第22話 冷血公爵様、仕事が早すぎます
冷血公爵レオンハルト・ヴァイスベルク様は、仕事が早い。
それは知っていた。
舞踏会の警備での動きも、わたくしの不審な配置観察を見抜いた時も、社交界の噂を牽制に使った時も、とにかく判断が早かった。
けれど。
今回ばかりは、少し早すぎると思う。
昨夜、偽手紙と王宮夜会の招待状を見てから、まだ半日も経っていない。
それなのに、翌日の午後には、レオンハルト様はロゼリア公爵邸の小書斎で、まるで事件報告のように紙束を並べていた。
「偽手紙に使われていた紙は、王都南区の高級紙商で扱っているものだ」
レオンハルト様は、淡々と言った。
父、母、わたくし、リタ。
全員が小書斎に集められている。
卓上には、問題の偽手紙を封じた封筒。
別の小さな袋に入れられた紙片。
紙商の印が入った帳簿の写しらしきもの。
さらに、香りを確認するためなのか、小瓶まである。
捜査資料一式。
用意が良すぎる。
「王都南区の紙商……」
父が眉を寄せた。
「貴族向けの?」
「ああ。王宮に出入りする家の多くが使う。だが、あの紙の縁取りに使われている淡い金粉は、最近入ったばかりのものだ。購入者は限られる」
「まさか、もう調べたのですか」
わたくしは思わず聞いた。
レオンハルト様はこちらを見る。
「調べた」
「昨夜の今日で?」
「急ぐ必要がある」
「それは、そうですが」
「紙商は朝一番に開く。帳簿を確認し、必要な写しを取らせた」
「公爵様」
「何だ」
「仕事が早すぎます」
「遅いよりいいだろう」
「それはそうですけれど」
返す言葉がない。
リタが静かに言う。
「味方でよかったですね、お嬢様」
「本当に」
心からそう思う。
もしこの方が敵だったら、わたくしは初日に終わっている。
いや、初日どころか、前世記憶を取り戻して「尊い」と呟いた瞬間に詰んでいたかもしれない。
レオンハルト様は話を続けた。
「紙を購入した家の中で、最近ロゼリア家や聖女候補に関心を持っている家を絞った。現時点で最も怪しいのは、ベリオール侯爵家」
その名に、母がわずかに反応した。
「ベリオール侯爵家……クラリーナ様の?」
「そうだ」
クラリーナ・ベリオール侯爵令嬢。
名前は知っている。
社交界でそれなりに影響力のある令嬢だ。
歳はわたくしより一つ上。美しく、気位が高く、王太子妃候補としても一時期名が挙がっていた。
ただ、正式な婚約者はわたくしだった。
だから彼女は、表面上は礼儀正しくても、わたくしに対してどこか冷たい視線を向けることがあった。
前のミリアなら、おそらく正面から張り合っていた相手だ。
「クラリーナ様が、なぜ」
わたくしが呟くと、母が扇を閉じた。
「王太子妃の座、でしょうね」
母の声は静かだった。
やはり社交界を知る人の声は現実的だ。
「あなたが以前のように殿下に執着しているだけなら、クラリーナ様は待てばよかった。いつかあなたが自滅するかもしれないから。でも今のあなたは違う」
「わたくしが?」
「聖女候補様を庇い、王太子殿下にも冷血公爵様にも評価されている。社交界の風向きも少し変わった。あなたが悪評で落ちるはずだった場所から、むしろ上がり始めたのよ」
悪評で落ちるはずだった場所。
その言葉が、胸に刺さる。
原作通りなら、わたくしは落ちる側だった。
婚約破棄され、断罪され、修道院へ。
そうなるはずだったのに、わたくしは違う道へ進み始めている。
それを面白く思わない人がいる。
「つまり」
父が低い声で言った。
「ミリアを悪役に戻せば、自分に機会が来ると?」
「その可能性が高い」
レオンハルト様が答える。
「ただし、現時点では断定できない。紙商での購入記録は、ベリオール侯爵家の侍女名義だった。だが、それだけでは弱い」
「弱いのですか?」
「紙を買っただけでは罪にならない。偽手紙を書いた証拠、ロゼリア家へ持ち込んだ経路、セシリア嬢への嫌がらせの実行犯。少なくとも三つの線を繋ぐ必要がある」
きっぱり。
わたくしは、思わず見入ってしまった。
すごい。
仕事をしているレオンハルト様は、いつもの冷たさがさらに研ぎ澄まされている。
感情で動かない。
疑いと証拠を分ける。
誰かを守るために、誰かを雑に断罪しない。
その姿勢は、怖いほど正しい。
「お嬢様」
リタが小声で言った。
「見すぎです」
「え?」
「レオンハルト様を」
「見ていないわ」
「お顔に『仕事ができる公爵様、解釈一致』と書いてございます」
「顔にそこまで長文は書けないでしょう」
「お嬢様なら可能かと」
「リタ」
小声で言い合っていると、レオンハルト様がこちらを見た。
「何か言ったか」
「何も」
即答した。
リタも一礼する。
「お嬢様が、閣下の仕事の速さに感心しておられました」
「リタ!」
言った。
この侍女、言った。
レオンハルト様は、少しだけこちらを見る。
「そうか」
「……はい。感心は、しております」
「なら、その感心を無駄にしないよう聞け」
「容赦がありませんわ」
「今は必要な話だ」
それはそう。
わたくしは姿勢を正した。
レオンハルト様は、小瓶を一つ持ち上げた。
「次に、香りだ」
「香り?」
「偽手紙には、かすかに花香油の匂いが残っていた」
リタが眉を動かす。
「私も気づきましたが、そこまで強いものではありませんでした」
「普通なら気づかない程度だ。だが、この香りはベリオール侯爵令嬢がよく使うものと同じ系統だ」
「香水ですか?」
「香水ほど強くない。手紙や手袋に移りやすい香油だ。王都の一部の令嬢の間で流行っている」
母が少し考え込む。
「クラリーナ様は、白百合と柑橘を混ぜた香りを好まれていたわね」
「それに近い。ただし、同じものを使う令嬢は他にもいる」
「それも証拠としては弱いのですね」
「単独ではな」
レオンハルト様は小瓶を置いた。
「だが、紙、香り、最近の動き、夜会への出席予定、すべてを合わせると、ベリオール侯爵令嬢の周辺がかなり怪しい」
わたくしは、黙って聞いていた。
クラリーナ様。
彼女が本当に黒幕なのかは、まだ分からない。
だが、もしそうなら。
彼女は、ただ悪女なのだろうか。
王太子妃の座を狙い、わたくしを陥れようとした、分かりやすい悪役。
そう切り捨てれば簡単だ。
けれど、わたくしは知っている。
悪役令嬢と呼ばれる側にも、不安や焦りや、どうしようもない嫉妬があることを。
前のミリアだって、ただの悪女ではなかったはずだ。
選ばれたかった。
失いたくなかった。
自分の価値を守りたかった。
だからといって、誰かを傷つけていい理由にはならない。
でも、人間は面倒なのだ。
完全な悪だけで動く人ばかりではない。
「ミリア」
父の声で、我に返る。
「顔色が悪い」
「大丈夫です」
「大丈夫ではない顔だ」
「皆様、本当に顔を見ますわね」
「当たり前だ。親だぞ」
父が少し怒ったように言う。
その怒りが、優しさから来ているのが分かるから、胸が少し痛い。
「すみません」
「謝るところではない」
「はい」
レオンハルト様が、静かに言った。
「君はまた、相手の事情まで考えているな」
「……」
また見抜かれた。
本当に、この人の目はどうなっているのか。
「クラリーナ様が本当に関わっているとしても、焦りや不安があったのかもしれない、などと考えている」
「公爵様」
「違うか」
「……違いません」
父が驚いた顔でこちらを見る。
母は少しだけ目を伏せた。
リタは、やはりという顔をしている。
「ですが」
わたくしは、ゆっくりと言った。
「事情があったとしても、セシリア様を傷つけてよい理由にはなりません」
「当然だ」
「わたくしを陥れてよい理由にも」
そこまで言って、少し止まった。
自分を守る言葉は、まだ少し言い慣れない。
けれど、言わなければならない。
「なりません」
言い切った。
レオンハルト様の目が、ほんの少しだけ和らぐ。
「それでいい」
たったそれだけなのに、胸が熱くなる。
父が小さく息を吐いた。
「ミリアが、自分のことをそう言えるなら少し安心だ」
「お父様」
「昨日までなら、セシリア様が傷つかなければ自分は疑われてもいい、くらい言い出しそうだった」
「……」
言い出しそうだった。
実際、少し思っていた。
もし自分一人が悪役に戻れば、セシリア様が守られるなら。
それで済むなら。
そういう考えが、頭をかすめなかったわけではない。
だが、それを口に出す前に、レオンハルト様の視線が鋭くなった。
「ロゼリア嬢」
「はい」
「今、心当たりがある顔をしたな」
「していません」
「嘘が下手だ」
「……少しだけです」
「少しだけ?」
「もし、わたくしが疑われることで相手が満足して、セシリア様にこれ以上何もしないなら、それは」
「駄目だ」
最後まで言わせてもらえなかった。
レオンハルト様の声は、低かった。
怒っている。
静かな怒り。
「君はなぜ、自分が傷つくことを簡単に許す」
その言葉が、小書斎の空気を止めた。
父も、母も、リタも、何も言わない。
わたくしは、胸が詰まった。
「簡単に、では」
「簡単にだ」
「……」
「君はセシリア嬢が傷つくことには怒る。殿下が傷つくことも、騎士団長が傷つくことも嫌がる。侍女が危険な場所へ行くことも止めるだろう」
「はい」
「では、なぜ君自身だけは別にする」
答えられなかった。
なぜだろう。
前世からの癖だろうか。
自分の痛みは、自分で何とかすればいいと思っている。
他人の痛みは見過ごせないのに、自分が傷つくことは「仕方ない」と処理しようとする。
そうすれば丸く収まる気がして。
でも。
それは、本当に丸く収まるのだろうか。
「君が傷つけば、君を大切に思う者も傷つく」
レオンハルト様の声は、少しだけ硬かった。
「そこに私も含まれる」
心臓が跳ねた。
父が咳き込んだ。
母が扇を開いた。
リタが完全に無表情になった。
無表情が深い。
これは後で絶対に何か言われる。
でも今は、それどころではない。
「公爵様」
「何だ」
「そのようなことを、この場で」
「必要だから言った」
「必要の判断基準が大胆ですわ」
「君にはこのくらい言わなければ通じない」
「そんなことは」
「ある」
即答。
わたくしは言い返せない。
父が、疲れたように額を押さえた。
「レオンハルト公」
「はい」
「娘を守ってくださっていることには感謝する」
「当然のことをしているだけです」
「その当然が、少々強い」
「自覚はあります」
「あるのか」
父はさらに疲れた顔をした。
母が小さく笑う。
「あなた、胃薬を増やした方がよさそうね」
「そうする」
「お母様」
笑いごとではない。
だが、少しだけ空気が緩んだ。
レオンハルト様は、それを待っていたかのように話を戻す。
「今後の流れだが、明日の礼拝堂訓練には予定通り出る。ただし、祈祷書は神官長の前で正式に確認する。セシリア嬢の控室には王宮側の信頼できる侍女を置く。リタも可能な範囲で近くに」
「はい」
リタが頷く。
「ロゼリア嬢は直接手を出すな。だが完全に離れるな。周囲に見える位置にいろ」
「見える位置」
「君が堂々としていることにも意味がある。隠れれば、やましいことがあると思われる」
「壁になりたいのに」
「今は壁ではなく、証人になれ」
証人。
また、新しい役割が増えた。
悪役ではなく、壁でもなく、証人。
忙しい。
人生の配役が多すぎる。
「明後日の夜会は?」
母が尋ねる。
「出席する」
レオンハルト様が即答した。
「避ければ認めたと取られる。だが、準備なしでは行かせない」
「準備とは」
「偽手紙の証拠保全。筆跡鑑定。紙商の記録。ロゼリア家へ出入りした者の確認。セシリア嬢側の証言。殿下と騎士団長にも共有する」
「殿下にも?」
「すでに一部は伝えた」
「仕事が早すぎます」
また言ってしまった。
レオンハルト様はこちらを見た。
「何度でも言うが、遅いよりいい」
「それはそうです」
「君が余計な自己犠牲を考える前に動く必要がある」
「そこまで読まれていますのね」
「分かりやすい」
「皆様そればかり」
リタが静かに言う。
「事実ですので」
「リタまで」
母がふふ、と笑った。
父は胃薬のことを考えている顔だった。
そんな家族の空気の中で、わたくしは少しだけ息をつけた。
状況は悪い。
黒幕候補まで出てきた。
礼拝堂訓練も、夜会も、危険な場になる。
でも、何も分からず怯えているだけではない。
誰が動き、どこに証拠があり、何を守るべきか。
少しずつ見えてきている。
「公爵様」
「何だ」
「なぜ、そこまでしてくださるのですか」
聞いてしまった。
父と母がいる前で。
リタがいる前で。
けれど、どうしても聞きたかった。
レオンハルト様は、しばらく黙った。
そして、静かに言う。
「君が、自分を守るのが下手だからだ」
「そこまで下手でしょうか」
「下手だ。見ていられないほどに」
胸が、ぎゅっとなる。
ひどい言い方。
なのに、優しい。
困る。
本当に困る。
「それに」
レオンハルト様は、少しだけ目を伏せた。
「君が悪役に戻されるのは、私が不快だ」
父がまた咳き込んだ。
母の扇がぴたりと止まった。
リタは、なぜか少し満足そうだった。
わたくしは、顔が熱くなるのを感じた。
「公爵様」
「何だ」
「言葉の選び方が、その」
「おかしいか」
「重いです」
「軽くする必要があるか?」
「時と場合によります」
「今は?」
「父と母の前です」
「それが何か」
「公爵様!」
この人、本当に。
本当に、こういうところが。
母が扇の陰から楽しそうに言った。
「ミリア」
「はい」
「これは、あとで詳しく聞きましょうね」
「お母様!」
父が胃薬を求める目で執事を探した。
リタが静かに言う。
「お嬢様。恋です」
「今言わないで!」
小書斎に、少しだけ笑いが生まれた。
不穏な話の最中なのに。
偽手紙も、黒幕候補も、夜会も、何一つ消えていないのに。
それでも、人は笑う。
怖い時ほど、笑えることに救われる。
わたくしはそう思った。
その後、レオンハルト様はさらに細かな指示を残して帰っていった。
偽手紙は彼が預かり、正式な鑑定へ回す。
ロゼリア家の使用人には、父と母が慎重に確認を進める。
明日の礼拝堂訓練には、リタと王宮側の者が付き添う。
わたくしは、目立つ位置で堂々とする。
堂々と。
壁志望には難しい課題である。
レオンハルト様が帰ったあと、わたくしは自室に戻り、手帳を開いた。
今日の記録を書く。
『レオンハルト様、仕事が早すぎる。
偽手紙の紙、香り、購入経路まで調査済み。
黒幕候補としてクラリーナ・ベリオール侯爵令嬢の名が浮上。
まだ断定はできない。
私はまた、自分が傷つけば丸く収まるかもしれないと考えた。
怒られた。
かなり怒られた。』
そこまで書いて、手を止める。
少し迷って、続きを書いた。
『君が傷つけば、君を大切に思う者も傷つく。
そこに私も含まれる。
レオンハルト様の言葉。
重い。
でも、覚えておく。』
インクが乾くまで、じっと見つめる。
消さない。
これは、たぶん消してはいけない言葉だ。
わたくしは、今まで自分が傷つくことを軽く見ていた。
でも、それで傷つく人がいる。
リタ。
セシリア様。
父。
母。
殿下。
ダリオ様。
そして、レオンハルト様も。
信じられないことだけれど。
そう言ってくれた。
「お嬢様」
リタが、そっと紅茶を置いた。
「今日は、砂糖を二つにいたしました」
「なぜ?」
「必要かと」
「……ありがとう」
わたくしは紅茶に口をつけた。
甘い。
少し甘すぎるくらい。
でも、今はそれがありがたかった。
「リタ」
「はい」
「明日、わたくしは堂々とできるかしら」
「できます」
「即答ね」
「お嬢様は、怖がりながらでも前に立てる方です」
「買いかぶりすぎよ」
「いいえ」
リタは、静かに言った。
「壁には向いておられませんが」
「そこは余計よ」
「証人には、向いておられるかと」
証人。
明日は、わたくしが見届ける。
セシリア様を傷つけさせないために。
自分が悪役にされないために。
誰かの脚本通りに物語を進めさせないために。
悪役令嬢でも、壁でもなく。
証人として。
わたくしは手帳を閉じた。
冷血公爵様、仕事が早すぎます。
でも。
その早さに、わたくしはまた一つ、救われてしまった。




