第28話 婚約者候補という言葉の破壊力
婚約者候補。
候補。
候補、である。
確定ではない。
決定でもない。
婚約者そのものではなく、婚約者になりうる可能性のある存在。
つまり、まだ未確定。
未確定である以上、過度に動揺する必要はない。
そう。
動揺する必要は、ない。
「……ない、はずなのに」
わたくしは、寝台の上で枕を抱えたまま呟いた。
眠れなかった。
まったく眠れなかった。
昨夜、レオンハルト様が帰ったあと、わたくしは手帳に例の言葉を書いた。
『婚約者候補としてでも構わない。』
書いた瞬間、心臓が変な音を立てた。
これは危険だと思い、手帳を閉じた。
閉じたのに、頭の中で文字が開いた。
婚約者候補。
婚約者候補。
婚約者候補。
なぜ脳内で三回も響くのか。
しかも、レオンハルト様の声で。
困る。
非常に困る。
わたくしは寝返りを打つ。
右へ。
左へ。
また右へ。
昨夜の自分は「これは寝具の点検です」とリタに言い訳した。
リタは真顔でこう返した。
「寝具は何も悪くございません」
その通りである。
悪いのは寝具ではない。
冷血公爵様の台詞である。
朝になっても、目の下にはうっすら影ができていた。
鏡を見るなり、わたくしは思った。
負けている。
何にかは分からないが、かなり負けている。
「お嬢様」
背後でリタが言った。
「昨夜はあまり眠れませんでしたね」
「眠ったわ」
「二時間ほどは」
「眠ったでしょう?」
「睡眠としては足りません」
「目を閉じていた時間も含めれば、もう少し」
「それを睡眠とは申しません」
リタは容赦がない。
ブラシを手に、わたくしの髪を梳き始める。
いつもより少しだけ手つきが優しいのは、たぶん寝不足を気遣ってくれているからだ。
いや、もしかすると面白がっている。
どちらもありえる。
「リタ」
「はい」
「婚約者候補とは、候補よね」
「はい」
「確定ではないわよね」
「はい」
「つまり、現時点で何かが決まったわけではない」
「はい」
「なら、わたくしが眠れなくなる理由はないわ」
「眠れなかったのですね」
「誘導尋問!」
「お嬢様がご自分でおっしゃいました」
やられた。
寝不足の頭では、リタに勝てない。
いや、万全でも勝てた記憶はあまりない。
「違うのよ、リタ」
「何がでしょう」
「これは恋愛的な意味とは限らないの」
「ほう」
「ほう、ではなく。考えてみて。レオンハルト様は非常に合理的な方でしょう?」
「はい」
「わたくしに近づく不審な貴族を牽制するには、ただの警備担当よりも、婚約者候補という立場の方が効果的。つまり、あれは政治的、外交的、防犯的、戦略的発言なのよ」
「ずいぶん並べましたね」
「重要なことだからよ」
「並べる時ほど動揺しておられます」
「違うわ」
「では、なぜ枕を抱いて転がっていたのですか」
「寝具の点検」
「寝具は無実です」
「その返し、二回目よ」
「事実は何度でも申し上げます」
リタは、髪を梳きながらため息をついた。
「お嬢様。たしかに、ヴァイスベルク公爵様は合理的な方です」
「でしょう?」
「ですが、合理性だけで『私の隣なら歓迎する』『婚約者候補としてでも構わない』とはおっしゃらないかと」
「それは」
「それに、牽制だけが目的なら、もっと別の言い方がございます」
「別の言い方?」
「たとえば、『ロゼリア嬢への接触は私が管理する』など」
「それはそれで怖いわ」
「ですが、恋愛的な意味は薄くなります」
「恋愛的という言葉を使わないで」
「では、求婚未満婚約打診以上の意味」
「もっと重くなった!」
わたくしは両手で顔を覆った。
朝から強い。
リタの語彙が強すぎる。
求婚未満婚約打診以上とは何だ。
そんな言葉を朝の身支度中に聞く令嬢がいるだろうか。
ここにいる。
わたくしである。
「とにかく」
わたくしは顔を上げた。
「候補なのよ。候補。候補ならば、確定ではない。つまり、まだ慌てる段階ではないわ」
「お嬢様」
「なに?」
「候補でそこまで慌てている時点で、かなり意識されております」
「……」
「黙りましたね」
「リタ」
「はい」
「あなた、今日少し楽しんでいない?」
「少し」
「認めた!」
「昨夜からお嬢様があまりにも分かりやすいので」
「分かりやすいという言葉を王国法で禁止したいわ」
「却下されるかと」
「誰に」
「ヴァイスベルク公爵様に」
「また!」
レオンハルト様の名前が出た瞬間、心臓が跳ねた。
リタの手がぴたりと止まる。
「今、反応なさいました」
「していません」
「肩が跳ねました」
「ブラシが少し引っかかったのよ」
「引っかけておりません」
「髪が勝手に」
「髪も無実です」
「今朝は無実が多いわね!」
わたくしは深く息を吐いた。
リタが髪を結い上げていく。
今日は屋敷で過ごす予定だったため、淡いクリーム色の室内着にするつもりだった。
しかし、リタはなぜか少しきちんとした若草色のドレスを用意している。
「リタ」
「はい」
「なぜそのドレスなの?」
「本日、何か届く可能性がございますので」
「何か?」
「王宮から」
「なぜ分かるの」
「昨日、ヴァイスベルク公爵様がおっしゃっていたではありませんか。近いうちに小規模な茶会がある、と」
「ああ……」
言っていた。
殿下、セシリア様、ダリオ様、レオンハルト様、そしてわたくし。
全員集合茶会。
考えるだけで胃が痛い。
父の胃薬を少し分けてもらいたい。
「リタ」
「はい」
「その茶会、中央に座らされる気がするわ」
「可能性は高いですね」
「避ける方法は?」
「欠席」
「できないわね」
「はい」
「端に座る方法は?」
「セシリア様がお嬢様の隣を確保されるでしょう」
「嬉しいけれど逃げ場がない」
「殿下はお嬢様と話すつもりでしょうし、グランツ卿は殿下の近くに。ヴァイスベルク公爵様は、お嬢様の安全確認という名目で近い席に」
「やめて。完全に包囲陣形が見えたわ」
「見事な布陣でございます」
「敵なの?」
「全員味方です」
「味方の包囲が一番逃げられないのよ」
リタは、髪飾りを挿しながら言った。
「逃げなくてよろしいのでは?」
わたくしは、鏡越しにリタを見る。
「簡単に言うわね」
「はい」
「わたくし、まだ何も答えを出せていないのよ。殿下との婚約のことも、自分がどこへ行きたいのかも、レオンハルト様のことも」
「だから、会うのではありませんか」
リタの声は静かだった。
「お嬢様は、お一人で考えると、たいてい壁か自己犠牲か推し活へ逃げます」
「三択がひどい」
「実績がございます」
「否定しにくいわ」
「ですので、皆様とお話しした方がよろしいかと」
言われて、少し黙る。
確かに、そうなのかもしれない。
一人で考えていると、すぐに安全な外側へ逃げようとする。
でも、今のわたくしには、外側が本当に安全なのか分からなくなっている。
壁は安全かもしれない。
でも、寒い。
レオンハルト様の言葉が、またよみがえる。
外側は安全かもしれないが、寒いだろう。
あの時も、心臓に悪かった。
今も悪い。
「……リタ」
「はい」
「レオンハルト様の言葉は、後から効いてくるわね」
「恋です」
「今のは違うわ!」
「では、遅効性の恋です」
「悪化させないで!」
リタは、ようやく髪を結い終えた。
鏡の中のわたくしは、寝不足のわりには整っていた。
侍女の技術とはすごい。
ただ、目が少し落ち着かない。
「お嬢様」
「なに?」
「本日の目標は、婚約者候補という言葉を思い出してもカップを落とさないことです」
「そんな低い目標?」
「昨日、銀の匙を落とした私が言うのも何ですが、動揺は物に出ます」
「リタも動揺していたのね」
「多少は」
「珍しい」
「お嬢様が『すでに、かなり入っております』などとおっしゃるからでございます」
「それを蒸し返さないで!」
わたくしは両手で顔を隠した。
あれは本当に、なぜ言ったのか。
すでに、かなり入っております。
思考の中に。
心の中に、とは言っていない。
言っていないが、近い。
非常に近い。
あの瞬間のレオンハルト様の目を思い出すと、また心臓が忙しくなる。
わたくしは、机へ向かって手帳を開いた。
書こう。
思考が散らかるなら、書け。
これはレオンハルト様の助言だが、悔しいほど役に立つ。
『婚約者候補という言葉について。
一、候補であり確定ではない。
二、政治的・防犯的意味の可能性がある。
三、レオンハルト様は合理的な方である。
四、しかし合理性だけでは説明しきれない台詞が増えている。
五、リタが恋と言う。
六、否定したい。
七、でも、完全には否定できない。
八、困る。』
書いてから、わたくしはペンを止めた。
完全には否定できない。
ついに書いてしまった。
これはまずい。
非常にまずい。
だが、消せない。
消したら負けな気がする。
何に負けるのかは、やはり分からない。
「お嬢様」
リタが横から覗き込もうとする。
「見せないわ」
「まだ何も」
「今回は本当に見せない」
「では、当てます」
「やめて」
「婚約者候補は候補だから確定ではない、と書かれたのでは?」
「……」
「その後に、合理的、防犯的、政治的と並べて」
「……」
「最後に、完全には否定できない、と」
「リタ、あなた読心術を覚えたの?」
「お嬢様の思考は、だいたい顔に書いてあります」
「顔面が日記帳みたいに言わないで」
リタは少しだけ笑った。
その時、廊下から足音が近づいてきた。
控えめなノック。
「お嬢様。王宮より、使者が参っております」
来た。
リタが小さく頷く。
予想通り、という顔だ。
「通して」
わたくしが言うと、扉が開き、執事が銀盆を持って入ってきた。
銀盆の上には、王家の紋章が押された封書。
心臓が、今度は別の意味で跳ねる。
開く前から分かる。
これは、例の茶会の招待状だ。
わたくしは封を切った。
中の文面は、丁寧で、短い。
『王宮小庭園にて、先日の夜会後の慰労と今後の確認を兼ねた茶会を催す。
出席者は、王太子ユリウス、騎士団長ダリオ・グランツ、聖女候補セシリア・フローラ、ヴァイスベルク公爵レオンハルト、ロゼリア公爵令嬢ミリア・ロゼリア。
形式ばらぬ場とするため、過度な随行は不要。
ただし、各自信頼できる侍従または侍女一名の同行を認める。』
全員集合。
本当に全員集合。
逃げ場なし。
「……リタ」
「はい」
「来たわ」
「はい」
「全員集合茶会」
「はい」
「出席者欄を見ているだけで胃が痛いわ」
「お父様の胃薬をお借りしますか」
「本気で検討したい」
リタが招待状を受け取り、目を通す。
「王宮小庭園。形式ばらぬ場。同行侍女一名可。これは私が同行いたします」
「もちろんよ」
「席順が問題ですね」
「やはりそこ?」
「はい」
リタは、招待状を眺めながら真剣に言う。
「殿下が主催に近い形なら中央。セシリア様は聖女候補として殿下の近く。グランツ卿は殿下の護衛兼参加者。ヴァイスベルク公爵様は警備確認も兼ねるでしょう」
「わたくしは?」
「中心に置かれる可能性がございます」
「嫌な予想が当たりそう」
「または、殿下の隣」
「それも困る」
「または、ヴァイスベルク公爵様の隣」
「それも非常に困る」
「セシリア様が強引に隣を確保される可能性も」
「それは嬉しい」
「顔が緩みました」
「セシリア様は別腹です」
「人間関係に別腹があるのですね」
わたくしは招待状を見つめた。
ユリウス殿下。
ダリオ様。
セシリア様。
レオンハルト様。
全員と、一つのテーブルを囲む。
考えただけで、情報量が多い。
推しカプ観測という意味では、殿下とダリオ様が同じ茶会にいる時点で大変ありがたい。
セシリア様もいる。
つまりヒロイン様の癒やしもある。
だが、レオンハルト様がいる。
婚約者候補という爆弾を落とした直後のレオンハルト様が。
そして殿下は、わたくしに一ヶ月の宿題を出したばかり。
これは。
完全に事故る。
「リタ」
「はい」
「この茶会、何かが起こる気がするわ」
「起こるでしょうね」
「断言しないで」
「お嬢様が全員の中心に座らされ、皆様から気遣われ、逃げようとして失敗する未来が見えます」
「具体的すぎる」
「経験則です」
「わたくしの経験則がひどい」
リタは招待状を丁寧に封筒へ戻した。
「ですが、お嬢様」
「なに?」
「悪い場ではないと思います」
「どうして?」
「昨日までの断罪や陰謀とは違います。今回は、お嬢様を責めるためではなく、お嬢様と話すための場です」
その言葉に、少しだけ黙る。
お嬢様と話すための場。
責められるためではない。
疑われるためでもない。
悪役として立たされるためでもない。
皆と、話すための場。
そう考えると、少しだけ怖さが薄れた。
代わりに、別の緊張が増えた。
どちらにしても心臓には悪い。
「……そうね」
わたくしは小さく頷いた。
「逃げずに行くわ」
「はい」
「ただし、席順については事前に可能な限り確認して」
「かしこまりました」
「もしわたくしが中央に置かれそうなら」
「諦めてくださいませ」
「早い」
「逃げ場がない時は、座るしかございません」
「壁になりたい人生だったわ」
「壁の話は、最近説得力が薄くなっております」
「自分でも分かっているわ」
そう。
分かっている。
壁には、もう戻れない。
でも、どこに立てばいいのかは、まだ分からない。
殿下の隣か。
レオンハルト様の隣か。
誰の隣でもなく、自分の足で立つ場所か。
答えはまだない。
だけど、この茶会で何かが見えるかもしれない。
少なくとも、逃げずにテーブルにつくことはできるはずだ。
わたくしは手帳を開き、先ほどの続きに書いた。
『王宮より茶会の招待状。
出席者、殿下、グランツ卿、セシリア様、レオンハルト様、わたくし。
全員集合イベント。
事故の予感しかしない。
席順が怖い。
婚約者候補という言葉を思い出してもカップを落とさないこと。
本日の目標、低い。』
少し考えて、さらに書く。
『でも、責められるためではなく、話すための場。
逃げずに行く。
たぶん。
いえ、行く。』
ペンを置いた。
リタが横から言う。
「最後、少し言い直しましたね」
「見ないでと言ったでしょう」
「見えてしまいました」
「侍女の視力が良すぎるわ」
「お嬢様」
「なに?」
「カップを落とさない練習をいたしましょうか」
「本当に低い目標を実施するの?」
「実用的です」
「レオンハルト様みたいなことを言わないで」
「褒め言葉として受け取ります」
「褒めていないわ!」
リタは澄ました顔で紅茶の準備を始めた。
その後、わたくしは本当にカップを持つ練習をさせられた。
リタが横から淡々と単語を投げてくる。
「婚約者候補」
カップが少し揺れる。
「揺れました」
「不意打ちだからよ」
「レオンハルト様」
また揺れる。
「揺れました」
「名前だけで攻撃するのはずるいわ」
「私の隣なら歓迎する」
「リタ!」
カップが危うくソーサーに当たった。
「危険です」
「あなたが危険なのよ!」
「茶会前に判明してよかったです」
リタは真剣だった。
本当に真剣だった。
わたくしは、笑うしかなかった。
人間味があるにもほどがある。
婚約者候補という言葉の破壊力に一晩眠れず、翌朝には侍女にカップ保持訓練をさせられる公爵令嬢。
こんな悪役令嬢がいるだろうか。
少なくとも原作にはいなかった。
でも、これが今のわたくしだ。
困って、迷って、動揺して、からかわれて、それでも逃げずに次の茶会へ向かおうとしている。
壁には向いていない。
それだけは、もう認めてもいい。
問題は、壁でないなら何になるのか。
その答えは、きっとまだ先にある。
まずは、茶会でカップを落とさないこと。
あまりにも小さな目標だが、今のわたくしには切実だった。




