第24話 私は壁ではありませんでした
広間の空気が、凍りついていた。
音楽は止まり、笑い声も消え、きらびやかな王宮夜会は、まるで舞台の幕が途中で落ちたように静まり返っている。
けれど、わたくしには分かっていた。
これは幕が落ちたのではない。
むしろ、今から本当の場面が始まるのだ。
クラリーナ・ベリオール侯爵令嬢は、まだ立っていた。
美しい薄青のドレス。
完璧に整えられた髪。
白百合と柑橘の香り。
ただ、さっきまでの余裕ある微笑みは、ほんの少しだけ歪んでいた。
「ヴァイスベルク公爵様」
クラリーナ様は、それでも声を整えた。
「わたくしは、ただ聖女候補様を案じて申し上げただけですわ。その紙も、わたくしの元へ届けられたもの。もし偽物であるなら、わたくしも騙された側です」
見事な切り返しだった。
彼女は、自分が主導したとは言わない。
あくまで、善意で持ち込んだ。
自分も被害者かもしれない。
貴族社会で生き抜くための逃げ道を、きちんと残している。
レオンハルト様は、その逃げ道を冷たく見つめた。
「騙された側、か」
「はい。わたくしは、ロゼリア様を陥れたいわけではございません。ただ、証拠らしきものがある以上、聖女候補様を守るためにも」
「その言葉は便利だな」
レオンハルト様の声は静かだった。
「聖女候補を守る。王太子殿下を案じる。社交界の秩序を保つ。どれも綺麗な言葉だ」
クラリーナ様の指先が、わずかに震える。
「ですが、それは事実ですわ」
「なら、なぜ昨夜のうちに王宮警備へ届けなかった」
「それは……夜分でしたし、確証もなく」
「確証がないものを、今夜、この場で広げたのか」
その一言で、周囲の空気が動いた。
令嬢たちが視線を交わす。
さっきまでクラリーナ様の言葉に乗りかけていた人々が、少しずつ距離を測り始めている。
怖い。
社交界の人々は、空気に敏感だ。
風向きが変わると、すぐに立ち位置を変える。
けれど、それを責める気にはなれなかった。
人は自分の身を守るために動く。
それもまた、人間らしさなのだと思う。
「私は」
クラリーナ様が言いかける。
その時、広間の入口から一人の王宮侍女が連れてこられた。
連れてきたのは、騎士団の若い騎士だった。
侍女の顔は青ざめている。
ダリオ様が短く告げた。
「礼拝堂控室の侍女だ」
ざわめきが広がる。
クラリーナ様の顔が、今度こそはっきり変わった。
「彼女は、今日の昼、聖女候補の控室近くで古い祈祷書を持っていたところを確認された」
ダリオ様の声は淡々としている。
「問い詰めたのではなく、神官長立ち会いのもとで事情を聞いた。彼女は、ある令嬢付きの侍女から、祈祷書を一時的に入れ替えるよう頼まれたと証言した」
「そんな……」
誰かが呟いた。
侍女は震えながら頭を下げた。
「も、申し訳ございません。私は、中身までは……ただ、古い祈祷書を置けばよいと。ほんの少しの悪戯だと聞かされて……」
セシリア様が息を飲む。
わたくしは、思わず彼女の方を見た。
セシリア様の手が震えている。
怖かったのだろう。
それでも、彼女は逃げなかった。
「誰から頼まれた」
ダリオ様が問う。
侍女は震える唇で答えた。
「ベリオール侯爵家の侍女、ミーナ様からです」
広間に、低いざわめきが走った。
クラリーナ様の背後に控えていた侍女が、真っ青になる。
その侍女――ミーナは、一歩後ずさった。
「違います。私は、そんな」
「ミーナ」
クラリーナ様が低く呼んだ。
その声は、先ほどまでの優雅さを失っていた。
ミーナは肩を震わせ、目に涙を浮かべる。
「お、お嬢様……私は、言われた通りに」
「黙りなさい」
その一言は、小さかった。
けれど、あまりにも鋭かった。
周囲の貴族たちが、息を潜める。
レオンハルト様は、静かに口を開いた。
「続けろ」
ミーナは、クラリーナ様とレオンハルト様を交互に見た。
そして、崩れるように膝をついた。
「申し訳ございません……! 私は、ロゼリア様のお部屋へ紙を入れるよう言われました。補助侍女のアリナ様に、衣装部屋で人手が足りないと声をかけて、少しだけ部屋を空けさせて……その間に」
リタの顔が険しくなる。
アリナ。
昨日、名前の出た補助侍女。
彼女は直接裏切ったわけではなく、誘導されたのだ。
リタが小さく息を吐いた。
怒っている。
静かに、とても怒っている。
「誰に言われた」
レオンハルト様が問う。
ミーナは、もうクラリーナ様を見なかった。
「……クラリーナお嬢様です」
その瞬間、クラリーナ様の顔から血の気が引いた。
だが、彼女はまだ折れなかった。
「嘘ですわ」
声は震えていた。
けれど、まだ貴族令嬢として立っている。
「その侍女が勝手にしたことです。わたくしは、そんな指示など」
「紙商の帳簿に、ベリオール侯爵家名義の購入記録がある」
レオンハルト様が言った。
「金粉入りの便箋。購入日は三日前。購入者は君の侍女ミーナ」
「紙など、誰でも買いますわ」
「偽手紙に残っていた香油は、君の手袋と同じ系統だった」
「同じ香りを使う令嬢は他にも」
「その通りだ。だから単独では証拠にしない」
レオンハルト様は、一枚一枚、逃げ道を塞いでいく。
冷たい。
でも、雑ではない。
証拠を積み上げる。
感情で断罪しない。
だからこそ、逃げられない。
「紙商の記録。侍女の証言。礼拝堂控室で発見された古い祈祷書。ロゼリア家へ入り込むための誘導。偽手紙の筆跡は、君が過去に書いた招待状の字と、いくつかの癖が一致する」
クラリーナ様の唇が震えた。
「筆跡など、いくらでも」
「なら、正式に鑑定へ回す」
レオンハルト様は容赦なく言った。
「王宮記録官と神官長の前でな」
そこで、クラリーナ様は完全に黙った。
広間の誰もが、もう分かっていた。
この場の脚本を書いたのは、彼女なのだと。
だが、わたくしは、勝ったとは思えなかった。
胸の中にあるのは、安堵だけではなかった。
クラリーナ様の顔が、あまりにも苦しそうだったから。
美しく整えられた令嬢の顔が、いまにも崩れそうに歪んでいる。
そこには、悪意だけではないものがあった。
焦り。
悔しさ。
恥。
そして、誰にも見せたくなかったであろう惨めさ。
「どうして」
気づけば、わたくしは声を出していた。
周囲がこちらを見る。
レオンハルト様が、わずかに目を動かした。
止めない。
だから、わたくしはクラリーナ様へ向き直った。
「どうして、こんなことをなさったのですか」
「……あなたに、分かるはずがないわ」
クラリーナ様の声は低かった。
先ほどまでの作った優雅さは、もうない。
「公爵家の令嬢として生まれて、最初から王太子殿下の婚約者で。少し変わっただけで、殿下にも、騎士団長にも、聖女候補にも、冷血公爵にまで守られて」
言葉が、少しずつ荒くなる。
「あなたがどれほど恵まれているか、分かる?」
広間が静まり返る。
クラリーナ様は、笑った。
泣きそうな笑いだった。
「私はずっと、王太子妃にふさわしくあろうとしてきたわ。誰よりも作法を学び、政治も、語学も、慈善活動も、何もかも。けれど、殿下の婚約者は最初からあなた。あなたが殿下に執着して、周囲を睨みつけて、聖女候補様をいじめるような方なら、いつか自滅すると思っていた」
胸が痛んだ。
前のミリアなら。
確かに、そう見えていたのだろう。
「なのに、あなたは変わった。聖女候補様を助け、殿下を自由にしようとして、社交界の評価まで変わった。冷血公爵様まであなたを庇う」
クラリーナ様の目から、涙が一粒こぼれた。
「ずるいじゃない」
その言葉は、子どものようだった。
けれど、わたくしは笑えなかった。
「あなたは、悪役のままでいればよかったのよ」
その一言が、胸に刺さった。
悪役のままで。
そうだ。
誰かにとって、わたくしは悪役でいる方が都合がよかったのだ。
悪役令嬢ミリアがいてくれれば、責められる。
憎める。
自分の悔しさをぶつけられる。
彼女が落ちれば、自分に道が開くかもしれないと思える。
でも、わたくしは悪役のままではいられなかった。
それが、誰かを追い詰めた。
だからといって、クラリーナ様の行いが許されるわけではない。
けれど。
人間は、本当に面倒だ。
「クラリーナ様」
わたくしは、静かに言った。
「あなたのお気持ちが、すべて分かるとは申しません」
「……」
「ですが、わたくしも、選ばれたい気持ちを知らないわけではありません」
クラリーナ様の目が、わずかに揺れた。
「わたくしは、以前の自分を誇れません。殿下の隣に立つ自分ばかりを見て、殿下ご自身を見ていなかった。セシリア様を羨み、傷つける未来もあったかもしれない」
言いながら、自分の胸が痛む。
これは前のミリアへの告白でもある。
「だから、あなたをただ笑うことはできません」
「なら……」
「でも」
わたくしは、声を強めた。
「セシリア様を傷つけようとしたこと。わたくしを陥れようとしたこと。それは、間違いです」
クラリーナ様の唇が震える。
「あなたがどれほど悔しくても、誰かを悪役に仕立ててよい理由にはなりません」
広間は静かだった。
不思議なほど。
わたくしの声が、思っていたよりも遠くまで届いている気がした。
「わたくしも、悪役として終わりたくありません。あなたも、誰かを悪役にすることでしか立てない方になってほしくありません」
「……綺麗ごとを」
「ええ」
わたくしは頷いた。
「綺麗ごとですわ。でも、今はそれを言いたいのです」
クラリーナ様は、泣きながら笑った。
「そんなところまで、あなたは……」
最後の言葉は、聞き取れなかった。
悔しいのか。
羨ましいのか。
怒っているのか。
たぶん、全部だ。
ユリウス殿下が静かに前へ出た。
「クラリーナ・ベリオール侯爵令嬢」
王太子としての声だった。
「君の行いは、聖女候補を陥れ、ロゼリア公爵家を貶め、王宮の秩序を乱すものだ。正式な処分は、父上と侯爵家を交えて決める」
クラリーナ様は唇を噛んだ。
殿下は少しだけ声を柔らかくする。
「だが、君の努力まで否定するつもりはない」
クラリーナ様が顔を上げた。
「君が学んできたこと、積み重ねてきたことは、本来なら誰かを落とすためではなく、国を支えるために使えるものだったはずだ」
「殿下……」
「それを間違えたことは、重い」
優しいだけではない。
殿下は、きちんと線を引いた。
わたくしは、その姿を見て、また少し胸が痛くなる。
王太子なのだ。
彼は。
優しく、けれど責任を背負う人。
ダリオ様が隣で静かに控えている。
その距離感に、わたくしはいつもなら内心で悶えていたはずだ。
でも今は、尊いだけでは済まなかった。
彼らは、生きている人間だった。
迷い、怒り、傷つき、それでも立つ。
わたくしが勝手に眺めるだけの、綺麗な概念ではない。
「クラリーナ様」
セシリア様が、小さく声を出した。
広間中が驚いたように彼女を見る。
セシリア様は震えていた。
それでも、前に出る。
「私は、怖かったです」
クラリーナ様は黙っていた。
「もし祈祷書がすり替えられていたら、私はきっと失敗していました。笑われて、また自分はここにいてはいけないのだと思ったかもしれません」
声が揺れる。
わたくしは、思わず手を伸ばしかけた。
けれど、セシリア様は自分で立っていた。
「でも、ミリア様が教えてくださいました。失敗を笑う方が悪いのだと。だから、私はもう、ただ泣いて終わりたくありません」
セシリア様は、クラリーナ様を見た。
「私を嫌いでも構いません。でも、私を使って誰かを傷つけるのは、やめてください」
その言葉は、強かった。
ヒロイン様。
あなたは、なんて。
クラリーナ様は顔を歪め、視線を逸らした。
「……ごめんなさい」
小さな声だった。
誰に向けたものか、はっきりとは分からない。
セシリア様へか。
殿下へか。
わたくしへか。
それとも、努力していたはずの自分自身へか。
でも、謝罪だった。
やがて、騎士たちがクラリーナ様とミーナを静かに広間から連れていった。
派手な引きずり出しではない。
罵声もない。
ただ、社交界の視線だけが、彼女たちの背を追っていた。
その背中は、とても小さく見えた。
断罪イベントは反転した。
けれど、気持ちよさだけではなかった。
誰かが間違え、誰かが傷つき、誰かが救われる。
人間の話は、いつも綺麗に終わらない。
それでも。
わたくしは、悪役として終わらなかった。
クラリーナ様が去ったあと、広間にはざわめきが戻ってきた。
しかし、今度のざわめきは違った。
「ロゼリア様は無実だったのね」
「聖女候補様があれほど信じて」
「王太子殿下も、グランツ卿も」
「ヴァイスベルク公爵様まで……」
視線が集まる。
また、わたくしへ。
でも、さっきまでの疑いとは違う。
戸惑い。
感心。
好奇心。
そして、少しの敬意。
壁になりたいわたくしにとっては、やはり困る視線だった。
けれど、不思議と逃げ出したいだけではなかった。
「ミリア様!」
セシリア様が、とうとう我慢できなくなったように抱きついてきた。
「よかった……本当に、よかったです……!」
「セシリア様」
細い肩が震えている。
わたくしは、そっと抱き返した。
ヒロイン様が、わたくしを抱きしめて泣いている。
原作にはない。
そんな場面は、どこにもなかった。
「泣かないでくださいませ。セシリア様が泣くと、わたくしまで」
「ミリア様も泣いていいです」
「今それを言われると危険ですわ」
「泣いてください」
「要求が強い」
セシリア様は泣きながら笑った。
わたくしも、少しだけ笑った。
その時、ダリオ様が近づいてきた。
「ロゼリア嬢」
「グランツ卿」
わたくしが礼をしようとすると、ダリオ様は少し困った顔をした。
「礼は不要だ」
「ですが」
「俺は、殿下の命で動いた。それに、王宮警備の責任でもある」
「それでも、ありがとうございました」
ダリオ様は、少し黙ったあと、真面目に言った。
「君は、逃げなかった」
その一言に、胸が熱くなる。
「怖かったですわ」
「そう見えた」
「見えていましたか」
「かなり」
「隠せていませんでしたのね」
「だが、立っていた」
ダリオ様は、それを評価するように頷いた。
「それで十分だと思う」
推しに認められた。
普通ならここで内心が爆散していた。
でも今は、その言葉を一人の人間からの評価として受け取った。
嬉しい。
素直に。
「ありがとうございます」
ダリオ様は、少しだけ視線を逸らした。
「殿下も安心している」
「殿下は」
「君と話したがっているが、今は王太子として場を収める必要がある」
見ると、ユリウス殿下は神官長や高位貴族たちと話していた。
完璧な王太子の顔。
でも、こちらへ一瞬視線を向ける。
目が合うと、殿下はほんの少しだけ頷いた。
無事でよかった。
そう言われた気がした。
わたくしも小さく頷き返す。
そのやり取りを、セシリア様がじっと見ていた。
「ミリア様」
「はい」
「王太子殿下とも、ちゃんとお話ししてくださいね」
「今、その話を」
「後回しは駄目です」
「セシリア様、最近本当に強く」
「リタ様に教わりました」
「リタ!」
広間の端に控えているリタを見る。
リタは無表情で一礼した。
悪びれない。
まったく。
味方が増えるほど、わたくしの逃げ道が減っていく。
その時、背後から低い声がした。
「ロゼリア嬢」
レオンハルト様だった。
わたくしは振り返る。
彼はいつものように無表情で、けれど少しだけ目元が柔らかかった。
「公爵様」
「無事か」
「はい」
「顔色は悪い」
「今夜は皆様に見られすぎておりますので」
「事実だ」
「事実禁止令は」
「却下だ」
いつものやり取り。
それが、こんなにも安心する。
わたくしは、笑ってしまった。
「公爵様。ありがとうございました」
「礼は受け取る」
「今日は素直ですのね」
「必要だからな」
「また必要」
「君が自分の無事を軽く扱いそうだからだ」
図星すぎて黙る。
レオンハルト様は、わたくしをじっと見た。
「君は、壁になどなるな」
胸が、どくんと鳴った。
広間の喧騒が遠ざかる。
「公爵様」
「君は、自分が外側にいると思っていたのだろう」
「……はい」
「だが、君が動いたからセシリア嬢は救われた。殿下は自分を見つめ直した。騎士団長は君を信頼した。ロゼリア家も、君を守るために動いた」
言葉が、一つずつ胸に積もる。
「君はもう、物語の外側にはいない」
分かっていた。
少し前から。
でも、認めるのが怖かった。
「壁になどなるな。君は、君のままここにいろ」
その言葉で、視界が滲んだ。
駄目だ。
泣く。
これは無理。
「……それは困りますわ」
「なぜ」
「嬉しい時の顔を、どう作ればいいのか分かりません」
声が震えた。
レオンハルト様は、少しだけ黙る。
それから、静かに言った。
「作るな」
短い。
たった、それだけ。
でも、もう駄目だった。
涙が、一粒こぼれた。
セシリア様が隣で「あ」と小さく声を漏らす。
リタが遠くからハンカチを用意しているのが見えた。
準備が早い。
ダリオ様は視線を逸らしてくれた。
殿下は遠くから心配そうにこちらを見ている。
そしてレオンハルト様は、ただそこにいた。
逃げないで。
見ないふりもしないで。
わたくしの涙を、悪いもののように扱わずに。
「公爵様」
「何だ」
「わたくし、壁になりたかったのです」
「知っている」
「誰かの幸せを、外から見守るだけでよかったのです」
「そうか」
「自分が中に入ると、壊してしまうかもしれないと思っていました」
「壊していない」
「でも、クラリーナ様は」
「彼女の選択は、彼女のものだ」
レオンハルト様の声は、静かだった。
「君が悪役でなくなったことで、彼女が焦ったのだとしても、君が悪いわけではない」
また、欲しかった言葉を言われる。
本当に、この人は。
「君は誰かの脚本通りに悪役でいる必要はない」
わたくしは、涙を拭った。
「……はい」
やっと、それだけ言えた。
セシリア様が、わたくしの手をぎゅっと握る。
「ミリア様は、ミリア様です」
ダリオ様が静かに頷く。
「少なくとも、俺はそう見る」
遠くから戻ってきたユリウス殿下が、穏やかに言った。
「私もだよ。君は、私の知っているミリアだ。以前とは違う、でも確かに君だ」
胸がいっぱいだった。
多すぎる。
供給が。
いや、違う。
これは供給ではない。
現実だ。
誰かの言葉。
誰かの手。
誰かの信頼。
わたくしは、それを受け取っている。
観測しているのではない。
関わっている。
関わられている。
そのことが怖くて、温かかった。
「困りましたわ」
わたくしは、泣き笑いのような顔で言った。
「推し活より、厄介なものを見つけてしまったかもしれません」
セシリア様が首を傾げる。
「厄介なもの?」
リタが、いつの間にか近くに来てハンカチを差し出しながら言った。
「現実でございます」
「リタ、そこはもう少し優しく」
「恋でもよろしいですが」
「もっと優しくない!」
セシリア様が笑った。
ユリウス殿下も、少し笑う。
ダリオ様は困ったように視線を逸らす。
レオンハルト様は、ほんの少しだけ口元を動かした。
笑った。
反則。
でも、今夜はその反則にも、少しだけ慣れた気がする。
断罪夜会は、終わりへ向かっていた。
クラリーナ様の企みは暴かれ、セシリア様は守られ、わたくしの無実は証明された。
けれど、それ以上に大きなことが起きていた。
わたくしは、気づいてしまった。
自分がもう、壁ではないことに。
誰かの幸せを外から眺めるだけの存在ではなく、誰かの人生に触れ、誰かに触れられている一人なのだと。
それは、とても怖い。
でも。
今夜だけは、少しだけ思えた。
壁ではない自分も、悪くないかもしれない、と。




