第十節 ― 質問が逆だった
二人が進むたび、白い水面に波紋が広がった。
先ほどまで次々に浮かんでいた校舎も、駅も、知らない神殿も、今は見えない。空と水の境目すらない白の中で、ユウリとミオの足音だけがかすかに返ってくる。
スマホの画面には、アヴィがいる。
接続は切れていない。
けれど位置情報は相変わらず定まらず、AVISの表示にはいくつもの保留記号が並んでいた。
ミオが足を止める。
「さっきの……」
「うん」
「神様の名前」
ミオは自分の胸元へ手を置いた。
「全部、違うって出たんですよね」
「少なくとも、ミオ本人との同一判定は全部消えた」
「でも」
白い水面を見下ろす。
「まだ、いる感じがします」
ユウリは答えなかった。
分かる、とは言えない。
けれど先ほどから、水面のあちこちに神話の断片は残っている。
月。
朝陽。
暗い岸。
星図。
誰かの手。
どれもミオそのものではない。
それでも、彼女の周囲から離れない。
「アヴィ」
> 「何だ」
「もう一回、照合できる?」
> 「何と何を」
「ミオと、さっき出た神名」
アヴィが少し黙った。
> 「また同じことやるのか?」
「確認したい」
> 「まあいい」
画面が切り替わる。
> 《TARGET:星宮ミオ》
> 《MYTH CORRESPONDENCE SEARCH》
最初の名前。
> 《AMATERASU》
水面に朝陽が映る。
白い光。
暖かさはない。
ただ、眩しい。
ミオが目を細める。
「……これ?」
「まだ」
解析が進む。
> 《部分構文検出》
> 《対象本人との神格同一性:NO》
> 《照応取消》
朝陽が崩れた。
水の中へ落ちるように消える。
「違う」
ユウリが呟く。
次。
> 《HECATE》
白い水面が暗くなる。
三方向へ分かれる道。
遠くに灯り。
境界。
夜。
何かを選ぶ直前のような感覚だけが残る。
ミオがその光景を見つめる。
解析。
> 《部分構文検出》
> 《対象本人との神格同一性:NO》
> 《照応取消》
道が消える。
「違う」
また次。
> 《MUMIST》
水。
深い青。
沈んでいく名前。
戻らない記憶。
ユウリが見たことのないはずの光景なのに、なぜか胸の奥へ重さだけが残る。
> 《部分構文検出》
> 《対象本人との神格同一性:NO》
> 《照応取消》
「これも」
ミオが言う。
「違いますね」
「うん」
アルテミス。
違う。
イザナミ。
違う。
ネリュエ。
違う。
一つずつ名前を入れる。
一つずつ何かが映る。
そして。
一つずつ、ミオ本人へ届く前に切れる。
完全な無関係ではない。
何かは反応する。
でも、その何かを辿っていっても、最後にミオそのものが出てこない。
ユウリは眉を寄せた。
「変だ」
> 「何が」
「全部、同じだ」
> 「だから複数照応なんだろ」
「違う」
ユウリは画面を見たまま首を振った。
「そうじゃなくて」
検索履歴を遡る。
アマテラス。
ヘカテー。
ムーミスト。
アルテミス。
イザナミ。
ネリュエ。
神名から始めて。
属性を辿って。
神格構文を辿って。
最後にミオへ届くか調べる。
ずっと。
同じ順番だった。
「……違う」
> 「何が」
「僕ら」
ユウリは顔を上げた。
「ずっと順番を逆にしてた」
ミオがこちらを見る。
アヴィも黙る。
「どういうことですか」
「僕ら、ずっと」
ユウリは言葉を選ぶ。
「どの女神がミオの中にいるのかって探してた」
「……はい」
「アマテラスなのか。ヘカテーなのか。ムーミストなのか。それとも、いくつも混ざってるのか」
ミオの指先が、浴衣の胸元を少し強く掴む。
「でも、どれから始めてもミオには届かない」
> 「それはさっきから出てる」
「だったら」
ユウリは白い水面を見る。
「女神が最初じゃないんじゃないか」
アヴィの表情が変わった。
画面上で、解析窓が一つ開く。
「ミオに神様が入ったから、こうなったんじゃない」
ユウリは続ける。
「先に、何かあった」
「何か……」
「神様が映り込めるものが」
足元へ波紋が走る。
朝陽が映った。
すぐ隣に月。
さらに暗い岸。
星図。
どれも触れ合わない。
混ざりもしない。
ただ、同じ水面へ映っている。
ユウリは息を止めた。
「これだ」
ミオも水面を見る。
「水面……?」
「神様がミオの中にいるんじゃなくて」
言いかけて、ユウリは止まる。
断定しすぎるな。
ここが何なのか、まだ分かっていない。
それでも。
順番だけなら確かめられるかもしれない。
「アヴィ」
> 「今やってる」
返事が早かった。
画面上で検索軸が切り替わる。
神名照合ではない。
残っている反応の時系列。
ミオの記録。
神格残滓。
上位構文反応。
取得できる範囲のログが、一本の線へ並べ直される。
> 《CAUSAL ORDER RECHECK》
ミオがユウリの隣へ近づいた。
「分かるんですか」
> 「因果そのものまでは保証できない」
アヴィが答える。
> 「でも、どっちが先に検出されてたかなら追える」
表示が流れる。
古い順。
新しい順。
神格残滓の反応。
その手前。
もっと手前。
名前のついていない異常値。
「これ」
ユウリが指を止める。
神格名がない。
女神照応もない。
ただ。
> 《外部高位構文接触》
その記録だけがある。
さらに後。
> 《神格残滓反応:発生》
アヴィがもう一度照合する。
別のログ。
同じ。
別の観測。
また同じ。
画面が一度白くなる。
そして。
> 《神格:原因ではありません》
ミオが息を止めた。
次。
> 《外部高位構文接触:先行》
その下。
> 《神格残滓流入:後発》
誰も、すぐには話さなかった。
白い水面の上へ、波紋だけが広がっている。
「……先」
ミオが呟いた。
「私が、神様に触れたんじゃなくて」
「たぶん」
ユウリは慎重に答える。
「少なくとも、順番は違った」
アヴィが補う。
> 「神格反応より先に、別の高位構文接触がある」
「それが、《理》?」
> 「そこは名前しかつけられない」
アヴィは即座に線を引いた。
> 「正体は分からない。でも神格構文より先行してるのは確認できる」
ユウリは水面を見た。
月が映る。
月そのものではない。
月を持つ女神の残滓かもしれない。
朝陽。
冥府の岸。
星図。
それらが同じ場所に映っている。
「じゃあ」
ユウリはゆっくり言う。
「先に、この水面があった」
ミオが見つめる。
「ミオが何かに触れて」
白い水面へ視線を落とす。
「それで、ここが開いた」
アヴィは否定しない。
「そのあとで」
今度は水面に浮かぶ月を見る。
「神格残滓が入ってきた」
ミオの顔が強張った。
「私が、呼んだんですか」
「それは分からない」
ユウリはすぐに答えた。
「呼んだのか。勝手に映ったのか。何で集まったのかも」
> 「そのあたりは証拠不足」
アヴィも続ける。
> 「なぜミオだったのかも、今のログじゃ出ない」
ミオは少し俯いた。
「でも」
ユウリは言う。
「神様がミオを作ったわけじゃない」
ミオの目が上がる。
「少なくとも、今分かった順番だと」
ユウリは画面を見る。
> 《神格:原因ではありません》
その一行はまだ残っている。
「女神が先じゃない」
アマテラスではない。
アルテミスでもない。
ヘカテーでも。
イザナミでも。
ムーミストでも。
それらを混ぜたものでもない。
ミオがいて。
ミオが何かへ触れて。
そのあとで、神々の残滓が流れ込んだ。
白い水面が静かに揺れる。
「じゃあ」
ミオが言った。
声は小さい。
「私は、何なんですか」
ユウリは口を開いた。
すぐに答えかけて。
止まった。
星宮ミオだよ。
そう言えばいい気がした。
間違ってはいない。
ユウリにとっては、それで十分でもある。
でも。
今、ミオが訊いているのは、そういうことではない。
自分の中で何が起きたのか。
なぜ自分なのか。
これから何になるのか。
本人が一番分からないままなのに、隣にいる自分が簡単な一言で蓋をしていい問いではなかった。
ユウリは少し考えた。
「分からない」
ミオの睫毛が揺れた。
ユウリは目を逸らさない。
「ごめん。でも、そこはまだ分からない」
白い水面へ、二人の姿が映っている。
逆さのユウリ。
逆さのミオ。
女神の姿にはならない。
ただの二人だ。
「でも」
ユウリは続ける。
「“どの女神か”を探すのは、もうやめよう」
ミオが黙って聞いている。
「アマテラスなのか。ヘカテーなのか。誰の器なのか。何人分入ってるのか」
一度、息を吐く。
「最初から、質問が違ったんだ」
ミオはすぐには答えなかった。
足元へ目を落とす。
水面に、また月が映る。
今度は名前を呼ばない。
ミオも。
ユウリも。
ただ、月として見ている。
やがてミオが小さく言った。
「……少しだけ」
「何?」
「楽です」
顔はまだ笑っていない。
不安も消えていない。
「女神じゃないって分かっても、何なのか分からないのは怖いです」
「うん」
「でも」
水面を見る。
「どれかを選ばなくていいなら」
そこで言葉を止める。
自分で確かめるように。
「今は、その方がいいです」
ユウリは頷いた。
「うん」
アヴィが画面の中で腕を組む。
> 「質問を変えたところで、答えが急に出るわけじゃないけどな」
「分かってる」
> 「ならよし」
「何で偉そうなの」
> 「解析担当だからだ」
ほんの少しだけ、ミオが笑った。
その直後。
白い水面の向こう側で、金色の光が大きく揺れた。
ソウリンの神域。
現実側。
遠いはずなのに、その崩れかけた朝陽だけが水面へ映り込む。
ユウリが顔を上げる。
「レイジ」
戻らなければならない。
こちらで一つ、順番が分かった。
けれど現実では、まだ神の名が衝突している。
ミオも同じ光を見る。
「行きましょう」
「歩ける?」
「はい」
少し間を置いて。
「まだ、分からないままですけど」
「僕も」
二人は並んで歩き出す。
白い水面に、二人分の波紋が広がる。
その後ろで。
月も。
朝陽も。
冥府の岸も。
誰の名前にも固定されないまま、静かに揺れていた。




