第25話 断罪回避の翌朝、屋敷が花だらけです
断罪イベントを回避した翌朝。
わたくしは、花に包囲されていた。
比喩ではない。
本当に、包囲されていた。
寝室の扉を開けた瞬間、廊下の向こうが花で埋まっていたのである。
赤い薔薇。
白い百合。
淡い紫の小花。
黄色い春告げ花。
見たことのない南方の大きな花まである。
花瓶に生けられているもの。
籠に入っているもの。
紙に包まれたままのもの。
あまりにも量が多く、廊下の壁際にずらりと並べられていた。
朝の光を受けて、花々は美しい。
美しい、のだが。
「……リタ」
「はい」
「廊下が庭園になっているわ」
「はい。屋敷内庭園でございます」
「いつから我が家は王宮温室になったの?」
「今朝からかと」
「冷静に答えないで」
わたくしは寝室の扉の前で立ち尽くした。
昨日の夜会の後、疲れ果てて帰宅し、母に抱きしめられ、父に「無事でよかった」と言われたあとその場でまた胃薬を飲まれ、リタに髪を解かれながら半分寝落ちした。
そして今朝。
目覚めれば、廊下が花。
人生は本当に予定通りにいかない。
壁になりたかった令嬢が、なぜ朝から花道を歩かされるのか。
「これ、全部わたくし宛て?」
「はい」
「嘘でしょう」
「嘘でしたら、私もどれほど楽か」
「リタが少し疲れているわ」
「朝五時から到着しておりますので」
「五時」
「最初に届いたのは、セシリア様からでございます」
その瞬間、わたくしは姿勢を正した。
「セシリア様から?」
「はい」
「どれ?」
リタが黙って、廊下の一番手前に置かれた小さな花籠を示した。
他の豪華な花束と比べると、控えめだ。
白い小花と淡い水色のリボン。
派手ではないけれど、丁寧に選ばれているのが分かる。
添えられたカードには、丸くて少し頼りない文字でこう書かれていた。
『ミリア様へ。
昨日は、私を守ってくださってありがとうございました。
でも、私もミリア様を守れたことが少しだけ嬉しかったです。
またお茶をしてください。
お姉様が笑ってくださると、私も勇気が出ます。
セシリア』
朝から泣かせにきている。
ヒロイン様。
あなたは本当にヒロイン様。
わたくしはカードを胸に当てた。
「リタ」
「はい」
「この花籠は聖域に置いて」
「聖域とは」
「わたくしの机の上」
「かしこまりました」
「それから、リボンは保存して」
「かしこまりました」
「カードは額縁へ」
「そこまでなさいますか」
「します」
リタは一瞬だけ考えたあと、頷いた。
「セシリア様のものですので、想定内でございます」
「あなた、わたくしを何だと思っているの」
「セシリア様過激派です」
「否定しにくいわ」
セシリア様の花籠を抱えたまま、わたくしは廊下を進んだ。
進むたびに、使用人たちがあちらこちらで花の処理に追われているのが見える。
大きな花束を持った若い侍女が、困り顔でこちらを見た。
「お嬢様、おはようございます。申し訳ございません、応接室にも入りきらず……」
「あなたが謝ることではないわ。大変だったでしょう」
「いえ。ですが、花瓶が足りません」
「花瓶が足りない」
「はい。奥様が銀器用の壺まで出してよいと」
「母上、判断が早いわね」
その時、廊下の向こうから母が現れた。
朝から完璧な装いで、手には扇。
そして目が輝いている。
母は花の海を見渡し、満足そうに頷いた。
「まあ、華やかでいいわね」
「お母様」
「昨日の夜会の翌朝にこの量。ミリア、あなた本当に社交界の主役になったのね」
「やめてくださいませ。私は背景美術志望です」
「背景美術にこれだけ花は届かないわ」
「そこを現実で殴らないでください」
母はくすくす笑った。
「安心なさい。届いた花と手紙は、家名ごとに分けさせているわ。謝罪、感謝、様子見、便乗、縁談の探り、純粋な好意。だいたい分類できるから」
「便乗と縁談の探りが混ざっているのですか?」
「もちろんよ。社交界だもの」
「花を素直に喜べなくなりますわ」
「素直に喜ぶ分と、利用する分を分けるのが貴族よ」
母は強い。
朝から情報戦を花束で分類している。
わたくしは、セシリア様の花籠をさらに抱きしめた。
これは情報戦ではない。
癒やしである。
「お父様は?」
「食堂よ」
「具合は」
「胃薬を飲んでいるわ」
「やはり」
「でも、昨夜より顔色はいいわ。あなたが無事だったから」
その言葉に、胸が少し温かくなる。
昨夜、父は本当に心配してくれていた。
ロゼリア公爵家は、お前を守る。
その言葉を思い出すと、まだ少し泣きそうになる。
昔のミリアは、父や母の愛情をどれくらい受け取れていたのだろう。
今のわたくしは、少しずつ受け取り方を覚えている気がする。
食堂へ行くと、父は本当に胃薬を前にしていた。
ただ、今朝の顔は昨夜より穏やかだった。
「おはよう、ミリア」
「おはようございます、お父様」
「よく眠れたか?」
「少しだけ」
「そうか。私はあまり眠れなかった」
「お父様」
「いや、無事でよかったと思うと眠れず、無事でよかったと思うと胃が痛くなり、胃が痛いから薬を飲み、薬を飲んだら水を飲みすぎた」
「感情と胃腸が忙しすぎます」
父は真面目な顔で頷いた。
「娘を持つ父親は忙しい」
母が扇の陰で笑う。
リタが静かに椅子を引いてくれる。
朝食の卓にも、花があった。
白と青の花束。
カードを見ると、ユリウス殿下からだった。
『ミリアへ。
昨夜はよく立っていた。
君が逃げなかったことを、私は誇りに思う。
だが、無理をしたことも分かっている。今日は必ず休むこと。
近いうちに、改めて話したい。
ユリウス』
優しい。
そして、休めという指示が入っている。
殿下まで、わたくしを目を離すと危ない人扱いしている。
「王太子殿下からか」
父がカードを見て言った。
「はい」
「……良い文だな」
「ええ」
「良い文だが、父としては少し複雑だ」
「なぜですか」
「娘に『改めて話したい』と書く男性が王太子殿下で、さらに別の公爵までいるとなると、胃薬が足りない」
「お父様、本当に胃薬から離れてくださいませ」
母が楽しそうに言う。
「あなた、まだいい方よ。ヴァイスベルク公爵様からも届いているわ」
父の手が止まった。
わたくしの心臓も止まりかけた。
「レオンハルト様から?」
「ええ」
「花、ですか?」
聞いた瞬間、リタが少しだけ視線を逸らした。
母は笑った。
「花ではないわ」
「……でしょうね」
なぜか納得してしまった。
レオンハルト様が薔薇の花束を贈ってくる姿は、想像できなくもないが、現段階ではかなり危険だ。
危険というのは、わたくしの心臓に対してである。
母が執事に合図すると、銀盆に乗せられた封筒と紙束が運ばれてきた。
紙束。
花束ではない。
紙束。
もうこの時点で、差出人が分かる。
「ヴァイスベルク公爵様より、お嬢様へ」
執事が一礼する。
わたくしは封筒を受け取った。
深い青の封蝋。
見慣れてきたことが、少し怖い。
中には、短い手紙。
『昨夜の件で、君に近づく者が増える。
花、謝罪、感謝の名を借りた探りに注意しろ。
同封の一覧は、現時点で注意すべき家と人物だ。
屋敷周辺の護衛を二名増やす手配をした。
ロゼリア公爵には別途伝えてある。
しばらく一人で外出するな。
ヴァイスベルク』
……。
花ではない。
護衛増員。
不審者リスト。
注意すべき家と人物。
実用。
あまりにも実用。
わたくしは、紙束をめくった。
そこには、昨夜の夜会でわたくしに強い視線を向けていた家、クラリーナ様と親しかった令嬢、謝罪の手紙を出してきたものの内容が曖昧な家、逆に本当に謝意がありそうな家まで分類されていた。
項目が細かい。
『接触目的:情報収集』
『危険度:中』
『本人より母親に注意』
『謝罪は本物。ただし父親が政治利用する可能性』
『花の趣味が悪い。警戒とは無関係』
「最後の一文は必要ですの?」
思わず呟いた。
リタが横から覗き込む。
「花の趣味が悪い、ですか」
「ええ」
「レオンハルト様にも美的判断がおありなのですね」
「そこに驚くの?」
母が扇で口元を隠して笑っている。
「まあ、素敵ではないの」
「どこがですか、お母様。令嬢への贈り物として不審者リストですわよ」
「あなたのことをよく分かっているということでしょう」
「わたくし、不審者リストを贈られて喜ぶ令嬢に見えますか?」
母、父、リタが同時に黙った。
「なぜ黙るのですか」
父が咳払いをする。
「役には立つ」
「お父様まで」
リタが静かに言う。
「お嬢様、頬が赤いです」
「これは怒りです」
「怒りで手紙を折り目なく整えるのですね」
「紙を大事にしているだけよ」
「恋です」
「朝食中に言わないで!」
父が胃薬を握りしめた。
母はついに笑い声を漏らした。
ロゼリア家の朝食は、花と手紙と不審者リストで大変賑やかだった。
朝食後、わたくしはリタと一緒に届いた手紙を確認することになった。
母いわく、全部を読む必要はないが、主要なものだけは目を通すべき、とのこと。
応接室の卓には、手紙が分類されて並んでいる。
謝罪。
感謝。
社交辞令。
探り。
危険。
セシリア様関係。
殿下関係。
レオンハルト様の不審者リストと照合待ち。
最後の分類名がおかしい。
「リタ」
「はい」
「わたくし、昨日まで悪役令嬢に戻されそうだったのよね」
「はい」
「今日、なぜ事務作業をしているのかしら」
「悪役令嬢回避後の後処理でございます」
「言い方が仕事っぽいわ」
「実際、仕事です」
リタは淡々と封を開ける。
「こちらはモルガン伯爵令嬢からです」
「あの方ね」
「はい。昨夜、証言に利用されかけたことへの謝罪です。クラリーナ様に『ロゼリア様のためにも、真実を明らかにしましょう』と言われ、混乱したと」
「……そう」
わたくしは手紙を受け取った。
文字は少し乱れている。
彼女も怖かったのだろう。
セシリア様を笑った過去があり、クラリーナ様の言葉に乗りかけ、けれど最後には何も言えなくなった。
謝罪の文には、綺麗ごとだけではない、情けなさも書かれていた。
『私は、自分が責められたくなくて、クラリーナ様の言葉に頷きました。
ロゼリア様がセシリア様を庇った時、自分が恥ずかしかったのに、その恥ずかしさを認めたくありませんでした。
昨夜、セシリア様がロゼリア様を信じるとおっしゃった時、私は自分が何をしているのか分からなくなりました。
申し訳ございません。』
人間臭い手紙だった。
綺麗な謝罪ではない。
でも、だからこそ本音に近い気がした。
「どうなさいますか」
リタが聞く。
「返事を書くわ」
「許す、と?」
「すぐに許すとは書けないわ。でも、謝罪を受け取ったことと、セシリア様へ直接謝る機会を作れるように相談する、と」
「セシリア様がお許しになるかは」
「セシリア様が決めることです」
「はい」
リタが少しだけ頷いた。
「今のお嬢様は、とてもまともです」
「褒め方が失礼」
「最上級でございます」
「なお失礼」
次に、ダリオ様からの手紙があった。
封は簡素。
文章も短い。
『ロゼリア嬢。
昨夜の件、君が無事でよかった。
礼拝堂周辺の警備に穴があったことは騎士団の責任でもある。すまなかった。
殿下の件についても、君の言葉は難しいが、悪意ではないと改めて分かった。
無理はするな。
ダリオ・グランツ』
短い。
真面目。
解釈一致。
わたくしは手紙をそっと胸に当てた。
「リタ」
「はい」
「これは聖遺物として」
「分類は騎士団長様からの謝罪文でございます」
「急に現実へ戻さないで」
「戻ってくださいませ」
「でも、見て。『君の言葉は難しいが、悪意ではない』ですって」
「かなり正確な評価ですね」
「そうなの。正確なの。推しがわたくしを理解しようとしてくれているの」
「推しという単語がまた出ましたね」
「祈りの一種よ」
「便利な説明です」
リタは呆れながらも、ダリオ様の手紙を丁寧に別の箱へ入れてくれた。
その手つきが優しかったので、少し嬉しくなる。
ユリウス殿下からの手紙は朝食で読んだもののほかに、王宮から正式な文書も届いていた。
昨夜の件について、ロゼリア公爵令嬢の無実を王宮として確認し、今後調査を続けるというもの。
公的な文面。
わたくしを守るための文。
殿下の気遣いが見える。
「殿下にも返事を書かなければ」
「はい」
「何と書けばいいかしら」
「正直に」
「それが一番難しいのよ」
「では、『怖かったですが、殿下が信じてくださって救われました』と」
「リタ」
「はい」
「あなた、時々わたくしよりわたくしの本音を言うわね」
「侍女でございますので」
もう、その言葉には勝てない。
手紙の確認が一段落した頃、執事がまた新しい花束を運んできた。
今度は、非常に大きな薔薇の花束。
誰からかと思えば、昨夜わたくしを遠巻きに見ていた侯爵夫人からだった。
添えられたカードには、こうある。
『昨夜のロゼリア様のお姿に感銘を受けました。ぜひ来週、少人数の茶会に――』
「却下」
リタが即答した。
「まだ最後まで読んでいないわ」
「不審者リストにございます」
「レオンハルト様の?」
「はい。『本人は害意薄。ただし情報収集能力が高く、話を盛る。茶会不可』と」
「公爵様、本当に細かいわね」
「花の趣味については?」
「……『薔薇を過剰に贈る者は、だいたい話も過剰』と書いてあるわ」
「名言ですね」
「そうかしら」
わたくしは花束を見た。
美しい。
だが、確かに過剰だ。
「これはどうするの?」
「奥様が玄関ホールに飾ると」
「母上、使い方が上手いわね」
「来客に見せるにはよろしいかと」
なるほど。
茶会は断るが、花は社交的に利用する。
母の教えが実践されている。
そうして手紙と花の分類に追われているうちに、昼近くになった。
わたくしは疲れ果てて椅子に沈み込む。
「リタ」
「はい」
「断罪イベントを回避した翌朝って、もっと静かに感動を噛みしめるものではないの?」
「お嬢様の場合、感動より先に事務処理が来ましたね」
「物語としてどうなのかしら」
「人間らしいかと」
「人間らしい」
「はい。大事件の後も、花は届きますし、返事は必要ですし、父親の胃薬は減ります」
「急に現実が強い」
でも、確かにそうだ。
昨日の夜、わたくしは悪役として終わらなかった。
壁ではないと気づいた。
それは大きな出来事だった。
けれど、朝になれば花が届く。
手紙を読む。
返事を考える。
使用人が花瓶に困る。
父は胃薬を飲み、母は社交戦略を練る。
リタは容赦なく現実を突きつける。
人間の生活は、そうやって続く。
劇的な場面だけでできているわけではない。
だからこそ、少し温かい。
「お嬢様」
リタが、ふいに柔らかい声で言った。
「昨夜のこと、少しは実感できましたか」
「……少しだけ」
「悪役ではないと」
わたくしは、手元のセシリア様のカードを見る。
ミリア様を守れたことが少しだけ嬉しかったです。
その文字を指先でなぞる。
「まだ、怖いわ」
「はい」
「昨日は皆が守ってくれた。でも、また何かあるかもしれない。社交界の噂だって、今は好意的でも、いつどう変わるか分からない」
「はい」
「それでも」
わたくしは、息を吐いた。
「悪役ではないと、少しだけ信じてもいい気がしてきたわ」
リタは、静かに微笑んだ。
「それは、とても良いことです」
「あなたが素直に褒めると、やはり少し怖いわ」
「では、付け加えます」
「何を?」
「ただし、壁には向いておりません」
「台無し!」
リタは満足そうだった。
その時、窓の外から庭師たちの声が聞こえた。
どうやら、届きすぎた花の一部を庭の仮設棚に移しているらしい。
屋敷中が花だらけ。
悪役令嬢回避の翌朝にしては、ずいぶん賑やかだ。
わたくしは手帳を開いた。
今日の記録を書く。
『断罪回避の翌朝、屋敷が花だらけ。
セシリア様から花籠。聖域。
殿下から見舞いと休めという指示。
グランツ卿から謝罪。短くて真面目。解釈一致。
レオンハルト様からは花ではなく、護衛増員と不審者リスト。
とても実用。
腹立たしいほど助かる。』
少し考えて、さらに書く。
『悪役ではないと、少しだけ信じてもいい気がした。
でも、注目されるのは困る。
壁には戻れそうにない。』
ペンを止める。
最後に、どうしても一行足したくなった。
『困りましたわ。守られることにも、少し慣れてしまいそうです。』
書いた瞬間、顔が熱くなった。
慌てて手帳を閉じる。
リタが横から見る。
「お嬢様」
「見せません」
「まだ何も」
「絶対に見せません」
「では、当てます」
「やめて」
「レオンハルト様に関することでございますね」
「リタ!」
なぜ分かる。
いや、たぶん顔だ。
わたくしは本当に分かりやすいのだろう。
その時、執事がもう一度入ってきた。
また何か届いたのかと身構える。
「お嬢様。ヴァイスベルク公爵様より、追加の伝言でございます」
「追加?」
「はい」
執事は小さな紙を差し出した。
わたくしは受け取る。
短い。
『休め。
花に埋もれて窒息するな。
外出禁止は継続。』
……。
わたくしは紙を見つめた。
「リタ」
「はい」
「公爵様は、わたくしを何だと思っているのかしら」
「目を離すと危ない令嬢かと」
「花に埋もれて窒息はしません」
「可能性はゼロではございません」
「あなたまで!」
リタが小さく笑った。
わたくしも、少し笑ってしまった。
花だらけの屋敷。
山ほどの手紙。
父の胃薬。
母の社交戦略。
リタの容赦ないツッコミ。
セシリア様の優しい花籠。
殿下とダリオ様の誠実な言葉。
そして、花ではなく不審者リストを贈ってくる冷血公爵様。
悪役令嬢として断罪されるはずだった翌朝。
わたくしは、こんなにも騒がしく、面倒で、温かい朝を迎えている。
壁になりたいという夢は、どんどん遠ざかっている。
けれど。
花の香りに包まれながら、わたくしは少しだけ思った。
これはこれで、悪くないのかもしれない。
もちろん、推し活は続けるけれど。




