終節 ― ここから先は、地上では維持できません
祭りは、中止になった。
誰かが大きな声で宣言したわけではない。
神職たちが参拝客へ事情を説明し、屋台が順番に火を落とし、境内へ張られていた規制の縄が避難誘導のために掛け替えられていく。その流れの中で、《天柱夏越祭》はいつの間にか終わっていた。
焼きそばの鉄板にはまだ熱が残っている。
射的の景品も棚に並んだまま。
半分だけ消えた提灯が、夜風に揺れている。
《天蓋石》の方では、倒れた祭具を神職たちが一つずつ拾っていた。白い注連縄も外れたままだった。
けれど。
石畳は濡れていない。
あれほど広がった白い水面の痕跡は、どこにも残っていなかった。
少なくとも、ユウリたちの周囲以外には。
「お母さん、帰ったらアイス食べていい?」
聞き覚えのある声がした。
ユウリが顔を上げる。
先ほどまで、夜になるたび知らない神名を口にしていた少年だった。
母親と手をつないで石段を下りようとしている。
「もう遅いから、明日ね」
「えー」
「今日は綿あめも食べたでしょ」
「神様のお祭りだからいいじゃん」
「神様を便利に使わないの」
母親が少し笑った。
少年も笑っている。
もう、知らない名前を口にしない。
母親が一度だけ振り返った。
レイジへ頭を下げる。
レイジも、小さく頭を下げ返した。
少年は気づかなかったらしく、そのまま母親の手を引いて石段を下りていった。
レイジは、その姿が見えなくなるまで立っていた。
ユウリには、彼が何を考えているのかまでは分からない。
ただ。
今日、神を呼んだこと自体まで間違いだったとは、レイジも思っていないのだろう。
あの少年は救われた。
痛みに苦しんでいた老人も。
半ば神話層に沈んでいた路地も。
ソウリン大御神は、本当に来た。
本当に応えた。
本当に、人を救った。
それは、消えない。
「ユウリくん」
隣から声がした。
振り向く。
ミオが石段の縁に座ったまま、立とうとしていた。
「待って」
ユウリはすぐに手を伸ばす。
「大丈夫です」
「いや、それ言う人はだいたい大丈夫じゃないから」
「ユウリくんもよく言いますよ」
「僕の話は今いい」
ミオが少し笑おうとした。
けれど、腰を浮かせた瞬間。
「あ……」
膝から力が抜けた。
ユウリが肩を支える。
「ミオ!」
倒れるまではいかなかった。
それでも、立てない。
「足、痛い?」
「痛くは……ないです」
「力入る?」
ミオは自分の膝へ手を置いた。
何度か確かめる。
「入ってる、はずなんですけど」
言葉が曖昧になる。
「立とうとすると、どこに立てばいいのか……」
「どこに?」
ミオも、自分でうまく説明できないらしい。
足元を見る。
そこでユウリも気づいた。
白い。
ほんの薄く。
ミオの足元だけに、水面が残っていた。
直径一メートルにも満たない。
石畳の模様も見える。
それでも確かに、水のような膜がある。
提灯の光だけが逆さに映っていた。
「……消えてない」
レンが駆け寄ってくる。
トウマもすぐ隣へ立った。
「星宮」
トウマが呼ぶ。
「聞こえる?」
「聞こえてます」
「気持ち悪いとか、目眩は」
「少し、ふわふわします」
「それ普通に具合悪いやつじゃん」
レンがしゃがむ。
「熱は?」
ユウリはミオの額へ手を当てかけ。
一瞬止まる。
「触るよ」
「はい」
額へ手を置く。
熱くはない。
冷たくもない。
「普通……だと思う」
> 「体温、正常域」
アヴィが補足する。
ユウリはAVISを開いた。
簡易生体情報。
呼吸。
脈拍。
どれも大きく逸脱してはいない。
「身体だけ見たら、そこまで変じゃない」
ユウリが呟く。
> 「身体だけならな」
アヴィの声が低い。
画面が切り替わる。
> 《上位構文接触:継続》
次。
> 《現在名安定率:低下》
ユウリの指が止まった。
「現在名……?」
ミオも画面を見る。
表示は続く。
> 《神格照応:対象外》
そして。
> 《分類不能》
「また、それ」
レンが小さく言った。
アヴィは返さない。
ミオの足元では、白い水面が消えない。
広がりもしない。
ただ、そこにある。
「ミオ」
ユウリが顔を見る。
彼女の焦点が、一瞬だけ合わなかった。
「……ミオ?」
「はい」
返事はある。
でも、少し遅い。
「僕の名前分かる?」
問いかけてから、自分でも嫌な質問だと思った。
ミオは少し眉を寄せる。
「天瀬ユウリくん」
「よかった」
「それは分かります」
「学校は?」
「星綴高等学園」
「レン」
「何で俺テスト項目みたいになってんの」
レンが言う。
ミオがそちらを見る。
「久遠レンくん」
「はい正解」
「トウマ」
「玻璃川トウマくん」
「……確認の仕方が雑だな」
「ごめん」
それでも。
名前を言えていることに、ユウリは少しだけ安堵した。
ミオはまだ、ミオだ。
少なくとも今は。
「アヴィ」
「何」
画面を見る。
「《現在名安定率》って、何」
> 「表示されてる以上のことは分からん」
「下がったらどうなる」
> 「だから分からん」
アヴィの声が硬い。
> 「名前を忘れるのか。名前との接続が薄くなるのか。現実側の参照が不安定になるのか。それとも別の意味か」
一度、表示を睨む。
> 「勝手に決めるな」
「……うん」
ミオがそのやり取りを聞いていた。
「私」
声が小さい。
「まだ、いますよね」
ユウリは答えようとした。
けれど。
ミオの身体から力が抜けた。
「ミオ?」
今度こそ、倒れた。
「ミオ!」
ユウリが抱き留める。
頭を石畳へ打つ前に支える。
「星宮!」
トウマがしゃがむ。
レンも反対側から肩を支えた。
「おい、ミオ!」
返事がない。
「アヴィ!」
> 「生体反応はある!」
画面。
呼吸。
脈拍。
どちらもある。
「意識レベルは?」
> 「分からん、俺は医療機器じゃない!」
ユウリはミオの頬へ触れる。
「ミオ」
もう一度。
「聞こえる?」
まぶたは動かない。
白い水面だけが、彼女の身体の下へ薄く広がっている。
「白羽根先生に――」
ユウリがスマホを操作しかけた、その時。
境外から複数の足音が聞こえた。
「何だ?」
レンが立ち上がる。
トウマの視線が鋭くなる。
神社の入口。
石段の下。
白い車両が止まっていた。
救急車のようにも見える。
けれど赤色灯はない。
車体に大きな組織名も書かれていない。
そこから白と灰色を基調にした装備の数人が降りてくる。
《アーカイヴ・ノア》。
ユウリはすぐに分かった。
実働班。
だが。
武器を構えてはいない。
境内へ走り込んでくるわけでもない。
先頭の人物が、神職へ何か短く説明する。
その後ろ。
見慣れた女性が歩いてきた。
「烏丸……」
マシロ。
レイジも彼女に気づいた。
御柱の前から歩いてくる。
ユウリは無意識にミオの肩を抱き直した。
マシロは、それを見た。
何も言わずに膝をつく。
まず、ミオを見る。
ユウリでも。
レイジでもない。
ミオ本人を。
「意識消失はいつからですか」
「今です。ほんの少し前」
「痙攣は」
「ない」
「呼吸停止」
「ない」
「嘔吐」
「してない」
マシロは頷く。
端末を取り出した。
ミオの身体へ直接触れる前に、ユウリへ目を向ける。
「確認します」
一言だけ。
ユウリは頷いた。
マシロが手首へ指を当てる。
脈。
次に瞳孔。
呼吸。
それから端末をかざす。
無機質な表示が並ぶ。
> 《理触反応:上昇》
マシロの指が止まる。
> 《地上固定:限界》
その目が、ほんの少しだけ細くなった。
> 《通常隔離:不適》
次。
> 《エデン・セル受入準備》
表情が変わった。
ほんのわずか。
普段のマシロを知らなければ、気づかなかったかもしれない。
眉が、わずかに寄った。
「何」
ユウリが訊く。
「どういう状態なの」
マシロはすぐには答えなかった。
白い水面を見る。
ミオの身体の下。
誰も濡らさず、現実の石畳だけを逆さに映している。
「烏丸」
レイジの声がした。
マシロが顔を上げる。
「連れていくつもりか」
声は静かだった。
敵意がないわけではない。
けれど、道を塞ぐようには立たない。
マシロも立ち上がらなかった。
「保護します」
「どこへ」
「《エデン・セル》」
レイジの目が細くなる。
ユウリも反応する。
知っている名前だ。
《アーカイヴ・ノア》の中枢。
白い地下都市。
「隔離か」
「通常隔離ではありません」
マシロが端末を示す。
> 《通常隔離:不適》
「地上設備では、理触反応を安定させられません」
「管理下へ置けば安定するのか」
「現状では、その可能性が最も高い」
「可能性」
「断言はしません」
レイジが黙る。
以前なら、その答えを弱さと受け取ったかもしれない。
今は違う。
彼は少しだけ視線を下げた。
ミオを見る。
「本人は」
そこで止まる。
答えは分かっている。
意識がない。
聞けない。
マシロは目を逸らさなかった。
「現在、意思確認はできません」
その一言が、妙に重かった。
ユウリもミオを見る。
何をしたいか。
どこへ行きたいか。
誰に診てほしいか。
本人へ聞くことができない。
だからといって、何もしないままここに寝かせておくこともできない。
足元の水面は消えていない。
AVISには、
> 《現在名安定率:低下》
が残っている。
「天瀬」
レイジが呼んだ。
ユウリが顔を上げる。
レイジは何も言わない。
決めろ、とも。
行くな、とも。
管理機構を信用するな、とも。
ただユウリを見る。
判断を渡してくる。
いや。
ミオの代わりに何もかも決めろという顔でもなかった。
今、この瞬間に何をするか。
そこだけ。
ユウリは息を吐いた。
「マシロ」
「はい」
「ここにいたら」
一度、ミオを見る。
「どうなる」
「分かりません」
マシロは即答した。
「ただし、《地上固定:限界》は悪化傾向です」
「エデンなら?」
「安定化処置を行えます」
「ミオが嫌だって言ったら?」
マシロが一瞬止まる。
「意識回復後に、本人の意思を確認します」
「今は?」
「今は、保護を優先します」
淡々とした言葉。
でも、ごまかしてはいない。
本人に聞けない。
その上で、マシロは連れていくと決めている。
ユウリは、それを完全に正しいとは思えなかった。
完全に間違いとも言えなかった。
「僕も行く」
マシロを見る。
「ミオだけは行かせない」
「構いません」
即答だった。
ユウリは少しだけ意外に思った。
「止めないんだ」
「今は、あなたのAVIS解析も必要になる可能性があります」
「僕じゃなくてアヴィ目当て?」
> 「感じ悪いな」
アヴィが久しぶりに口を挟んだ。
でも、声にいつもの勢いはない。
マシロは画面を一度見る。
「どちらもです」
「そっか」
レンが立ち上がった。
「じゃあ俺も行く」
「久遠」
「何」
マシロが見上げる。
「今から?」
「そうだけど」
「あなたは保護対象ではありません」
「知ってる」
「同行の必要性も――」
「友達だからある」
レンが言った。
マシロが黙る。
「俺、邪魔なら入口で止まる。でも途中までは行く」
「俺も」
トウマが続けた。
「玻璃川さんまで」
「久遠一人だと余計なことする」
「なんで俺の監視役なの?」
「必要だろ」
「否定しづらいのやめろ」
ほんの少しだけ、いつもの空気が戻る。
すぐに消えた。
マシロは二人を見たあと。
「車両への同乗までは許可します」
「までは?」
「その先は認証があります」
「はいはい、管理社会」
レンが言う。
マシロは反応しなかった。
《アーカイヴ・ノア》の実働班が、担架を運んでくる。
白い。
けれど拘束具は見えない。
マシロは隊員へ短く指示を出し、自分でもミオの頭側へ回った。
持ち上げる前。
レイジがもう一度言う。
「烏丸」
マシロが振り向く。
「何だ」
「彼女を」
一瞬、言葉が止まる。
守れ。
そんな命令をする資格が、自分にあるのか。
レイジ自身が考えたように見えた。
「……頼む」
結局、そう言った。
マシロは頷く。
「そのために来ました」
ミオが担架へ移される。
身体の下の白い水面も、一緒に移動した。
「……動いてる」
レンが息を呑む。
担架の脚の下。
車輪が進むたび、白い薄膜がついていく。
地面を濡らさない。
ただ、ミオの真下にだけ存在する。
マシロの端末が警告を出した。
> 《理触反応:上昇》
彼女の足が止まる。
もう一度、数値を見る。
「烏丸?」
レイジが呼ぶ。
マシロは端末を伏せた。
「ここから先は」
一度、ミオを見る。
「地上では維持できません」
ユウリの背中が冷えた。
「どこへ連れていくんですか」
分かっている。
さっき名前は聞いた。
それでも訊いた。
マシロはユウリを見る。
「安全な場所です」
一拍。
「少なくとも」
ほんの少しだけ声が変わった。
「私たちは、そう設計しました」
それ以上は言わなかった。
担架が石段を下りていく。
ユウリもその横を歩く。
途中で、一度だけ振り返った。
レイジは鳥居の内側に残っている。
白い装束。
倒れた祭具。
消えかけた提灯。
終わった祭り。
その全部の中に、一人で立っていた。
夜空。
東の端が、一瞬だけ明るくなった。
朝焼けのような淡い金色。
ソウリン大御神の神域は、もう解除されている。
それでも確かに、そこだけ朝の色だった。
レイジが見上げる。
そして。
静かに頭を下げた。
誰へ向けたものなのか。
ユウリには分からなかった。
訊くこともしなかった。
*
白い車両の扉が閉まる。
外の祭り跡が見えなくなった。
車内は静かだった。
ミオは中央の固定ベッドに横たわっている。
身体を縛るものはない。
ただ、ベッドの下。
薄い白の水面だけが消えていない。
マシロはその横で端末を確認している。
レンとトウマは後方の座席。
さっきまでなら、レンが何か一つくらい言っていたはずだ。
今は、誰も話さない。
ユウリはミオの隣へ座った。
手へ触れる。
温かい。
普通の人間の手だ。
「ミオ」
返事はない。
スマホが震えた。
ユウリは画面を見る。
> 《DESTINATION》
一拍。
> 《EDEN CELL》
アヴィが表示の隅にいる。
いつもの毒舌も。
軽口も。
今日は出てこなかった。
車両が動き始める。
窓の外。
天御柱神宮の灯りが、少しずつ遠ざかっていった。
神は帰ってきた。
けれど、その夜、誰も神の名をひとつには決められなかった。




