第八節 ― 神ではない少女
最初に異変へ気づいたのは、ユウリではなかった。
「……ミオ?」
レンの声に振り向く。
ミオが、その場にしゃがみ込んでいた。
片手を石畳につき、もう片方で胸元を押さえている。浴衣の袖が地面へ触れそうになっても、直す余裕がないらしい。
「どうした?」
ユウリが駆け寄る。
「分かり、ません」
返ってきた声が掠れていた。
ミオは息を吸う。
けれど、胸の奥まで入らないように途中で止まる。
「急に……近くて」
「何が?」
「いっぱい」
それしか言えなかった。
ユウリも膝をつく。
「立てる?」
「少し、待ってください」
ミオが目を閉じた。
額に細かな汗が浮いている。
ただ、倒れそうというだけではなかった。
彼女の足元。
石畳の表面が、白くなっている。
「……何だ、それ」
トウマが低く言った。
光ではない。
霧でもない。
石の上へ、薄い膜を一枚敷いたような白。
ほんの靴一足分ほどだったものが、ミオの指先を中心にゆっくり広がる。
その表面が揺れた。
水面に似ている。
けれど、ミオの袖は濡れていない。
「アヴィ」
ユウリがスマホを出す。
「解析して」
> 「もうやってる」
返事と同時にAVISが開いた。
ミオへ向けた照合表示が走る。
> 《対象:星宮ミオ》
> 《神格残滓反応:急上昇》
> 《照応候補:複数》
「複数って……」
レンが画面を覗き込む。
表示の背後で、白い薄膜がまた揺れた。
文字が浮かぶ。
AVISの画面ではない。
ミオの周囲。
空気の中へ、名前だけが断片的に現れる。
> 《アマテラス》
ユウリの喉が詰まる。
次。
> 《アルテミス》
その下。
> 《ヘカテー》
少し離れて。
> 《イザナミ》
また別方向。
> 《ムーミスト》
> 《ネリュエ》
名前だけだった。
人影はない。
声もない。
それぞれの神格が現れたわけでもない。
ただ、名だけがミオの周囲を流れている。
「また……」
ミオが呟いた。
伏せていた顔を上げる。
「また、私を見てる」
誰が、とは言わない。
ユウリも訊かなかった。
神名が増える。
一つ消えては、別のものが現れる。
月。
太陽。
夜。
死。
水。
境界。
同じ場所へ収まらないはずのものが、ミオの周囲だけで次々に名前を持つ。
AVISの表示が変わった。
> 《女神照応候補:複数》
次。
> 《依代推定》
ユウリの指が止まる。
「依代……?」
レイジが反応した。
それまで神域の揺れを見ていた顔が、初めて完全にミオへ向く。
彼にとって、その表示は突飛なものではなかったのだろう。
ユウリは知っている。
レイジは以前から、ミオが神々の再臨と深く関わる存在だと考えていた。
一柱ではない。
複数の女神へ照応する少女。
神格を受け入れる器。
今の光景だけ見れば、その考えの方が自然に思える。
「やっぱり……」
レンが小さく呟いた。
ユウリは何も返せなかった。
ミオ自身も、表示を見ている。
苦しそうな顔のまま。
その目だけが、画面から離れない。
「私が」
喉が鳴る。
「何かの……?」
最後までは言わなかった。
ユウリも、言わせたくなかった。
「まだ推定だよ」
「でも」
「アヴィ」
少し強く呼ぶ。
「確定?」
> 「待て」
アヴィの返事が鋭かった。
> 「照応が多すぎる。先に分類が走ってる」
「先に?」
> 「候補が出たから、一番ありそうな箱に押し込んでるだけかもしれない」
画面上で解析表示が再び動く。
> 《RECHECK》
その文字が出た瞬間。
最初の名前が揺れた。
> 《アマテラス照応:取消》
ユウリは瞬きをした。
「……取消?」
続く。
> 《アルテミス照応:取消》
> 《ヘカテー照応:取消》
ミオの周囲に浮いていた神名が、一つずつ薄くなる。
> 《イザナミ照応:取消》
> 《ムーミスト照応:取消》
さらに別の候補も、表示される端から再照合に回されていく。
レイジがスマホへ近づいた。
「どういう意味だ」
> 「文字どおり」
アヴィは画面から目を離さない。
> 「似た構文は拾ってる。でも本人との神格同一性が通らない」
「なら、依代は?」
「アヴィ」
> 「今見てる」
白い薄膜がまた広がる。
ミオが短く息を呑んだ。
「ミオ?」
ユウリが肩へ手を伸ばす。
「触っていい?」
一瞬。
ミオが頷いた。
肩へ手を置く。
身体は冷たくない。
震えている。
ユウリはそれ以上、強く掴まなかった。
「大丈夫」
と言いかけて、やめた。
大丈夫かどうかなんて、分からない。
「ここにいるから」
代わりに言った。
ミオがほんの少しだけ、こちらを見る。
その間にもAVISは解析を続ける。
> 《依代判定:取消》
レイジの表情が変わった。
続く。
> 《神格転生判定:取消》
誰も口を挟まない。
> 《神格判定:取消》
祭りの音が遠く聞こえた。
太鼓。
笛。
参道のざわめき。
ほんの少し前まで、ミオはそこでラムネのビー玉に苦戦していた。
今、その少女の足元では、名前のつかない白い水面が広がっている。
画面が一度暗くなった。
アヴィも黙る。
「……何」
レンが訊く。
「何が出た?」
> 「待てって言ってる」
アヴィの声に、いつもの苛立ちとは違う硬さがあった。
再検索。
照応。
取消。
もう一度。
同じ結果。
神名候補は出る。
けれど、ミオそのものへは届かない。
そして最後に。
新しい一行が表示された。
> 《対象は神ではありません》
誰も動かなかった。
ユウリは一度読み。
もう一度読んだ。
見間違いではない。
ミオも見ている。
自分へ向けられた判定を。
「……神じゃ、ない」
彼女の声は小さかった。
「うん」
ユウリは答えた。
それ以上は言わなかった。
女神ではない。
神格の転生でもない。
少なくとも、このAVISはそう判定した。
だから何なのか。
そこまでは何も書いていない。
レイジが一歩前へ出た。
いつもなら、何かを判断した上で動く人間だ。
けれど今は違った。
目の前の表示とミオを交互に見る。
「あり得ない」
低い声だった。
否定というより、理解が追いついていない。
「これだけの神格残滓が」
ミオの周囲を見る。
「これだけの照応があって」
白い水面。
消えていく神名。
「それで、神ではない……?」
アヴィは答えない。
答えがない。
レイジの眉間に深く皺が寄った。
彼はミオを、これまでとはまるで違う目で見ていた。
神聖視ではない。
恐れているわけでもない。
自分が当然だと思っていた前提を、一つずつ剥がされた顔だった。
「なら……」
レイジが言う。
「何なんだ、君は」
ミオの肩が震えた。
ユウリは反射的にレイジを見る。
「レイジ」
「いや、違う」
レイジ自身も、すぐに気づいたらしい。
問い詰めるような声になったことへ。
けれど、もう言葉は出ていた。
ミオがゆっくり顔を上げる。
苦しそうに眉を寄せている。
それでも、レイジから目を逸らさなかった。
「それを」
一度、息を吸う。
「私に聞かないでください」
レイジが止まった。
ミオの声は強くない。
怒鳴ってもいない。
でも、その一言で彼は何も返せなくなった。
「……すまない」
短く言う。
ミオは首を振らなかった。
許すとも、気にしていないとも言わない。
胸元へ置いていた手を、ぎゅっと握る。
「私も」
言葉の途中で呼吸が乱れた。
ユウリが肩を支える。
ミオはそれを振り払わなかった。
「私も、知りたいです」
レイジを見る。
「私が何なのか」
そこに、神秘的な響きはなかった。
ただ、自分のことを知らない十七歳の少女の声だった。
「ずっと、知りたいです」
ユウリの手の下で、ミオの肩がまた震える。
「神様なのかって言われて」
一度、目を閉じる。
「器なのかって言われて」
白い水面へ、消えかけた女神名が映っている。
「でも違うって言われたら」
少しだけ笑おうとして、できなかった。
「じゃあ何なんですかって」
唇が震える。
「私だって、聞きたいです」
誰も答えられない。
ユウリも。
レイジも。
アヴィも。
画面にはまだ、
> 《対象は神ではありません》
という一行だけが残っている。
それは答えではなかった。
少なくとも、ミオが欲しかった答えではない。
「ミオ」
ユウリが名前を呼ぶ。
彼女がこちらを見る。
「今は、それでいいから」
続きを言おうとして。
足元で音がした。
水滴。
そんな音だった。
けれど雨は降っていない。
ユウリが下を見る。
白い薄膜が、ミオの足元だけではなくなっていた。
石畳を越え。
注連縄の影へ。
鳥居の方へ。
祭場の奥へ。
音もなく広がっていく。
「下がれ」
トウマが言った。
レンも一歩引く。
だが水面は追ってくるのではない。
ただ、世界の方へ染み出している。
白い。
鏡のような面。
その上へ提灯の明かりが映る。
逆さに。
鳥居も。
木々も。
人影も。
まだ誰の足も濡れていなかった。
ミオがその中心で、浅く息をしている。
ユウリは肩から手を離さなかった。
白い水面が、さらに広がった。




