第15話 ヒロイン様、そういう攻略はやめてください
ヒロイン様が、悪役令嬢の恋を応援し始めた。
この一文だけで、前世のわたくしなら椅子から転げ落ちていたと思う。
ありえない。
普通なら、悪役令嬢はヒロインの恋路を邪魔する。
ヒロインは傷つきながらも立ち上がり、攻略対象たちに支えられ、最後には悪役令嬢を退ける。
それが王道である。
なのに今、目の前のヒロイン様ことセシリア・フローラ様は、両手を胸の前で組み、きらきらした瞳でわたくしを見つめている。
「お姉様、レオンハルト様からいただいた手帳、使ってみましたか?」
話題の中心は、昨日レオンハルト様から届けられた小さな革表紙の手帳だった。
場所は、ロゼリア公爵邸の小さな客間である。
今日はセシリア様が、王宮での用事の合間にわざわざ我が家を訪ねてくださった。
名目は、王宮作法について分からないことを相談したい、というもの。
実際は。
「お姉様とレオンハルト様のお話も聞きたいです」
とのことだった。
ヒロイン様。
そういう攻略はやめてください。
あなたは本来、王太子殿下や騎士団長様とイベントを起こす側です。
悪役令嬢の恋愛相談に乗る側ではありません。
しかも、悪役令嬢本人はまだ恋だと認めていない。
ここ重要。
「セシリア様」
わたくしは、慎重に紅茶のカップを置いた。
昨日のように砂糖を入れ忘れる失態は犯していない。
今日は角砂糖もきちんと一つ入れた。皿にバターも塗っていない。
人は成長する。
「まず前提から確認させてくださいませ」
「前提?」
「わたくしとレオンハルト様の間には、あなたが期待なさっているような関係はございません」
セシリア様は、ぱちぱちと瞬きをした。
そして、小首を傾げる。
「期待しているような関係、とは?」
「それは……」
言葉に詰まる。
恋愛関係、と自分で言うのは癪だ。
というより、言った瞬間に負ける気がする。
何に負けるのかは分からない。
たぶんリタに。
背後に控えているリタは、案の定、無表情でこちらを見ている。
あの顔は言っている。
早く認めればよろしいのに、と。
認めません。
「とにかく、公爵様とはそういうものではございません。昨日の手帳も、わたくしの思考が散らかっていると判断された上での実用品です」
「お姉様のことを考えて選んでくださったのですよね」
「実用品です」
「お姉様が悩んでいることに気づいて、役に立つものを贈ってくださったのですよね」
「実用品です」
「とてもお優しいです」
「実用品です」
「お姉様」
「はい」
「同じ言葉を繰り返している時のお姉様は、だいたい動揺しているとリタ様が」
「リタ!」
振り返る。
リタは少しも悪びれない。
「事実でございます」
「なぜセシリア様に余計なことを教えるの」
「お嬢様は説明を煙に巻くことが多いので、セシリア様が混乱されないように」
「煙に巻いているのではなく、表現を調整しているのよ」
「煙の種類を変えているだけかと」
「今日は味方をしてと言ったはずよ」
「内容によります」
出た。
またそれ。
わたくしの周囲には、内容による人間が多すぎる。
セシリア様は、くすくす笑っている。
昨日まで王宮で緊張していた少女が、こうして我が家の客間で少し肩の力を抜いて笑っている。
それ自体は、とても嬉しい。
嬉しいのだが。
話題がレオンハルト様なのは困る。
「お姉様」
セシリア様は、真面目な顔になった。
「私は、お姉様をからかいたいわけではないんです」
「……ええ」
「ただ、お姉様が誰かに大切にされているところを見ると、嬉しくなるんです」
その言葉は、柔らかかった。
わたくしは、少し黙った。
セシリア様は、膝の上で手を重ねる。
「王宮に来てから、私はずっと不安でした。平民出身なのに、聖女候補と言われて、周りの方々は丁寧に接してくださるのに、どこか遠くて。失敗したら笑われるんじゃないか、また何か間違えるんじゃないかって、いつも考えていました」
「セシリア様……」
「でも、お姉様が助けてくださいました。私が困っていたら、前に立ってくださって。お茶にも誘ってくださって。私の分からないことを、笑わずに教えてくださって」
セシリア様の声が、少し揺れる。
「だから、今度は私も、お姉様が困っている時に何かしたいんです」
胸の奥が、じわりと温かくなる。
ヒロイン様は、本当にヒロイン様だ。
人の善意を、ちゃんと受け取って、ちゃんと返そうとする。
前世で画面越しに見た時も、セシリア様のそういうところが好きだった。
だけど、今は画面越しではない。
彼女は目の前にいる。
わたくしの手を握れる距離にいて、まっすぐにこちらを見ている。
「……ありがとうございます、セシリア様」
わたくしは、そう言うのがやっとだった。
セシリア様は、少し照れたように笑う。
「それに」
「それに?」
「レオンハルト様といる時のお姉様は、少しだけ普通の女の子みたいです」
言葉が刺さった。
普通の女の子。
それは、思ってもみなかった表現だった。
「わたくしが?」
「はい」
「普段は普通ではないと?」
「あ、いえ、そういう意味ではなくて」
セシリア様が慌てる。
リタが背後でぽつりと言った。
「普段はかなり普通ではございません」
「リタ」
「補足でございます」
「不要な補足よ」
セシリア様は困ったように笑った。
「ええと、私が言いたかったのは……お姉様は、いつも誰かのことを考えていらっしゃるように見えるんです。王太子殿下のこと、ダリオ様のこと、私のこと。皆が傷つかないように、どうすればよいか考えてくださって」
「それは」
「でも、レオンハルト様のお話をしている時は、お姉様ご自身が困っているように見えます」
「困ってはいます」
「はい。でも、少し嬉しそうにも見えるんです」
まただ。
セシリア様は、本当に容赦なく優しい。
「それが、普通の女の子みたいで」
「普通の女の子……」
わたくしは、その言葉を小さく繰り返した。
前世のわたくしは、普通の女の子という言葉から、ずいぶん遠い場所にいた気がする。
仕事に追われ、休日はイベントや本に浸り、恋愛より推しの幸せを優先して、誰かに自分の話をするより、画面の向こうの関係性を眺めていた。
それが悪いとは思わない。
前世のわたくしは、それで救われていた。
でも、自分自身が誰かに見られることには慣れていなかった。
誰かを好きになることより、誰かと誰かが好き合っているのを見守る方が楽だった。
なのに。
レオンハルト様のことになると、わたくし自身が揺れる。
困る。
怖い。
なのに少し嬉しい。
それを、セシリア様は「普通の女の子みたい」と言った。
どう受け取ればいいのか分からなかった。
「セシリア様」
「はい」
「わたくしは、レオンハルト様を好きなわけでは」
「まだ、ですか?」
「その『まだ』を拾わないでくださいませ」
「でも、昨日お姉様が」
「昨日のわたくしは混乱していました」
「今日も少し混乱していらっしゃいます」
「否定できませんわ」
セシリア様が笑う。
リタも、ほんの少しだけ口元を緩めた。
まったく。
完全に二対一である。
悪役令嬢が、ヒロインと侍女に恋愛包囲網を敷かれている。
どういう状況なのだろう。
そんなルートは存在しない。
存在しないはずなのに、現実は着々とその道を舗装している。
「とにかく」
わたくしは話題を変えるべく、少し身を乗り出した。
「わたくしのことより、セシリア様ご自身のことです」
「私ですか?」
「ええ。王宮にも少し慣れてこられたでしょう? 殿下やグランツ卿ともお話しされましたし、今後はもっと交流を深めていくべきですわ」
よし。
自然な軌道修正。
ヒロイン様を本来のルートへ戻す。
わたくしは懸命に微笑んだ。
「ユリウス殿下は、とてもお優しい方です。セシリア様の努力をきっと見てくださいますわ」
「はい。王太子殿下は本当にお優しいです」
「でしょう?」
「でも、殿下はお姉様のことをよく見ていらっしゃいます」
「……」
戻ってきた。
話題が、わたくしへ戻ってきた。
なぜ。
道を整えたはずなのに、なぜ途中でUターンする。
「それに、ダリオ様も」
「グランツ卿も?」
「はい。昨日、廊下で少しお話しした時、お姉様は無理をしていないか、と聞かれました」
「グランツ卿が?」
「はい。とても真面目なお顔で」
推しが、わたくしの心配を。
いや、違う。
これは殿下に関わることだから、騎士団長として確認しただけ。
そうに決まっている。
それでも、胸が少し温かくなる。
困る。
あちらもこちらも、わたくしの方へ関心が戻ってくる。
「セシリア様」
「はい」
「その、殿下やグランツ卿とは、お二人のことを中心にお話ししていただけると」
「お二人のこと?」
「ええ。たとえば、殿下が昔どのようなお子様だったのかとか、グランツ卿がどのように殿下を支えてこられたのかとか」
「お姉様は、本当に王太子殿下とダリオ様のお話がお好きなのですね」
「もちろんですわ」
即答した。
セシリア様は楽しそうに笑う。
「お姉様、殿下とダリオ様のお話をする時も、とても嬉しそうです」
「ええ」
「でも、レオンハルト様のお話をする時とは違います」
「またそこへ戻りますの?」
「はい」
強い。
ヒロイン様、強い。
「殿下とダリオ様のお話をする時のお姉様は、舞台を見ているみたいなお顔です」
「舞台」
「はい。遠くから、すごく綺麗なものを見ているような」
的確。
あまりにも的確。
「でも、レオンハルト様のお話をする時は、お姉様が舞台の上にいるみたいです」
胸が、止まりかけた。
舞台の上。
わたくしが。
そんなこと、考えたくなかった。
わたくしは観客席にいたい。
もっと言えば、壁になりたい。
推しの物語を遠くから見守る側でいたい。
なのに、レオンハルト様の前では、わたくし自身が見られる。
作った笑みも、逃げ癖も、壁願望も、全部。
それは、舞台の上に引き出される感覚に近いのかもしれない。
「……セシリア様は、鋭いですわね」
「そうでしょうか」
「ええ。わたくしの逃げ場を丁寧に潰していらっしゃいます」
「逃げ場を?」
「お気になさらず」
「お姉様、またごまかしました」
まずい。
セシリア様が学習している。
完全にリタの影響だ。
「リタ、あなたでしょう」
「私は少し助言をしただけです」
「何を?」
「お嬢様が『お気になさらず』と言った時は、だいたい気にした方がよいと」
「余計な助言です!」
セシリア様が、ぱっと笑った。
その笑顔があまりにも明るくて、怒る気が削がれる。
ヒロイン様、強い。
癒やしで攻撃してくる。
「でも、お姉様」
セシリア様は、少し真面目な顔に戻った。
「私は、お姉様に無理に恋をしてほしいわけではありません」
「セシリア様……」
「ただ、お姉様がご自分のことを後回しにするのは、やっぱり嫌です」
また、その言葉。
後回し。
レオンハルト様にも言われた。
リタにも、目で言われている。
そして今、セシリア様にも。
「私は王宮のことも、貴族のことも、まだ全然分かりません。だから、お姉様に助けていただいてばかりです。でも、お姉様がずっと誰かのためだけに動いていたら、いつか疲れてしまうと思うんです」
その声は、頼りないようでいて、芯があった。
「私、お姉様には笑っていてほしいです。無理にではなくて、本当に」
胸が痛い。
どうして、この子はこんなにも真っ直ぐなのだろう。
ヒロイン様だから。
そう言ってしまえば簡単だ。
でも、今のセシリア様は「ヒロイン」という役割ではなく、一人の少女として、わたくしを心配してくれている。
「セシリア様」
「はい」
「わたくしは、大丈夫ですわ」
「お姉様」
「本当に」
「今の笑顔は少し無理をしていませんか?」
言葉が詰まった。
セシリア様は、悲しそうに微笑んだ。
「レオンハルト様なら、すぐ分かるのでしょうね」
また、心臓が跳ねる。
「なぜそこで公爵様が」
「だって、昨日お姉様が仰っていました。レオンハルト様は、無理に笑うなと言ってくださったのでしょう?」
「……言いましたか?」
「はい。昨日、お茶の時に少し」
言った。
確かに言った。
自分では軽く話したつもりだったのに、セシリア様は覚えていた。
「お姉様は、その時、とても困ったお顔をしていました。でも少し、嬉しそうでした」
「セシリア様」
「だから私は、レオンハルト様を応援したいです」
「なぜそちらへ」
「お姉様の無理な笑顔に気づいてくださる方だからです」
返せなかった。
それは、確かに。
簡単に否定できない。
「もちろん、王太子殿下もお優しいです。ダリオ様も、真面目で頼れる方です。でも、お姉様が一番困った顔をして、一番ご自分のことを考えているのは、レオンハルト様のお話をしている時のように見えます」
セシリア様は、少し恥ずかしそうに続けた。
「私、そういうのは大切にした方がいいと思います」
「……恋愛小説の読みすぎではありませんか?」
「王宮礼拝堂の侍女さんが貸してくださいました」
「誰ですの、その侍女」
王宮礼拝堂、意外と自由である。
リタが横から言った。
「良い傾向かと」
「リタまで」
「セシリア様のご見識は的確です」
「見識ではなく恋愛小説の影響でしょう」
「お嬢様も、前世……いえ、以前から物語の影響をかなり受けておられます」
「今、前世って言いかけなかった?」
「気のせいでございます」
危ない。
リタが鋭すぎて、時々こちらの設定に近づいてくる。
わたくしは頭が痛くなってきた。
「とにかく、セシリア様」
「はい」
「わたくしとレオンハルト様のことは、しばらく横に置きましょう」
「横に?」
「ええ。棚上げです」
「棚上げ」
「恋愛問題という棚に置いて、しばらく扉を閉めます」
「鍵は?」
「かけます」
「レオンハルト様が開けてしまいそうです」
「セシリア様!」
何ということを言うのか。
ヒロイン様が、どんどん強くなっている。
リタが背後で、完全に笑いを堪えていた。
これはもう女子会ではない。
悪役令嬢包囲会議である。
セシリア様は、楽しそうに微笑んだあと、ふと真剣な表情になった。
「では、棚上げでもいいです」
「本当ですか?」
「はい。でも、お姉様がレオンハルト様のことを考えてしまった時は、なかったことにしないでください」
優しい声だった。
「考えてしまうことは、悪いことではないと思います」
その言葉に、少しだけ救われた。
恋かどうかは分からない。
まだ認めたくない。
でも、考えてしまうことまで否定しなくてもいいのかもしれない。
レオンハルト様の笑った顔。
無理に笑うなという声。
手帳。
外側は寒いという言葉。
それらを思い出してしまう自分を、全部なかったことにしなくても。
「……善処しますわ」
わたくしは小さく言った。
セシリア様は、ぱっと笑った。
「はい!」
リタが即座に言う。
「お嬢様の善処は、だいたい善処しません」
「リタ」
「今回は、善処しすぎない方がよろしいかと」
「どういう意味?」
「考えてしまうなら、考えればよいという意味です」
リタの声は、少しだけ優しかった。
その優しさに気づいて、わたくしはまた困る。
今日は、二人とも優しい。
優しいのに、逃げ道は塞ぐ。
やはり、わたくしの周囲にはレオンハルト様型の人間が増えているのでは?
セシリア様が、ふと手を叩いた。
「そうです、お姉様。せっかく手帳をいただいたのですから、今のお気持ちを書いてみてはいかがですか?」
「今?」
「はい。レオンハルト様が、思考が散らかるなら書け、と仰ったのでしょう?」
「そうですが」
「では、書いてみましょう」
「ここで?」
「はい」
ヒロイン様、押しが強い。
わたくしはリタを見る。
リタはすでに例の手帳とペンを用意していた。
なぜ。
準備が早すぎる。
「リタ」
「持参しております」
「なぜ」
「使うと思いましたので」
「予測しないで」
「侍女でございますので」
もう駄目だ。
わたくしは諦めて、手帳を開いた。
真新しい紙。
レオンハルト様から贈られた手帳。
そこに何を書くべきか。
わたくしはしばらく悩んだ末、ゆっくりと一行書いた。
『レオンハルト様は優しくしないでください。推し活に支障が出ます。』
書いてから、すぐに閉じた。
セシリア様が身を乗り出す。
「何を書かれたのですか?」
「国家機密です」
「お姉様」
「見せません」
「少しだけ」
「駄目です」
リタが横から静かに言う。
「お嬢様、耳が赤いです」
「顔の次は耳を監視しないで!」
セシリア様が声を立てて笑った。
わたくしも、つられて笑ってしまった。
悪役令嬢とヒロイン様と侍女の、奇妙な女子会。
本来なら存在しないはずの時間。
けれど、思ったより温かい。
わたくしは手帳を胸に抱えながら、少しだけ思った。
ヒロイン様が悪役令嬢の恋を応援するルートなど存在しない。
存在しないけれど。
この時間は、嫌いではない。
むしろ。
大切にしたいと思ってしまった。
それがまた、わたくしを壁から遠ざけているのだとしても。




