第四節 ― 神は、祭りに帰ってくる
「――ソウリン大御神」
レイジが名を呼んだ。
それだけで、すぐに何かが起きたわけではなかった。
夜風が御柱の白い紙垂を揺らす。森の向こうでは祭りの太鼓が鳴り、神楽殿から続く笛の音が、木々の間を細く抜けてくる。
ユウリは息を詰めたまま、スマホを見ていた。
《未署名の観測翼》は開いたままだ。
> 《FIXED DIVINE NAME:NONE》
まだ変わらない。
御柱の周囲に置かれた祭具からは、細い照応線が伸びている。太陽。朝。光。守護。役。秩序。それぞれが別々のまま揺れ、どれか一つの名前へ強引に束ねられている様子はない。
レイジが一礼した。
神職たちが動く。
神楽が始まった。
最初に響いたのは、足音だった。
磨かれた石を踏む小さな音が、一定の間隔で祭場を巡る。そのあとに鈴が鳴る。鋭くも大きくもない。澄んだ一音が夜の空気へ入り、しばらく消えずに残った。
笛。
太鼓。
鈴。
祭りの表側で聞いたものと同じ楽器のはずなのに、ここではまるで違って聞こえる。
何かを盛り上げるための音ではない。
一つずつ、場所を確かめているような音だった。
レイジは御柱の前に立ったまま、祝詞を始める。
ユウリには、すべての言葉の意味までは分からない。
聞き取れるものもある。
朝。
光。
人の営み。
守り。
役。
そのどれも、まだソウリン大御神という固有名へ結びつけられていなかった。
ユウリは画面を見続けた。
> 《神格照応:SEARCHING》
一瞬、文字が揺れる。
> 《照応経路:複数》
「アヴィ」
> 「見てる」
いつもの軽口がない。
画面の中で、アヴィも御柱の方を向いていた。
> 「まだ名前は固定されてない」
「違うものは?」
> 「今のところ検出なし」
ユウリは小さく息を吐いた。
隣ではミオが、両手を前で重ねて神楽を見ている。
レンも黙っていた。
トウマは祭場の端に立ち、注連縄の内側と外側を交互に見ている。いつでも何かを切れるように構えているわけではない。ただ、その目だけは止まっていなかった。
祝詞が一段深くなる。
レイジの声が夜へ通る。
その瞬間。
スマホが震えた。
> 《神格照応》
ユウリの指が画面の縁を強く握る。
次の表示まで、妙に長く感じた。
> 《候補照合中》
祭場の空気が変わった。
風が止まったわけではない。
蝉の声も消えていない。
それなのに、音だけが少し遠くへ下がった。
「……来る」
ミオが呟いた。
ユウリが彼女を見る。
「分かるの?」
ミオはすぐには答えなかった。
自分の胸元へ手を当ててから、わずかに眉を寄せる。
「分かる、というより……」
御柱へ視線を戻した。
「何かが、近くなっています」
その言葉とほとんど同時だった。
AVISの表示が切り替わる。
> 《神格照応》
> 《ソウリン大御神》
ユウリの呼吸が止まった。
「出た」
レンが小さく言う。
レイジには聞こえていない。
祝詞を続けている。
その声に揺らぎはなかった。
> 《接続状態:照合中》
御柱の周囲へ置かれた祭具が、一つずつ淡く光り始める。
最初は、月明かりを拾ったのかと思った。
違った。
金色だった。
火の光ではない。
電灯でもない。
祭具そのものの奥から、朝の光だけを薄く切り取ったような色が滲み出している。
太陽。
次に、朝。
光。
守護。
役。
秩序。
置かれた順番ではなかった。
けれど一つが光るたび、御柱へ細い線が伸びる。
線は柱へ吸い込まれない。
柱を中心に、上へ向かっている。
「ユウリ」
アヴィの声。
画面を見る。
> 《接続安定》
> 《神格現界率:上昇》
数字が動き始めた。
低い値。
少しずつ。
確実に。
「偽神格は?」
> 「待て」
アヴィの目が細くなる。
観測翼の表示が広がった。
ユウリの視界へ、半透明の線が重なる。
御柱。
祭具。
レイジ。
神楽。
土地。
さらにその先。
何かへ続く線。
けれど、その先だけが眩しすぎて見えない。
ユウリは目を細めた。
そのときだった。
鳥居の向こうが明るくなった。
祭りの明かりではない。
東。
夜であるはずの方角。
そこから光が差している。
「……朝?」
レンの声が震えた。
「夜だぞ」
トウマが返す。
「知ってる」
空は黒い。
星もある。
森の向こうには提灯の赤い列が見えている。
なのに鳥居の向こう側だけ、水平線から太陽が昇る直前のような薄金色へ変わっていく。
朝陽だった。
夜の中に、朝だけがある。
それは空全体を昼へ変えるほど強い光ではない。
ただ、祭場へ至る一本の道だけを照らしていた。
神職の一人が祝詞を読みながら、一瞬だけ声を詰まらせた。
隣の者が続ける。
レイジは振り返らない。
けれど肩が、ほんのわずかに動いた。
見えている。
それでも儀式を止めない。
「続けてください」
祝詞の合間に、レイジが言った。
神職たちが息を整える。
神楽が続く。
金の光が鳥居を越えた。
境内へ。
注連縄の内側へ。
御柱へ。
光が触れた瞬間、柱の背後に円が生まれた。
最初は輪郭だけだった。
細い、金色の円。
それがゆっくりと広がる。
御柱よりも大きく。
人の背丈など簡単に越え。
木々の高ささえ超えて。
祭場の奥へ、巨大な日輪が立ち上がった。
ユウリは思わず一歩下がった。
眩しい。
けれど、目を閉じるほどではない。
見ろ、と言われているような光だった。
円環の中心に、何かが立っている。
人。
そう思った。
長い衣。
頭上に冠。
背筋を伸ばし、巨大な日輪を背負った誰か。
顔は見えない。
いや。
見えないのではない。
見ようとするたび、形が変わる。
ユウリが少し右へ動く。
人影が消えた。
そこには巨大な神面があった。
金色の面。
静かに閉じた口元。
人間の顔より遥かに大きいのに、圧迫感よりも、何かを見守るような静けさがある。
「……何だ、あれ」
レンが呟いた。
トウマが位置を変える。
「俺には人に見える」
「俺は面」
ミオが息を呑む。
「私は……」
言葉が止まる。
ユウリももう一度見る。
今度は人でも面でもなかった。
太陽。
昇る朝陽そのもの。
夜の森の中に、決して沈まない朝だけが切り取られて浮かんでいる。
「見え方が違う」
ユウリはスマホを持ち上げた。
「アヴィ」
> 「分かってる」
画面上でも輪郭が安定しない。
人型。
神面。
円環。
光。
表示が何度も切り替わる。
それでも、神名欄だけは変わらなかった。
> 《神格照応:ソウリン大御神》
ユウリは《未署名の観測翼》をさらに開いた。
視界の端が白くなる。
祭場を覆う無数の線が、一度ほどける。
固有名を剥いだ状態で、そこに何があるのかを見る。
太陽。
朝陽。
守護。
役。
秩序。
王権。
いくつもの構文が重なる。
だが。
どこにも、別の神格がソウリン大御神という名前を被せられている形跡がない。
何かを削って無理やり合わせた痕跡も。
外部から神名を書き込んだ形跡も。
ユウリは息を吐いた。
「……置き換わってない」
レイジの背中がわずかに動く。
儀式中でも聞いていたらしい。
「確かか」
「僕が見える範囲では」
断言しきらない。
それが自分の役目だった。
アヴィも続ける。
> 「少なくとも」
少し間を置く。
> 「呼んだ相手とはつながってる」
レイジが、ゆっくり顔を上げた。
巨大な円環を見る。
彼の唇がわずかに開く。
けれど言葉は出なかった。
スマホ。
> 《神格接続:安定》
次の一行。
> 《神域固定:成功》
ユウリは画面を見たまま動けなかった。
成功した。
その意味が、表示を読んだあとから追いついてくる。
偽神格ではない。
誤照応によって別の何かをソウリンだと思い込んでいるわけでもない。
神名を先に固定した結果、似た残滓を寄せ集めて作ったものでもない。
レイジが呼んだ。
そして、応えた。
ソウリン大御神が。
神楽が止まっていた。
誰かが止めたのではない。
神職たちの手が、自然に止まっていた。
鈴を持ったまま。
祝詞の紙を開いたまま。
誰も声を出さない。
祭場の外から聞こえる祭りの音だけが、妙に鮮明だった。
笑い声。
屋台の呼び込み。
太鼓。
子どものはしゃぐ声。
その全部が続いている。
すぐそばで、本当に神が帰ってきたことも知らずに。
レイジが一歩、御柱へ近づいた。
その足が止まる。
いつもの彼なら、何か言ったかもしれない。
神はいる。
人は神を忘れた。
だから帰すべきだ。
何度も語ってきた言葉がある。
けれど今、レイジは何も言わなかった。
ただ、見上げている。
ユウリはその横顔を見る。
驚いていた。
疑っていたわけではないはずなのに。
本当に信じていたはずなのに。
それでも、自分の信じたものが目の前へ現れれば、人は言葉を失うらしい。
レイジの目が細くなる。
両手を静かに下ろし、一度だけ深く頭を下げた。
周囲の神職たちも、それに続く。
誰かが泣いていた。
嗚咽するほどではない。
ただ、頬を伝ったものを拭おうともせず、巨大な金の輪を見上げている。
レンが小さな声で言った。
「……マジかよ」
トウマは何も答えなかった。
ミオも、ただ光を見ている。
ユウリはスマホを握ったまま、もう一度表示を確認した。
> 《神格照応:ソウリン大御神》
> 《接続安定》
> 《神域固定:成功》
表示は変わらない。
御柱の向こう。
夜の中の朝陽も消えない。
巨大な金色円環の中心で、人とも神面とも太陽ともつかない輪郭が、静かに祭りを見下ろしている。
神は、帰ってきた。




