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第九節 ― 理の水面

 白い水面は、石畳の上を広がっていった。


 水なのに、濡れない。


 ユウリの靴底を越えても、冷たさも重さもなかった。ただ、白い膜の下へもう一つ世界があるように、提灯の明かりが逆さに映り込んでいる。


 赤い灯。


 鳥居。


 木々。


 人影。


 全部が反転している。


 しかも、映っているだけではなかった。


 揺れている。


 現実側では風に揺れていない提灯まで、水面の中ではゆっくり歪んでいた。


「ミオ」


 ユウリは肩を支えたまま呼ぶ。


 返事がない。


 ミオは立っている。


 それなのに、足元から少しずつ遠ざかっているように見えた。


「ミオ?」


 もう一度。


 今度は、まぶたが動く。


「ユウリ、くん」


 声が遅れて届いた。


 すぐ隣から聞こえたはずなのに、広い部屋の向こう側から呼ばれたように遠い。


 周囲の音も同じだった。


 祭りの太鼓。


 笛。


 人の声。


 神職たちの呼びかけ。


 何も消えてはいない。


 ただ、一枚ずつ薄い壁を挟まれていく。


「水面が広がってる」


 レンが言った。


 声はまだ近い。


 ユウリが振り返る。


 レンとトウマは白い水面の縁に立っていた。二人とも足元を見ている。


 トウマがしゃがみ、指先を近づける。


「触るな」


 レイジが鋭く止めた。


 トウマの手が止まる。


「分かってる」


 そう返しながら立ち上がる。


 水面は二人の足元にも達していた。


 けれど、やはり濡れてはいない。


 境界すら曖昧だった。


 さっきまで石の色だった場所が、いつの間にか白い鏡になっている。


 ユウリはスマホを見る。


> 《上位構文接触》


> 《LOCALIZATION:FAILED》


「アヴィ」


> 「位置が取れない」


「神宮にいるだろ」


> 「端末の物理座標はな」


 画面の中でアヴィが険しい顔をしている。


> 「この水面の方は、そういう話じゃない」


 ユウリはミオを見る。


 彼女の足が。


 沈んでいた。


「ミオ!」


 白い水面が足首まで上がっている。


 いや。


 違う。


 水が上がっているのではない。


 ミオの身体が、水面の下へ落ちている。


「待って」


 ミオ自身も気づいたらしい。


 ユウリの腕を掴む。


「私、動いてないです」


「分かってる」


 腰を支える。


 引く。


 身体は重くない。


 むしろ、手応えがなかった。


 人間一人を引き上げようとしているのに、何も持っていないような感覚だけが手のひらに残る。


「トウマ!」


「やる」


 すぐにトウマが動いた。


 ミオへ伸びている何かがあるなら切る。


 そう判断したのだろう。


 けれど、腕を伸ばしかけたところで止まる。


「……線がない」


「何?」


「接続が見えない」


 トウマが水面を睨む。


「切れるものがない」


 ミオの膝が沈む。


 浴衣の裾も、白い水面へ入っていく。


 それでも濡れない。


 布は水面を越えた瞬間、向こう側へ続いているようにしか見えなかった。


「引っ張れ!」


 レンがユウリの肩を掴む。


 二人で支える。


 ミオの身体は止まらない。


「なんでだよ!」


 レンが力を込める。


「引っ張ってるだろ!」


> 「物理的に落ちてるわけじゃない!」


 アヴィが叫ぶ。


「じゃあ何なんだよ!」


> 「分からん!」


 短く、強い声だった。


 ごまかしではない。


 本当に解析できていない。


 ユウリは歯を食いしばる。


「ミオ、僕の手見える?」


「見えます」


「離さないで」


「はい」


 ミオの指が、ユウリの手首へ食い込む。


 それだけは確かだった。


 人の手だった。


 冷たい神格残滓でも、光でもない。


 ミオの手。


 なのに、肩まで水面へ沈み始める。


「天瀬!」


 レイジの声。


 振り向く。


 その瞬間、鳥居の向こうで金色の円環が大きく歪んだ。


 ソウリンの神域。


 朝陽。


 金色の王。


 白い女神。


 神面。


 複数の輪郭が一度に重なり、光が激しく明滅する。


 神職たちの声が上がった。


「御柱が!」


「東側の注連縄、下がれ!」


 レイジの顔が強張る。


 現実側でも異常が進んでいる。


 神域の輪郭が崩れ始めていた。


 参拝客のいる境内側からも悲鳴が聞こえる。


 さっきまで人を癒やしていた朝陽が、不安定に揺れている。


「レイジ!」


 ユウリが叫ぶ。


 レイジはミオを見る。


 次に、崩れかける神域を見る。


 一歩。


 こちらへ踏み出しかける。


 その足が止まった。


 ユウリには分かった。


 来たいのだ。


 ミオが何へ沈んでいるのか、確かめたい。


 さっき自分が投げた問いの答えも。


 けれど。


「神楽坂さん!」


 神職の一人が呼ぶ。


 金色の光が、境内の屋根へ大きく傾いた。


 レイジが奥歯を噛む。


「……くそ」


 初めて聞くような声だった。


 視線をユウリへ戻す。


「天瀬」


「うん」


「俺は残る」


 ユウリは答えなかった。


 答える必要がなかった。


 向こうには、まだ人がいる。


 祭りの客。


 神職。


 少年。


 老人。


 レイジが帰した神によって救われた人たち。


 今、その神域を支えられるのは彼だ。


「行け」


 レイジが言った。


「ミオを」


 続きは言わない。


 ユウリも頷くだけだった。


 ミオの顔が、水面のすぐ下まで沈む。


「ユウリくん」


 声がかすかに震える。


「大丈夫」


 反射で言いかける。


 またやめた。


「一緒に行く」


 ミオが目を見開く。


「でも」


「一人で行かせない」


 ユウリは手を離さなかった。


 レンが肩を掴んでいる。


「おい」


「レン」


「何」


「離して」


「は?」


「たぶん、僕まで引かれてる」


「だから離せないだろ!」


「違う」


 ユウリは水面を見る。


 もう膝下まで沈んでいる。


 ミオを掴んだから引きずられているだけではない。


 白い水面の向こうから。


 自分の方にも、何かが開いている。


「僕が行かないと」


「何で分かるんだよ」


「分からない」


 レンが顔をしかめる。


「じゃあ行くなよ!」


「でも、ミオはもう行く」


 その言葉で。


 レンの手が止まった。


 ミオの目だけが、水面の中からこちらを見ている。


 ユウリはレンを見る。


「ここで僕だけ残る方が無理だ」


「……っ」


 レンが何か言おうとする。


 トウマが横から腕を掴んだ。


「久遠」


「離せよ」


「お前まで入ってどうする」


「でも」


「出口が分からない」


 トウマは白い水面を見る。


「人数を増やすな」


 レンが黙る。


 正しい。


 だから余計に腹が立つような顔だった。


「戻ってこいよ」


 やっとそれだけ言う。


 ユウリは頷く。


「うん」


> 「ユウリ」


 アヴィ。


「一緒に来る?」


> 「端末持ってるの、お前だろ」


「そうだった」


> 「こんな時に抜けるな」


「そっちが言う?」


> 「ユーザーの平常運転確認だ」


 少しだけ、いつものアヴィだった。


 それで足が動いた。


 ユウリは自分から一歩、水面の奥へ踏み込む。


 石畳が消える。


 身体が落ちた。


 浮遊感は一瞬だった。


 冷たさはない。


 水圧も。


 息苦しさもない。


 ただ、上下がなくなる。


 ミオの手だけを強く握る。


 遠くで。


「天瀬!」


 レイジの声。


 次の瞬間。


 祭りの音が消えた。


 *


 着地した感覚はなかった。


 ユウリは立っていた。


 白い水面の上に。


「……え」


 足元を見る。


 靴が沈んでいない。


 濡れてもいない。


 それなのに、踏めば波紋だけが広がる。


 白。


 どこまでも。


 空も白い。


 いや。


 空と呼んでいいのか分からない。


 水面との境界が見えない。


 水平線がない。


 遠くなればなるほど空と水が同じ色になり、どこまでが上で、どこからが下なのか区別できなくなる。


 ミオが隣にいた。


 浴衣姿のまま。


 膝も裾も濡れていない。


「ミオ」


「……はい」


 返事はすぐ近くから聞こえた。


 ユウリは少しだけ息を吐く。


「大丈夫?」


「分かりません」


 ミオは正直に答えた。


 その言葉に、妙に安心する。


「僕も」


「そこは大丈夫って言ってくださいよ」


「さっき言いかけてやめたから」


「今なら言ってもいいのに」


 ほんの少しだけ。


 ミオの口元が動く。


 笑ったのかどうかは分からない。


「アヴィ?」


 ユウリはスマホを見る。


 画面はついている。


 ただ、表示のほとんどが白い。


> 《CONNECTION:ACTIVE》


> 《POSITION:UNDEFINED》


「いる?」


> 「いる」


「解析」


> 「嫌な言葉を簡単に言うな」


「できない?」


> 「対象が何なのか決められない」


 アヴィが画面の奥を睨んでいる。


> 「場所として見ると座標がない。システムとして見ると階層が合わない。神域として見ると神格がいない」


「じゃあ何」


> 「だから分からん」


 ユウリは顔を上げる。


 白い水面。


 何もない。


 そう思った。


 波紋が走る。


 景色が映った。


「……神宮」


 足元。


 水面の中に、天御柱神宮がある。


 さっきまでいた境内。


 倒れかけた祭具。


 走る神職。


 レイジ。


 御柱の前に立ち、崩れる光へ何かを叫んでいる。


 音は聞こえない。


「レイジさん」


 ミオがしゃがむ。


 手を伸ばしかけ。


 止める。


 触れても届かないと感じたのだろう。


 景色が揺れる。


 消えた。


 代わりに。


 校舎。


「星綴……?」


 見慣れた校舎。


 窓。


 教室。


 廊下。


 放課後の光。


 一瞬だけ、誰もいない自分たちの教室が映る。


 机。


 椅子。


 それも消える。


 次は、神狭駅。


 改札。


 ホーム。


 人の波。


 電光掲示板。


 ユウリが毎日のように見てきた景色。


 そこへ見覚えのないホームが一瞬重なり。


 すぐに水面へ溶けた。


「記憶?」


 ユウリが呟く。


> 「決めるな」


 アヴィがすぐに止める。


> 「お前の記憶だけなら、ミオの側に知らないものが出る説明がつかない」


「まだ出てないだろ」


> 「出る」


「何で分かるの」


> 「もう出てる」


 ユウリが水面を見る。


 そこにあったのは。


 神殿だった。


 知らない。


 少なくとも、ユウリは一度も見たことがない。


 石造り。


 巨大な列柱。


 屋根は高く、けれど日本の神社でも、西洋の神殿でもない。


 柱へ刻まれた紋様も読めない。


「これ……」


 ミオも首を振る。


「知りません」


 景色が変わる。


 荒れた大地。


 空に、二つあるようにも見える光。


 遠くに黒い塔。


 一瞬。


 消える。


 次。


 壁画。


 人。


 神。


 獣。


 何か巨大なものを囲む無数の姿。


 どの神話画にも見える。


 どの神話画とも違う。


 ユウリは目を凝らす。


「地球の……?」


> 「照合できない」


 アヴィが答える。


> 「少なくとも、今のデータベースにそのまま一致する図像はない」


 それ以上は言わなかった。


 ユウリも名前をつけなかった。


 景色はすぐに崩れる。


 白い水面へ戻る。


「ここ」


 ミオが呟いた。


「前より広いです」


「前?」


 ユウリが見る。


 ミオは自分の足元を見ている。


「水面」


 ゆっくりと。


「今までは、もっと……遠かった」


 言葉を探す。


「見えるだけだったり。触ったと思ったら戻ったり」


 白い波紋が足元から広がる。


「でも今は」


 顔を上げる。


「ここにいる」


 ユウリは周囲を見る。


 何もない白。


 その下から。


 また何かが浮かぶ。


 月。


 巨大な月が、水面のすぐ下を通る。


 クレーターのある現実の月ではない。


 銀色の円。


 その縁だけが細く光り、誰かの横顔にも見える。


 ミオの呼吸が止まる。


「アルテミス?」


 口に出しかけた。


 ユウリは止める。


「名前、つけない方がいい」


 ミオがこちらを見る。


「……そうですね」


 月が消える。


 今度は朝日。


 水平線がないのに、朝日だけが昇る。


 ソウリンの光にも似ている。


 けれど同じだとは言えない。


 次。


 暗い岸。


 黒い水。


 向こう岸だけが見えない。


 死者の国。


 そう考えた瞬間に、別の景色へ変わる。


 星図。


 無数の点。


 線。


 けれど、ユウリの知る星座には繋がらない。


 白い手。


 何かを掴もうとしている。


 仮面。


 顔のない面。


 その次には。


 感情だけが来た。


 悲しい。


 と思った。


 理由はない。


 次の瞬間には、怒り。


 そのあと、懐かしさ。


 知らない場所への懐かしさ。


 ユウリは胸を押さえる。


「何だ、これ」


> 「感情構文かもしれない」


「かも?」


> 「感情そのものか、記録に付随した反応か、神格残滓か、区別できない」


 声がした。


 遠く。


 女の声。


 言葉までは聞き取れない。


 また別の声。


 低い男の声。


 子ども。


 老人。


 祈り。


 泣き声。


 笑い声。


 どれも一瞬だけ。


 人格としては現れない。


 誰かがこちらへ歩いてくることもない。


 顔もない。


 ただ、断片だけが水面へ映っては消える。


「……やめて」


 ミオが言った。


 ユウリが振り向く。


 彼女は両耳を塞いでいた。


「ミオ」


「分からない」


 息が浅い。


「これ、どれが」


 周囲を見る。


 月。


 朝陽。


 岸。


 星図。


 手。


 仮面。


 知らない風景。


 学校。


 神社。


 駅。


 すべてが一度に映り始める。


「どれが私なんですか」


 ユウリは言葉を失う。


 ミオの足元から、さらに波紋が広がる。


 そのたびに別の像。


 白い女神。


 ではない。


 女神の名前すらない。


 ただの光。


 ただの月。


 ただの死。


 ただの手。


 それらを見て、ミオ自身が意味を探そうとしてしまう。


「アマテラス」


 ミオが呟く。


 朝陽が揺れる。


「アルテミス」


 月。


「ヘカテー」


 夜と道。


「イザナミ」


 暗い岸。


 一つ名前を口にするたび、それらしく見える。


 でも、次の瞬間には崩れる。


「違う」


 ミオが首を振る。


「全部、違う」


 両手を握る。


「でも全部、私の中にあるみたいで」


「ミオ」


「私があれなんですか」


「違う」


 ユウリは即答した。


 ミオが止まる。


「さっき出ただろ」


 スマホを示す。


「神じゃないって」


「でも」


「少なくとも、あれを全部ミオだって決める必要はない」


 ユウリは一歩近づく。


 足元へ波紋が広がる。


「見えるからって、自分とは限らない」


 ミオがユウリを見る。


 その目が揺れている。


「じゃあ、何なんですか」


 同じ問い。


 レイジへ返した言葉。


 今度は、自分からユウリへ。


 ユウリは答えられなかった。


「……分からない」


 ミオの顔がわずかに歪む。


 ユウリは続ける。


「でも、分からないなら」


 一度、言葉を切る。


「分からないまま見よう」


 ミオが黙る。


「今ここで、一番それっぽい名前に決めるのはやめよう」


 白い水面へ視線を落とす。


「さっき、それやって神域が壊れかけた」


> 「学習したな」


 アヴィが言う。


「うるさい」


> 「褒めたのに」


 ほんの少し。


 ミオの肩から力が抜ける。


 けれど次の瞬間。


 水面全体が震えた。


 ユウリのスマホが強く震える。


> 《DEEPER LAYER:OPEN》


「……何」


> 「知らん」


「また?」


> 「まただ」


 白い世界の奥。


 水平線のない場所に。


 一点だけ。


 黒でも白でもない影が生まれる。


 形はない。


 入口のようにも見えない。


 ただ、水面に深さができた。


 ミオがそちらを見る。


 顔色が変わる。


「……あそこ」


「分かる?」


「はい」


 一歩。


 ミオが進む。


 ユウリが腕を掴む。


「待って」


 ミオが振り向く。


「呼ばれてる?」


「違います」


 少し考える。


「たぶん」


 また言い直す。


「呼ばれてるんじゃない」


 胸元へ手を置く。


「私が」


 言葉が止まる。


 白い水面が、静かになる。


「私が、知ってる気がするんです」


 その先を。


 ユウリは手を離さなかった。


 アヴィの画面には、解析不能の表示だけが残っている。


 背後では、神宮も。


 学校も。


 駅も。


 知らない神殿も。


 全部が水面の底へ沈んでいく。


 ミオが一歩進む。


 ユウリも隣を歩く。


 白い波紋だけが、二人の足元から広がっていった。

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