第21話 悪役令嬢に戻されそうです
王宮夜会の招待状が届いた翌朝。
屋敷の空気は、目に見えない薄い氷を張ったように張り詰めていた。
使用人たちは普段通りに動いている。
廊下は磨かれ、花瓶の花は取り替えられ、朝食の支度も滞りない。
父は新聞を広げているし、母は紅茶に口をつけている。
けれど、誰も本当の意味では普段通りではなかった。
父の新聞は、同じ面から一向に進んでいない。
母は紅茶に砂糖を入れたのに、かき混ぜていない。
リタはいつもより一歩近くに控えている。
そしてわたくしは、手帳を膝の上に置いたまま、朝食のパンを小さくちぎっていた。
食べてはいない。
ちぎっているだけ。
「ミリア」
父が新聞を畳んだ。
穏やかに見せようとしているが、顔色は良くない。
昨夜、偽手紙と王宮夜会の招待状を見た父は、しばらく黙ってから胃薬を頼んだ。
その時の母の「あなた、今飲むなら明後日は倍必要よ」という言葉が、妙に現実的で悲しかった。
「今日は外出を控えた方がいい」
「お父様」
「レオンハルト公が動いてくれているのは分かっている。だが、だからといって安心できる状況ではない。屋敷の中に妙な紙を入れられたんだぞ」
「分かっております」
「いや、分かっていない。お前は分かっている顔をしながら、危ない方へ歩く」
「……それは最近、各方面から言われております」
「なら直しなさい」
正論。
父の正論は、レオンハルト様やリタの正論とはまた違う。
胃の痛みを伴った家族の正論である。
わたくしは小さく頷いた。
「今日は、屋敷で大人しくしております」
「本当だな?」
「本当です」
「セシリア様が困っていると聞いても?」
痛いところを突いてくる。
わたくしは一瞬、言葉に詰まった。
父が眉を寄せる。
「ミリア」
「……困っている内容によります」
「その答えがすでに危ない」
父は額を押さえた。
母が小さく笑う。
笑いごとではないのだけれど、母はこういう時に笑う。
昨夜も言っていた。貴族の社交界なんて、真面目に受け止めたら胃がいくつあっても足りない、と。
父の胃は、すでに足りていない気がする。
「あなた」
母が父に声をかけた。
「ミリアを閉じ込めるような言い方をしても、余計に窓から出ようとするだけよ」
「ミリアは窓から出ない」
「昔、庭の猫を追いかけて出たわ」
「あれは八歳の時だ」
「人は本質的には変わらないものよ」
「お母様」
さらりとひどいことを言われた。
母は優雅に扇を開く。
「けれど、今のミリアは一人で勝手に動くほど愚かではないでしょう?」
その言い方は、信じているようで、少し釘も刺している。
母はやはり強い。
わたくしは背筋を伸ばした。
「はい。勝手には動きません」
「ならよろしいわ。動く時は、必ずリタを連れて行きなさい」
「もちろんです」
リタが静かに一礼した。
「命に代えましても」
「リタ」
父がぎょっとした顔をする。
「命までは代えなくていい」
「では、肘で」
「肘?」
「先日、公爵様にも確認を」
「レオンハルト公はうちの侍女に何を確認したんだ」
父の胃がまた痛みそうである。
わたくしは慌てて話を変えた。
「とにかく、今日は不用意には動きません。昨夜の偽手紙についても、公爵様が調べてくださると」
「そこなのよね」
母が扇の陰からこちらを見る。
「レオンハルト公が、なぜそこまでしてくださるのかしら」
朝食室の空気が、一瞬だけ止まった。
父が母を見る。
リタがわたくしを見る。
わたくしはパンを見る。
パンは何も答えてくれない。
「……王宮の安全に関わる件ですから」
「そうね」
「セシリア様は聖女候補ですし、王太子殿下の婚約者であるわたくしが巻き込まれておりますし」
「そうね」
「公爵様は王宮の情報や警備に関わるお立場ですので」
「そうね」
母がにこりと笑った。
「で、それだけ?」
「それだけです」
「リタ」
「お嬢様は、まだそうお考えのようです」
「リタ!」
父がますます青くなる。
「まだ、とは何だ」
「あなた、胃薬は食後よ」
「分かっている」
「分かっていない顔をしているわ」
母と父のやり取りに、少しだけ空気が緩んだ。
でも、その奥にはやはり不安がある。
偽手紙。
断罪イベントの招待状。
誰かが、わたくしを悪役令嬢に戻そうとしている。
その事実は消えない。
朝食が終わった頃、執事が静かに入ってきた。
「お嬢様。聖女候補セシリア・フローラ様がお見えです」
手にしていたナプキンを落としかけた。
「セシリア様が?」
「はい。どうしてもお嬢様にお会いしたいと」
父がすぐに顔を上げた。
「今は会わせない方がいい」
「ですが」
「噂がある。今、ミリアと聖女候補様が会えば、余計に」
「お父様」
わたくしは立ち上がった。
「お会いします」
「ミリア」
「セシリア様が、わざわざ来てくださったのです。追い返すことはできません」
「しかし」
「リタをつけます。応接室で。扉も開けておいて構いません」
父は渋い顔をした。
母は、じっとわたくしを見ていた。
「ミリア」
「はい」
「守りたいから会うのね?」
「……はい」
「自分が安心したいからではなく?」
答えに詰まった。
母は、時々レオンハルト様のようなことを言う。
逃げ道を、優雅に塞ぐ。
「両方です」
わたくしは正直に言った。
「セシリア様が心配です。でも、わたくしも……彼女に会いたいです」
セシリア様が、噂を聞いて何を思ったのか。
怖がっていないか。
傷ついていないか。
わたくしを疑っていないか。
考えたくない。
でも、考えてしまう。
母は少しだけ微笑んだ。
「なら、会いなさい」
「おい」
父が声を上げる。
母は穏やかに言った。
「ここで会わずに距離を置いたら、余計に噂になるわ。それに、ミリアが会いたいと言ったのよ。逃げずに」
逃げずに。
その言葉に、胸が少しだけ熱くなる。
父は深くため息をついた。
「……扉は開けておくこと。リタ、必ずそばに」
「かしこまりました」
「何かあれば、すぐに呼ぶんだぞ」
「はい、お父様」
わたくしは応接室へ向かった。
足が少し重い。
セシリア様に会いたい。
でも、怖い。
もし彼女の目に、ほんの少しでも疑いがあったら。
考えただけで、胸が苦しくなる。
応接室の扉の前で、リタが小声で言った。
「お嬢様」
「なに?」
「逃げなくて、偉いです」
驚いてリタを見た。
リタは真顔だった。
「……あなた、今日は優しいのね」
「昨日から状況が状況ですので」
「少し怖いわ」
「では、いつものように申し上げます」
「え?」
「お嬢様、顔が強張っております」
「それは優しさ?」
「実用です」
少し笑ってしまった。
そのおかげで、扉を開けられた。
応接室には、セシリア様が立っていた。
いつもの淡い水色のドレスではなく、今日は白に近い薄緑の外出着。
髪は少し乱れている。
急いで来たのだろう。
わたくしを見るなり、セシリア様は一歩踏み出した。
「ミリア様!」
「セシリア様」
次の瞬間、彼女はわたくしの手を両手で握った。
温かい。
驚くほど、手が温かかった。
「ご無事ですか?」
「え?」
「昨夜、変な噂を聞いて……それで、今朝、礼拝堂の侍女さんからも、ミリア様が私に嫌がらせをしたという証拠が出るかもしれないって……そんな、そんな話を聞いて、私」
セシリア様の声が震えている。
目には涙が滲んでいた。
わたくしは慌てる。
「落ち着いてくださいませ。わたくしは無事です」
「本当ですか?」
「はい」
「怖い目に遭っていませんか?」
「少しだけ。ですが、大丈夫です」
「少しだけでも大丈夫ではありません!」
思ったより強く言われた。
ヒロイン様、怒っている。
わたくしのために。
「セシリア様」
「私は、ミリア様がそんなことをするはずがないと思っています」
セシリア様は、涙をこぼしそうな目で、まっすぐわたくしを見た。
「ミリア様は、私を笑いませんでした。初めての舞踏会で震えていた私を、庇ってくださいました。作法を間違えても、優しく教えてくださいました。お茶にも呼んでくださいました」
「セシリア様」
「そんなミリア様が、私の祈祷書をすり替えるなんて、絶対にしません」
絶対。
その言葉が、胸に響く。
わたくしは、何も言えなかった。
昨夜、レオンハルト様も言ってくれた。
これは君の字ではない。
君は悪役ではない。
リタも言ってくれた。
お嬢様を悪役にはさせません。
そして今、セシリア様が。
疑うより先に、信じると言ってくれている。
わたくしは、少しだけ視界が滲んだ。
「……ありがとうございます」
「お礼を言うのは私です」
「なぜ」
「ミリア様が私を助けてくださったからです。だから今度は、私がミリア様の味方になります」
味方。
その言葉は、こんなにも温かいのか。
わたくしは、セシリア様の手を握り返した。
「セシリア様。わたくし、あなたに近づかない方がいいかもしれないと、少し思いました」
「嫌です」
即答だった。
強い。
「でも、わたくしと一緒にいると、あなたまで危険に」
「では、危険なところにミリア様を一人で行かせる方が嫌です」
「ヒロイン様が強い……」
「ひろいん?」
「こちらの話ですわ」
「また分からない言葉でごまかしましたね」
セシリア様にまで見抜かれている。
リタが後ろで、静かに咳払いをした。
絶対に「学習の成果です」と思っている。
セシリア様は、手を離さないまま言った。
「ミリア様。私は、王宮のことも、貴族のことも、まだ分からないことだらけです。正直、怖いです」
「ええ」
「でも、私が怖いと思った時、ミリア様は逃げずに私の前に立ってくださいました」
「それは」
「今度は、私が逃げません」
声は震えていた。
でも、言葉はまっすぐだった。
「私、夜会に出ます。礼拝堂の訓練も受けます。でも、変なことがあったら、ちゃんと言います。黙って泣いたりしません。ミリア様に言われた通り、笑う方が悪いのだと、ちゃんと覚えています」
ああ。
この子は、本当に強い。
前世で画面越しに見たヒロイン様も好きだった。
けれど、今目の前にいるセシリア様は、もっと好きだ。
守られるだけのヒロインではない。
怖くても、手を握り返してくる人だ。
「セシリア様」
「はい」
「ありがとうございます」
「またお礼を」
「何度でも言わせてくださいませ。今、とても救われています」
セシリア様の目から、とうとう涙が一粒こぼれた。
それを見て、わたくしも危なかった。
泣いてしまいそうになる。
しかし、公爵令嬢として耐える。
いや、少しだけなら泣いてもいいのかもしれない。
でも今泣くと、セシリア様がもっと泣く。
そう思って、何とか笑った。
リタが横から布を差し出す。
「セシリア様」
「あ、ありがとうございます」
セシリア様は、恥ずかしそうに涙を拭いた。
リタは淡々と言う。
「お嬢様は、怖い時ほど妙なことをおっしゃいます」
「リタ?」
「ですので、セシリア様も必要以上にご不安になられませんよう」
「妙なことを言えるうちは、大丈夫ということですか?」
「概ね」
「二人でわたくしをどう分類しているの?」
セシリア様が、涙を拭きながら少し笑った。
その笑顔に、部屋の空気が少しだけ明るくなる。
けれど、話はまだ終わっていない。
「セシリア様」
わたくしは声を落とした。
「昨夜見つかった紙のことですが、あなたに直接関わる内容です」
「はい」
「祈祷書をすり替え、神官長様の前で失敗させるというものでした」
セシリア様の顔が強張る。
無理もない。
わたくしは続けた。
「今後、訓練で使う祈祷書、筆記用具、衣装、控室の飲み物など、必ず信頼できる方と確認してください。少しでもおかしいと思ったら、すぐに言うこと。分かりましたか?」
「はい」
「一人で我慢しないこと」
「はい」
「わたくしに遠慮しないこと」
「……それはミリア様もです」
「え?」
セシリア様が、少し頬を膨らませた。
「ミリア様も、一人で我慢しないでください。私に心配をかけまいとして離れようとしたり、私を守るためにご自分だけ傷つこうとしたり、そういうのは駄目です」
「セシリア様」
「駄目です」
強い。
ヒロイン様が、完全に強くなっている。
リタが静かに頷いた。
「まったくその通りでございます」
「リタまで」
「お嬢様には、このくらい強く申し上げる必要がございます」
味方が増えている。
嬉しい。
でも、逃げ道が減っている。
複雑だ。
その時、応接室の外が少し騒がしくなった。
父の声。
執事の声。
そして、少し聞き覚えのある落ち着いた声。
リタが扉の方へ向かった。
「確認してまいります」
扉を開けると、廊下に父と執事、そして王宮騎士がいた。
王宮騎士は一礼する。
「ロゼリア令嬢。王太子殿下より書状をお預かりしております」
「殿下から?」
「はい。至急、お目通しを」
父がこちらを心配そうに見ている。
わたくしは封書を受け取った。
王太子殿下の封蝋。
開く手が、少しだけ震える。
中には、短いが丁寧な文が書かれていた。
『ミリア。
昨夜の件について、レオンハルト公より概要を聞いた。
君がセシリア嬢を害する意図を持っていたとは、私は思っていない。
ただ、夜会までの間、君の周囲が騒がしくなる可能性がある。
私も動く。ダリオにも警戒を頼んだ。
一人で抱え込まないこと。
君が逃げないと言うなら、私も逃げない。
ユリウス』
最後の一文で、胸が詰まった。
君が逃げないと言うなら、私も逃げない。
殿下。
どうして、こういう時に真っ直ぐな言葉を。
婚約解消作戦が失敗するわけである。
隣からセシリア様がそっと覗き込む。
「王太子殿下からですか?」
「はい」
「何と?」
「……信じる、と」
セシリア様の顔が、ぱっと明るくなった。
「よかったです」
その言葉に、わたくしはまた泣きそうになる。
続いて、廊下の騎士がもう一つ言った。
「また、グランツ騎士団長より、礼拝堂周辺の警備を増やすとの伝言です。ロゼリア令嬢には、不要な接触を避けるように、と」
ダリオ様。
推しが。
推しが警備を。
胸が熱くなる。
同時に、少し痛い。
わたくしは、彼らを遠くから見るだけの存在でいたかった。
でも今、彼らがわたくしのために動いている。
それは嬉しくて、怖くて、申し訳なくて。
けれど、ありがたい。
「承知しました。殿下とグランツ卿に、感謝をお伝えください」
「かしこまりました」
騎士が去ると、父が静かに部屋へ入ってきた。
「ミリア」
「お父様」
「……王太子殿下も、信じてくださっているのだな」
「はい」
父は、少しだけ肩の力を抜いた。
「なら、我が家も腹を括るしかない」
「お父様」
「ロゼリア公爵家は、お前を守る。お前が本当に間違ったなら叱るが、やっていないことで頭を下げさせるつもりはない」
父の声は震えていなかった。
朝はあれほど胃を痛めていたのに。
今は、公爵家当主の顔だった。
「ありがとうございます」
「礼はいい。あとで胃薬は持ってきてくれ」
「お父様」
「それはそれ、これはこれだ」
セシリア様が少し笑った。
父も、その笑いに気づいて少し照れたように咳払いをした。
人間味がある。
とても。
こういうところを見ると、父もただの公爵ではなく、家族なのだと思う。
その後、わたくしはセシリア様と改めて対策を話し合った。
礼拝堂訓練では、祈祷書を神官長の前で確認すること。
控室には信頼できる侍女を一人残すこと。
セシリア様が一人にならないこと。
わたくしも、不用意に近づきすぎず、しかし完全には離れないこと。
難しい距離だ。
近づけば疑われる。
離れすぎれば守れない。
壁になりたいどころか、今は壁の厚さまで調整しなければならない。
なんという面倒な建築物。
「ミリア様」
帰り際、セシリア様が振り返った。
「私、明日の訓練も、明後日の夜会も怖いです」
「ええ」
「でも、ミリア様がいるなら頑張れます」
「わたくしも、セシリア様が信じてくださるなら頑張れます」
「はい」
セシリア様は、少しだけ迷ったあと、わたくしに抱きついた。
軽く。
ほんの一瞬。
でも、確かな温度だった。
「絶対に、悪い人たちの思い通りにはなりません」
彼女はそう言った。
わたくしは、その背にそっと手を回す。
「ええ」
言葉は短かった。
でも、それで十分だった。
セシリア様が帰ったあと、わたくしは自室へ戻った。
手帳を開く。
新しいページに、今日のことを書く。
『セシリア様が来てくれた。
私を信じると言ってくれた。
殿下も、グランツ卿も、父上も、リタも、皆が動いてくれている。
私は一人ではない。』
そこまで書いて、手が止まる。
胸がいっぱいだった。
怖いことは変わらない。
誰かがわたくしを陥れようとしている。
断罪イベントは近づいている。
黒幕はまだ分からない。
けれど。
悪役令嬢に戻されそうになっているわたくしの周りには、もう味方がいる。
気づけば、たくさん。
「お嬢様」
リタが静かに言った。
「続きを書かれないのですか」
「書くわ」
わたくしは、もう一行だけ書き足した。
『だから、逃げない。今度は、私も私を信じる。』
書いてから、少しだけ恥ずかしくなった。
でも消さなかった。
リタが横から覗き込む。
「良いと思います」
「珍しく褒めるのね」
「はい」
「明日は槍でも降るかしら」
「その場合も、私が傘をお持ちします」
「リタ」
「はい」
「本当に、あなたは強いわね」
「お嬢様ほどではございません」
そんなことはない。
そう言おうとして、やめた。
今日くらいは、少しだけ受け取ってもいいのかもしれない。
強いと言われる自分を。
信じると言われる自分を。
悪役ではないと言われる自分を。
窓の外では、夕方の光が庭を金色に染めていた。
夜会まで、あと二日。
断罪イベントは近づいている。
けれど今度は、ただ震えて待つだけではない。
わたくしは手帳を閉じ、胸の上に置いた。
悪役令嬢に戻されそうです。
でも。
今のわたくしは、もう一人ではありません。




