第五節 ― 神に任せるという救い
朝陽は、消えなかった。
夜空には星が残っている。森の向こうでは提灯が赤く灯り、祭りのざわめきも続いている。それなのに《天蓋石》から鳥居へ伸びる参道だけは、夜明けの光に包まれていた。
御柱の背後に浮かぶ金色円環も、その中心に立つ輪郭も、まだそこにいる。
人に見える。
巨大な神面にも見える。
目を細めれば、ただ昇り続ける太陽そのもののようにも見えた。
けれど、今度は誰も姿だけを見てはいなかった。
「神楽坂さん!」
森の外から、若い神職が駆け込んできた。
レイジが振り返る。
「どうした」
「社務所前に、相談者が――いえ、その……」
言葉を探し、青年は一度後ろを見る。
「前から連絡を受けていた子です。今、症状が出ています」
レイジの表情が変わった。
「通してくれ」
「ですが、神域が――」
「だからだ」
短く答える。
そのまま鳥居の方へ歩き出した。
ユウリたちも後を追う。
祭場から表の境内へ戻ると、さっきまで普通の夏祭りだった場所にも変化が出ていた。
朝陽は《天蓋石》だけに留まっていない。
薄い金色の光が、境内の一部へ帯のように伸びている。
それでも祭りは止まっていなかった。
屋台の店員が不思議そうに空を見上げている。子どもたちは夜なのに明るくなったことを面白がり、スマホを向けている学生もいる。
何が起きているのか分からないまま、それぞれのやり方で受け止めている。
社務所の近くに、母親らしい女性がいた。
隣に、小学生くらいの少年。
母親は両肩を抱くようにして息子を支えている。
少年の唇が動いていた。
「――アシュ……レム……ソル……」
知らない言葉。
いや。
言葉なのかどうかも、ユウリには分からない。
「……ナ……エル……アト――」
一定ではなかった。
一つを繰り返しているのでもない。
別々の音が、途中で切れながら次々と出てくる。
少年自身は苦しそうだった。
目は開いているのに母親を見ていない。唇だけが、自分の意志とは関係なく動き続ける。
母親がレイジを見る。
「夜になると、ずっとこうなんです」
声が震えていた。
「最初は寝言だと思ってました。でも、起きてても……この前は、学校でも」
少年の口から、また知らない名が落ちる。
「アプリの通知が変になってからです。消しても、別の画面が出てきて……この子、神様なんて全然知らないのに」
ユウリはスマホを取り出した。
AVISを向ける。
> 《複数神名照応》
> 《本人認識との一致:LOW》
> 《強制参照:継続》
アヴィが画面の端に現れた。
> 「本人が呼んでるって感じじゃないな」
「止められる?」
> 「今までの方法なら、一つずつ切るか、接続元を探す」
少年の口がまた動く。
十個目なのか、百個目なのかも分からない神名。
母親がそのたびに肩を震わせる。
レイジは少年の前へしゃがんだ。
「少し、こちらへ来られるか」
少年から返事はない。
母親が迷う。
「危なくないですか」
「無理に何かを契約させることはしません」
レイジは彼女を見る。
「嫌なら、すぐにやめます」
母親は息子の顔を見た。
少年の口はまだ止まらない。
やがて小さく頷いた。
「お願いします」
レイジは少年を引っ張らなかった。
母親と一緒に、朝陽の届く場所まで歩く。
一歩。
二歩。
三歩。
少年の足が、金色の光へ入った。
「――エル……」
声が途切れた。
ユウリは息を止める。
少年の唇が開く。
けれど、次の名前が出てこない。
少年がゆっくり瞬きをした。
「……お母さん?」
母親の顔が崩れた。
「うん」
すぐに抱きしめる。
「うん、いるよ」
「なんで泣いてるの」
「なんでもない」
全然なんでもない声ではなかった。
少年は困った顔のまま、抱きしめられている。
ユウリはAVISを見る。
> 《強制参照:停止》
> 《神名発話:NONE》
アヴィも黙っていた。
レイジは少年へ触れない。
ただ、少し離れたところで二人を見ていた。
「治ったの?」
ユウリが小さく訊く。
レイジは首を横に振る。
「今、止まった。それ以上はまだ言えない」
その言い方に、ユウリは少しだけ目を見開いた。
奇跡が起きた直後なのに、レイジは奇跡を大きく言わなかった。
少年は母親の腕から抜け出すと、自分の喉を触った。
「もう変なの言わない?」
「今は大丈夫」
母親が答える。
「ほんと?」
「ほんと」
少年はそれだけで笑った。
その顔を見て、ユウリは画面を伏せた。
次に連れてこられたのは、年配の男性だった。
序節で石段を上がっていた老人だったことに、ユウリは途中で気づいた。
「あ」
老人も気づいたらしく、軽く手を上げる。
「さっきの子たちか」
「大丈夫ですか?」
ユウリが訊く。
「大丈夫じゃないから来たんだよ」
笑って答える。
冗談を言える程度には元気そうだ。
ただ、歩き方が妙だった。
右脚をかばうだけではない。ときどき肩や首まで強張り、何もない空間を避けるように身体を捻る。
レイジが老人を支えた。
「今日は無理して上がらないでくださいと言ったでしょう」
「祭りの日に家で寝てろってか」
「そうです」
「若いやつは年寄りをすぐ寝かせたがる」
「転ばれて救護へ運ぶ方が困るんです」
「言うようになったな、レイジくん」
老人は笑った。
けれど次の瞬間、顔が歪む。
右脇腹を押さえる。
「……来た」
ユウリがAVISを向ける。
> 《局所神話層重複》
> 《身体感覚への干渉:継続》
老人の身体そのものが傷ついているわけではない。
けれど、重なっている何かが痛みとして入り込んでいる。
そんな表示だった。
「薬も効かない日が増えてな」
老人が苦笑する。
「医者に行けば身体はそんな悪くないって言われる。でも痛いもんは痛い」
レイジが朝陽の方を見る。
「少しだけ、入ってみますか」
「神様の光ってやつか?」
「そう呼びたいなら」
「お前がそれ言うのか」
老人が笑いながら一歩進む。
光へ入る。
その瞬間、肩が下がった。
老人自身が一番驚いたようだった。
「あ……」
右脇腹から手を離す。
首を回す。
腕を上げる。
「痛くない?」
ミオが訊く。
「いや」
老人は正直に答えた。
「痛いよ」
もう一度肩を回す。
「ちゃんと痛い」
それでも笑った。
「……静かだ」
ユウリには、その違いがすぐには分からなかった。
老人は目を閉じる。
「今までは、痛い場所の後ろでもう一つ何かが鳴ってたんだよ。骨じゃない。筋でもない。どこが痛いのか、自分でも分からなくなるようなやつが」
ゆっくり息を吐く。
「それが、いない」
朝陽の中で立っている。
年を取った身体の痛みまで消す光ではない。
けれど、そこへ重なっていた余計なものだけが薄れている。
レイジは何も言わなかった。
老人も、神へ手を合わせなかった。
ただ、しばらくその場所に立っていた。
やがて境内の外から、神職がもう一人走ってくる。
「神楽坂さん。東側の路地を確認してもらえますか」
「何があった」
「いえ……何も、なくなりました」
「何?」
全員で境外へ出た。
祭りから一本外れた住宅地。
昼間なら、ただの細い生活道路だ。
けれどユウリは、その場所を知っていた。
数日前から、夜になると道の途中だけ景色が重なっていた。
アスファルトの上へ見知らぬ石畳が透けて見える。
街灯の奥に、存在しない柱廊が立つ。
曲がったはずなのに同じ場所へ戻る。
完全な神話層ではない。
現実の道路も残っている。
その二つが半端に重なったまま、どちらにもなりきれない場所だった。
今は。
「普通だ」
レンが言った。
アスファルト。
電柱。
自動販売機。
住宅の塀。
停められた自転車。
どこにでもある夜の路地だった。
ユウリはAVISを向ける。
> 《局所神話層重複:解除》
金色の光が、道の入口まで届いている。
強く照らしているわけではない。
ただ、朝が来る前の薄明かりのように、路地の輪郭を静かに戻していた。
「ここまで届くのか」
トウマが呟く。
「神域が広がってる?」
レンが訊く。
アヴィが少し考えるように間を置いた。
> 「広がってるのは確か」
「危なくない?」
> 「今のところ、現実層を押し潰してる反応はない」
それ以上は断定しない。
ユウリも画面から目を上げた。
ちょうどその時、近くにいた若い女性のスマホが何度も震えた。
「あれ?」
女性が画面を見る。
「止まった……」
ユウリたちを見るわけでもなく、独り言のように言う。
その隣にいた男性もスマホを出した。
「俺も」
二人の画面には、見覚えのある一般版AVIS。
ここしばらく、夜になると強制的に出続けていた警告や神格候補通知が消えている。
レンも端末を確認する。
「一般版のプッシュ、止まってる」
「全停止?」
「いや」
何度か操作する。
「自分で開けば使える。強制で飛んでこないだけ」
ユウリのAVISにも、周辺端末の状態が流れる。
> 《一般AVIS強制通知:一時停止》
誰かが設定を変えたわけではない。
管理者が止めたわけでもない。
周囲の構文ノイズそのものが下がっている。
その時。
路地の壁際で、黒いものが動いた。
「ユウリ」
ミオの声。
壁に貼られた古い祭りのポスター。
その前に、子どもほどの影が立っている。
輪郭が一定しない。
角のある獣。
人の顔。
鳥の嘴。
見るたびに姿が変わる。
小規模な偽神格残滓。
誰かの噂や、複数の神名が混ざったまま、形だけ残っていたもの。
それが金色の朝陽へ触れた。
影が身構えたように見えた。
ユウリも反射的にスマホを構える。
トウマが半歩前へ出る。
しかし、何も起きなかった。
光は焼かなかった。
斬らなかった。
押し潰しもしなかった。
ただ、影の輪郭から余計な線がほどけていく。
獣の角。
鳥の嘴。
人の目。
無理に一つへ重なっていたものが、薄い紙片のように離れていく。
そして、一枚ずつ光の中へ消えた。
最後には何も残らなかった。
「倒した……?」
レンが呟く。
レイジが首を振る。
「少なくとも、俺は何もしていない」
全員が朝陽を見る。
遠く。
鳥居の向こうに、巨大な金色円環がまだ見えている。
その中心の輪郭も。
ただ立っている。
命令も。
宣言も。
要求もない。
ユウリのスマホが震えた。
> 《神話構文安定率:上昇》
数字が動く。
周辺だけではない。
天御柱神宮を中心に、複数地点で同じ傾向が出ている。
少年の強制参照。
老人の神話層重複。
路地。
一般AVIS。
偽神格残滓。
別々に見えていたものが、同時に静まっていく。
ユウリは画面を見つめた。
反論する材料を探していたわけではない。
けれど、どこかに問題があるのではないかと身構えていた。
神が帰る。
神に任せる。
その言葉を聞くだけなら、危ういと思えた。
人間の代わりに決めるもの。
人間へ役割を与えるもの。
神話の中へ人を戻すもの。
そういう面を、ユウリは知っている。
けれど今、目の前にあるのは違った。
泣いていた母親が、息子の声を聞いて笑っている。
老人が自分の痛みを自分のものとして感じられている。
迷路になりかけていた路地が、ただの帰り道へ戻っている。
誰かが選択を奪われたわけでもない。
何かを信じろと迫られたわけでもない。
神が来たことで、楽になった人がいる。
それは、否定できなかった。
「ユウリくん」
隣でミオが言った。
彼女は鳥居の方を見ている。
浴衣の袖を、夜風が少し揺らした。
黒い空。
赤い提灯。
その間を通ってくる金色の朝陽。
ミオの頬にも薄い光が差している。
「きれいですね」
ユウリも同じ方を見る。
神の姿は、ここからではもうはっきり見えない。
ただ、祭りの向こうに朝がある。
「……うん」
それ以上は言わなかった。
言う必要もなかった。
祭りの音が聞こえていた。
笑っている人たちがいる。
神を知っている人も。
知らない人も。
信じている人も。
射的の景品しか気にしていない子どもも。
同じ光の下にいた。
そして今夜だけは、その光が本当に人を救っていた。




