第二節 ― 神様って、本当にいるの?
日が傾ききる頃には、境内の空気が変わっていた。
準備中には薄くしか見えなかった提灯の明かりが、群青へ沈み始めた空の下で輪郭を持つ。参道の屋台からは鉄板の音とソースの匂いが流れ、神楽殿から聞こえる笛に、子どもの声と発電機の低い唸りが重なっていた。
石段を上がってくる人の列も、さっきまでとは比べものにならない。
家族連れ。浴衣姿の学生。仕事帰りらしいシャツ姿の大人。手をつないで歩く老人夫婦。子ども神輿の周りでは、法被姿の小学生たちが始まる前からはしゃいでいる。
《天柱夏越祭》は、すっかり普通の夏祭りになっていた。
「よし」
レンが言った。
妙に真剣な声だった。
「何が、よしなの」
ユウリが視線の先を見ると、射的の屋台があった。
「戦場だ」
「祭りだよ」
「祭りだから戦うんだろ」
「その理屈は分からない」
レンは聞いていなかった。
財布から硬貨を取り出し、屋台の前へ進む。並べられた景品の中には、小さな玩具や菓子の箱、キャラクターものらしい袋が混ざっていた。
「どれ狙うんだ?」
トウマが訊く。
「勝てるやつ」
「欲しいものじゃないのか」
「まず勝つ。欲しいかどうかはそのあと考える」
「一番駄目な遊び方してない?」
ミオが小さく笑った。
彼女も今日は浴衣だった。
普段の制服姿とは印象が違うが、神秘的というより、慣れない袖を少し気にしながら人混みを避けて歩く普通の高校生にしか見えない。そのことに、ユウリはなぜか少し安心した。
レンがコルク銃を受け取る。
その瞬間、ユウリのポケットの中でスマホが震えた。
「……嫌な予感がする」
画面を開く。
アヴィがいた。
景品棚を見ている。
「何してるの」
> 「観測」
「何を」
> 「右上、留め具が甘い」
ユウリは画面と景品棚を見比べた。
確かに右上にある菓子箱は、背後の金具への掛かりが浅いように見える。
「祭りを攻略するな」
> 「勝率を上げて何が悪い」
「全部」
レンが振り向く。
「アヴィ、どれ?」
「聞くな」
> 「右上」
「了解」
「了解するな!」
レンは銃を構えた。
アヴィの指示どおり照準を合わせ、撃つ。
乾いた音。
コルクが箱の角へ当たり、景品が大きく揺れた。
「おっ」
二発目。
今度は留め具の近くへ当たる。
箱が傾く。
三発目。
落ちた。
「よっしゃ!」
「最低だ……」
ユウリが呟く横で、屋台の店主が何とも言えない顔をしていた。
「若いのに堅実だねえ」
「情報戦の勝利です」
「言うな」
レンは戦利品を受け取ると、満足そうに戻ってきた。
「科学は祭りに勝つ」
「神話解析システム使っといて科学を名乗るなよ」
「アヴィ、次も頼む」
> 「次は左端。重心が――」
ユウリは画面を伏せた。
「終了」
> 「横暴だな、ユウリ」
「祭りくらい普通に遊べ」
「じゃあ次、ユウリな」
「僕?」
気づけばレンが銃を押しつけてくる。
断る間もなく料金まで払われた。
「人の金でやらされる射的って何」
「勝てばいい」
「お前、本当に勝敗しか見てないな」
トウマが言った。
そのトウマの右手には、りんご飴があった。
左手には、かき氷。
レンの目が止まる。
「……やっぱ甘党じゃん」
トウマも止まった。
「お前、本当にそれしか言うことないのか」
「いや、だって両手」
「暑いから氷を食ってるだけだ」
「りんご飴は?」
「りんごだ」
「飴がついてる」
「見れば分かる」
「甘党じゃん」
「うるさい」
トウマは露骨に顔を背けて、かき氷を口に運んだ。
反対の手にあるりんご飴まで隠す気はないらしい。
「何味?」
ミオが覗き込む。
「かき氷?」
「うん」
「いちご」
レンが吹き出した。
「完璧じゃん」
「何がだ」
「見た目クール系で、いちごかき氷とりんご飴」
「次言ったらお前の分を地面に落とす」
「俺まだ何も持ってない!」
「じゃあ買ってから落とす」
「怖いわ!」
ユウリは銃を構えたまま笑った。
照準はぶれた。
撃ったコルクも、景品の遥か下を通っていった。
「下手」
レンに即答された。
「うるさい」
> 「解析しようか?」
「しなくていい」
> 「意地を張る場面か?」
「これは自力でやる」
二発目も外した。
三発目は景品に当たったが、揺れただけだった。
結果、何も取れなかった。
「情報を拒否した者の末路」
アヴィが勝ち誇る。
「祭りで思想みたいに言うな」
スマホをしまう。
隣ではミオがラムネを買っていた。
瓶を受け取り、栓を開けるところまでは問題なかったらしい。
問題は、そのあとだった。
「……あれ?」
瓶を傾ける。
出ない。
戻す。
もう一度傾ける。
ビー玉が飲み口を塞ぐ。
「……なんで?」
少し角度を変える。
やはり塞がる。
「ミオ、そこのくぼみに玉を引っかけるんだよ」
ユウリが言う。
「引っかけてるつもりなんだけど」
また傾ける。
ごと、とビー玉が転がり、見事に飲み口を塞いだ。
ミオが瓶の中を覗き込む。
「……これ、私に飲ませる気ないですよね」
「ラムネ瓶に嫌われてる」
レンが言う。
「瓶に意思を持たせないで」
ミオは真剣だった。
角度を変え、今度は慎重に口をつける。
少し飲めた。
ぱっと表情が明るくなる。
「できた」
「そこまで喜ぶこと?」
ユウリが笑う。
「ユウリくんは簡単に言いますけど、これ結構難しいです」
「そんなことないだろ」
「じゃあ飲んでみます?」
「いや、それミオのだから」
「逃げた」
「逃げてない」
ミオは満足そうにもう一度瓶を傾けた。
今度は途中でビー玉が落ちて、やっぱり止まった。
「……」
「まだ修行が必要だな」
トウマが言った。
「トウマくんに言われたくないです」
「俺はラムネに負けたことはない」
「何の自慢だよ」
くだらない会話が続く。
参道を行き交う人々の声。
焼きそばをひっくり返す音。
子ども神輿の鈴。
呼び込み。
笑い声。
ユウリは、少しだけ足を止めた。
ついこの間まで、自分たちは地下で世界規模の神話同期を見ていた。
無数の接続。
世界中の神名。
《LOG OLYMPOS》。
自分たちの街で起きていた異変が、もっと巨大なものの一部にすぎないと知った。
それでも今は、レンが射的に本気になり、トウマがいちごのかき氷を食べ、ミオがラムネのビー玉に苦戦している。
どちらも同じ世界だった。
「天瀬」
声を掛けられた。
振り向くと、レイジがいた。
さっきまで走り回っていたせいか、額に少し汗が残っている。今はようやく手が空いたらしく、腕には何も抱えていなかった。
「少し歩くか」
「うん」
ユウリは仲間たちを見る。
レンはもう次の屋台を探している。トウマはまだりんご飴を食べているし、ミオはラムネ瓶を攻略中だ。
「すぐ戻る」
「はーい」
ミオが瓶を持ったまま答えた。
ユウリとレイジは、少しだけ人の流れから外れた。
境内の端。
そこからなら、祭り全体が見えた。
提灯の列。
神楽殿。
茅の輪をくぐる親子。
屋台の前で小銭を数える学生。
休憩用の長椅子に座る老人。
走る子どもを叱る母親。
浴衣の袖を押さえながら笑う少女たち。
誰も、世界が終わりかけている顔なんてしていない。
レイジがその光景を見たまま言った。
「見ろ、天瀬」
ユウリも見る。
「あの全員に、世界の仕組みを理解しろと言うのか」
声は静かだった。
責めているわけではない。
だから、ユウリはすぐに答えられなかった。
「神話構文」
レイジの視線の先で、幼い子どもが父親に抱き上げられていた。
「AVIS」
少し離れた場所では、学生たちがスマホを構え、提灯を背景に写真を撮っている。
「契約神」
神楽殿の前を、杖をついた老人がゆっくり横切る。
「世界中の神話同期」
レイジはそこで、ようやくユウリを見た。
「それを全部知らなければ、生きられない世界にするのか」
「……僕は」
言いかけて、止まる。
そんな世界にしたいわけではない。
けれど、知らないままでいれば安全だとも思えない。
現実に、神話は人を巻き込んできた。
何も知らなかった人間も。
望んでいなかった人間も。
世界の異常は、本人の理解を待ってくれない。
「知らない人まで巻き込まれるなら、知る必要はあると思う」
ようやく言った。
レイジは否定しなかった。
「そうだな」
「でも」
ユウリは境内を見る。
「全部を知れって言われても、無理だと思う」
「そうだ」
返事は早かった。
ユウリは少し驚いて、レイジを見る。
彼の表情に勝ち誇ったものはない。
「人は、自分の生活だけでも十分に忙しい」
レイジが言う。
「朝起きて、働いて、学校へ行って、家族のことを考える。金のことも、身体のことも、明日の予定も考える」
参道の向こう。
先ほどの迷子の少年が、母親と一緒に綿あめを受け取っていた。
嬉しそうに大きな袋を抱えている。
「そこへさらに、世界の根本まで背負わせるのか」
レイジの目が、その親子を追う。
「自分が接続している神格を疑え。神名の照応を調べろ。ネット上の構文拡散を警戒しろ。土地に残った祭祀層まで理解しろ」
少しだけ息を吐く。
「そんなものを、あの子に要求するのか」
「……しない」
ユウリは答えた。
「できないよ」
「俺もだ」
レイジの声は、低かった。
神を信じない者を責める声ではなかった。
むしろ逆だった。
「これ以上、人間だけで支えるには、世界は重すぎる」
祭りの音が続いている。
太鼓。
呼び込み。
笑い声。
境内のどこかで拍手が起きた。
レイジは、その全部を守るように眺めていた。
ユウリは何も言えなかった。
神に任せればいい。
そんな簡単な話なら、反論はいくらでもできた。
神が正しいとは限らない。
神話に役割を決められて傷ついた人間を、ユウリは知っている。
神を拒んだ人間も。
管理されることを嫌った人間も。
自由にした結果、他人を巻き込んでしまった人間も。
けれどレイジは、普通の人間を愚かだから導くと言っているのではない。
知らなくてもいい生活を、残そうとしている。
自分たちのように世界の裏側まで降りなくても、生きていける人たちを残そうとしている。
そのために、神へ何かを返そうとしている。
「レイジは」
ユウリは少し迷った。
「神様なら、支えられると思ってる?」
レイジはすぐには答えなかった。
提灯の明かりが風に揺れる。
「一人で全部を、とは思っていない」
やがて言った。
「人がすることはある。人にしかできないこともある」
先ほど神輿の縄を結び直していた手を見るように、レイジは自分の指先へ視線を落とした。
「祭りだって、神が勝手に準備してくれるわけじゃない」
ユウリは少し笑った。
「それ、さっきも言ってた」
「事実だからな」
レイジも、ほんの少し口元を緩める。
しかし、すぐに境内の奥へ目を向けた。
人の流れから外れた先。
社殿よりさらに奥。
木々の向こうに、夜の影が落ち始めている。
「今夜、《柱立ての儀》を行う」
ユウリの笑みが消えた。
「柱立て?」
「ああ」
レイジは頷く。
「祭りのあとだ」
「何をする儀式?」
一拍。
「神が帰るための道を作る」
遠くで、神楽の笛が鳴った。
レイジはその音を聞きながら、静かに続けた。
「見ていてほしい、天瀬」
ユウリは、すぐには返事をしなかった。
提灯の向こうでは、さっきまでと変わらず祭りが続いていた。




