第26話 王太子殿下、婚約解消の話を聞いてください
断罪イベントを回避した。
悪役令嬢として糾弾されるはずだった夜会は、原作とは違う形で終わった。
セシリア様は泣きながらも前に立ち、ダリオ様は王宮警備として証言し、ユリウス殿下はわたくしを婚約者として守り、レオンハルト様は証拠を積み上げてクラリーナ様の脚本を崩した。
わたくしは悪役ではないと、少しだけ信じられるようになった。
壁ではないのだと、少しだけ認めざるを得なくなった。
そして。
だからこそ。
放置してはいけない問題が、まだ一つ残っていた。
「お嬢様」
リタが、わたくしの髪を結いながら鏡越しに言った。
「本当に、本日お話しになるのですね」
「ええ」
「王太子殿下と、婚約の件を」
「ええ」
「断罪騒動が終わったばかりでございます」
「だからこそよ」
わたくしは、鏡の中の自分を見た。
今日のドレスは淡い藤色。
派手ではないが、きちんとした訪問着だ。
王宮へ行く。
ユリウス殿下と話すために。
今度こそ、婚約解消の件を。
リタは手を止めないまま、静かに言った。
「お嬢様は、急ぎすぎておられませんか」
「急いでいるように見える?」
「はい」
「そう」
否定はできなかった。
急いでいる。
たぶん。
断罪イベントを越えてしまったから。
原作なら、ここで婚約破棄されて終わるはずだった。
悪役令嬢として退場するはずだった。
けれど、そうならなかった。
なら、次は自分で選ばなければならない。
殿下との婚約をどうするのか。
王太子妃になるのか。
ならないのか。
推しカプ保護のためとか、悪役令嬢回避のためとか、そういう理由だけで逃げるわけにはいかなくなった。
それが、怖い。
とても怖い。
「……リタ」
「はい」
「わたくし、少し怖いのだと思うわ」
「存じております」
「即答」
「鏡の中のお顔が、朝からずっと戦場へ向かう兵士でございます」
「そんなに?」
「はい。しかも、槍を忘れた兵士です」
「弱そうね」
「弱いというより、正直でございます」
リタは髪飾りを挿した。
「お嬢様。婚約解消を望むこと自体は、悪いことではありません」
「ええ」
「ですが、逃げるためだけに急ぐのであれば、私は止めます」
鏡の中で、リタの目がまっすぐこちらを見ている。
「逃げるためだけ、かしら」
「それは、お嬢様が一番分かっていらっしゃるかと」
「……分からないから困っているのよ」
「では、分からないと殿下にお伝えください」
わたくしは瞬きをした。
「分からないと?」
「はい。お嬢様は、考えがまとまってからでないと話してはいけないと思いがちです」
「だって、まとまっていない言葉で人を傷つけるのは」
「黙っていることで傷つけることもございます」
胸が、少し痛んだ。
ダリオ様にも言われた。
殿下を雑に扱うな、と。
ユリウス殿下にも言われた。
何も言われずに離れられる方が、ずっと傷ついた、と。
「……そうね」
わたくしは、小さく頷いた。
「今日は、分からないことも含めて話すわ」
「はい」
「殿下に、誠実に」
「はい」
「それから、レオンハルト様の話題は出さない」
リタの手が一瞬止まった。
「なぜそこでレオンハルト様が?」
「出そうだからよ」
「自覚がおありで」
「自覚はあるわ。あの方、わたくしの思考の隙間に勝手に立っているの」
「恋です」
「出発前にそれを言うのはやめて」
「景気づけでございます」
「景気づけの意味を間違えているわ」
リタは涼しい顔で最後のリボンを整えた。
「よろしいかと。逃げる顔ではなくなりました」
「そう?」
「はい。少しだけ、戦う顔です」
「槍は?」
「本日は、言葉で」
「折れそう」
「折れたら拾います」
「頼もしいわね」
「侍女でございますので」
その言葉に、少し笑えた。
リタがいてくれる。
それだけで、わたくしは少しだけ前を向ける。
王宮へ向かう馬車の中、わたくしは手帳を開かなかった。
持ってはいる。
レオンハルト様から贈られた、あの革表紙の手帳。
ただ、今日は書かない。
今日は、読む日でも、書く日でもなく、話す日だ。
王宮に着くと、以前と同じ小応接室へ案内された。
王太子殿下との私的な会話に使われる部屋。
以前、婚約解消を申し出て、完全に失敗した部屋でもある。
わたくしは椅子に座り、深呼吸した。
リタは壁際に控える。
今日は扉がわずかに開けられている。
形式としては私的な会話だが、完全な密室ではない。
そのあたりも、殿下の配慮なのだろう。
まもなく、ユリウス殿下が入ってきた。
「待たせたね、ミリア」
「いいえ、殿下。お時間をいただき、ありがとうございます」
わたくしが礼をすると、殿下は少し困ったように笑った。
「今日は、ずいぶん硬いね」
「硬くもなりますわ」
「婚約の話だから?」
「はい」
「分かった。では、私も逃げずに聞くよ」
その言葉で、少し喉が詰まった。
殿下は向かいに座る。
以前より、少し表情が柔らかい。
けれど、王太子としての顔ではない。
一人の青年として、わたくしを見ているようだった。
だからこそ、話しづらい。
原作の王子様なら、攻略対象なら、もっと簡単だった。
でも目の前にいるのは、ユリウスという一人の人間だ。
「ミリア」
「はい」
「君から話す? それとも、私から?」
「わたくしから」
わたくしは、手袋越しに指を握った。
「殿下。先日の夜会では、わたくしを信じ、守ってくださり、本当にありがとうございました」
「君が無事でよかった」
「はい。わたくしも……皆様が信じてくださったことに、とても救われました」
「うん」
「だからこそ、曖昧にしたくありません」
殿下の目が、静かにこちらを見た。
「婚約のことです」
「うん」
「わたくしは、殿下との婚約について、改めて見直すべきだと考えております」
言った。
二度目なのに、やはり胸が痛い。
殿下は驚かなかった。
けれど、まったく傷ついていないわけでもなかった。
その微妙な揺れが見えて、わたくしの胸も痛む。
「理由を聞かせてくれる?」
「はい」
わたくしは、ゆっくりと言葉を選んだ。
「以前のわたくしは、殿下の隣に立つことを当然だと思っておりました。殿下の婚約者であることを、自分の価値のように扱っていました」
「……」
「けれど、今は違います。いえ、違うと思いたいのです」
「思いたい?」
「はい。わたくしは、殿下を尊敬しています。昨日の夜会でも、殿下がただ優しいだけでなく、王太子として責任を持って人を裁く姿を見ました」
クラリーナ様へ向けた殿下の言葉を思い出す。
努力は否定しない。
だが、間違えたことは重い。
あの時、殿下は本当に王太子だった。
「殿下は、誰かの感情に流されるだけの方ではありません。だからこそ、その隣に立つには、相応の覚悟が必要です」
「君には、それがない?」
「今のわたくしには、まだありません」
まだ。
また、その言葉。
けれど、今日は逃げではなく、本音として言った。
「わたくしは、王太子妃という立場を背負う覚悟より先に、自分がどこに立ちたいのかすら分かっていません」
「……」
「誰かの幸福を願うことはできます。セシリア様を守りたい。殿下には殿下らしくいてほしい。グランツ卿には殿下を支えてほしい。皆が傷つかないでいてほしい」
言いながら、少し苦笑する。
「でも、自分のことになると、途端に分からなくなります」
「君らしいね」
「褒めておられます?」
「半分」
「最近、半分褒めが流行っておりますの?」
殿下が少し笑った。
その笑いで、少しだけ呼吸が楽になる。
けれど、話は続けなければならない。
「殿下。わたくしは、殿下を嫌いになったわけではありません」
「うん」
「殿下を軽んじたいわけでもありません」
「それも分かっている」
「だからこそ、今のわたくしが婚約者の座に立ち続けることが、殿下にとって正しいのか分からないのです」
殿下は、しばらく黙っていた。
窓の外では、庭園の噴水の音が小さく聞こえる。
リタは壁際で何も言わない。
わたくしは、殿下の返事を待った。
「ミリア」
「はい」
「君は、私を自由にしようとしてくれているね」
「そう、なのでしょうか」
「そうだよ」
殿下は少しだけ目を伏せる。
「以前の君は、私を見ているようで、私の隣に立つ自分を見ていた。そう言ったね」
「はい」
「でも、私は私で、君を見ているようで、君が私の隣にいてくれるという安心を見ていたのかもしれない」
その言葉に、胸が痛んだ。
殿下もまた、自分を振り返っている。
「君は私を欲しがっていた。私は、それを少し重いと思いながらも、どこかで安心していた。王太子の婚約者として、君は私から離れない。そう思っていた」
「殿下……」
「ひどい話だろう?」
「いいえ」
「いや、ひどいよ」
殿下は、困ったように笑った。
「君ばかりが変わったわけじゃない。君が変わったことで、私も自分のずるさを見せられた」
「ずるさ」
「そう。君の執着を拒みながら、君が離れないことには甘えていた」
それは、とても人間らしい告白だった。
王子様ではなく、ユリウスという人の弱さ。
わたくしは、それを聞いて嫌だとは思わなかった。
むしろ、少し安心した。
完璧な人ではないのだと。
「殿下は、ずるい方だったのですね」
思わずそう言ってしまった。
リタが壁際でかすかに息を止めた気がした。
殿下は一瞬目を丸くし、それから声を出して笑った。
「そうだね。私はずるい」
「すみません、言い方が」
「いや。そう言ってくれる君の方が、今はありがたい」
「ありがたいのですか?」
「うん。皆、私には綺麗な言葉をくれるから」
殿下は柔らかく微笑んだ。
「王太子としての私には、ね」
また、胸が痛む。
ユリウス殿下もまた、役割の中で生きている。
王太子。
婚約者。
未来の国王。
わたくしが悪役令嬢という役割を怖がっていたように、殿下も王太子という役割から逃げられない。
だからこそ、ダリオ様の存在が尊いのだ。
いや、今は推し活の話ではない。
でも、やはりそう思ってしまう。
「今、ダリオのことを考えた?」
殿下が言った。
わたくしは固まった。
「なぜ」
「顔が少し明るくなったから」
「皆様、本当に顔を見すぎです」
「分かりやすいから」
「禁止したい言葉ですわ」
「却下されるね」
「誰に?」
「たぶん、レオンハルト公に」
殿下が少し意地悪く言った。
心臓が跳ねた。
やめて。
ここでレオンハルト様の名前を出さないで。
「公爵様は関係ありません」
「本当に?」
「……今は、殿下との話をしております」
「うん。逃げなかったね」
「逃げそうになりました」
「正直だ」
「リタに、分からないことも含めて話せと言われました」
壁際でリタが静かに一礼した。
殿下はリタを見る。
「良い侍女だね」
「はい。かなり容赦はありませんが」
「そこも含めて良い侍女だ」
「本人が満足そうですわ」
リタは無表情だった。
だが、少し満足している気がする。
殿下は、紅茶に手を伸ばした。
一口飲み、ゆっくりとカップを置く。
「ミリア。君の話は分かった」
「はい」
「でも、私は今日、婚約解消を受け入れるとは言えない」
分かっていた。
それでも、胸が少し沈む。
「王家とロゼリア公爵家の問題だから、という理由もある。昨日の事件の直後に婚約解消を発表すれば、君が責任を取らされたのだと受け取る者もいるだろう」
「それは」
「君の名誉を守る必要がある」
「はい」
「でも、それだけじゃない」
殿下は、まっすぐこちらを見た。
「私は、君ときちんと向き合ってから答えを出したい」
「殿下」
「以前の君ではなく、今の君と」
その言葉は、優しくて、重かった。
「君は王太子妃になる覚悟がないと言った。なら、私は聞きたい。君は何になりたい?」
「何に」
「どこに立ちたい?」
また、その問い。
わたくしが一番答えられないもの。
「私は、君に王太子妃になれと迫りたいわけではない」
「では」
「でも、君が自分の望みを分からないまま、婚約解消だけを出口にするのは違うと思う」
返せなかった。
痛い。
的確すぎる。
わたくしは、婚約解消を出口にしようとしている。
悪役令嬢ルートを回避するため。
殿下を自由にするため。
推しカプを邪魔しないため。
自分が重い責任から逃れるため。
いろいろな理由を積み上げて、出口だけを見ている。
でも、出口の先に自分がどこへ行くのか。
それは、まだ分からない。
「一ヶ月」
殿下が言った。
「一ヶ月だけ、時間をくれないか」
「一ヶ月」
「その間に、私も考える。君との婚約をどうしたいのか。王太子としてではなく、ユリウスとして、君をどう見ているのか」
心臓が跳ねた。
殿下は、少し困ったように笑う。
「そして君も考えてほしい。王太子妃になるかどうかではなく、君がどこへ行きたいのかを」
「わたくしが、どこへ」
「うん」
「殿下」
「何かな」
「それは、かなり難しい宿題です」
「知っている」
「しかも、婚約解消をお願いしに来たのに、宿題が増えています」
「私も、そう簡単に聞き分けの良い王太子ではないんだ」
爽やかに言われた。
まただ。
この方、時々爽やかな顔で逃げ道を塞ぐ。
「殿下、最近少し意地悪では?」
「君ほどではないよ」
「わたくしが?」
「うん。君は私を自由にしようとするくせに、自分はどこへ行くのか教えてくれない」
言葉に詰まった。
殿下は、穏やかに続ける。
「それは、少し寂しい」
ずるい。
今度は殿下がずるい。
そういう言い方をされると、逃げにくい。
「……考えます」
わたくしは、ようやく言った。
「一ヶ月。わたくしも、考えます」
「ありがとう」
「ですが、殿下」
「うん」
「一ヶ月後、わたくしが王太子妃にはなれないと申し上げても、怒らないでくださいませ」
「怒らないよ」
「本当に?」
「傷つきはするかもしれない」
「……」
「でも、怒りはしない」
殿下は、少しだけ寂しそうに笑った。
「君が誠実に出した答えなら、私はそれを聞く」
「殿下」
「ただし、私も誠実に答える。君を手放したくないと思えば、そう言う」
心臓がまた跳ねた。
リタの視線が背後から刺さる。
見ないで。
今、絶対に顔が赤い。
「殿下。そのようなお言葉は」
「セシリア嬢に?」
「言おうとしましたが、先回りされましたわ」
「学習したからね」
「殿下まで成長なさらないでください」
「成長くらいさせてほしいな」
殿下が笑う。
わたくしも、少し笑った。
少し前なら、こんな風に笑えなかったかもしれない。
婚約者として完璧でいようとして、王太子殿下の顔色ばかり見ていた前のミリア。
推しカプを守るために、ひたすら殿下をダリオ様の方へ誘導しようとしていた転生直後のわたくし。
そのどちらとも違う場所に、今いる。
まだ名前のない場所。
「ミリア」
「はい」
「この一ヶ月、私と話す機会を増やしてもいいかな」
「話す機会」
「婚約者として義務的にではなく、私たちが互いを知るために」
「……善処します」
「逃げる人の返事だね」
「では、努力します」
「少し進歩した」
「採点が厳しいですわ」
「レオンハルト公ほどではないだろう?」
「そこで公爵様を出すのは反則です」
「やっぱり反応する」
「殿下!」
殿下は楽しそうに笑った。
この王太子殿下、思っていたより人間味が強い。
爽やかな王子様というより、ちゃんと面倒な青年である。
でも、その方がずっと良い。
わたくしは、そう思った。
会話が終わり、立ち上がる時。
殿下はふいに、真面目な顔になった。
「ミリア」
「はい」
「昨日、君がクラリーナ嬢に言った言葉を聞いて、私は少し驚いた」
「どの言葉でしょう」
「誰かを悪役に仕立ててよい理由にはならない、と」
胸が少し鳴る。
「君は、自分も傷ついていたはずなのに、彼女をただ切り捨てなかった」
「切り捨てられるほど、他人事ではありませんでしたから」
「そういうところが、今の君なんだろうね」
「よいところでしょうか」
「危なっかしいところでもある」
「皆様、その評価で一致していますわね」
「でも、私は嫌いじゃない」
また、そういうことを言う。
わたくしは目を逸らしかけて、何とか留まった。
「ありがとうございます」
「うん。今の君は、ちゃんと受け取ったね」
「練習中です」
「いいことだ」
殿下は、扉の近くまで見送ってくれた。
リタが先に廊下へ出る。
わたくしも続こうとした時、殿下が小さく言った。
「ミリア」
「はい」
「一ヶ月後、君がどの答えを出しても、私は君を悪役にはしない」
喉の奥が熱くなった。
「……はい」
「でも、私の前から雑に消えようとしたら怒る」
「怒らないとおっしゃったばかりでは」
「それは誠実に答えた場合。雑に逃げたら怒る」
「条件付きでしたのね」
「うん」
殿下は笑った。
「私はずるいから」
先ほど自分で認めた言葉を、今度は少し軽く使った。
わたくしは、笑ってしまった。
「では、わたくしも雑には逃げません」
「約束だ」
「はい」
部屋を出たあと、リタが隣に並んだ。
「お嬢様」
「何も言わないで」
「まだ何も」
「一ヶ月の猶予をいただいたわ」
「はい」
「婚約解消の話をしに来たのに、宿題と面談予定が増えたわ」
「はい」
「失敗かしら」
「半分は」
「残り半分は?」
「誠実に話せたので、成功かと」
わたくしは、廊下の窓から庭園を見た。
噴水の水が、陽に光っている。
完全な成功でも失敗でもない。
そういうものが、最近増えている。
人の心は、白黒ではない。
攻略成功や失敗だけでもない。
ルート分岐のように簡単に選べるわけでもない。
だから面倒で、怖くて。
少しだけ、面白い。
「リタ」
「はい」
「帰ったら手帳に書くわ」
「何をでしょう」
「王太子殿下、婚約解消の話を聞いてください。結果、一ヶ月の宿題を出されました、と」
「その下に、殿下もなかなか手強い、と書いておきましょう」
「本当に手強いわ」
「そして、レオンハルト様のお名前を出されるたびに反応した、と」
「それは書かない!」
「では、私が覚えておきます」
「忘れて」
「侍女でございますので」
リタは澄ました顔で言った。
わたくしは深くため息をつく。
王太子殿下との婚約解消は、まだ決まらない。
けれど、今日の会話は無駄ではなかった。
殿下を、王太子ではなくユリウスという人として、少し見た。
自分の答えがまだないことも、認めた。
一ヶ月。
その間に、わたくしは考えなければならない。
王太子妃になるかどうかではなく。
わたくしが、どこへ行きたいのかを。
壁ではなくなったわたくしが、次にどこへ立つのかを。




