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序節 ― 名前を呼んだ翌朝

 翌朝、神狭駅は何事もなかったように動いていた。


 通勤客が改札を抜け、学生たちが階段を上がり、駅員がホームの端で安全確認をしている。発車メロディはいつも通り軽やかで、電光掲示板には遅延情報もなく、地下連絡通路の入口には「足元にご注意ください」と書かれた黄色い案内板が置かれているだけだった。


 昨夜、そこに無番線ホームがあったことなど、誰も知らない。


 あるいは、知っていても、もう忘れている。


 駅前の大型ビジョンでは、昨日と同じ化粧品の広告が流れていた。白い背景、笑顔のモデル、季節外れの桜の花びら。画面は一度も乱れない。青白い文字列も、黒い横線も、神話構文反応という不穏な表示も、そこにはなかった。


 天瀬ユウリは、改札から少し離れた柱のそばに立ち、そのビジョンを見上げていた。


 何も起きない。


 当たり前だ。


 朝の駅前で、突然また神話構文だの無番線だのが表示されたら困る。


 困るはずなのに、何も起きないことが、かえって不安だった。


 昨夜の出来事が、本当にあったことなのか分からなくなる。


 名前が切符に移されかけたこと。


 ミオの学生証の文字が薄くなったこと。


 顔のない車掌が、白い切符を差し出したこと。


 ホームが崩れ、見えない電車の音が迫ってきたこと。


 そして、自分が初めて、彼女を名前で呼んだこと。


 それらすべてが、寝不足の頭の中で、夢の断片のように揺れていた。


 けれど、夢ではない。


 ポケットの中のスマホが、ずっとそれを証明している。


 ユウリはスマホを取り出した。


 ホーム画面には、黒い円環のアイコンがある。


 《AVIS》。


 昨日まで神話辞典アプリだったもの。


 今は、アヴィ=シグルという正体不明の何かが宿っているらしいもの。


 アプリを開くと、黒い画面の中央に白い円環が浮かんだ。目にも、鳥にも、鍵穴にも見える小さな記号が、一度だけ瞬く。


《神話構文災害:未収束》

《観測者接続:継続》

《星綴高等学園周辺に微弱な構文揺らぎを予測》


 昨夜と同じ表示。


 夢ではない。


 そう突きつけられて、ユウリは小さく息を吐いた。


「おはよ」


 背後から声がした。


 振り返ると、久遠レンが片手を上げて近づいてきた。制服はいつも通り少し着崩れていて、鞄も肩に引っかけただけ。だが、目の下には薄く隈がある。


 ユウリはそれを見て、少しだけ安心した。


 自分だけが眠れなかったわけではない。


「寝た?」


 ユウリが聞くと、レンは笑った。


「二時間」


「それ、寝たって言うのか」


「目を閉じてたから寝た判定でいいだろ」


「よくないと思う」


 レンは答えず、スマホを取り出した。


 画面には動画の一覧が表示されている。


「昨日の映像、やっぱ全部ダメだった」


 声は軽くしようとしていた。


 けれど、失敗していた。


「地下通路で俺たちがふざけてる映像だけ。無番線も、車掌も、切符もなし。音声も、途中から変なノイズになってる。あと、俺のスマホの位置情報、なぜか駅前ロータリーで止まってた」


「地下に入ってないことになってる?」


「そう。俺たちは駅前で三分くらい突っ立って、その後ミオを送って帰ったことになってる」


「……世界が雑に編集してるな」


「ほんとそれ。編集するならもう少し上手くやれって感じ」


 レンは苛立ったように笑う。


 ユウリは、その笑い方に覚えがあった。


 怖い時のレンだ。


 面白がっているように見せて、怖さを軽口で押し返そうとしている。昨日、無番線ホームから戻った直後と同じだった。


「SNSは?」


「こっちは面白い。いや、面白いって言っていいのか分かんないけど」


 レンは画面を操作し、いくつかの投稿を見せた。


 神狭駅で存在しないホーム見たんだけど。

 昨日のAVISイベント参加した人いる?

 無番線って表示、動画撮ったのに映ってない。

 駅側、設備トラブルって言ってるけど絶対違う。

 釣り乙。

 集団幻覚?

 神狭駅、前から変な噂あるよね。

 AVISのプロモーションじゃね?


 ユウリは画面を見つめた。


 完全に消えてはいない。


 誰かが見ている。


 誰かが違和感を覚えている。


 けれど、それはもう噂になり、ネタになり、考察され、茶化され、次の話題へ流されかけていた。


 昨夜、自分たちが命を削るように感じた恐怖は、ネットの中では「AVISイベント」になっている。


「……こうやって広がるんだな」


 ユウリは呟いた。


「何が?」


「神話構文災害」


 口にしてから、自分でもその言葉に少し戸惑った。


 昨日まで知らなかった言葉が、もう自分の中で意味を持ち始めている。


 レンは少し黙ったあと、肩をすくめた。


「まあ、拡散力はすごいよな。映像が残ってないのに、噂だけ残る。証拠がないから逆に盛れる。みんな好き勝手に解釈する」


「危ないって分かってても?」


「危ないって分かってるやつほど寄ってくることもある。俺みたいに」


 レンは自嘲気味に笑った。


 ユウリは何も言えなかった。


 そこへ、駅の階段から見慣れた姿が現れた。


 星宮ミオだった。


 昨日と同じ星綴高等学園の制服。まだ少し着慣れないブレザー。長い黒髪は、朝の光を受けてわずかに青く見える。手には鞄を持ち、胸元には昨日と同じように学生証の入ったカードケースが下がっていた。


 ユウリは、無意識にその名前欄を見てしまった。


 星宮ミオ。


 文字は消えていない。


 ちゃんと読める。


 それだけで、胸の奥が少し緩む。


 ミオもこちらに気づき、少し足を速めた。


「おはようございます」


 丁寧な挨拶。


 けれど、そのあとに続く沈黙が、少しぎこちなかった。


 昨日、ユウリは彼女を「ミオ」と呼んだ。


 呼ばなければ、彼女の名前は切符に奪われていたかもしれない。


 だから必要だった。


 そう分かっている。


 分かっているのに、朝の普通の駅前で向き合うと、その距離感が急に分からなくなった。


 いまもミオと呼んでいいのか。


 それとも、星宮さんに戻すべきなのか。


 そんなことを考えてしまう。


 レンは二人の空気を見て、わざとらしく咳払いをした。


「おはよ、星宮さん。眠れた?」


「少しだけ」


「俺も。ユウリもたぶん寝てない」


「勝手に決めるな」


「寝たのか?」


「……少し」


「ほら」


 レンが得意げに言う。


 ミオが、小さく笑った。


 その笑顔を見て、ユウリはまた安堵する。


 昨日と同じだ。


 彼女はここにいる。


 笑っている。


 名前がある。


 ミオは自分の学生証に軽く触れた。


「朝、何度も確認してしまいました」


「名前?」


「はい。起きてすぐ、鏡を見る前に」


 その言葉は静かだった。


 けれど、ユウリには重かった。


 名前があるかどうかを、朝起きて最初に確認する。


 そんな日常は、きっとあってはいけない。


「ごめん」


 ユウリは思わず言った。


 ミオが目を丸くする。


「どうして天瀬くんが謝るんですか」


「いや……昨日、巻き込んだというか」


「それを言うなら、私の方です。私が行かなきゃいけない気がするって言ったから」


「でも、止められなかった」


「止めようとしてくれました」


 ミオはまっすぐ言った。


「それに、呼んでくれました」


 ユウリは言葉に詰まる。


 呼んだ。


 また、その事実が戻ってくる。


 駅前の雑踏の中で、その言葉だけが少しだけ熱を持ったように感じられた。


 レンが二人の間に割って入るように言う。


「はいはい、朝から重い空気はそこまで。遅刻するぞ。あと、俺は今日こそ昨日の現象を何かしら記録する。次は世界の編集に勝つ」


 その瞬間、ユウリのスマホが震えた。


 画面を開く前に、アヴィの声がした。


「その意気込みは評価する。成功率は低いが」


 レンの顔が引きつった。


「朝から出るな!」


「おはよう、動画猿」


「その呼び方やめろって言っただろ!」


 ミオが驚いたようにユウリのスマホを見る。


 ユウリは慌てて音量を下げた。


「駅前で喋るな。周りに聞こえる」


「聞こえる相手には聞こえる。聞こえない相手には聞こえない」


「それが怖いって言ってるんだよ」


「感想は記録しておく」


「するな」


 レンが深くため息をついた。


「ほんと、こいつ何なんだよ」


「決めるな」


「はいはい、出た」


 昨日の地下連絡通路を思えば、ひどく間の抜けた会話だった。


 けれど、その間の抜け方がありがたかった。


 恐怖だけを抱えていたら、きっと学校まで歩けなかった。


 三人は駅前を離れ、星綴高等学園へ向かった。


 坂道には、いつもの朝が流れていた。


 制服姿の生徒たちが同じ方向へ歩いている。自転車のブレーキ音。コンビニ袋を持った男子の笑い声。角の家から出てきた犬が、通り過ぎる生徒に尻尾を振っている。


 世界は普通に見える。


 それなのに、ユウリには、昨日よりもずっと多くのものが目に入った。


 古い鳥居の奥にかすかに揺れる影。

 電柱に貼られた町内掲示の「氏名欄」という文字。

 スマホを見ながら歩く生徒たちの画面に、一瞬だけ浮かぶ黒い円環。

 学校へ向かう道の上に薄く重なる、星座の線のような白い筋。


 見ようとすると消える。


 見まいとすると、視界の端に残る。


 ユウリは、自分の目が少しずつ変わっているのを感じた。


 いや、目ではないのかもしれない。


 世界を見る時の、どこか奥の方。


 物語や神話を「読む」ために使っていた感覚が、現実へ向き始めている。


「ユウリ?」


 ミオの声で、我に返る。


「大丈夫ですか」


「……大丈夫」


「顔色、あまりよくないです」


「ミオもだよ」


 言ってから、ユウリは気づいた。


 また、名前で呼んだ。


 ミオも気づいたようだった。


 けれど、嫌がる様子はなかった。


 むしろ、一瞬だけ、安心したように見えた。


「はい。あまり眠れなかったので」


「だよな」


「でも、大丈夫です。学校に着いたら、普通にしていればいいと思います」


「普通に?」


「はい。昨日のことを全部、なかったことにはできません。でも、全部それだけにしてしまったら……たぶん、もっと怖くなるので」


 ユウリは少し驚いた。


 ミオは静かに前を見ている。


 朝の光の中で、その横顔は昨日より少しだけ強く見えた。


 名前を奪われかけた少女。


 けれど、それだけではない。


 星宮ミオは、怖がりながらも、ちゃんと今日の学校へ向かっている。


「そうだな」


 ユウリは言った。


「普通にしよう」


「普通にできるといいけどな」


 レンが横から口を挟む。


「なんだよ」


「いや、普通って意外と難しいだろ。特に昨日あんなの見たあとだと」


 レンはわざと軽く言った。


 だが、その目は学校の方を見ていた。


 星綴高等学園。


 白と灰色の校舎。中庭の桜。奥に見える旧校舎の屋根。


 昨日まで日常の象徴だった場所。


 そこへ近づくにつれて、ユウリのポケットの中でスマホが微かに熱を持った。


 校門をくぐる。


 その瞬間、AVISが震えた。


 ユウリは足を止めた。


 ミオとレンも同時に気づく。


 画面を開く。


 黒い背景に、白い文字が浮かんでいた。


《星綴高等学園内に構文揺らぎ》

《記録系構文の微弱変質を検出》

《出席記録に未登録名を検出》


 出席記録。


 未登録名。


 ユウリの背筋が冷たくなる。


 アヴィの声が、スマホから低く響いた。


「来たな」


「何が」


「学校怪談だ」


 レンが顔をしかめる。


「昨日の今日で?」


「神話構文災害は、こちらの登校予定に配慮しない」


「ほんとに最悪だな」


「同感だ」


 ミオが校舎を見上げた。


 彼女の視線の先には、開いた窓と、朝の教室と、何も知らない生徒たちの影がある。


「学校の中に、何かいるんですか」


 アヴィはすぐには答えなかった。


 代わりに、画面に新しい表示が浮かぶ。


《出席簿/座席表/校内放送に微弱な同期反応》

《注意:名前の読み上げに警戒してください》


 ユウリは、思わず教室棟を見た。


 朝のホームルーム。


 出席確認。


 名前を呼ばれる時間。


 昨日、名前を奪われかけた翌朝に。


 今度は、学校そのものが名前を呼ぼうとしている。


「急ごう」


 ユウリは言った。


 三人は昇降口へ向かった。


 上履きに履き替え、階段を上がり、二年三組の教室へ入る。


 教室は、いつも通りだった。


 クラスメイトたちが騒いでいる。

 倉持ハルトが自分の席でスマホを見せびらかしながら、昨日のAVIS診断の話をしている。

 佐伯たちがミオに「昨日、大丈夫だった?」と声をかけている。

 黒板には、日直が書いた日付と、提出物の一覧。


 普通の朝。


 けれど、ユウリはもう、その普通を信じきれなかった。


 席につく。


 ミオは自分の席へ向かう前に、一度だけユウリを見た。


 大丈夫です。


 そう言おうとしたのかもしれない。


 ユウリは小さく頷いた。


 チャイムが鳴る。


 教室のざわめきが、少しずつ収まっていく。


 扉が開き、小野寺先生が出席簿を片手に入ってきた。


「はい、席につけ。ホームルームを始めるぞ」


 いつもの声。


 いつもの朝。


 小野寺先生は教卓に出席簿を置き、表紙を開いた。


 その瞬間、ユウリのスマホが机の中で震えた。


《出席記録に未登録名を検出》

《現在名上書き反応:発生準備》


 ユウリは息を呑んだ。


 先生の指が、出席簿の上を滑る。


 名前が読み上げられていく。


 当たり前のように。


 安全な日常の手続きのように。


 けれど、その中に一つだけ、知らない名前が混ざろうとしていた。

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