第三節 ― 柱立ての儀
祭りの音は、森を一つ挟むだけで驚くほど遠くなった。
参道の提灯も、屋台の明かりも、木々の隙間から時折赤く覗く程度だ。太鼓と笛は聞こえているのに、人の声はもう一つ向こう側の出来事のようにぼやけていた。
レイジの後ろを歩きながら、ユウリはスマホの時刻を確認した。
祭りはまだ続いている。
レンが射的で取った菓子箱も、トウマが最後まで食べていたりんご飴も、ミオがようやく攻略したラムネ瓶も、ほんの少し前まで現実だった。
今は、白い装束の神職たちが静かに行き交う。
「ここから先、足元気をつけろ」
レイジが振り返った。
舗装された道が終わっていた。
古い石段を数段下り、その先を曲がる。木立が開けたところで、ユウリは足を止めた。
《天蓋石》。
祭りの表側とはまるで違う場所だった。
広場と呼ぶには狭く、境内と呼ぶには古すぎる。地面には長い時間を雨風に削られた石が露出し、その中心に一本の御柱が立てられている。
四方には白い注連縄。
柱の周囲には、いくつかの祭具と祭文が整然と配置されていた。
それでも、派手さはない。
むしろ、思っていたより空いて見える。
「……名前がない」
ミオが言った。
ユウリも、そこで気づいた。
御柱には文字がない。
神名も。
神紋も。
誰か一柱を示す印もなかった。
レンが柱を見上げる。
「再臨させるなら、普通は名前書くんじゃないの?」
「だから書いていない」
レイジは答えた。
近くにいた若い神職へ目を向ける。
「西側の縄、もう一度確認してください。祭具は配置後に動かさないように」
「はい」
神職が離れていく。
レイジはそれを見届けてから、ユウリたちへ向き直った。
「先に説明しておく」
「ちゃんと説明してくれるんだ」
レンが言った。
「隠してやる理由がない」
レイジは少し眉を寄せた。
「むしろ、お前たちには見てもらう」
その言葉に、トウマが周囲を見渡す。
「見物人に向いた場所には見えないけどな」
「見物じゃない」
レイジの視線がユウリで止まった。
「監視だ」
ユウリは瞬きをした。
「僕が?」
「ああ」
レイジは御柱へ歩み寄った。
中央の柱を指先で触れることはせず、その手前で止まる。
「《柱立ての儀》は、新しい神を作るための儀式じゃない」
夜風が注連縄を揺らした。
「ソウリン大御神を、ここへ無理やり引きずり出すものでもない」
「じゃあ、柱は?」
ミオが訊く。
「道標だ」
レイジは短く答えた。
「神格構文と現実の間に、一時的な接続点を作る。そのための柱だ」
レンが中央を覗き込む。
「アンテナみたいな?」
「その例えは好きじゃない」
「でも合ってる?」
「……完全に間違いとも言えないのが腹立たしいな」
レンが少し笑った。
トウマは柱の周囲へ視線を落としている。
「名前を置かずに、どうやって接続先を決める」
その問いに、レイジは祭具の一つを示した。
「最初から神名で呼ばない」
古い祭具。
形だけでは、ユウリには何のためのものか分からない。
その隣には祭文。
さらに別の位置には、光を受けるための器具。
「太陽」
レイジが言う。
次の祭具へ。
「朝」
また次へ。
「光」
白い布。
「守護」
祭文。
「役」
そして最後。
「秩序」
ユウリは御柱を見る。
名前はない。
あるのは、それらの性質だけ。
「神名じゃなくて、条件を置く?」
「近い」
レイジは頷いた。
「先に名前を書けば、その名前に合うものを集めてしまう可能性がある」
レンの表情から、少しだけ冗談が消えた。
ユウリにも分かった。
今まで何度も見てきた。
名前を先に決めたせいで、そこへ合う記録や神話残滓が引き寄せられる。
似た構造が、同じものとして扱われる。
誰かが想定した答えへ、現象の方が押し込まれていく。
「前なら、最初からソウリンって書いてた?」
ユウリが訊く。
レイジは少しだけ間を置いた。
「そうした方が安定すると思っていた」
「今は?」
「安定と正しさは、同じじゃない」
それだけ言った。
ユウリは続きを待ったが、レイジは説明を重ねなかった。
代わりに、御柱の周囲へ目を向ける。
名前のない柱。
属性だけを示す祭具。
最後に呼ぶ名だけを残している。
それが、レイジなりに出した慎重さなのだと分かった。
トウマが腕を組む。
「それでも最後は名前を呼ぶんだろ」
「ああ」
「結局、固定する」
「呼ばなければ、誰へ繋いだのか確認できない」
レイジは否定しなかった。
「俺はソウリン大御神を呼ぶ」
言い切る。
そこだけは迷わない。
「ただし、その名前に合う何かを先に作ってから、ソウリンだと言い張るつもりはない」
森の向こうで、祭りの歓声が上がった。
一瞬だけ、ここへ人の気配が戻ってくる。
すぐにまた、風と木々の音に飲まれた。
「偽神格」
レイジが続ける。
「誤照応」
「別の神格残滓が、呼ばれた名前へ寄ってくることもある」
ユウリのスマホが震えた。
アヴィが勝手に画面へ出ている。
> 《祭場構文を観測中》
「どう?」
ユウリが訊く。
> 「まだ始まってない」
「それは知ってる」
> 「なら聞くな」
「お前な」
レイジが小さく息を吐いた。
「その性格はどうにかならないのか」
> 「神様にでも頼め」
「今から頼む相手に余計な案件を増やすな」
ミオが口元を押さえて笑う。
緊張が少し緩んだ。
そのあとで、レイジはユウリを正面から見た。
「天瀬」
「うん」
「《未署名の観測翼》を使え」
ユウリはスマホを持ち直した。
「最初から?」
「最初からだ」
「何を見ればいい?」
「名前が、先に決まっていないか」
ユウリの指が止まる。
レイジは御柱を見る。
「祭場に置いてあるのは、太陽、朝、光、守護、役、秩序だ。そこから何へ照応するかは、儀式が進むまで確定させない」
「それを僕が見る」
「ああ」
レイジの声に迷いはなかった。
「もし、違うものが来たなら」
一拍。
「お前が見つけろ」
ユウリは思わず眉を寄せた。
「僕に止めろって?」
「違う」
すぐに返ってきた。
「違うと教えろ」
ユウリはレイジを見る。
その顔は真剣だった。
「止めるかどうかは、そのあと俺が決める」
「自分で?」
「俺の祭祀だ」
短い答えだった。
「俺がソウリン大御神を呼ぶ。なら、違うものが来た時に責任を持つのも俺だ」
誰かに判断を預ける言い方ではなかった。
信仰に任せるのでもない。
自分が呼ぶから、自分が確かめる。
それでも自分だけでは見落とす可能性があるから、ユウリへ頼む。
「信じてる神様なのに?」
ユウリは訊いた。
「疑うの?」
レイジは少し考えた。
「ソウリンを疑っているわけじゃない」
「じゃあ」
「俺を疑ってる」
ユウリは黙った。
レイジは続ける。
「人間が神を呼ぶ以上、人間の思い込みが混ざる」
視線を祭場へ戻す。
「俺が見たいものだけを見れば、何が来てもソウリンだと思うかもしれない」
「だから僕?」
「ああ」
ユウリは少し困った。
「僕だって間違えるよ」
「知っている」
「即答しないでよ」
「だから一人で見ろとは言っていない」
レイジの視線がスマホへ落ちた。
画面の中でアヴィが腕を組む。
> 「俺も間違えるけどな」
「増えた」
レンが言った。
「頼りない監視チームだな」
「お前は黙ってろ」
ユウリとアヴィの声が重なった。
ミオがまた笑った。
レイジも、ほんの少しだけ口元を緩める。
「確定できないものを、確定したふりだけはしないだろ」
その一言で、ユウリは返す言葉を失った。
スマホを見る。
「……分かった」
AVISを開く。
指先で観測機能を起動した。
画面から細い光の線が伸びる。
左右へ開くように、薄い翼状の観測表示が展開した。
> 《UNSIGNED OBSERVATION》
> 《FIXED DIVINE NAME:NONE》
ユウリは御柱を見る。
何も書かれていない。
祭具からいくつもの細い照応線が伸びている。
太陽。
光。
朝。
守護。
役。
秩序。
どれもまだ、一つの神名へ束ねられてはいなかった。
「今は?」
レイジが訊く。
「名前は出てない」
ユウリは答える。
「少なくとも、AVISには」
> 「候補照応はある」
アヴィが補う。
> 「でも神名として固定されてない」
レイジが静かに頷いた。
「それでいい」
神職たちの準備も終わりに近づいていた。
四方の注連縄。
祭具。
灯り。
神楽殿から運ばれてきた道具。
誰かが一つ置くたび、別の者が確認する。
レイジ自身も何度も配置を見直していた。
そこに、秘密の召喚を成功させようとする焦りはなかった。
むしろ失敗する可能性を、一つずつ潰しているように見えた。
レンが柱を見上げる。
「ここまでやって、来なかったら?」
「来なかったという結果が残る」
レイジは答えた。
「それだけだ」
「失敗?」
「神が応じなかったなら、応じなかったことを受け入れる」
ユウリは少し意外に思った。
「無理やりもう一回とかしないんだ」
「何度も叩けば扉が開くなら、それは祭祀じゃなくて破壊だ」
「なるほど」
「感心するところか?」
夜が深くなってきていた。
森の向こうの提灯が、さっきより鮮やかに見える。
祭りの音もまだ続いている。
そのすぐ隣で、神を呼ぶ準備が進んでいた。
やがて神職の一人が、レイジへ一礼した。
「整いました」
「ああ」
レイジが一歩進む。
ユウリたちも、定められた位置へ下がった。
《未署名の観測翼》は開いたまま。
画面にはまだ、
> 《FIXED DIVINE NAME:NONE》
と表示されている。
レイジが御柱の前へ立った。
白い装束の裾が、夜風にわずかに揺れる。
祭具へ順に目を向ける。
太陽。
朝。
光。
守護。
役。
秩序。
最後まで、そこには固有神名がない。
レイジは目を閉じた。
一度だけ、静かに息を吸う。
そして、最後の一歩だけを自分で選ぶように口を開いた。
「――ソウリン大御神」
ユウリは止めなかった。
翼状の観測表示を開いたまま、その名が何へ届くのかを見つめていた。




