第十一節 ― 名が違っても、照らしてくれ
金色の円環が、また大きく歪んだ。
朝陽だったものへ白い光が重なり、その内側を別の輪郭が横切る。冠を戴いた王。巨大な神面。女神を思わせる白い姿。燃える円盤。
どれかへ定まろうとするたび、別の何かが押し返す。
レイジは御柱の前から動かなかった。
「東側、参拝客を下げろ!」
「はい!」
「石段は使わせるな。境外の平地へ回してくれ。走らせるな!」
若い神職たちが応じる。
祭りのために開かれていた参道を、人々が逆方向へ流れていく。子どもの手を引く母親。何度も背後を振り返る学生。事情が分からないまま、神職の指示に従う老人。
ほんの少し前まで、焼きそばや射的の順番を気にしていた人たちだ。
その頭上で、神域が崩れかけている。
レイジは歯を食いしばった。
もう一度、呼べる。
正しい名を。
契約者である自分が、もう一度。
ソウリン大御神。
朝陽の大御神。
その名へ祭祀構文を集め、他の照応を退ければ――。
指がわずかに動いた。
祝詞の形を取る。
だが、止めた。
さっき起きたことが、まだ身体に残っていた。
名を強めた瞬間、神域は確かに一度安定した。
そして、その直後に衝突した。
ソウリン。
アマテラス系太陽構文。
光明神格。
王権神格。
アウロ=ルクスの部分残響。
同じではない。
けれど、無関係でもない。
一柱の名へ押し込めようとした時、それらは消えなかった。
ぶつかった。
「神楽坂さん!」
声に振り向く。
神域に救われた少年が、母親と一緒に参道の脇にいた。
避難の流れが詰まり、まだ境外へ出られていない。
少年はもう、知らない神名を口にしていない。
母親の手を握っている。
さっきまで、その光に救われていた。
「こっちへ!」
レイジは自分で走った。
親子の前へ入り、人の流れを整理する。
「大丈夫です。急がなくていい。前を見てください」
「レイジさん、あの子は――」
母親が不安そうに空を見る。
「また、戻ったりしませんか」
少年が喉へ手を当てた。
レイジは一瞬だけ言葉に詰まった。
絶対に大丈夫だとは言えない。
「今は止まっています」
だから、それだけ答えた。
「境外へ出るまで、こちらで見ます」
母親が深く頷く。
少年がレイジを見る。
「神様、怒ってるの?」
レイジは頭上を見上げた。
光は激しく揺れている。
人間なら、怒っているようにも見える。
苦しんでいるようにも。
何かを取り合っているようにも。
「……分からない」
口から出た言葉に、自分で少し驚いた。
少年は不満そうに眉を寄せる。
「神社のお兄ちゃんなのに?」
「神社のお兄ちゃんでも、分からないことはある」
「ふうん」
納得したのかどうかは分からない。
それでも少年は母親に手を引かれ、避難の列へ戻った。
レイジはその背中を見送る。
その時。
境内の端で黒いものが立ち上がった。
半透明の獣のような影。
祭りの動画や声、神名の混線から残った小さな偽神格残滓だ。
光の揺らぎに引かれるように、人の列へ向きを変える。
「下がれ!」
レイジが腕を上げる。
契約構文を開こうとして。
また止まる。
光が不安定なままでは、強い神格権能を重ねればさらに照応を増やす可能性がある。
それでも人を守らなければならない。
何を呼ぶ。
どの名で。
何を正しいものとして。
円環が軋む。
偽神格残滓が一歩進む。
その向こうで、小さな子どもが泣いている。
レイジは御柱を見た。
自分が立てた柱。
自分が呼んだ神。
そこへ確かに来たもの。
人を救った朝陽。
レイジは一度だけ、深く息を吸った。
「ソウリン大御神」
名を呼ぶ。
それは捨てなかった。
捨てる理由もなかった。
自分が信じてきた神だ。
応えてくれた神だ。
少年を救い、老人の痛みを静め、歪んだ路地を戻した。
「俺は」
声が少し掠れた。
「あなたを、そう呼ぶ」
円環が揺れる。
けれど、レイジは続きを急がなかった。
白い女神の輪郭が浮かぶ。
炎の円盤。
王。
光。
朝。
どれも否定しない。
それらを消そうともせず、レイジは頭上の神域を見つめた。
「名が違っても構わない」
自分で口にしてから、胸の奥に痛みが走った。
簡単な一言ではない。
これまで信じてきたものの一部を、自分の手でほどく言葉だった。
それでも。
避難している人々を見る。
「今ここにいる者を、照らしてくれ」
静かだった。
祝詞も続けなかった。
神の正しさを説かなかった。
命じもしなかった。
ただ、願った。
金色の円環が止まる。
一瞬。
何も起きない。
次に。
光がほどけた。
王の輪郭が薄くなる。
白い女神も。
神面も。
炎の円盤も。
消えたというより、互いを押し退けるのをやめた。
残ったのは、朝陽だった。
ただの光に近い。
夜なのに、東の空から朝が差している。
それは境内を満たし、石畳の上へ一本の道を作った。
「……道?」
神職の一人が呟く。
境外へ続く避難経路だけが、柔らかく照らされている。
「そっちへ誘導しろ!」
レイジが叫ぶ。
「光の中を通してください!」
人々が動き始める。
誰も跪かない。
誰も祈ることを要求されない。
神名を知らない者も、その光の中へ入る。
子どもを抱いた父親。
友人同士の学生。
屋台の店員。
杖をついた老人。
先ほどの少年と母親。
朝陽は、誰かを選ばなかった。
少年が光へ入る。
喉を押さえる様子はない。
母親が何度も振り返り、それからレイジへ頭を下げた。
偽神格残滓が、避難路へ近づく。
だが朝陽へ触れる直前、その輪郭が崩れた。
焼かれたのではない。
黒い影の方が、光を避ける。
一歩。
また一歩。
人のいない森側へ退いていく。
別の残滓も同じだった。
無理に祓わなくても、避難経路へ入ってこない。
レイジは、その光を見ていた。
名を固定していない。
それなのに、ソウリンとの接続は切れていない。
契約の感覚も、確かに残っている。
「……応えるのか」
誰にも聞こえないほど小さく呟く。
返事はない。
神の声など聞こえない。
正しい教義も。
何を信じろという命令も。
ただ、光だけがある。
それで十分だった。
*
《理の水面》では、白い世界がゆっくり薄れていた。
「ユウリくん」
ミオが立ち止まる。
足元に映っていた月が消える。
冥府の岸。
星図。
知らない神殿。
一つずつ、水面の奥へ沈んでいく。
「戻ってる?」
ユウリはスマホを見る。
> 《SURFACE EXPOSURE:DECREASING》
「たぶん」
> 「今度はその判断でいい」
アヴィが答えた。
白い水面の向こうに、金色の光が見えた。
さっきまで複数の輪郭に裂けていたものではない。
もっと単純な。
朝のような光。
「レイジさん?」
ミオが呟く。
「行こう」
ユウリが手を差し出す。
ミオは一瞬だけその手を見る。
それから掴んだ。
水面が揺れる。
今度は沈むのではない。
足元から白が透けていく。
石畳。
逆さに映っていた鳥居。
提灯。
人影。
現実側の景色が、上からではなく足元から戻ってくる。
ユウリはミオの手を離さない。
次の瞬間。
祭りの音が戻った。
いや。
もう、祭りの音とは呼べない。
遠くのざわめき。
誘導の声。
荷物を片づける音。
そして。
「ユウリ!」
レンの声。
身体が一気に重くなる。
ユウリは石畳へ片膝をついた。
「っ……」
「おい!」
レンが駆け寄る。
その後ろにトウマ。
ミオもよろめいたが、ユウリの肩へ手を置いて踏みとどまった。
「濡れてない」
レンが二人の足元を見る。
「やっぱり」
「そこ確認する?」
「他に何見ればいいか分かんねえんだよ」
レンの声が少し震えていた。
トウマは何も言わず、ユウリの肩を一度だけ軽く叩く。
「遅い」
「ごめん」
「星宮は?」
ミオが自分で答える。
「います」
「見れば分かる」
「確認です」
ほんの少しだけ、トウマの口元が緩んだ。
ユウリは顔を上げる。
鳥居の向こう。
レイジが立っていた。
その背後に、朝陽がある。
「……変わった」
ユウリが呟く。
金色円環は、もう巨大な神の輪郭を作っていない。
ただ、光になっている。
レイジがこちらを見る。
「戻ったか」
「うん」
それだけ。
今は互いに、それ以上を訊かなかった。
ユウリのAVISが振動する。
> 《神格現界率:低下》
光が少しずつ薄くなる。
木々の色が夜へ戻る。
続いて。
> 《神域固定:解除》
御柱の周囲に張られていた構文線が、一つずつ消えていった。
「解除……」
レンが画面を見る。
「失敗したってこと?」
「違う」
レイジが答えた。
迷いのない声だった。
ユウリも光を見る。
神域が消える。
けれど、その中を歩いて境外へ出た人たちは残っている。
知らない神名を口にしていた少年も。
身体へ重なった痛みに苦しんでいた老人も。
普通の道へ戻った路地も。
起きたことは消えない。
朝陽が鳥居の向こうへ引いていく。
最後まで、声はなかった。
説教も。
別れの言葉も。
やがて、夜が戻った。
星が見える。
提灯だけが、また境内で一番明るいものになった。
ソウリン大御神は帰っていった。
*
人の波がほとんど境外へ抜けた頃、レイジは御柱の前に座っていた。
白い注連縄の一部は外れ、祭具もいくつか倒れている。
ユウリは少し離れた場所から、それを直そうとはしなかった。
今は、まだ。
隣ではミオが石段の縁に腰を下ろしている。レンとトウマが少し離れたところにいて、アヴィはスマホの画面で黙っていた。
レイジが口を開く。
「天瀬」
「何?」
「俺は、間違っていたのか」
ユウリはすぐに答えなかった。
ソウリンは来た。
本当に。
人を救った。
神域を安定させた。
苦しんでいた人間を楽にした。
それは間違いではない。
でも。
一つの名前だけを正しいものとして固定しようとした時、神域は壊れかけた。
ユウリは考えたあと、答える。
「分からない」
レイジが小さく息を吐く。
「また、それか」
「うん」
「便利な言葉だな」
「便利だから言ってるわけじゃないよ」
レイジがこちらを見る。
「じゃあ何だ」
ユウリは鳥居の向こうを見る。
もう朝陽はない。
「僕には、レイジが神を呼んだことまで間違いだったとは思えない」
少し間を置く。
「でも」
レイジの視線が動く。
「ソウリン大御神が偽物だったとは思わない」
「ああ」
即答だった。
そこだけは揺れていない。
ユウリも頷く。
「他の名前も、偽物だとは思わない」
レイジは答えなかった。
御柱を見る。
そこには最初から、神名を書いていなかった。
最後に自分がソウリンと呼んだ。
その名に応えたものはいた。
けれど、その光には別の神話へ続く線もあった。
全部を一つにすることはできなかった。
全部を無関係にすることもできなかった。
レイジの手が、膝の上でゆっくり開く。
「俺は」
そこで止まる。
続きは言わなかった。
ユウリも待った。
無理に答えを出させる必要はない。
少し離れた場所で、半分だけ残った提灯が風に揺れた。
レイジは長いあいだ、その明かりを見ていた。




