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推しカプを見守るため悪役令嬢に転生しましたが、なぜか冷血公爵の本命になりました 〜私は壁になりたいのに、攻略対象たちが全員こちらを見てくる〜  作者: 鳳凰院暁月刃夜


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第16話 婚約破棄作戦、完全に失敗する

 婚約破棄。


 その言葉は、悪役令嬢にとって避けたい未来であり、同時に、今のわたくしにとっては目指すべき出口でもあった。


 原作のミリア・ロゼリアは、ヒロインであるセシリア様をいじめ、王太子ユリウス殿下に執着し、最後は大勢の前で断罪される。


 婚約破棄。


 修道院送り。


 社交界からの退場。


 悪役令嬢としては、お手本のような破滅である。


 だが、今のわたくしはセシリア様をいじめていない。

 むしろ、ヒロイン様から「お姉様」と呼ばれ、恋愛相談めいたことまでされている。


 殿下に執着しているかと問われれば、それも違う。

 むしろ、できれば穏便に距離を置きたい。


 そして、王太子殿下と騎士団長ダリオ様の尊い信頼関係を守りたい。


 つまり。


 婚約破棄は、破滅ではなく安全策。


 ……のはずだった。


「お嬢様」


 王宮へ向かう馬車の中で、リタが向かい側からじっとこちらを見ていた。


「先ほどから、手帳を握りしめすぎでございます」


「これは作戦帳よ」


「レオンハルト様からいただいた手帳ですね」


「作戦帳よ」


「表紙を撫でておられました」


「革の質を確認していたの」


「朝から六度目です」


「リタ、数えないで」


「侍女でございますので」


 リタの声は相変わらず平坦だ。


 けれど、わずかに面白がっているのが分かる。


 わたくしは手帳から手を離した。


 昨日、セシリア様とリタに散々からかわれた手帳である。


 レオンハルト様から贈られた、小さな革表紙の手帳。


 思考が散らかるなら、書け。


 そう書かれていた。


 腹立たしいほど実用的で、腹立たしいほど役に立つ。


 昨夜、わたくしはその手帳に今日の作戦を書いた。


 一、ユリウス殿下へ婚約見直しを申し出る。

 二、理由は丁寧に。殿下を責めない。セシリア様の名を不用意に出さない。

 三、殿下にはもっと自由に、殿下らしくいていただきたいと伝える。

 四、ダリオ様を大切にしてください、と言いたいが言いすぎない。

 五、レオンハルト様の話題を出さない。絶対に出さない。

 六、笑顔で逃げない。

 七、壁になりたいとは言わない。


 最後の七つ目は、リタが横から無言で指差してきたので書き足した。


 必要な注意である。


「本当に、今日お話しになるのですね」


 リタが少しだけ声を落とした。


「ええ」


「婚約の見直しを」


「ええ」


「殿下は、おそらく簡単には頷かれません」


「分かっているわ」


 本当に分かっている。


 ユリウス殿下は、以前の原作通りの王太子ではなくなっている。


 少なくとも、わたくしが知る“ゲームの中のユリウス”とは違う。


 今の彼は、わたくしの変化に気づき、言葉を聞こうとしてくれる。


 逃げるな、と言った。


 私の前では整えていたのか、と傷ついた顔をした。


 君ほど私を遠ざけようとする婚約者はいない、と困ったように笑った。


 そういう一つ一つが、わたくしの計画を難しくしている。


「リタ」


「はい」


「わたくし、ひどいことをするのかしら」


 リタは、すぐには答えなかった。


 馬車の車輪が、石畳を静かに叩く。


 窓の外には、王宮へ続く並木道が見えた。


「ひどいかどうかは、私には分かりません」


 やがてリタは言った。


「ですが、お嬢様が何も考えずに殿下から逃げようとしているのであれば、私は止めました」


「……今は?」


「考えすぎて、変な方向へ走るのではないかと心配しております」


「結局心配なのね」


「はい」


 リタは真顔で頷いた。


「お嬢様は、誰かのためとおっしゃりながら、ご自分を雑に扱う癖がございます」


「それ、最近いろいろな方に言われるわ」


「皆様が正しいということです」


「また事実で刺す」


「事実禁止令は、レオンハルト様に却下されたのでしょう?」


「なぜ知っているの」


「お嬢様が昨日、独り言で三度ほど」


「……」


 そんなに言っていたのか。


 わたくしは口元を押さえた。


 本当に、自分でも思っている以上にレオンハルト様の言葉を引きずっている。


 いけない。


 今日は殿下と婚約の話をするのだ。

 レオンハルト様のことを考えている場合ではない。


 わたくしは手帳を閉じ、膝の上に置いた。


「今日の主役は、殿下とのお話よ」


「お嬢様の人生の主役は、お嬢様でございます」


「リタ」


「はい」


「たまに急に優しいことを言うのは反則よ」


「レオンハルト様ほどではないかと」


「そこを比較しないで」


 リタは何も言わず、少しだけ目を伏せた。


 たぶん、笑いを堪えている。


 まったく。


 うちの侍女は、最近わたくしで遊んでいる気がする。


 王宮に着くと、案内されたのは小さな応接室だった。


 王太子殿下の私的な会話に使われる部屋らしい。

 大広間ほど格式張っておらず、かといって砕けすぎてもいない。

 窓からは庭園が見え、壁には淡い色のタペストリーがかかっている。


 テーブルには紅茶。

 小さな菓子皿。

 花瓶には白い花。


 待ち合わせの時間より少し早く着いたので、殿下はまだいない。


 リタは部屋の隅へ控えた。


「お嬢様」


「なに?」


「手帳を開かなくてよろしいのですか?」


「開くと余計に緊張しそうだから」


「では、深呼吸を」


「しているわ」


「今、息を止めておられました」


「……リタ、今日は本当に観察が細かいわね」


「重要な日ですので」


 重要な日。


 そうだ。


 これは、ただの作戦ではない。


 婚約の見直し。


 殿下の人生にも、わたくしの人生にも、ロゼリア公爵家にも関わる話。


 悪役令嬢ルートを回避するための一手だとしても、軽く扱っていいものではない。


 ダリオ様の言葉がよみがえる。


 ――殿下を雑に扱うな。


 雑にしない。


 逃げるだけではなく、ちゃんと話す。


 そう決めた。


 扉が静かに開いた。


「待たせたね、ミリア」


 ユリウス殿下が入ってきた。


 金色の髪。

 柔らかな笑顔。

 白と青を基調にした上品な衣装。


 王太子としての華やかさはあるのに、今日はどこか少し緊張しているように見えた。


 わたくしだけが緊張しているわけではないのかもしれない。


「いいえ、殿下。こちらこそ、お時間をいただきありがとうございます」


 わたくしは立ち上がり、礼をする。


 殿下は穏やかに手を上げた。


「座って。今日は、形式張らなくていい」


「ですが」


「形式張らない話をしたいんだ」


 その言葉に、少しだけ胸が詰まった。


 殿下は向かいに座る。


 近すぎず、遠すぎない距離。


 リタは部屋の隅に控えたまま、余計な口を挟まない。


 静かだった。


「それで」


 殿下は、わたくしを見た。


「ミリアから話があると聞いた。婚約のことかな」


 早い。


 逃げ道がない。


 わたくしは、一度だけ深く息を吸った。


「はい」


 自分の声が、思ったより落ち着いていた。


「殿下。わたくしは、殿下との婚約について、見直すべきだと考えております」


 言った。


 言ってしまった。


 部屋の空気が、少しだけ重くなる。


 ユリウス殿下は、驚かなかった。


 予想していたのだろう。


 ただ、ほんの少しだけ目を伏せた。


「見直す、というのは」


「婚約解消も含めて、です」


 リタが部屋の隅で、わずかに息を止めた気配がした。


 殿下は、しばらく黙っていた。


 わたくしはその沈黙の中で、逃げ出したくなった。


 壁になりたい。

 外側にいたい。

 こういう会話の当事者になりたくない。


 でも、逃げない。


 少なくとも今は。


「理由を聞いてもいいかな」


 殿下の声は、静かだった。


 怒っていない。

 だが、無傷でもない。


 そのことが分かるから、胸が痛い。


「殿下を嫌っているわけではございません」


「うん」


「殿下に失望したわけでもございません」


「それも、分かっているつもりだ」


「わたくしは、殿下を尊敬しております。王太子としても、一人の方としても」


 殿下が少しだけ目を上げる。


 わたくしは、言葉を選びながら続けた。


「だからこそ、軽い気持ちで殿下の隣に立つべきではないと思いました」


「軽い気持ち?」


「はい。以前のわたくしは、殿下の隣に立つことばかりを考えておりました。王太子妃になる自分、殿下に選ばれる自分、皆から認められる自分」


 言葉にすると、前のミリアの痛みが少し混ざる。


 彼女はただ傲慢だったわけではない。


 きっと、不安だった。

 選ばれたかった。

 殿下の隣に立つことで、自分の価値を確かめたかった。


 その気持ちを、今のわたくしは完全には否定できない。


「けれど、それは殿下を見ていたようで、殿下を見ていなかったのかもしれません」


 殿下は黙って聞いている。


「殿下が何に疲れ、何に迷い、どんな時に息をつけるのか。わたくしは、それを知らないまま、隣に立とうとしていました」


「……」


「今のわたくしには、王太子妃として殿下の隣に立つ覚悟が足りません」


「だから、退きたい?」


「はい」


 言って、胸が痛くなる。


 退く。


 その言葉は綺麗だけれど、実際には殿下を置いていくことにもなる。


 わたくしは、手を膝の上で握りしめた。


「殿下には、もっと殿下らしくいられる場所が必要です。王太子としての殿下だけでなく、ユリウス様ご自身を見てくださる方が必要です」


「たとえば、ダリオ?」


 来た。


 わたくしは一瞬、言葉に詰まった。


 殿下の声は穏やかだったが、少しだけ複雑な響きが混じっていた。


「グランツ卿は、その一人だと思っております」


「一人」


「はい。もちろん、殿下には多くの方が必要です。信頼できる臣下、友人、民の声を届ける者。そして……殿下ご自身が望む未来を共に考えられる方」


「君は、その中に自分を入れないの?」


 胸が刺された。


 殿下は優しく問う。


 だからこそ、痛い。


「……今のわたくしには、まだ入れられません」


「まだ?」


 殿下の目が少し動いた。


 しまった。


 また「まだ」と言った。


 最近、この言葉で墓穴を掘りすぎている。


「今後どうなるかは、正直分かりません。ですが、少なくとも今のわたくしは、殿下の隣に立つ自分を信用できません」


「自分を信用できない」


「はい」


「君は、自分にずいぶん厳しいね」


「そうでしょうか」


「そうだよ。昔の君は、自分が私の隣に立つのが当然だと思っているように見えた。今の君は、立っていいかどうかを疑っている」


「その方が、誠実かと思いまして」


「誠実」


 殿下は小さく繰り返した。


 それから、困ったように笑う。


「ミリア。君は本当に変わった」


「はい」


「以前なら、私に婚約を解消してほしいなんて言わなかった」


「そうでしょうね」


「私が他の誰かを見ることも、許さなかったと思う」


「……はい」


「でも今の君は、私に自由でいてほしいと言う」


 殿下の声が、少しだけ柔らかくなった。


「君は、私から逃げようとしているのに、同時に私の幸せを考えている」


「それは」


「矛盾しているね」


「はい」


「でも、嘘には聞こえない」


 その言葉に、わたくしは何も返せなかった。


 嘘ではない。


 逃げたい。

 でも、殿下を傷つけたいわけではない。

 殿下には幸せでいてほしい。


 矛盾している。


 人の気持ちは、なぜこんなに面倒なのだろう。


 殿下は、静かに紅茶へ手を伸ばした。


 けれど飲まずに、カップを見つめる。


「私はね、ミリア」


「はい」


「王太子として、いつか結婚しなければならない。私の婚約は、私だけのものではない。王家、貴族、国の安定。いろいろなものが絡む」


「存じております」


「だから、私は昔から、自分の隣に立つ人も、その役目を受け入れてくれる人でなければならないと思っていた」


 殿下は、ゆっくり顔を上げた。


「君は、その役目を欲しがっていた」


「……はい」


「正直、安心していたんだと思う。君は私の隣に立つことを望んでいる。なら、私が迷わなくても、君はそこにいてくれると」


 その言葉に、胸が痛くなる。


 殿下もまた、安心していたのだ。


 わたくしが――前のミリアが望んでいたことに。


 それは愛だったのか、依存だったのか、政治的な安心だったのか、まだ分からない。


 でも、殿下にも殿下の事情があった。


 悪役令嬢ミリアだけが一方的に執着していたわけではない。

 殿下も、その執着にある意味で寄りかかっていた。


 人間は面倒だ。


 誰も、完全な加害者でも被害者でもない。


「でも、今の君は違う」


 殿下は続けた。


「私の隣に立つことが、本当に私のためになるのかを考えている。私を自由にしようとしている」


「自由に、というほど立派なものでは」


「いいや」


 殿下は首を振った。


「君ほど、私を自由にしようとしてくれる人はいない」


 ……。


 違う。


 違う。


 これは、そういう流れではない。


 わたくしは婚約見直しを申し出ている。

 殿下から離れようとしている。

 好感度を上げに来たのではない。


 なのに、殿下の目がとても優しい。


 作戦失敗の音がした。


「殿下」


「うん」


「今のお言葉は、大変ありがたいのですが」


「うん」


「わたくしは、婚約の見直しを」


「分かっている」


「本当に?」


「分かっている。君は私との婚約を解消したい」


「はい」


「でも、私は今の君をもっと知りたい」


 終わった。


 完全に終わった。


 どうしてそうなる。


 なぜ婚約解消を申し出て、相手の興味が上がるのか。


 わたくしは内心で机に突っ伏した。


 もちろん、表面上は何とか微笑んでいる。


「殿下。わたくしは、殿下にふさわしい方が他にいらっしゃると思っております」


「たとえば、セシリア嬢?」


 直球で来た。


「セシリア様は、とても素晴らしい方です」


「うん。素直で、頑張り屋で、優しい人だね」


「はい。殿下とお話しされれば、きっと」


「でも、彼女は今、君に一番懐いている」


「……それは」


「私と話す時も、君のことをよく聞くよ」


 なぜ。


 ヒロイン様。


 なぜそこでわたくしを挟むのですか。


「セシリア嬢は、君をとても信頼している。私も、君が彼女を大切にしているのを見て、君を前より知りたくなった」


「それは、本来ならセシリア様への関心に」


「ミリア」


「はい」


「君は時々、私の気持ちの行き先まで指定しようとするね」


 刺さった。


 わたくしは、言葉を失う。


 殿下は怒っていない。


 けれど、少しだけ寂しそうだった。


「私がセシリア嬢をどう思うか、ダリオをどれほど大切にするか、君との婚約をどう考えるか。それは私が決めることだ」


「……はい」


「君が私の幸せを考えてくれるのは嬉しい。でも、私の気持ちまで君の望む場所へ置かなくていい」


 その通りだった。


 胸が痛い。


 わたくしは、殿下とダリオ様を尊いと思っている。

 セシリア様には幸せになってほしい。

 それは本当だ。


 でも、知らないうちに、彼らを自分の望む形に押し込めようとしていたのかもしれない。


 自分は壁だと言いながら、実は壁紙の柄まで指定していた。


 最悪である。


「申し訳ございません」


 わたくしは、深く頭を下げた。


「殿下のお気持ちを、わたくしの都合で考えすぎておりました」


「責めているわけじゃないよ」


「それでも、失礼でした」


「うん。少しだけ」


「少しだけ、ですか」


「今日はかなり、でもいいかな」


「少しだけでお願いいたします」


 殿下が笑った。


 その笑い方が、少しだけ昔より自然に見えた。


 わたくしは胸が苦しくなる。


 距離を置きたいのに、こうして話すほど殿下が近くなる。

 王太子殿下ではなく、ユリウスという人が見えてくる。


 それは、推し活においても非常に困る。


 人間として見えてしまうと、概念として遠くから拝めなくなる。


「ミリア」


「はい」


「婚約解消について、今すぐ答えを出すことはできない」


「……はい」


「王家とロゼリア公爵家の問題でもあるし、父上や君のご両親にも関わる。何より、私自身がまだ納得できていない」


「承知しております」


「でも、君が真剣に考えていることは分かった」


 殿下は、ゆっくりと言った。


「だから、私にも時間をくれないか」


「時間?」


「一ヶ月」


「一ヶ月」


「その間、私も考える。君との婚約をどうするべきか。君の隣に立つことが私にとって何なのか。そして、君が本当はどこへ行きたいのか」


「わたくしが」


「そう」


 殿下の目は、まっすぐだった。


「君は私の幸せを考えようとしてくれた。なら、次は君自身の幸せも考えてほしい」


 また。


 また、その話。


 自分の幸せ。


 レオンハルト様にも、セシリア様にも、リタにも言われた。


 今度はユリウス殿下にまで。


 わたくしは、そんなに自分を後回しにしているように見えるのだろうか。


「殿下。わたくしの幸せは」


「壁になること?」


 言われた。


 殿下にまで。


「……どこまでご存じで?」


「昨日、レオンハルト公が少しだけ」


「公爵様」


 何を話しているのですか。


 いや、壁願望は昨日の舞踏会でかなり漏れている。

 今さら隠す方が無理かもしれない。


 殿下は楽しそうに言った。


「君は壁になりたいらしいね」


「比喩ですわ」


「うん。そうだろうとは思う。でも、君を見ていると、たしかに誰かのそばにいるのに、自分は外側に立とうとしているように見える」


「……」


「それが君の癖なのか、君の優しさなのか、君の逃げなのか、私にはまだ分からない」


 殿下は少し身を乗り出した。


「だから、一ヶ月後に聞かせてほしい。王太子妃になりたいかどうかだけではなく、君がどこへ行きたいのかを」


 どこへ行きたいのか。


 わたくしは、何も答えられなかった。


 婚約解消を申し出に来たはずなのに。


 逆に宿題を出された。


 しかも、かなり重い宿題である。


「殿下」


「うん」


「わたくしは、婚約解消をお願いしに来たはずなのですが」


「うん」


「なぜ、猶予期間と課題をいただいているのでしょう」


「私もそう簡単に婚約者を手放すほど、聞き分けはよくないんだ」


 爽やかな笑顔で、何ということを言うのか。


 その台詞は、少し危険では?


 わたくしは扇を持っていないことを後悔した。


 応接室なので、今日は扇を手元に置いていない。

 顔を隠せない。


「殿下」


「何かな」


「そのようなお言葉は、セシリア様のような方へ」


「また行き先を指定している」


「……申し訳ございません」


「反省が早いね」


「学習しました」


「偉い」


「褒められている気がしません」


「褒めているよ」


 殿下は笑っている。


 完全に、少し楽しんでいる。


 以前の完璧な王子様の笑みとは違う。

 少し意地悪で、少し素に近い。


 これも、わたくしの知らなかった顔だ。


 見てしまった。


 また一つ、殿下を人間として見てしまった。


 壁への道が遠ざかる音がする。


「ミリア」


 殿下は、ふいに真面目な声に戻った。


「一ヶ月の間、無理に私の隣へ戻れとは言わない」


「はい」


「ただ、私から逃げるためだけに誰かの後ろへ隠れるのはやめてほしい」


「……誰か、とは」


「ダリオでも、セシリア嬢でも、レオンハルト公でも」


 最後の名前で、少しだけ心臓が跳ねた。


 跳ねるな。


 今は殿下との会話中。


 リタが部屋の隅でこちらを見た気がした。


 見ないで。


「公爵様は関係ございません」


「本当に?」


「本当に」


「では、なぜ名前を出しただけで少し固まったのかな」


「殿下、最近少し意地悪ではありませんか」


「君が分かりやすいから」


「皆様そればかり!」


 思わず声が出た。


 殿下が楽しそうに笑う。


 リタが部屋の隅で、ほんの少し肩を震わせている。

 笑っている。


 完全に笑っている。


 あとで問い詰める。


「とにかく」


 殿下は、優しく締めるように言った。


「一ヶ月後、また話そう。君がどこへ行きたいのか。私が君との婚約をどうしたいのか。その時に、きちんと」


「はい」


「それまでは、婚約解消は保留」


 保留。


 つまり。


 婚約破棄作戦、失敗。


 完全に失敗。


 わたくしは内心で静かに倒れた。


 いや、倒れている場合ではない。


 殿下はまだこちらを見ている。


「ミリア」


「はい」


「今日、話してくれてありがとう」


「わたくしこそ、お聞きくださりありがとうございます」


「傷ついたよ」


 胸が痛んだ。


 殿下は、少しだけ笑って続けた。


「でも、言ってくれてよかった」


「……殿下」


「何も言われずに離れられる方が、たぶんずっと傷ついた」


 その言葉に、わたくしは目を伏せた。


 言ってよかった。


 そう思ってもらえたのなら、少しは。


 少しは、雑に扱わずに済んだのかもしれない。


「一ヶ月後までに、わたくしも考えます」


「うん」


「殿下のことも、自分のことも」


「それから、レオンハルト公のことも?」


「殿下!」


 殿下はまた笑った。


 この王太子殿下、意外としつこい。


 絶対にダリオ様の影響だ。

 いや、違うかもしれない。

 元からこういう一面があったのかもしれない。


 わたくしが知らなかっただけで。


 応接室を出る時、殿下は部屋の扉まで見送ってくれた。


「ミリア」


「はい」


「一ヶ月、逃げ切れると思わないでね」


 爽やかに言われた。


 王子様の笑顔で。


 わたくしは、何とか笑みを返した。


「善処いたします」


「また逃げる人の返事だ」


「努力いたします」


「少しだけ信じるよ」


 そのやり取りに、少しだけ胸が軽くなった。


 扉が閉まり、廊下へ出る。


 リタが隣に並んだ。


「お嬢様」


「何も言わないで」


「まだ何も」


「失敗したわ」


「はい」


「即答」


「婚約解消という意味では、失敗でございます」


「やっぱり」


「ですが」


 リタは少しだけ声を柔らかくした。


「殿下を雑には扱わなかったと思います」


 その一言に、少しだけ救われた。


「……そうかしら」


「はい」


「なら、今日の失敗は少しだけましかもしれないわね」


「ただし、殿下の好感度は上がったかと」


「そこが問題なの!」


 廊下に声が響きそうになり、慌てて口を押さえる。


 リタは無表情で続けた。


「お嬢様が誠実に話すほど、皆様の好感度が上がっているように見受けられます」


「なぜ」


「お嬢様が誠実だからでは」


「それは困るわ」


「誠実で困る方を初めて見ました」


「わたくしは壁になりたいのよ」


「本日の結果、壁からはまた遠ざかりましたね」


「言わないで」


「事実でございます」


「事実禁止令を出したい」


「却下されるかと」


 レオンハルト様の声で再生された。


 わたくしは頭を抱えそうになった。


 婚約破棄作戦は失敗。

 一ヶ月の猶予。

 殿下はわたくしを手放す気がない。

 そして、自分の幸せを考えろという課題まで出された。


 これは、まずい。


 非常にまずい。


 わたくしは、悪役令嬢として断罪回避を目指していたはずなのに。


 いつの間にか、王太子殿下に誠実さを評価され、ヒロイン様に応援され、騎士団長様に心配され、冷血公爵様から手帳を贈られている。


 ルートが渋滞している。


 誰か交通整理をしてほしい。


「リタ」


「はい」


「帰ったら、手帳に書くわ」


「何をでしょう」


「婚約破棄作戦、完全に失敗、と」


「その下に、殿下の好感度上昇も書いておきましょう」


「やめて」


「事実でございます」


「今日はもう事実を禁止します」


「却下です」


「リタまで!」


 リタは、少しだけ笑った。


 わたくしは深くため息をつきながら、王宮の廊下を歩く。


 一ヶ月。


 その間に、わたくしは答えを出さなければならない。


 殿下との婚約。

 自分の立ち位置。

 壁になりたい願い。

 そして、まだ認めたくない心の揺れ。


 面倒くさい。


 人間関係は、本当に面倒くさい。


 でも。


 雑に扱わなかったと言われて、少しだけ安心した自分がいた。


 婚約破棄作戦は失敗した。


 けれど、完全な失敗ではなかったのかもしれない。


 ……いや。


 目的達成という意味では、完全に失敗である。


 わたくしは心の中で、手帳の一行目を決めた。


『婚約破棄作戦、失敗。理由、誠実に話しすぎたため。』


 そんな作戦失敗報告を、冷血公爵様からもらった手帳に書くことになるとは。


 人生は、本当に予定通りにいかない。


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