笑った。


 セシリア様もつられて笑う。


 ダリオ様まで、少しだけ口元を緩めた。


 そしてレオンハルト様は、ほんの少しだけ目元を和らげた。


 事故だ。


 完全に事故だ。


 でも、最悪の事故ではない。


 誰かを傷つけるための場ではなく、誰かの本音が少しずつこぼれる場。


 逃げたい。


 でも、逃げたくない。


 その矛盾ごと、今のわたくしなのだと思う。


 茶会は、その後も続いた。


 セシリア様はわたくしの隣へ少し身を乗り出し、「ミリア様、応援しています」と小声で言った。


 何を。


 どれを。


 全部か。


 ユリウス殿下は、ダリオ様に「君はどう思う?」と話を振り、ダリオ様は真面目に「ロゼリア嬢が自分で選ぶべきです」と答えた。


 その姿は、とても解釈一致だった。


 レオンハルト様は、紅茶の温度を確認し、わたくしのカップが熱すぎないかを無言で見ていた。


 気づいた時、また心臓が変な音を立てた。


 世話焼き冷血公爵。


 ジャンルが強すぎる。


 茶会の終わり際、殿下がもう一度わたくしに言った。


「ミリア。一ヶ月後、王宮舞踏会がある」


「舞踏会」


「そこで、婚約についての結論を出そう」


 また舞踏会。


 物語はなぜ、節目に舞踏会を置きたがるのか。


 いや、貴族社会だから当然なのだけれど。


「分かりました」


「ただし、それまでは逃げないこと」


「努力します」


「善処ではなく?」


「努力します」


「よし」


 殿下が満足そうに頷いた。


 レオンハルト様が横から言う。


「逃げたら見つける」


「公爵様まで」


「私は殿下より早い」


「競わないでくださいませ」


 セシリア様が、ふふっと笑った。


「ミリア様は大変ですね」


「セシリア様、他人事のように」


「でも、少し嬉しいです。ミリア様が皆様に大切にされていて」


 その言葉に、胸が温かくなる。


「……わたくしも、まだ慣れませんが、少し嬉しいです」


 正直に言えた。


 セシリア様が嬉しそうに笑う。


 リタが背後で満足そうに頷いた気がした。


 茶会が終わり、小庭園を出る頃。


 わたくしは、ふと思った。


 今日はカップを落とさなかった。


 それだけでも、大きな進歩ではないだろうか。


 リタに言うと、彼女は真顔で答えた。


「お嬢様」


「なに?」


「目標が低すぎます」


「達成したのだから褒めて」


「よく頑張りました」


「急に素直」


「ただし、心は何度も落としておられました」


「それは拾えないわ」


「一ヶ月かけて拾いましょう」


 リタの言葉に、少し笑った。


 心を拾う。


 自分の心を。


 どこへ行きたいのか。

 誰の隣に立ちたいのか。

 そもそも、隣に立つとはどういうことなのか。


 答えはまだ遠い。


 でも、今日の茶会で一つだけ分かった。


 全員集合茶会は、だいたい事故る。


 けれど、事故の中でしか見えない本音もある。


 わたくしは、王宮小庭園を振り返った。


 そこにはもう、誰も座っていない茶卓がある。


 けれど、さっきまでの会話の熱が、まだ少し残っている気がした。


 右に王太子殿下。


 左に冷血公爵様。


 正面に騎士団長様。


 斜め前に聖女候補様。


 逃げ場のない席だった。


 でも。


 不思議と、嫌な場所ではなかった。


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