第29話 全員集合茶会はだいたい事故る
王宮小庭園は、美しかった。
白い石畳。
季節の花が咲く低い花壇。
噴水の水音。
淡い日差しを遮るために張られた薄布の天幕。
その下に、丸い茶卓が置かれている。
銀の茶器。
焼き菓子。
果物の砂糖漬け。
小さなサンドイッチ。
王宮らしく、何もかもが上品で整っていた。
だが。
わたくしの心は、まったく整っていなかった。
「リタ」
「はい」
「帰ってもいいかしら」
「まだ到着したばかりでございます」
「では、体調不良ということで」
「今朝、朝食をきちんと召し上がりました」
「胃が今から悪くなる予定なの」
「予定で体調不良は認められません」
リタは冷静だった。
非常に冷静だった。
ここ数日、わたくしの逃亡未遂への対応がさらに早くなっている気がする。
王宮へ向かう馬車の中でも、わたくしは三回ほど「やはり本日は遠慮した方が」と言いかけ、そのたびにリタから「招待状に返事を出しております」「殿下主催でございます」「逃げ癖です」と斬られた。
逃げ癖。
強い言葉である。
でも、否定しきれない。
わたくしは小庭園の入口から、茶卓を見つめた。
席は五つ。
五つである。
五人分。
つまり、逃げ場なし。
誰かの後ろに立つとか、少し離れた椅子に座るとか、植木の陰から観測するとか、そういう余白が一切ない。
壁志望者に対する配慮が皆無である。
「お嬢様」
「なに?」
「植木鉢を見ないでくださいませ」
「まだ何も言っていないわ」
「お顔が、あの植木鉢なら隠れられるかしら、と仰っております」
「顔が喋りすぎよ」
「はい」
認められた。
もう、わたくしの顔は社交界より情報漏洩が早いのではないか。
最初に到着していたのは、セシリア様だった。
淡い若草色のドレス。
胸元には小さな白い花飾り。
昨日の緊張をまだ少し引きずっているようだったが、わたくしを見つけるとぱっと笑った。
「ミリア様!」
ああ。
癒やし。
ヒロイン様は朝露のように尊い。
わたくしは即座に逃亡欲を忘れた。
「セシリア様。ごきげんよう」
「ごきげんよう、ミリア様。今日は来てくださって嬉しいです」
「こちらこそ、セシリア様にお会いできて光栄ですわ」
「昨日、お花は届きましたか?」
「もちろんです。机の上に飾りました。あの花籠は聖域です」
「せ、聖域?」
「大切にしている、という意味ですわ」
「よかったです」
セシリア様は少し照れたように笑う。
可愛い。
これだけで来た価値がある。
いや、待って。
今日はそういう会ではない。
全員集合茶会である。
気を抜いてはいけない。
セシリア様は、わたくしの手をそっと握った。
「ミリア様。今日は、怖くありませんか?」
「少しだけ」
「私もです」
「セシリア様も?」
「はい。王太子殿下も、グランツ卿も、ヴァイスベルク公爵様もご一緒ですし……その、皆様お優しいのですけれど、緊張します」
そう言ってから、セシリア様は小さく笑った。
「でも、ミリア様が一緒なので頑張れます」
胸が温かくなる。
こういう言葉を、真正面から言えるのがセシリア様の強さだ。
「わたくしも、セシリア様がいらっしゃるので頑張れます」
「本当ですか?」
「本当です」
「では、一緒に頑張りましょう」
「はい」
手を握り合う。
悪役令嬢とヒロインのはずなのに、完全に戦友である。
そこへ、低い声がした。
「早いな」
振り向くと、ダリオ様が立っていた。
赤髪をきちんと整え、今日は騎士服ではなく、やや柔らかな礼装。
だが腰には剣がある。
王宮内の茶会であっても、彼はやはり騎士団長なのだ。
尊い。
いや、落ち着け。
今日はカップを落とさないのが目標である。
「グランツ卿。ごきげんよう」
「ロゼリア嬢。セシリア嬢」
ダリオ様は礼を返す。
セシリア様が少し緊張したように頭を下げた。
「グランツ卿、先日の件では本当にありがとうございました」
「俺は任務を果たしただけだ」
「それでも、心強かったです」
「……そうか」
ダリオ様は少しだけ困った顔をした。
褒められ慣れていないというより、セシリア様の素直な感謝にどう返せばいいか分からない顔だ。
大変よい。
推しの真面目さとヒロイン様の素直さが、同じ画角にある。
これは供給。
王宮小庭園の新鮮な供給。
わたくしは心の中で手を合わせた。
が、次の瞬間、ダリオ様の視線がこちらへ向いた。
「ロゼリア嬢」
「はい」
「体調はどうだ」
「え?」
「昨日の夜会から、まだ日が浅い。無理はしていないか」
推しが。
推しが心配してくださっている。
ありがたい。
ありがたいのだが、最近わたくしは心配されすぎている気もする。
「大丈夫ですわ。少し寝不足ではございますが」
「寝不足?」
「グランツ卿、そこは追及なさらず」
「なぜ」
「色々と、考えごとが」
「考えごと」
ダリオ様は真面目に頷いた。
「考えるのは悪くない。だが、休むのも大事だ」
「ありがとうございます」
「殿下も心配していた」
ユリウス殿下の名前が出ると同時に、心が少し緊張する。
そうだ。
今日は殿下とも話す。
一ヶ月の宿題。
婚約解消の話。
それを抱えたままの茶会。
すでに事故の気配が濃い。
その時、庭園の奥から声がした。
「皆、揃うのが早いね」
ユリウス殿下だった。
白と青を基調にした軽めの礼装。
王太子としての華やかさはあるが、今日は少しだけ肩の力が抜けている。
その後ろに、レオンハルト様。
濃紺の礼服。
相変わらず、静かで隙がない。
心臓が一度、大きく跳ねた。
駄目。
名前だけで反応する段階は昨日で卒業したいと思っていたのに、本人登場はやはり威力が違う。
「お嬢様」
背後のリタが小さく言った。
「カップはまだ持っておりません」
「分かっているわ」
「今のうちに深呼吸を」
「あなた、本当に実用的ね」
「公爵様の影響かもしれません」
「そこを認めないで」
ユリウス殿下が近づき、わたくしたちは礼をした。
「今日は来てくれてありがとう。先日の夜会のこともあったから、本来ならもう少し時間を空けるべきかと思ったんだけど」
殿下はわたくしとセシリア様を順に見た。
「皆が、それぞれ直接話した方がいいと思ってね」
「お招きいただき、ありがとうございます」
わたくしが答えると、殿下は少しだけ笑った。
「硬いね」
「この顔ぶれで柔らかくいる方が難しいです」
「正直でいい」
レオンハルト様が横から言った。
「逃げなかっただけ進歩だ」
「公爵様」
「何だ」
「最初の一言がそれですか」
「事実だ」
「事実禁止令は」
「却下だ」
「本当に即答なさいますね」
セシリア様が、目をぱちぱちさせている。
ユリウス殿下は口元を押さえ、ダリオ様は少し困った顔をした。
レオンハルト様は平然としている。
わたくしだけが疲れている。
「さて」
殿下が軽く手を叩いた。
「立ち話も何だから、座ろうか」
来た。
席順。
わたくしは茶卓へ視線を向けた。
あらかじめ席札が置かれている。
王太子殿下。
セシリア様。
グランツ卿。
ヴァイスベルク公爵。
ロゼリア令嬢。
問題は配置だ。
まず殿下が上座に近い位置。
その右手側に一つ。
左手側に一つ。
正面に一つ。
斜め向かいに一つ。
わたくしは、自然に端の席を探した。
端。
端が欲しい。
いや、丸卓なので端など存在しないのだが、それでも心理的な端はある。
ところが。
「ミリアはここだね」
ユリウス殿下が、さらりと言った。
指し示された席は、殿下の右隣。
そして、その反対側には。
レオンハルト様の席札。
つまり。
右に王太子殿下。
左に冷血公爵様。
正面にダリオ様。
斜め前にセシリア様。
わたくしは、しばらく席札を見つめた。
「……殿下」
「うん?」
「なぜ、わたくしがここなのでしょう」
「君が今日の主賓だから」
「主賓?」
「先日の夜会で一番大変だったのは君だろう」
「主賓の器ではございません」
「では何の器だろう」
殿下が楽しそうに聞く。
わたくしは真面目に答えた。
「植木鉢の陰に置かれる小皿程度で」
セシリア様が吹き出しかけた。
リタが背後で咳払いをした。
ダリオ様は「小皿……」と小さく呟いている。
レオンハルト様は、わずかに目を細めた。
「君は皿にも向いていない」
「公爵様、そこは否定する場所が違います」
「よく動くからな」
「皿としての評価ですか?」
「壁よりは近い」
「どちらも目指していません」
「壁は目指していただろう」
「過去の話です」
言ってから、自分で少し驚いた。
過去の話。
そう言えた。
まだ壁になりたい気持ちは残っている。
でも、前ほど強くしがみついてはいないのかもしれない。
レオンハルト様の目が、少しだけ柔らかくなった気がした。
「そうか」
たった一言。
それだけなのに、胸が温かくなる。
わたくしは慌てて席についた。
逃げ場のない席へ。
右にユリウス殿下。
左にレオンハルト様。
正面にダリオ様。
斜め前にセシリア様。
背後少し離れた場所にリタ。
これは何の布陣か。
王太子妃候補挟撃陣か。
冷血公爵包囲網か。
推しカプ観測席としては最高なのに、自分が中心に配置されているせいで落ち着かない。
おかしい。
わたくしは本来、殿下とダリオ様を同じ画角で眺める壁になる予定だった。
今は、同じ画角どころか正面にダリオ様、横に殿下である。
供給が近すぎると、人は逆に困る。
王宮侍女が紅茶を注いでくれる。
わたくしはカップを持つ前に、リタを見た。
リタが無言で頷く。
カップを落とさない。
本日の低い目標。
わたくしは慎重にカップを持った。
「ミリア」
右から殿下の声。
カップが揺れかける。
危ない。
「はい、殿下」
「昨日は、よく眠れた?」
左からレオンハルト様の視線。
正面からダリオ様の真面目な目。
斜め前からセシリア様の心配そうな顔。
全員が見る。
全員が、わたくしの睡眠に関心を持っている。
なぜ。
わたくしの睡眠状況は王国の安全保障なのか。
「少しだけ眠れました」
「少しだけ?」
レオンハルト様が即座に反応した。
「公爵様、今のは社交辞令です」
「睡眠時間に社交辞令は不要だ」
「不要かどうかはわたくしが」
「何時間だ」
逃げられない。
わたくしはカップを置いた。
目標達成。
まだ落としていない。
「……二時間ほど」
「少ない」
レオンハルト様。
即答。
「ミリア、無理はしないようにと言ったよね」
ユリウス殿下。
優しいが圧がある。
「ロゼリア嬢、寝不足で歩くと判断が鈍る」
ダリオ様。
真面目な助言。
「ミリア様、今夜は早くお休みくださいね」
セシリア様。
癒やしの心配。
四方向から心配が飛んでくる。
逃げ場がない。
「皆様」
わたくしは両手を膝の上で握った。
「わたくしは、もう少し自立した令嬢として扱われたいです」
沈黙。
最初に口を開いたのはレオンハルト様だった。
「なら、寝ろ」
「公爵様」
「自立は睡眠からだ」
セシリア様が、真剣に頷いた。
「たしかに、神官長様も休息は祈りの一部だとおっしゃっていました」
「セシリア様まで」
ダリオ様も頷く。
「行軍でも睡眠不足は危険だ」
「グランツ卿、それは少し状況が違います」
「だが、身体は同じだ」
「正論ですわ」
殿下が楽しそうに笑った。
「ミリア、君は味方が多いと大変だね」
「殿下もその味方陣営にいらっしゃいます」
「もちろん」
「せめて少し手加減を」
「君が自分を後回しにしなくなったらね」
またそれ。
どこへ行っても、それ。
わたくしは小さくため息をついた。
すると、セシリア様が遠慮がちに言った。
「ミリア様。私、昨日の夜、少し考えました」
「何をですか?」
「ミリア様は、誰かを守る時はとても強いです。でも、ご自分を守る時は、急に迷子になってしまうのですね」
迷子。
柔らかい言葉なのに、妙に刺さる。
「セシリア様。迷子ですか」
「はい。あの、失礼でしたか?」
「いえ。むしろ的確で驚いております」
自分のことになると迷子。
その通りだ。
目的地が分からず、地図もなく、なぜか他人の案内だけは全力でする。
ひどい迷子である。
レオンハルト様が静かに言う。
「だから地図を渡した」
「安全経路一覧のことですか?」
「そうだ」
「公爵様、比喩ではなく物理の地図でしたわ」
「役に立つ」
「役には立ちますが」
殿下が笑いを堪えきれない顔をしている。
「レオンハルト公らしいね」
「殿下なら何を渡すのですか」
わたくしが聞くと、殿下は少し考えた。
「そうだな。私は、手紙かな」
「すでにいただいております」
「なら、もう少し長い手紙を」
「殿下の手紙は優しいので、読むと心臓にきます」
「それは良い意味?」
「半分」
「誰かに似てきたね」
殿下がレオンハルト様を見る。
レオンハルト様は無表情だったが、ほんの少し眉が動いた。
「似ていない」
「そうかな」
「似ておりませんわ」
わたくしも慌てて言う。
リタが背後で小さく咳払いした。
絶対に「似てきております」と思っている。
言わせない。
絶対に言わせない。
話題を変えよう。
わたくしは正面のダリオ様を見る。
「グランツ卿は、何を渡されますか?」
「俺か?」
「はい。迷子に」
ダリオ様は真剣に考え込んだ。
その真剣さがすでに尊い。
彼は少しして、真面目に答えた。
「方角を確認する」
「物理ですね」
「迷っているなら、まずどちらへ向かっているか確認する必要がある」
「なるほど」
「それから、歩ける状態か見る。疲れているなら休ませる」
「やはり睡眠へ戻るのですね」
「重要だ」
ダリオ様が真顔で言う。
殿下が少し笑った。
「ダリオは昔からそうだ。私が悩んでいても、まず食べたか、寝たかを確認する」
「殿下は、寝ずに考え込むことがある」
「昔の話だよ」
「今も時々ある」
「君は本当に容赦がないね」
「事実です」
事実。
ダリオ様まで事実派。
レオンハルト様と系統は違うが、確かに強い。
そして、殿下とダリオ様のこの距離感。
自然。
幼なじみの信頼。
王太子と騎士団長としての関係だけではない、積み重ね。
ありがとうございます。
わたくしはカップを持っていなかったので、心の中で深く拝んだ。
すると、レオンハルト様が横から言った。
「今、何かを拝んだ顔をしたな」
なぜ分かる。
「しておりません」
「嘘が下手だ」
「心の中まで監視しないでくださいませ」
「顔に出ている」
「顔面日記帳問題が深刻ですわ」
セシリア様が小さく笑った。
「ミリア様は、殿下とグランツ卿がお話しされている時、とても幸せそうなお顔をなさいます」
「セシリア様」
「でも」
セシリア様は、にこにこしながら続けた。
「レオンハルト様に見つめられている時は、幸せそうというより、逃げたいけれど逃げたくなさそうなお顔です」
紅茶が気管に入りかけた。
カップを持っていなかったのに。
「セシリア様!」
「す、すみません。変なことを言いましたか?」
「かなり核心です」
リタが背後で言った。
「リタ!」
セシリア様は慌てる。
「ごめんなさい、ミリア様。でも、その……レオンハルト様のお話になると、ミリア様はいつも少し違うお顔をなさるので」
「違う顔」
「はい。殿下とグランツ卿のお話をしている時は、舞台を見ているみたいです。とても楽しそうで、綺麗なものを大切に見ているような。でも、レオンハルト様のお話の時は、ミリア様ご自身が舞台の上にいるみたいで」
以前も言われた。
同じことを。
でも、今日は皆の前だ。
逃げ場がない。
殿下が興味深そうにこちらを見る。
ダリオ様は少し困った顔。
レオンハルト様は、黙っている。
黙っているのに、存在感が強い。
「セシリア嬢は鋭いね」
殿下が言った。
「えっ、そうでしょうか」
「うん。私も少し思っていた」
「殿下まで」
「君は、私やダリオを見る時、どこか遠くから眺めているような顔をする。大切にしてくれているのは分かるけど、手を伸ばすつもりはないような」
「……」
「レオンハルト公を見る時は、逃げる準備をしながらも、ちゃんと目の前にいる」
何も言えない。
恥ずかしい。
でも、それ以上に、言葉が刺さる。
遠くから眺めている。
手を伸ばすつもりはない。
それが、わたくしの推し活だった。
綺麗なものを外側から眺める。
壊さないように、触れないように。
でも、レオンハルト様は触れてくる。
手袋越しの手。
短い言葉。
逃げ道を塞ぐ視線。
安全経路一覧。
婚約者候補。
こちらを舞台に引きずり出してくる。
迷惑で、怖くて。
温かい。
「ミリア」
殿下が静かに言った。
「君は本当に、王太子妃になりたくないのか」
茶卓の空気が、静かに変わった。
ついに来た。
この問い。
わたくしは、カップを見た。
持っていない。
よかった。
持っていたら落としていたかもしれない。
セシリア様が心配そうにこちらを見る。
ダリオ様は殿下の横顔を見ている。
レオンハルト様は、何も言わない。
ただ、待っている。
「……殿下」
「うん」
「その問いに、すぐ答えられると思っておりました」
わたくしは、ゆっくりと言った。
「以前なら、はい、なりたくありません、と。そう答えるつもりでした」
「今は?」
「分かりません」
正直な言葉だった。
怖い。
でも、嘘ではない。
「王太子妃になりたいかと聞かれれば、覚悟が足りないと思います。殿下の隣に立つことの重さも、昨日の夜会で改めて知りました」
「うん」
「ですが、なりたくない理由が、推し……いえ、殿下とグランツ卿の尊い信頼関係を邪魔したくないから、だけでは駄目なのだと分かってきました」
ダリオ様が「尊い……?」と小さく呟いた。
聞かなかったことにする。
「セシリア様をヒロインとして、殿下を王子様として、グランツ卿を騎士として、綺麗な物語の中の方々として見ていました。でも皆様は、物語ではなく、ここにいる人です」
言いながら、胸が少し痛む。
「殿下にも迷いがあり、グランツ卿にも選んだ忠義があり、セシリア様にも怖さと強さがある。わたくしが勝手に眺めて、勝手に守った気になってよい方々ではありませんでした」
セシリア様の目が潤む。
ダリオ様は、まっすぐこちらを見ている。
殿下は、静かに聞いている。
レオンハルト様は、いつものように無表情で。
でも、逃げ道ではなく、足場のようにそこにいる。
「だから、今は分かりません。王太子妃になりたいのか、なりたくないのか。殿下の隣に立つべきなのか、別の場所へ行くべきなのか」
言い切ったあと、少しだけ息が震えた。
「分からないまま、軽く答えてはいけないと思っています」
沈黙。
でも、嫌な沈黙ではなかった。
最初に口を開いたのは、ユリウス殿下だった。
「ありがとう」
「え?」
「分からないと、ちゃんと言ってくれて」
「それでよろしいのですか」
「よくはないよ」
殿下は少し笑った。
「正直、少し苦しい」
「殿下」
「でも、嘘で答えられるよりずっといい」
胸が痛む。
殿下は、本当にずるい。
優しくて、でも自分の痛みも隠しきらずに伝えてくる。
「一ヶ月後、君の答えを聞かせてほしい」
「はい」
「そして私も、その時までに答えを出す」
「殿下の?」
「私が、君をどうしたいのか」
心臓が鳴る。
レオンハルト様の気配が、左側でわずかに変わった気がした。
ダリオ様が静かに殿下を見る。
セシリア様は、両手を胸の前で握っている。
逃げ場なし。
完全に逃げ場なし。
全員集合茶会、やはり事故である。
「殿下」
レオンハルト様が初めて口を開いた。
「彼女を追い詰めるな」
声は低い。
だが、責めるというより、線を引く声だった。
殿下はレオンハルト様を見る。
「分かっているよ。けれど、君も遠慮する気はないだろう?」
「ない」
即答。
わたくしは頭を抱えたくなった。
「公爵様」
「何だ」
「ここで即答なさらないでくださいませ」
「嘘を言う必要がない」
「そういうところです」
「どこだ」
「破壊力です」
リタが背後で小さく咳払いした。
たぶん笑っている。
セシリア様は頬を染めている。
ダリオ様は完全に困っている。
殿下は楽しそうに、でも少し真剣にレオンハルト様を見ていた。
「レオンハルト公」
「何です」
「君はミリアをどうしたい?」
やめて。
王太子殿下。
やめてください。
それは本人の前で聞く話ではありません。
わたくしは水を飲もうとして、カップに手を伸ばしかけ、リタの視線で止まった。
危ない。
今持ったら落とす。
レオンハルト様は、静かに答えた。
「彼女が自分を軽く扱わない場所に立たせたい」
言葉が、胸に落ちる。
「そして、彼女が選ぶなら、隣に立ちたい」
終わった。
何が終わったのか分からないが、何かが終わった。
セシリア様が小さく「まあ……」と呟いた。
殿下は少し目を細める。
ダリオ様は、わたくしの方を見て、それから視線を逸らした。
優しい。
推しが気遣って視線を逸らしてくれた。
しかし、状況はそれどころではない。
「公爵様」
「何だ」
「心臓に悪いと、何度申し上げれば」
「慣れろと言った」
「慣れません!」
「努力しろ」
「無茶ですわ!」
殿下が笑った。
セシリア様もつられて笑う。
ダリオ様まで、少しだけ口元を緩めた。
そしてレオンハルト様は、ほんの少しだけ目元を和らげた。
事故だ。
完全に事故だ。
でも、最悪の事故ではない。
誰かを傷つけるための場ではなく、誰かの本音が少しずつこぼれる場。
逃げたい。
でも、逃げたくない。
その矛盾ごと、今のわたくしなのだと思う。
茶会は、その後も続いた。
セシリア様はわたくしの隣へ少し身を乗り出し、「ミリア様、応援しています」と小声で言った。
何を。
どれを。
全部か。
ユリウス殿下は、ダリオ様に「君はどう思う?」と話を振り、ダリオ様は真面目に「ロゼリア嬢が自分で選ぶべきです」と答えた。
その姿は、とても解釈一致だった。
レオンハルト様は、紅茶の温度を確認し、わたくしのカップが熱すぎないかを無言で見ていた。
気づいた時、また心臓が変な音を立てた。
世話焼き冷血公爵。
ジャンルが強すぎる。
茶会の終わり際、殿下がもう一度わたくしに言った。
「ミリア。一ヶ月後、王宮舞踏会がある」
「舞踏会」
「そこで、婚約についての結論を出そう」
また舞踏会。
物語はなぜ、節目に舞踏会を置きたがるのか。
いや、貴族社会だから当然なのだけれど。
「分かりました」
「ただし、それまでは逃げないこと」
「努力します」
「善処ではなく?」
「努力します」
「よし」
殿下が満足そうに頷いた。
レオンハルト様が横から言う。
「逃げたら見つける」
「公爵様まで」
「私は殿下より早い」
「競わないでくださいませ」
セシリア様が、ふふっと笑った。
「ミリア様は大変ですね」
「セシリア様、他人事のように」
「でも、少し嬉しいです。ミリア様が皆様に大切にされていて」
その言葉に、胸が温かくなる。
「……わたくしも、まだ慣れませんが、少し嬉しいです」
正直に言えた。
セシリア様が嬉しそうに笑う。
リタが背後で満足そうに頷いた気がした。
茶会が終わり、小庭園を出る頃。
わたくしは、ふと思った。
今日はカップを落とさなかった。
それだけでも、大きな進歩ではないだろうか。
リタに言うと、彼女は真顔で答えた。
「お嬢様」
「なに?」
「目標が低すぎます」
「達成したのだから褒めて」
「よく頑張りました」
「急に素直」
「ただし、心は何度も落としておられました」
「それは拾えないわ」
「一ヶ月かけて拾いましょう」
リタの言葉に、少し笑った。
心を拾う。
自分の心を。
どこへ行きたいのか。
誰の隣に立ちたいのか。
そもそも、隣に立つとはどういうことなのか。
答えはまだ遠い。
でも、今日の茶会で一つだけ分かった。
全員集合茶会は、だいたい事故る。
けれど、事故の中でしか見えない本音もある。
わたくしは、王宮小庭園を振り返った。
そこにはもう、誰も座っていない茶卓がある。
けれど、さっきまでの会話の熱が、まだ少し残っている気がした。
右に王太子殿下。
左に冷血公爵様。
正面に騎士団長様。
斜め前に聖女候補様。
逃げ場のない席だった。
でも。
不思議と、嫌な場所ではなかった。




