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第一節 ― 出席簿の空席

 小野寺先生の指が、出席簿の上を滑っていく。


 朝の教室には、いつものざわめきが残っていた。チャイムが鳴った後も、完全な静けさにはならない。椅子を引く音、筆箱を開ける音、スマホを机の中へ押し込む気配、誰かが小声で「あとでノート見せて」と頼む声。


 出席確認は、毎朝の何でもない手続きだった。


 名前を呼ばれる。

 返事をする。

 出席簿に印がつく。

 その日、自分がここにいることが、当たり前のように確認される。


 昨日までなら、ユウリもそんなふうに考えもしなかった。


 けれど今は、その何でもない手続きが、ひどく危ういものに見えていた。


「相原」


「はい」


「石動」


「はい」


「上原」


「はい」


 名前が呼ばれるたびに、生徒が返事をする。


 声の高さも、返事の早さも、態度もそれぞれ違う。眠そうに手だけ上げる者。必要以上に元気よく返事をする者。友人に肘でつつかれて慌てて顔を上げる者。


 それでも、教室の空気は穏やかだった。


 自分の名前が呼ばれる。

 自分が返事をする。

 それだけで、教室の中の席と、その席に座る人間が結びついていく。


 ユウリは、机の中で震えたスマホを押さえた。


 画面は見ない。


 見なくても、何かが起きようとしていることは分かる。


 昨日の無番線ホームとは違う。


 あれは、地下へ降りていく異界だった。駅の底に、現実から外れた場所が口を開けていた。


 今は違う。


 ここは教室だ。


 窓から朝の光が入っている。黒板には日付が書かれ、教卓には出席簿が置かれ、壁には文化祭準備のポスターが貼られている。後ろの掲示板には進路調査票の締切が赤字で書かれていた。


 どこにも逃げ場のないくらい、日常そのものの場所だった。


「久遠」


「はいはい」


「返事は一回でいい」


「はい」


 クラスの何人かが笑う。


 レンはいつもの調子で肩をすくめたが、その視線だけはユウリの方へ向いていた。


 警戒している。


 彼も気づいているのだ。


 出席簿という、何の変哲もない紙の束が、今だけは切符より怖いものに見えていることに。


 小野寺先生は、次の名前を読み上げようとして、ふと指を止めた。


 ほんの一瞬だった。


 だが、ユウリには分かった。


 先生が、何かに引っかかった。


 出席簿の上で、目が止まっている。眉がわずかに寄る。ページを一枚戻し、もう一度確認する。そんな小さな仕草。


 教室の空気が、少しだけ薄くなった。


 先生は小さく首を傾げた。


「……ん?」


 それは本当に小さな声だった。


 普段なら誰も気にしない。


 だが、ユウリは息を止めた。


 先生の指が、出席簿の一行をなぞる。


 見慣れた名簿の中に、見慣れない何かが挟まっている。


 そういう顔だった。


 ユウリの机の中で、スマホがもう一度震える。


 今度は長く、低く。


 まるで警告音のように。


 先生の違和感は、しかし長くは続かなかった。


 眉間に寄った皺がほどける。


 首を傾げていたことすら忘れたように、先生は出席簿へ視線を落とし、淡々と次の名前を読み上げた。


「綴白ナナセ」


 教室が、静かになった。


 その名前は、朝の空気にぽつりと落ちた。


 綴白ナナセ。


 誰の名前でもなかった。


 少なくとも、ユウリの記憶にはない。


 二年三組に、そんな生徒はいない。昨日も、一昨日も、入学してから今まで、一度も聞いたことがない。


 だが、先生はまるで当然のように呼んだ。


 出席簿に書かれている名前を、ただ読み上げただけの声だった。


 数秒、誰も返事をしなかった。


 教室の奥で、誰かが小さく「え?」と言った。


 佐伯が隣の女子と顔を見合わせる。

 窓際の男子が首をひねる。

 レンの表情から、いつもの軽さが消える。

 ミオは、胸元の学生証に指を添えたまま、じっと教卓を見ている。


 小野寺先生が顔を上げた。


「綴白?」


 呼び直す。


 その声には、苛立ちも疑問もない。


 ただ、返事のない生徒へ出席確認を促す、教師としての自然な声だった。


 その瞬間だった。


 倉持ハルトが、ぼんやりと手を上げた。


「……はい」


 自分で言った後、倉持自身が一番驚いた顔をした。


 教室の空気が一拍止まる。


 次の瞬間、笑いが起きた。


「何やってんだよ、倉持」


「お前、いつからナナセになったんだよ」


「女子っぽい名前で返事すんな」


「いや、綴白って誰?」


 笑い声が広がる。


 倉持は顔を赤くして、慌てて手を下ろした。


「いや、違う違う! 何か、今、勝手に……」


「寝ぼけてんのか?」


「昨日AVISやりすぎたんじゃね?」


「雷神タイプからナナセタイプに進化した?」


「うるせえよ!」


 倉持は笑って返していた。


 けれど、その笑い方には戸惑いが混ざっている。


 本人にも分かっていないのだ。


 なぜ返事をしたのか。


 どうして、自分ではない名前に反応してしまったのか。


 小野寺先生は、少しだけ困った顔をした。


「倉持、ふざけるな。出席確認中だぞ」


「いや、先生、今の名前――」


「次に行くぞ」


 先生は、倉持の言葉を最後まで聞かなかった。


 あるいは、聞く必要がないと判断したのかもしれない。


 出席簿の中で何かがずれているのに、そのずれを認識できない。


 ユウリには、そう見えた。


 先生の指は、もう次の名前へ移っている。


「佐伯」


「はい」


「篠原」


「はい」


 何事もなかったように、出席確認が続いていく。


 教室の笑いも、すぐに薄れていった。


 ただの小さな珍事。


 倉持が謎の名前に返事をした。


 あとで昼休みにいじられる程度のこと。


 クラスメイトたちは、そう受け取ったようだった。


 だが、ユウリは違った。


 机の中でスマホを開く。


 黒い画面。


 白い円環。


 そして、文字。


《星綴高等学園内に構文揺らぎ》

《出席記録に未登録名を検出》

《現在名上書き反応:発生》


 ユウリの喉が乾く。


 現在名上書き。


 昨日のミオは、名前を切符に移されかけた。


 今度は、上書き。


 別の名前を、誰かの上から被せる。


 それは、昨日とは違う怖さだった。


 ミオがこちらを見た。


 教室の離れた席から、ほんの一瞬だけ。


 彼女も気づいている。


 昨日、自分の名前が薄れていくのを見たからこそ、今の異常を感じ取っている。


 ユウリは小さく頷いた。


 大丈夫、とは言えなかった。


 まだ何も分からない。


 それでも、気づいていると伝えたかった。


 出席確認が終わり、先生は連絡事項へ移った。


「今日の六限終了後、各委員会の集まりがある。該当者は忘れないように。それと、昨日の神狭駅の件だが――」


 その一言で、教室が再びざわつく。


「昨日、駅やばかったらしいな」


「存在しないホーム見たって投稿あったよ」


「AVISのイベントじゃね?」


「釣りだろ」


 小野寺先生が咳払いをした。


「静かに。駅側からも連絡が来ているが、設備トラブルによる案内表示の不具合だそうだ。根拠のない噂や、危険な場所への立ち入りはしないように。特に、AVISというアプリについては――」


 そこで、倉持が小さく笑った。


「俺、雷神タイプだったんだけどな」


 隣の男子が言う。


「またそれかよ、倉持」


「いや、普通に当たってただろ。衝動的で仲間思いって」


「衝動的だけは当たってる」


「うるせえ」


 いつもの倉持だった。


 軽くて、調子がよくて、少しうるさい。


 そのはずなのに。


 ユウリは、彼の机に貼られた名前シールを見た。


 机の右上。


 白いテープに黒い文字で、名前が印刷されている。


 倉持ハルト。


 だが、その文字が、ほんの少し薄く見えた。


 気のせいかもしれない。


 朝の光の当たり方かもしれない。


 それでも、ユウリは目を離せなかった。


 倉持が椅子にもたれ、隣の男子とふざけて笑うたびに、その名前シールの輪郭だけが、少しずつ紙に溶けていくように見える。


 先生の連絡事項が終わる。


 ホームルームが終わる。


 チャイムが鳴り、次の授業の準備が始まった。


 クラスはまた普通の空気へ戻っていく。


 けれど、異変は静かに進んでいた。


 最初に気づいたのは、レンだった。


 一時間目と二時間目の間の休み時間。


 レンが、スマホを握ったままユウリの席まで来た。


「ユウリ」


 声が低かった。


「見ろ」


 レンが画面を見せる。


 軽音部のグループチャットだった。


 昨日までは、倉持のアイコンが並んでいたはずの画面。ライブの予定、曲の候補、誰が機材を持ってくるか、そういう雑な会話が続いている。


 その中で、いくつかの投稿のアイコンが空白になっていた。


 名前欄も、表示が崩れている。


 ――Kura……

 ――未設定ユーザー

 ――綴白ナ……


「これ、倉持の投稿だよな」


 レンが言う。


「昨日の夜、あいつが送ってたやつ。『明日の放課後ギター持ってく』って。なのに名前が変になってる」


 ユウリは画面を見つめた。


 メッセージ本文は残っている。


 だが、誰が送ったかが曖昧になっている。


 名前が、表示名から剥がれかけていた。


「本人は?」


「そこにいる」


 レンが顎で教室の後ろを示した。


 倉持は、いつも通り友人たちと話している。


 いや、いつも通りに見える。


 だが、周囲の反応が少しおかしかった。


「倉持ってさ」


 隣の男子が言った。


「下の名前、何だっけ」


「は?」


 倉持が笑う。


「ハルトだよ。何年同じクラスやってんだよ」


「ああ、そうそう。ハルト。いや、なんか一瞬出てこなかった」


「お前こそ寝ぼけてんだろ」


「かもな」


 男子は笑った。


 だが、笑いながらも、まだ少し首を傾げている。


 ほんの小さな違和感。


 その程度なら、誰も深く気にしない。


 けれど、ユウリには分かった。


 始まっている。


 クラスメイトが、倉持ハルトの名前を思い出せなくなり始めている。


 スマホが震えた。


 机の下で画面を見る。


《対象:倉持ハルト》

《現在名上書き率:8%》

《仮登録名:綴白ナナセ》

《注意:校内記録に拡散中》


 八パーセント。


 昨日、ミオの名前が消えかけたときの数字を思い出す。


 たった数パーセントでも、確かに世界はずれていた。


 今回は、八。


 しかも、校内記録に拡散中。


 ユウリは拳を握った。


「アヴィ」


 小声で呼ぶ。


 画面の円環が一度だけ瞬いた。


「見ている」


「どうすればいい」


「まだ判断材料が足りない。切符化ではない。これは名前の移動ではなく、学校記録への仮登録による上書きだ」


「分かるように言え」


「学校が、倉持ハルトを綴白ナナセとして扱い始めている」


 ユウリは息を呑む。


「学校が?」


「出席簿、座席表、校内放送、デジタル名簿、グループチャット。学校という記録装置の中で、倉持ハルトの現在名が別名に置換されつつある」


「じゃあ、倉持を名前で呼べば――」


「昨日と同じ手は通用しない可能性が高い」


 アヴィは即座に言った。


「今回は名前が一箇所に奪われているのではない。記録全体に薄く拡散している。呼ぶだけで戻るとは限らない」


「じゃあ、どうするんだよ」


「調べろ。何に書かれ、どこで呼ばれ、誰が覚えているか。名前は本人だけのものではない」


 そこで、画面が一度暗くなった。


 ユウリは奥歯を噛んだ。


 名前は本人だけのものではない。


 昨日の終わりに、なんとなく感じたこと。


 それが今、別の形で突きつけられている。


「天瀬くん」


 静かな声がした。


 振り返ると、ミオが立っていた。


 顔色が少し悪い。片手で胸元を押さえている。


「大丈夫?」


 ユウリが聞くと、ミオは小さく頷いた。


「私は大丈夫です。でも……あの名前」


「綴白ナナセ?」


 ミオの肩が、わずかに震えた。


 その名前を口にしただけで、周囲の空気が少し冷えたように感じた。


 ミオは教卓の方を見た。


 そこにはもう出席簿はない。先生が持っていったのだろう。


 だが、ミオはまだ、そこに残る何かを見ているようだった。


「この名前……空っぽです」


 ユウリは聞き返す。


「空っぽ?」


「はい」


 ミオは、自分でも言葉を探すようにゆっくり話した。


「誰かの名前じゃない。誰かを入れるための、空白みたいな名前です」


 ユウリは、背筋が冷えるのを感じた。


 空白みたいな名前。


 それは、矛盾した言葉だった。


 名前とは、本来その人を示すためのものだ。


 誰かと誰かを区別するもの。

 その人を呼ぶもの。

 記録し、覚え、結びつけるもの。


 けれど、綴白ナナセは違う。


 誰かを示すための名前ではない。


 誰かを入れるための器。


 空の席。


 空の名札。


 空欄のまま用意された出席欄。


 そこに、今、倉持ハルトが入れられようとしている。


 レンが低く言った。


「つまり、倉持がその空欄に上書きされてるってことか」


「たぶん」


 ユウリは頷いた。


 ミオは倉持の方を見る。


 倉持は、まだ笑っていた。


 自分の名前が薄れ始めていることに、ほとんど気づいていない。


 それが、余計に怖かった。


 昨日のミオは、少なくとも自分の名前が消えかけていることに気づいていた。


 だが倉持は、気づかないまま、違う名前の中へ入っていこうとしている。


 そのとき、倉持がふとこちらを見た。


「何? 三人で俺のこと見て。もしかして、朝のナナセ事件まだ引っ張る?」


 レンは、いつものように軽口を返そうとして、少し詰まった。


 ユウリは立ち上がる。


「倉持」


「ん?」


「お前の名前、言ってみて」


 倉持はきょとんとした。


「何その質問。怖」


「いいから」


「倉持ハルト」


 すぐに返事が返ってくる。


 ユウリは少しだけ息を吐いた。


 まだ言える。


 本人は、まだ自分の名前を持っている。


 だが、倉持はその直後、少しだけ眉をひそめた。


「……あれ」


「どうした」


「いや、今、一瞬さ」


 倉持は自分の胸元を見下ろした。


 制服の名札など、星綴にはない。


 それでも、そこに何か別の名前が貼られているような感覚があったのかもしれない。


「何か、変な感じした」


「変な感じ?」


「うまく言えないけど……自分の名前、言い慣れてないみたいな」


 倉持は困ったように笑った。


「寝不足かな。昨日AVIS見すぎたかも」


 また、それで済ませようとする。


 笑って、軽くして、日常へ戻ろうとする。


 ユウリは、それを止めたかった。


 けれど、どう説明すればいいのか分からない。


 お前の名前が、学校に上書きされかけている。


 そんなことを言って、信じてもらえるのか。


 言った瞬間、何かを進行させることにならないのか。


 ミオのときもそうだった。


 認識することが、異変に触れることになる。


 名前が薄れていると知ること自体が、恐怖を通して名前を揺らすかもしれない。


 ユウリは言葉を飲み込んだ。


 代わりに、できるだけ普通の声で言う。


「今日、変なことがあったらすぐ言え」


「変なことって?」


「名前とか、出席簿とか、スマホとか」


「何それ。昨日の駅の続き?」


 倉持は笑った。


 だが、その笑いは少し硬かった。


 彼も、完全には忘れていない。


 昨日、情報処理室Bで見たプロジェクターの地図。

 AVIS一般版の妙な盛り上がり。

 そして、今朝の「綴白ナナセ」。


 それらがつながっているとまでは思っていない。


 でも、どこかで不安になり始めている。


「分かった。何かあったら言うわ」


 倉持はそう言って、無理に明るく笑った。


「でもさ、俺が綴白ナナセになったら、軽音部のボーカルいけるかな」


「やめろ、縁起でもない」


 レンが即座に言う。


 倉持は「冗談だって」と笑った。


 その笑い声の途中で、廊下から次の授業の教師が入ってきた。


 生徒たちが席に戻っていく。


 ユウリも席へ戻りながら、教室を見回した。


 倉持の机。


 名前シールは、さっきよりわずかに薄い。


 黒板の端。


 日直が書いた提出物一覧の下に、見慣れない白い粉のような跡がある。


 教卓。


 出席簿が置かれていた場所に、うっすらと四角い影が残っている。


 そして、窓際の空席。


 本来なら誰も座らないはずの、余った椅子。


 そこに、一瞬だけ、誰かが座っていたような気がした。


 白い制服の袖。

 下を向いた顔。

 机の上に置かれた、名前のないノート。


 瞬きをすると、何もなかった。


 ただの空席。


 ただの椅子。


 ただの教室。


 だが、ユウリのスマホには、新しい表示が残っていた。


《綴白ナナセ:仮席生成》

《対象:倉持ハルト》

《現在名上書き率:11%》


 数字が上がっている。


 ユウリは、スマホを握りしめた。


 授業開始の号令がかかる。


「起立」


 クラス委員の声。


 全員が立ち上がる。


「礼」


 いつものように頭を下げる。


 日常の動作。


 何でもない習慣。


 けれど、ユウリはその瞬間、教室のどこかから、誰かが出席簿を閉じる音を聞いた気がした。

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