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推しカプを見守るため悪役令嬢に転生しましたが、なぜか冷血公爵の本命になりました 〜私は壁になりたいのに、攻略対象たちが全員こちらを見てくる〜  作者: 鳳凰院暁月刃夜


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第27話 冷血公爵様、花より実用を贈る

 王太子殿下との婚約解消の話は、解消されないまま一ヶ月の宿題になった。


 王太子妃になるかどうかではなく、君がどこへ行きたいのかを考えてほしい。


 ユリウス殿下は、そう言った。


 非常に困る。


 婚約解消という出口へ向かって歩いていたつもりが、出口の前に「あなたは本当にどこへ行きたいのですか」と書かれた看板が立っていたようなものだ。


 しかも、その看板の横には王太子殿下が爽やかな顔で立っている。


 逃げづらい。


 大変逃げづらい。


 わたくしはロゼリア公爵邸へ戻ってから、手帳にこう書いた。


『王太子殿下、婚約解消の話を聞いてください。

 結果、一ヶ月の宿題を出されました。

 殿下もなかなか手強い。

 爽やかな顔で逃げ道を塞ぐ。

 あと、レオンハルト様の名前を出されると動揺する。

 これは問題。非常に問題。』


 最後の一行は、書いた直後に消そうとした。


 だが、リタが横から言った。


「消すということは、事実だからですね」


 と言ったので、腹立たしくなって残した。


 事実禁止令は、いまだに却下され続けている。


 そして翌日。


 その“非常に問題”な方が、屋敷へ来ることになった。


「ヴァイスベルク公爵様が?」


 わたくしは朝食室で、危うく紅茶をこぼしかけた。


 リタがすかさずカップの位置を直す。


 慣れた手つきだった。


「はい」


 執事が一礼する。


「本日午後、昨夜の件に関する警備相談のため、ロゼリア公爵閣下へご面会を希望されております」


 父の手が止まった。


 母の目が輝いた。


 わたくしの心臓は跳ねた。


 三者三様である。


「警備相談か」


 父が低い声で言う。


「はい。書面では、屋敷周辺の護衛配置、王宮への移動経路、今後の社交行事への出席時の注意点について、と」


「随分具体的だな」


「同封の目録がございます」


 執事が銀盆に載せた紙を差し出す。


 父が受け取り、母が横から覗き込み、わたくしもつい見た。


 目録には、整った文字でこう書かれていた。


 一、ロゼリア公爵邸から王宮までの安全経路案。

 二、夜間移動時の護衛配置案。

 三、ロゼリア令嬢へ接触を試みる可能性のある貴族一覧。

 四、茶会・夜会における警戒対象者分類表。

 五、花・贈答品・手紙の確認手順。

 六、緊急時の連絡経路。

 七、外出時に避けるべき庭園・回廊・控室一覧。


 ……。


 花束ではない。


 目録である。


 圧倒的に実用。


「お母様」


「何かしら」


「令嬢への訪問に、この目録は一般的なのでしょうか」


「一般的ではないわね」


「ですよね」


「でも、ミリアには合っているわ」


「なぜですか」


「あなた、薔薇の花束より不審者一覧の方が役に立つでしょう」


「役には立ちますが」


「嬉しい?」


「……助かります」


「そういうところよ」


 母はにこにこしている。


 父は目録を読んで、こめかみを押さえた。


「助かるのは確かだ」


「お父様まで」


「だが、娘への訪問に持ってくるものとしては少々物騒だ」


「警備相談ですから」


「そうだ。警備相談だ。そう思うことにする」


 父は自分に言い聞かせるように呟いた。


 母が優しく言う。


「あなた、胃薬は午後まで待ちましょう」


「午後に必要になると分かっているのが嫌だ」


 父の胃は、今日も忙しい。


 わたくしは目録をもう一度見た。


 安全経路案。

 護衛配置案。

 警戒対象者分類表。


 色気はない。


 まったくない。


 なのに、全部わたくしを守るためのものだ。


 困る。


 こういう実用的な優しさは、受け取り方が難しい。


 薔薇の花束なら、「まあ綺麗ですわ」で済む。

 宝石なら、「身に余るお品です」で済む。


 しかし、不審者リストは。


 「ありがとうございます、助かります」としか言えない。


 しかも本当に助かる。


 そこが腹立たしい。


「お嬢様」


 リタが小声で言った。


「頬が赤いです」


「これは防犯意識の高まりよ」


「新しい言い訳ですね」


「採用して」


「却下です」


 この侍女、最近レオンハルト様に似てきている。


 危険である。


 午後。


 レオンハルト様は、本当に目録通りの資料を持ってやって来た。


 ロゼリア公爵邸の応接室。


 父、母、わたくし、リタ。

 そしてレオンハルト様。


 形式としては、公爵家同士の警備相談である。


 形式としては。


 実際には、母の目が輝き、父が胃を押さえ、リタがわたくしの顔色を観察し、わたくしがレオンハルト様を見ないよう努力するという、なかなか複雑な場になっていた。


 レオンハルト様はいつも通りだった。


 濃紺の礼服。

 隙のない姿勢。

 無駄のない所作。


 そして、卓の上に置かれた分厚い資料。


 やはり、花ではない。


「お時間をいただき感謝する」


 レオンハルト様が父へ礼をする。


「こちらこそ、娘の件では世話になっている」


 父が少し硬い声で返す。


「いえ。私が必要だと判断しただけです」


「……そうか」


 父の顔が複雑になる。


 母が扇で口元を隠す。


 絶対に楽しんでいる。


 レオンハルト様は、資料を一つずつ広げた。


「まず、ロゼリア公爵邸から王宮までの経路ですが、通常使われている中央通りはしばらく避けた方がいい」


「なぜですか」


 父が問う。


「人目が多く、接触しようとする者を紛れ込ませやすい。特に今は、ロゼリア嬢に接触したがる貴族、情報屋、詫び状を直接渡したい令嬢、面白半分の者が増えている」


「面白半分」


 わたくしは思わず繰り返した。


 レオンハルト様がこちらを見る。


「多いぞ」


「多いのですね」


「君は今、社交界の噂の中心だ」


「心底不本意です」


「だろうな」


「分かってくださるのですか」


「君は目立ちたい時ほど妙な方向へ目立ち、目立ちたくない時ほど中心にいる」


「ひどい評価ですわ」


「正確な評価だ」


「事実禁止令を」


「却下だ」


 いつもの流れ。


 父がこちらを見た。


「ミリア」


「はい」


「このやり取りは、いつもなのか?」


「……最近は」


 父は胃を押さえた。


 母は笑った。


「仲がよろしいのね」


「お母様!」


「警備相談だ」


 父が自分に言い聞かせる。


「これは警備相談だ」


 レオンハルト様は、まったく動じない。


 むしろ、父の動揺を気にせず資料を指差した。


「王宮へ向かう際は、東側の並木道から回る方がいい。やや遠回りだが、護衛が配置しやすく、不審者を確認しやすい。夜間の場合は南門を使わないこと。門前の広場に人が溜まりやすい」


「よく調べてあるな」


 父が感心したように言う。


「調べました」


「いつ」


「昨夜から今朝にかけて」


「寝ておられますか、公爵様」


 わたくしは思わず聞いてしまった。


 レオンハルト様がこちらを見る。


「必要な分は」


「その言い方は、足りていない方の答えです」


「君に言われたくない」


「わたくしは昨夜眠りました」


「寝台で二度起きたとリタから聞いた」


「リタ!」


 裏切り。


 今日何度目だろう。


 リタは平然と一礼した。


「お嬢様の健康管理も侍女の務めでございます」


「それを公爵様に報告するのは務めなの?」


「必要でしたので」


「皆様の“必要”が強すぎます」


 レオンハルト様は、ほんの少しだけ目を細めた。


 笑ったのかもしれない。


 困る。


 こういう一瞬が、非常に困る。


 資料確認は続いた。


 護衛配置案。


 屋敷の門前に二名、外出時には馬車の前後に一名ずつ。

 ただし、あからさまに増やしすぎると「ロゼリア嬢が何かに怯えている」と噂されるため、普段の護衛と自然に入れ替える形がよい。


 贈答品の確認手順。


 花は受け取ってもよいが、香油や粉が使われていないか確認すること。

 菓子類は厨房で検分すること。

 手紙は差出人不明のものをリタが直接開封しないこと。

 理由は「危険物の可能性があるため」。


 茶会出席時の注意。


 少人数の茶会ほど噂を作られやすい。

 出席するなら母かリタ、または信頼できる第三者を伴うこと。

 話題が夜会や婚約、レオンハルト様本人に向いた場合は、曖昧に笑わず切り上げること。


「曖昧に笑わず」


 わたくしは資料を見つめる。


「公爵様、ここだけわたくし個人への注意が混ざっておりませんか」


「混ぜた」


「堂々と」


「君は曖昧に笑って相手に話を続けさせる癖がある」


「それは社交辞令として」


「相手を選べ」


 短い。


 重い。


 正しい。


 腹立たしい。


「公爵様は、なぜそこまで見ているのですか」


 つい言ってしまった。


 応接室の空気が少しだけ止まる。


 父がこちらを見た。

 母は扇で口元を隠した。

 リタは無表情を深めた。


 レオンハルト様は、少しも迷わず答えた。


「見ている必要があるからだ」


「それは、警備上?」


「それもある」


「それ以外も?」


 聞いてから、しまったと思った。


 なぜ掘る。


 なぜ自分で穴を掘る。


 レオンハルト様は、わたくしをまっすぐ見た。


「君が危なっかしいからだ」


「またそれですか」


「それだけで十分な理由になる」


「なりませんわ」


「なる」


「公爵様」


「何だ」


「わたくしは、そこまで危なっかしい令嬢でしょうか」


 レオンハルト様は黙った。


 そして、父と母とリタを見た。


 全員が、それぞれ微妙な顔をした。


「なぜ皆様、目を逸らすのですか」


 父が咳払いをする。


「ミリア。父としては、娘を信じている」


「はい」


「だが、危なっかしいか危なっかしくないかで言えば、危なっかしい」


「お父様」


 母が優雅に頷く。


「あなたは心根は優しいけれど、自分を勘定に入れるのが下手なのよ」


「お母様まで」


 リタが最後に言う。


「お嬢様は、ご自分が危険な場所に立っていることに気づくのが遅いです」


「総攻撃」


「全員味方です」


「味方の攻撃が一番痛いわ」


 レオンハルト様は、淡々と言った。


「分かったか」


「分かりましたが、納得したくありません」


「納得は後でいい」


 この人は本当に、逃げ場を与えない。


 資料の説明が一通り終わると、父とレオンハルト様は護衛人数や正式な手続きについて話し始めた。


 母もそこに混ざる。


 母は母で、社交上どの家の誘いを断るべきか、どの家には軽い返事だけしておくべきか、レオンハルト様の分類表を見ながら素早く判断していく。


「こちらの侯爵夫人は、情報を集めるのはお好きだけれど、悪意は薄いわ」


「では、返信は保留で」


「ええ。ただし、花のお礼だけは出しましょう。相手の顔を立てつつ、茶会には触れない」


「こちらの伯爵家は?」


「だめね。娘がクラリーナ様と親しかったわ。今は近づけない方がいい」


「では危険度を中から高へ」


「公爵様、分類が本格的ですわね」


「必要です」


 母とレオンハルト様が、普通に作戦会議をしている。


 父は、二人の勢いに若干押されていた。


 わたくしは横で見ながら思った。


 母とレオンハルト様、組ませると危険だ。


 社交界が戦場になる。


 いや、元から戦場なのだけれど。


 話が一段落した頃、母がにこやかに言った。


「では、細かい社交上の返信は私の方で整理いたしますわ。あなた、護衛契約の書類を確認なさって」


「分かった」


 父が頷く。


 母はわたくしを見る。


「ミリア。あなたはレオンハルト様にお茶をお出しして」


「お母様?」


「公爵様は、これだけの資料を用意してくださったのよ。お礼も申し上げないと」


「それは、そうですが」


「リタもいるし、扉は開けておきます。問題ないわ」


 問題はある。


 心臓に。


 しかし、ここで断るのも不自然だ。


 レオンハルト様は、静かにこちらを見ている。


「都合が悪ければ帰る」


「悪くは、ありません」


 悪いのは都合ではなく、わたくしの心拍である。


 父が何か言いたそうにしたが、母に扇で制された。


 父上。


 お気持ちは分かります。


 でも母上の方が強いです。


 結局、小応接室へ移動することになった。


 わたくし、レオンハルト様、リタ。


 扉は少し開いている。


 廊下には使用人の気配もある。


 形式上は問題ない。


 形式上は。


 リタが紅茶を用意し、わたくしは向かいに座った。


 資料の山から離れた途端、急に沈黙が重く感じられる。


 いや、違う。


 レオンハルト様はいつも静かだ。


 わたくしが勝手に意識しているだけである。


「公爵様」


「何だ」


「本日は、ありがとうございました」


「警備上必要だった」


「それでも、助かりました」


「そうか」


 短い返事。


 でも、拒絶ではない。


 わたくしは紅茶のカップを見つめた。


「公爵様は」


「うん」


「わたくしが昨夜の件で、また余計なことを考えると思われましたか」


「思った」


「即答」


「君は、自分が疑われることで周囲が落ち着くなら、それでいいと考える可能性がある」


「……」


「違うか」


「違いません」


 認めるしかない。


 レオンハルト様は、少しだけ眉を寄せた。


「だから早めに動いた」


「わたくしが余計な自己犠牲をする前に?」


「そうだ」


「公爵様は、本当に仕事が早いですわね」


「君が余計な方向へ動くのも早い」


「お互い早いのですね」


「並べるな」


 少し笑いそうになった。


 レオンハルト様も、ほんの少しだけ目元が緩んだ。


 たぶん。


 この人の表情変化は、相変わらず微細すぎる。


「公爵様」


「何だ」


「わたくし、少しずつ分かってきました」


「何を」


「自分が傷つけば丸く収まる、というのは、実はとても雑な考えなのだと」


 レオンハルト様は黙って聞いている。


「誰かを守りたいと思っているようで、守られる側の気持ちを無視しているのかもしれません」


「そうだな」


「厳しい」


「事実だ」


「はい」


 今日は、事実禁止令を出さなかった。


 出せなかった。


 これは、受け取らなければいけない事実だと思ったから。


「セシリア様が泣いて怒ってくださって、殿下が逃げるなと言ってくださって、リタが叱ってくれて、お父様とお母様も守ると言ってくださって」


 言葉を重ねるたび、胸が少し熱くなる。


「公爵様も、わたくしが傷つけばご自分も傷つくとおっしゃいました」


「ああ」


「……あれは、まだ心臓に悪いです」


「そうか」


「そうか、ではなく」


 わたくしは少しだけ睨む。


「公爵様は、ご自分の言葉の破壊力をもう少し自覚なさるべきです」


「破壊力」


「はい」


「君の言葉も、時々こちらを妙な気分にさせる」


「わたくしが?」


「そうだ」


「いつですか」


「今だ」


 え。


 今?


 わたくしは固まった。


 レオンハルト様は、カップを置く。


「君が、自分を守ることを少し覚えたと言った」


「はい」


「それを聞いて、安心した」


「安心」


「ああ」


 短い。


 ただ、それだけ。


 でも、また胸が苦しくなる。


「……公爵様」


「何だ」


「そういうところです」


「どこだ」


「破壊力」


「これでか」


「これでです」


 レオンハルト様は、少しだけ考えるような顔をした。


 そして言った。


「なら、慣れろ」


「慣れろ?」


「私は今後も言う」


 紅茶をこぼさなかった自分を褒めたい。


 リタが背後で、わずかに息を吸った気配がした。


 絶対に聞いている。


「公爵様」


「何だ」


「今後も?」


「不必要なら言わない。必要なら言う」


「その必要の判断が」


「私のものだ」


 逃げ道がない。


 わたくしはカップを置き、両手を膝の上で握った。


「公爵様は、なぜそこまで」


 また聞いてしまった。


 同じ問いを、何度も。


 なぜそこまでしてくださるのですか。


 その答えを、怖いのに聞きたくなる。


 レオンハルト様は、少しだけ目を伏せた。


「君が、自分を守るのが下手だからだ」


「またそれですか」


「それに」


 彼は続けた。


「君が誰かの幸福を願うなら、私は君の幸福を願うと言った」


「……はい」


「あれは撤回しない」


 心臓。


 本日何度目かの緊急事態である。


 わたくしは扇を探した。


 ない。


 今日は小応接室で、手元に置いていなかった。


 致命的な準備不足。


「公爵様」


「何だ」


「その台詞は、やはり主人公に言うやつです」


「君が主人公ではないのか」


「またそれを!」


「違うのか」


「わたくしは……」


 壁です。


 そう言おうとして、止まった。


 もう、さすがに言い切れなかった。


 壁ではないと気づいてしまった。


 外側にいるだけではないと、昨日の夜会で思い知らされた。


 だから、別の言葉を探す。


「……まだ、分かりません」


 正直に言った。


「わたくしが何なのか。どこに立ちたいのか。殿下にも、一ヶ月考えろと言われました」


「そうか」


「公爵様は、どう思われますか」


「君がどこに立つべきかを、私が決めることではない」


 意外だった。


 レオンハルト様なら、「ここだ」と言い切るかと思っていた。


 彼は静かに続けた。


「だが、君が危ない場所へ一人で立つなら止める」


「はい」


「君が自分を軽く扱うなら怒る」


「はい」


「君が選ぶ場所が、私の隣であるなら」


 そこで、彼は一度言葉を切った。


 嫌な予感がした。


 いや。


 嫌ではない。


 危険な予感がした。


「私は歓迎する」


 ……。


 沈黙。


 小応接室の空気が、急に熱を持った気がした。


 わたくしは、瞬きを忘れた。


「公爵様」


「何だ」


「その言い方は」


「分かりにくかったか」


「いえ、分かりやすくて困っています」


「ならいい」


「よくありません」


 わたくしの声は少し裏返っていた。


 レオンハルト様は落ち着いている。


 なぜ。


 なぜこの人は、こういう台詞を平然と言えるのか。


 天然なのか。


 計算なのか。


 両方なのか。


「ロゼリア嬢」


「はい」


「近いうちに、王宮で茶会がある」


「茶会?」


「昨日の件を受け、殿下、聖女候補、騎士団長、君、私を含めた小規模なものだ」


「全員集合イベントですわ」


「何?」


「いえ、こちらの話です」


 全員集合。


 嫌な予感しかしない。


 王太子殿下、騎士団長様、聖女候補様、冷血公爵様、そしてわたくし。


 中心に置かれないことを祈る。


 無理な気がする。


「その茶会には、私が同行する」


「護衛として、ですか?」


「必要なら」


「必要なら?」


 レオンハルト様は、まっすぐこちらを見た。


「婚約者候補としてでも構わない」


 時間が止まった。


 世界が止まった。


 いや、たぶん止まっていない。


 リタが背後で、何か小さく落とした音がした。


 たぶん、銀の匙。


 珍しい。


 リタが物を落とすなんて。


 つまり、それくらいの発言だった。


「……公爵様」


「何だ」


「今、何と」


「婚約者候補としてでも構わない」


「聞き間違いではなかった」


「聞き間違いにしたいのか」


「処理に時間をいただきたいです」


「どのくらい」


「三年ほど」


「長い」


「では一年」


「長い」


「一ヶ月」


「殿下と同じだな」


「そこで殿下を出さないでくださいませ!」


 声が大きくなった。


 扉の外で、誰かが動く気配がする。


 父かもしれない。


 父なら今頃、胃薬を探している。


 母なら扇の陰で笑っている。


 いや、両方かもしれない。


 わたくしは額に手を当てた。


「公爵様。婚約者候補とは、どういう意味ですか」


「言葉通りだ」


「言葉通りが一番困ります」


「君に近づく者への牽制としても使える」


「牽制」


「同時に、私の意思表示にもなる」


「意思表示」


「そうだ」


 駄目。


 これは駄目。


 完全に逃げ道がない。


 牽制としても使える。

 でも、それだけではない。

 私の意思表示にもなる。


 この人、退路を燃やしながら橋を架けてくる。


「公爵様」


「何だ」


「令嬢への贈り物として不審者リストを持ってきた方が、最後に婚約者候補という言葉を置いていくのは、緩急が激しすぎます」


「そうか」


「そうかではなく」


「花の方がよかったか」


「問題はそこではありません」


「宝石か?」


「もっと違います」


「君が欲しいなら用意する」


「そういう急な方向転換は心臓に悪いです!」


 リタが後ろで咳払いをした。


 たぶん笑いを堪えている。


 いや、もしかしたら動揺を隠しているのかもしれない。


 リタでも動揺するのだ。


 わたくしが動揺しても仕方ない。


 レオンハルト様は、少しだけ声を落とした。


「今すぐ答えろとは言わない」


「当然ですわ」


「君は一ヶ月考えるのだろう」


「はい」


「なら、その中に私も入れておけ」


 また。


 またそういう言い方。


 どうしてこの人は、短い言葉で人の思考に入り込むのがこんなに上手いのか。


「……公爵様」


「何だ」


「すでに、かなり入っております」


 言ってから、自分で固まった。


 何を。


 何を言ったのか、わたくしは。


 リタが完全に固まった気配がした。


 レオンハルト様も、一瞬だけ目を見開いた。


 ほんの一瞬。


 けれど見えた。


 照れた?


 いや、違う。


 今のは不意打ちを受けた顔。


 冷血公爵に不意打ちを入れてしまった。


 わたくしは顔が熱くなる。


「い、今のは」


「そうか」


 レオンハルト様の声が、少しだけ低くなった。


「入っているのか」


「言い方!」


「君が言った」


「そうですが!」


 レオンハルト様は、ほんの少しだけ口元を緩めた。


 笑った。


 今度こそ、はっきり笑った。


 反則。


 完全に反則。


「なら、候補としては悪くないな」


「公爵様!」


「何だ」


「わたくしをからかっていらっしゃいますか」


「少し」


「少し!」


「君があまりにも逃げるから」


「逃げたくもなりますわ!」


「逃げるなとは言わない」


 レオンハルト様は、静かに言った。


「ただし、逃げ道は安全なものを選べ」


 そこに戻るのか。


 この人は本当に、最終的にはわたくしの安全の話へ戻ってくる。


 それが、困る。


 甘さだけなら、疑えた。


 からかいだけなら、怒れた。


 でも、根っこに心配がある。


 それが分かるから、心が揺れる。


「……考えます」


 わたくしは小さく言った。


「殿下とのことも、自分のことも、公爵様のことも」


「ああ」


「ただし」


「何だ」


「婚約者候補という言葉の破壊力について、反省してくださいませ」


「善処する」


「絶対にしないお顔です」


「よく分かったな」


「最近分かるようになってしまいました」


「いい傾向だ」


「よくありません」


 でも、少しだけ笑ってしまった。


 レオンハルト様も、ほんの少しだけ笑う。


 リタが背後で、深い息を吐いた。


「お嬢様」


「何?」


「お茶が冷めました」


「今それを言うの?」


「現実に戻っていただくためでございます」


 現実。


 そう。


 これは現実だ。


 不審者リストを持ってくる冷血公爵様。

 わたくしの安全経路を整え、護衛を増やし、自己犠牲を怒り、婚約者候補としてでも構わないと言う人。


 現実が、公爵様の形で迫っている。


 リタが以前言った通りだった。


 その後、レオンハルト様は何事もなかったように帰っていった。


 父は玄関ホールで見送りながら、顔色を必死に保っていた。

 母は楽しそうに見守っていた。

 リタは無言でわたくしの横に立っていた。


 レオンハルト様が馬車に乗る前、こちらを振り返る。


「ロゼリア嬢」


「はい」


「資料は読んでおけ」


「はい」


「外出は一人でするな」


「はい」


「考えるなら、逃げるためではなく選ぶために考えろ」


 胸が鳴った。


「……はい」


 レオンハルト様は小さく頷き、馬車へ乗った。


 馬車が遠ざかる。


 わたくしは、その後ろ姿が見えなくなるまで立っていた。


 リタが隣で言う。


「お嬢様」


「言わないで」


「まだ何も」


「恋です、でしょう」


「それもございますが」


「まだあるの?」


「婚約者候補です」


「言わないで!」


 父が遠くで胃薬を求めた。


 母が笑った。


 使用人たちが見ないふりをしている。


 わたくしは両手で顔を覆った。


 花より実用。


 宝石より不審者リスト。


 甘い言葉より安全経路。


 なのに最後に、婚約者候補。


 冷血公爵様。


 あなたは本当に、心臓に悪い贈り物をなさる。


 その夜、わたくしは手帳を開いた。


『レオンハルト様、花より実用を贈る。

 安全経路一覧、護衛配置案、警戒貴族リスト、贈答品確認手順。

 全部助かる。腹立たしいほど助かる。

 そして最後に、婚約者候補としてでも構わない、と言われた。

 処理不能。

 心臓に悪い。

 すでに思考の中にかなり入っている、と言ってしまった。

 なぜ言った。

 でも、嘘ではない。』


 最後の一文を書いた瞬間、顔が熱くなった。


 消そうとして、やめた。


 事実禁止令は、きっとまた却下される。


 なら、せめてここにだけは書いておく。


 わたくしは、婚約者候補という言葉の破壊力を知った。


 そして、自分の中にレオンハルト様が思った以上に入り込んでいることも、知ってしまった。


 壁には、もう戻れない。


 けれど、どこに立つのかは、まだ分からない。


 分からないまま、一ヶ月の宿題はさらに重くなった。


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