第六節 ― 神は、どの名前で帰ってきた?
最初の違和感は、異変と呼ぶにはあまりに小さかった。
朝陽の神域が安定してから、まだ数分しか経っていない。夜の天御柱神宮では祭りが続き、金色の光に助けられた少年は母親と一緒に休んでいた。老人も長椅子へ腰を下ろし、久しぶりに身体の置き場所が分かったような顔で、祭りの人波を眺めている。
鳥居の向こうには、夜の中の朝がまだ残っていた。
巨大な金色円環。その中心に立つ輪郭。
冠を戴いた人影にも、神面にも、昇る太陽そのものにも見える。見る位置によって姿が変わること自体は、再臨した直後から分かっていた。
だからユウリも、最初は気にしなかった。
スマホが震えるまでは。
> 《神格再解析》
画面を開く。
> 《主要照応:ソウリン大御神》
そこまでは変わらない。
ユウリは一度だけ息を吐いた。
しかし、その下に見覚えのない行が追加された。
> 《追加照応検出》
続いて、文字列が展開される。
> 《アマテラス系太陽構文》
> 《太陽王権構文》
> 《アウロ=ルクス残滓:部分一致》
> 《その他光明・朝陽構文》
「……レイジ」
呼ぶと、少し離れたところで神職と話していたレイジが振り向いた。
ユウリが画面を見せる。
表示を読んだレイジの眉が、わずかに動いた。
「補助照応だ」
「大丈夫なの?」
「複数の神話構文へ照応すること自体は珍しくない」
声は落ち着いている。
実際、ユウリもそれは知っていた。
一つの神格が、一つの象徴だけを持つとは限らない。光、太陽、王、守護。似た性質を持つ神話同士に部分的な照応が出ることも、これまでのAVIS解析で何度も見てきた。
レイジは鳥居の向こうを見た。
「主要照応は?」
「ソウリン大御神のまま」
「なら、今の段階で異常と判断する理由はない」
「アヴィ?」
> 「同意」
画面の端に現れたアヴィも、珍しく素直だった。
> 「少なくとも今はな」
「その言い方やめて」
> 「解析中なんだから断言できるか」
もっともだった。
ユウリはスマホを下ろす。
それから数十秒もしないうちに、また震えた。
> 《追加照応更新》
項目が一つ増える。
さらに、もう一つ。
「……増えてる」
レンが横から画面を覗き込んだ。
「さっきより?」
「うん」
数値そのものは小さい。主要照応であるソウリン大御神には遠く及ばない。
けれど、減らない。
少しずつ増えている。
何かが新しく発生しているというより、今まで読み取れていなかった線が次々に見つかっているようだった。
トウマが鳥居の方へ目を向ける。
「神域は?」
「安定してる」
ユウリは答えた。
少なくとも画面上ではそうだ。
> 《神格接続:安定》
> 《神域固定:維持》
危険表示はない。
警告音も鳴らない。
なのに、指先に残る感覚だけが消えなかった。
何かが変わり始めている。
「あれ」
ミオが小さく声を上げた。
視線を追う。
鳥居の近くで、浴衣姿の女性二人が朝陽を見上げていた。
「すごいね」
「なんか……天照大神みたい」
一人がそう言った。
ただの感想だった。
祈ったわけでもない。
祝詞を唱えたわけでもない。
友人へ思いついたことを口にしただけ。
その瞬間。
ユウリのAVISが震える。
> 《アマテラス系太陽構文:照応率上昇》
「……え?」
ユウリは女性たちを見る。
もちろん、二人は何も気づいていない。
「アヴィ、今のって」
> 「相関はある」
「聞いたから増えた?」
> 「そこまで単純に決めるな。もともと存在した照応が、観測によって拾われやすくなった可能性もある」
アヴィが画面の中で眉を寄せる。
> 「順番がまだ分からない」
ユウリはスマホを握り直した。
祭りの客は増え続けている。
神宮の上に現れた夜の朝陽は、当然もう隠せる規模ではなかった。参拝客の多くがスマホを向け、写真や動画を撮っている。
レンが自分の端末を見る。
「もう上がってる」
「何が?」
「動画」
画面をこちらへ向ける。
短い映像。
天御柱神宮の鳥居。
その向こうに浮かぶ巨大な金色円環。
投稿時刻は、ほんの数分前。
再生数が目に見えて増えている。
コメントも流れていた。
> 『アマテラス?』
> 『太陽神降臨してるじゃん』
> 『海外の太陽神っぽくも見える』
> 『宗教イベント? 演出にしては光おかしくない?』
> 『ゲームの○○みたい』
> 『これ加工?』
レンがスクロールするたび、新しい言葉が増える。
「もう転載もされてる」
「早すぎない?」
「今のネットなんてこんなもんだよ」
言いながらも、レンの顔は笑っていなかった。
「切り抜き、別角度、スロー再生。海外にも流れ始めてる」
またAVISが震えた。
> 《追加照応検出数:増加》
ユウリは顔を上げた。
金色円環の中心。
さっきまでそこには、冠を戴いた人影が立っていた。
少なくとも、今の角度からはそう見えていた。
瞬きをする。
白い。
「……あれ?」
金色の衣ではない。
白い衣。
長い髪のような光。
輪郭は女性にも見える。
両腕を広げたその背後に、太陽がある。
ユウリが半歩動く。
女神の姿が崩れた。
次には、炎の円盤。
赤ではない。
白金に近い火をまとった巨大な太陽盤が、神域の上に浮かんでいる。
「ユウリ」
ミオの声がした。
「見え方が……」
「うん」
また変わる。
炎の円盤。
神面。
金色の王。
朝日。
輪郭が安定しない。
最初から見る角度で姿は変わっていた。
けれど、今は違う。
角度を変えなくても変わる。
「変わってる」
ユウリは呟いた。
> 「見え方だけじゃない」
アヴィの声が低くなる。
画面を見る。
> 《主要照応:ソウリン大御神》
まだそこにある。
消えていない。
書き換えられてもいない。
だが、その下。
> 《アマテラス系太陽構文:上昇》
> 《太陽王権構文:上昇》
> 《アウロ=ルクス残滓:部分一致》
> 《光明神格構文:追加照応》
> 《朝陽神格構文:追加照応》
さらに下へ。
見慣れない候補が増えていく。
どれも、
> 《完全一致:NO》
だった。
「ソウリンじゃなくなってる?」
レンが訊く。
「いや」
ユウリより先にアヴィが答えた。
> 「主要照応は変わってない」
「じゃあ、何だよこれ」
> 「だから解析してる」
アヴィが苛立ったように返す。
トウマが円環を見たまま言った。
「別の神が混ざってきてるとか?」
> 「それも断定できない」
「使えねえな」
> 「分からないものを適当に埋めるより百倍マシだ」
「それはそう」
トウマはあっさり引いた。
そのとき、円環の下を何かが横切った。
ユウリは反射的にそちらを見る。
白い影。
四つ脚。
一瞬だけ、獣に見えた。
白豹。
そう思った瞬間には、もういない。
「今の……」
ユウリは言いかけて止まった。
アウロ=ルクス。
その名前が頭に浮かぶ。
だが、口には出さない。
先に名を置けば、それに合うものを見てしまう。
ついさっきまで、レイジ自身が警戒していたことだ。
「見えた?」
ミオが訊く。
「何かは」
「私も」
ミオも断定しなかった。
ユウリは《未署名の観測翼》を開く。
薄い光の翼が、スマホ画面から視界へ重なる。
神名を一度外す。
金色円環。
白い影。
王。
女神。
太陽。
朝。
いくつもの線が現れる。
ユウリは目を凝らした。
「置き換えは?」
レイジがすぐ近くまで来ていた。
「今のところ、出てない」
「偽神格反応」
「なし」
「ソウリンとの接続は」
画面を確認する。
「安定したまま」
レイジは円環を見上げた。
しばらく黙る。
「なら、まだ問題はない」
言葉は冷静だった。
ただ、その目は先ほどまでより長く光を追っていた。
「でも増えてる」
ユウリが言う。
「ああ」
「アマテラスも。アウロ=ルクスも」
「部分照応だ」
レイジは同じ答えを返した。
「神格同士で似た構文を持つことはある」
「この増え方でも?」
レイジが答えない。
その沈黙の間にも、参拝客のスマホが光る。
誰かが撮る。
誰かが投稿する。
誰かが遠くで見る。
誰かが知っている神の名前で説明する。
「アマテラスみたい」
「外国の神様じゃない?」
「ほら、こういう太陽の神いたよね」
祈りではない声が飛び交う。
ユウリの手の中で、AVISがまた震えた。
> 《追加照応検出》
金色の王が立つ。
次の瞬間には白い女神。
その向こうに炎の円盤。
神面。
朝陽。
どれも完全には同じではない。
どれか一つが偽物として押しのけられているわけでもない。
中心には確かに、レイジが呼んだ神がいる。
なのに、その周囲へ別の名前へ続く線が増えている。
ユウリはもう一度、画面を見た。
> 《主要照応:ソウリン大御神》
> 《追加照応:増加中》
> 《完全一致:NONE》
答えのように見える表示なのに、何も答えていなかった。
鳥居の向こうで、夜の朝陽が揺れた。




