↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
84/85

第十一節 ― 名が違っても、照らしてくれ

 金色の円環が、また大きく歪んだ。


 朝陽だったものへ白い光が重なり、その内側を別の輪郭が横切る。冠を戴いた王。巨大な神面。女神を思わせる白い姿。燃える円盤。


 どれかへ定まろうとするたび、別の何かが押し返す。


 レイジは御柱の前から動かなかった。


「東側、参拝客を下げろ!」


「はい!」


「石段は使わせるな。境外の平地へ回してくれ。走らせるな!」


 若い神職たちが応じる。


 祭りのために開かれていた参道を、人々が逆方向へ流れていく。子どもの手を引く母親。何度も背後を振り返る学生。事情が分からないまま、神職の指示に従う老人。


 ほんの少し前まで、焼きそばや射的の順番を気にしていた人たちだ。


 その頭上で、神域が崩れかけている。


 レイジは歯を食いしばった。


 もう一度、呼べる。


 正しい名を。


 契約者である自分が、もう一度。


 ソウリン大御神。


 朝陽の大御神。


 その名へ祭祀構文を集め、他の照応を退ければ――。


 指がわずかに動いた。


 祝詞の形を取る。


 だが、止めた。


 さっき起きたことが、まだ身体に残っていた。


 名を強めた瞬間、神域は確かに一度安定した。


 そして、その直後に衝突した。


 ソウリン。


 アマテラス系太陽構文。


 光明神格。


 王権神格。


 アウロ=ルクスの部分残響。


 同じではない。


 けれど、無関係でもない。


 一柱の名へ押し込めようとした時、それらは消えなかった。


 ぶつかった。


「神楽坂さん!」


 声に振り向く。


 神域に救われた少年が、母親と一緒に参道の脇にいた。


 避難の流れが詰まり、まだ境外へ出られていない。


 少年はもう、知らない神名を口にしていない。


 母親の手を握っている。


 さっきまで、その光に救われていた。


「こっちへ!」


 レイジは自分で走った。


 親子の前へ入り、人の流れを整理する。


「大丈夫です。急がなくていい。前を見てください」


「レイジさん、あの子は――」


 母親が不安そうに空を見る。


「また、戻ったりしませんか」


 少年が喉へ手を当てた。


 レイジは一瞬だけ言葉に詰まった。


 絶対に大丈夫だとは言えない。


「今は止まっています」


 だから、それだけ答えた。


「境外へ出るまで、こちらで見ます」


 母親が深く頷く。


 少年がレイジを見る。


「神様、怒ってるの?」


 レイジは頭上を見上げた。


 光は激しく揺れている。


 人間なら、怒っているようにも見える。


 苦しんでいるようにも。


 何かを取り合っているようにも。


「……分からない」


 口から出た言葉に、自分で少し驚いた。


 少年は不満そうに眉を寄せる。


「神社のお兄ちゃんなのに?」


「神社のお兄ちゃんでも、分からないことはある」


「ふうん」


 納得したのかどうかは分からない。


 それでも少年は母親に手を引かれ、避難の列へ戻った。


 レイジはその背中を見送る。


 その時。


 境内の端で黒いものが立ち上がった。


 半透明の獣のような影。


 祭りの動画や声、神名の混線から残った小さな偽神格残滓だ。


 光の揺らぎに引かれるように、人の列へ向きを変える。


「下がれ!」


 レイジが腕を上げる。


 契約構文を開こうとして。


 また止まる。


 光が不安定なままでは、強い神格権能を重ねればさらに照応を増やす可能性がある。


 それでも人を守らなければならない。


 何を呼ぶ。


 どの名で。


 何を正しいものとして。


 円環が軋む。


 偽神格残滓が一歩進む。


 その向こうで、小さな子どもが泣いている。


 レイジは御柱を見た。


 自分が立てた柱。


 自分が呼んだ神。


 そこへ確かに来たもの。


 人を救った朝陽。


 レイジは一度だけ、深く息を吸った。


「ソウリン大御神」


 名を呼ぶ。


 それは捨てなかった。


 捨てる理由もなかった。


 自分が信じてきた神だ。


 応えてくれた神だ。


 少年を救い、老人の痛みを静め、歪んだ路地を戻した。


「俺は」


 声が少し掠れた。


「あなたを、そう呼ぶ」


 円環が揺れる。


 けれど、レイジは続きを急がなかった。


 白い女神の輪郭が浮かぶ。


 炎の円盤。


 王。


 光。


 朝。


 どれも否定しない。


 それらを消そうともせず、レイジは頭上の神域を見つめた。


「名が違っても構わない」


 自分で口にしてから、胸の奥に痛みが走った。


 簡単な一言ではない。


 これまで信じてきたものの一部を、自分の手でほどく言葉だった。


 それでも。


 避難している人々を見る。


「今ここにいる者を、照らしてくれ」


 静かだった。


 祝詞も続けなかった。


 神の正しさを説かなかった。


 命じもしなかった。


 ただ、願った。


 金色の円環が止まる。


 一瞬。


 何も起きない。


 次に。


 光がほどけた。


 王の輪郭が薄くなる。


 白い女神も。


 神面も。


 炎の円盤も。


 消えたというより、互いを押し退けるのをやめた。


 残ったのは、朝陽だった。


 ただの光に近い。


 夜なのに、東の空から朝が差している。


 それは境内を満たし、石畳の上へ一本の道を作った。


「……道?」


 神職の一人が呟く。


 境外へ続く避難経路だけが、柔らかく照らされている。


「そっちへ誘導しろ!」


 レイジが叫ぶ。


「光の中を通してください!」


 人々が動き始める。


 誰も跪かない。


 誰も祈ることを要求されない。


 神名を知らない者も、その光の中へ入る。


 子どもを抱いた父親。


 友人同士の学生。


 屋台の店員。


 杖をついた老人。


 先ほどの少年と母親。


 朝陽は、誰かを選ばなかった。


 少年が光へ入る。


 喉を押さえる様子はない。


 母親が何度も振り返り、それからレイジへ頭を下げた。


 偽神格残滓が、避難路へ近づく。


 だが朝陽へ触れる直前、その輪郭が崩れた。


 焼かれたのではない。


 黒い影の方が、光を避ける。


 一歩。


 また一歩。


 人のいない森側へ退いていく。


 別の残滓も同じだった。


 無理に祓わなくても、避難経路へ入ってこない。


 レイジは、その光を見ていた。


 名を固定していない。


 それなのに、ソウリンとの接続は切れていない。


 契約の感覚も、確かに残っている。


「……応えるのか」


 誰にも聞こえないほど小さく呟く。


 返事はない。


 神の声など聞こえない。


 正しい教義も。


 何を信じろという命令も。


 ただ、光だけがある。


 それで十分だった。


 *


 《理の水面》では、白い世界がゆっくり薄れていた。


「ユウリくん」


 ミオが立ち止まる。


 足元に映っていた月が消える。


 冥府の岸。


 星図。


 知らない神殿。


 一つずつ、水面の奥へ沈んでいく。


「戻ってる?」


 ユウリはスマホを見る。


> 《SURFACE EXPOSURE:DECREASING》


「たぶん」


> 「今度はその判断でいい」


 アヴィが答えた。


 白い水面の向こうに、金色の光が見えた。


 さっきまで複数の輪郭に裂けていたものではない。


 もっと単純な。


 朝のような光。


「レイジさん?」


 ミオが呟く。


「行こう」


 ユウリが手を差し出す。


 ミオは一瞬だけその手を見る。


 それから掴んだ。


 水面が揺れる。


 今度は沈むのではない。


 足元から白が透けていく。


 石畳。


 逆さに映っていた鳥居。


 提灯。


 人影。


 現実側の景色が、上からではなく足元から戻ってくる。


 ユウリはミオの手を離さない。


 次の瞬間。


 祭りの音が戻った。


 いや。


 もう、祭りの音とは呼べない。


 遠くのざわめき。


 誘導の声。


 荷物を片づける音。


 そして。


「ユウリ!」


 レンの声。


 身体が一気に重くなる。


 ユウリは石畳へ片膝をついた。


「っ……」


「おい!」


 レンが駆け寄る。


 その後ろにトウマ。


 ミオもよろめいたが、ユウリの肩へ手を置いて踏みとどまった。


「濡れてない」


 レンが二人の足元を見る。


「やっぱり」


「そこ確認する?」


「他に何見ればいいか分かんねえんだよ」


 レンの声が少し震えていた。


 トウマは何も言わず、ユウリの肩を一度だけ軽く叩く。


「遅い」


「ごめん」


「星宮は?」


 ミオが自分で答える。


「います」


「見れば分かる」


「確認です」


 ほんの少しだけ、トウマの口元が緩んだ。


 ユウリは顔を上げる。


 鳥居の向こう。


 レイジが立っていた。


 その背後に、朝陽がある。


「……変わった」


 ユウリが呟く。


 金色円環は、もう巨大な神の輪郭を作っていない。


 ただ、光になっている。


 レイジがこちらを見る。


「戻ったか」


「うん」


 それだけ。


 今は互いに、それ以上を訊かなかった。


 ユウリのAVISが振動する。


> 《神格現界率:低下》


 光が少しずつ薄くなる。


 木々の色が夜へ戻る。


 続いて。


> 《神域固定:解除》


 御柱の周囲に張られていた構文線が、一つずつ消えていった。


「解除……」


 レンが画面を見る。


「失敗したってこと?」


「違う」


 レイジが答えた。


 迷いのない声だった。


 ユウリも光を見る。


 神域が消える。


 けれど、その中を歩いて境外へ出た人たちは残っている。


 知らない神名を口にしていた少年も。


 身体へ重なった痛みに苦しんでいた老人も。


 普通の道へ戻った路地も。


 起きたことは消えない。


 朝陽が鳥居の向こうへ引いていく。


 最後まで、声はなかった。


 説教も。


 別れの言葉も。


 やがて、夜が戻った。


 星が見える。


 提灯だけが、また境内で一番明るいものになった。


 ソウリン大御神は帰っていった。


 *


 人の波がほとんど境外へ抜けた頃、レイジは御柱の前に座っていた。


 白い注連縄の一部は外れ、祭具もいくつか倒れている。


 ユウリは少し離れた場所から、それを直そうとはしなかった。


 今は、まだ。


 隣ではミオが石段の縁に腰を下ろしている。レンとトウマが少し離れたところにいて、アヴィはスマホの画面で黙っていた。


 レイジが口を開く。


「天瀬」


「何?」


「俺は、間違っていたのか」


 ユウリはすぐに答えなかった。


 ソウリンは来た。


 本当に。


 人を救った。


 神域を安定させた。


 苦しんでいた人間を楽にした。


 それは間違いではない。


 でも。


 一つの名前だけを正しいものとして固定しようとした時、神域は壊れかけた。


 ユウリは考えたあと、答える。


「分からない」


 レイジが小さく息を吐く。


「また、それか」


「うん」


「便利な言葉だな」


「便利だから言ってるわけじゃないよ」


 レイジがこちらを見る。


「じゃあ何だ」


 ユウリは鳥居の向こうを見る。


 もう朝陽はない。


「僕には、レイジが神を呼んだことまで間違いだったとは思えない」


 少し間を置く。


「でも」


 レイジの視線が動く。


「ソウリン大御神が偽物だったとは思わない」


「ああ」


 即答だった。


 そこだけは揺れていない。


 ユウリも頷く。


「他の名前も、偽物だとは思わない」


 レイジは答えなかった。


 御柱を見る。


 そこには最初から、神名を書いていなかった。


 最後に自分がソウリンと呼んだ。


 その名に応えたものはいた。


 けれど、その光には別の神話へ続く線もあった。


 全部を一つにすることはできなかった。


 全部を無関係にすることもできなかった。


 レイジの手が、膝の上でゆっくり開く。


「俺は」


 そこで止まる。


 続きは言わなかった。


 ユウリも待った。


 無理に答えを出させる必要はない。


 少し離れた場所で、半分だけ残った提灯が風に揺れた。


 レイジは長いあいだ、その明かりを見ていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。