終節 ― 世界中で、読み込まれている
《MISLEAD》の地下から地上へ戻ると、新宿はまだ起きていた。
路地の先ではタクシーがゆっくり客を拾い、明るいコンビニから紙袋を提げた学生が出てくる。大通りへ近づけば、飲み会帰りらしい会社員の集団が笑いながら駅へ向かい、その頭上では終電時刻を知らせる案内が流れていた。巨大ビジョンも広告も、三人がここへ来た時と変わらず光り続けている。
壁の中に存在しない神殿が重なったことも、誰かの影に角が生えたことも、地下で世界地図いっぱいに光が灯ったことも、この道を歩くほとんどの人は知らない。
「……普通だな」
レンが言った。
声には疲れが混じっている。《雷吼の荒冠》を長く維持したせいか、歩き方にもいつもの軽さが少し足りない。それでも、目の前を歩いていた酔客が急に進路を変えると、ぶつからないよう自然にミオの側へ身体を寄せた。
「普通ですね」
ミオが周囲を見回す。
少し前まで《MISLEAD》のスクリーンには、神々の像とネットミームと匿名コメントが重なっていた。今は駅前の大型画面で化粧品の広告が流れ、その次に新作ゲームの映像へ切り替わる。そこにも神話を思わせる名前は出ていたが、誰も立ち止まらない。
ユウリも、一度だけスマホを確かめた。
AVISは動いている。特別な警告は出ていない。
「電車、間に合うよね?」
「余裕。たぶん」
レンが乗換案内を見る。
「『たぶん』を付けないでください」
「星宮、こういう時だけ急に厳しいな」
「帰れなくなるので」
「そこは大事だな」
ミオが真顔で頷くので、ユウリは少し笑った。
世界規模の神話構文がどうなっているのかは分からない。けれど今の三人にとっては、終電を逃すかどうかも普通に問題だった。
駅へ向かう人波に混ざる。
誰かのスマホから音楽が漏れ、横断歩道の信号が変わり、急いで走った人が友人に文句を言われている。地下で見たものだけが現実で、こちらが偽物になったわけではない。
どちらも、同じ夜の中にあった。
*
帰りの電車は、行きより少し空いていた。
三人はドア脇の座席に並んで座る。車内には眠そうな会社員が何人かいて、向かいでは大学生らしい二人が小声で動画を見ていた。窓の外を流れる街灯と広告の光が、黒いガラスへ断続的に映り込む。
ユウリの隣で、レンはしばらく何も話さなかった。
窓には制服姿の三人と、車内の白い照明が重なっている。その中でレンの顔だけが、いつもより少し考え込んで見えた。
「俺さ」
不意に言った。
「うん?」
ユウリが振り向く。
レンは窓を見たままだった。
「ちょっと、神狭市を特別だと思ってたかも」
電車が地下区間へ入り、窓の向こうが完全な黒へ変わった。レン自身の顔が、さっきよりはっきり映る。
「変な事件が多いし、AVISも契約神も、あそこに集まってるしさ。俺たちが見つけたものを外に流したせいで、どんどん広がってるんじゃないかって……どっかで思ってた」
そこで言葉を切る。
「全部じゃないって分かったけど」
レンは、それ以上を軽くしなかった。
自分が情報を流したことまで消えたわけではない。《コンティニュー》で起きたことも、誰かの体験が勝手に神話の材料へ変えられたことも残っている。ただ、世界中の扉を自分一人が開いたという形だけが、地下の世界地図によって否定された。
「僕も」
ユウリは言った。
レンがこちらを見る。
「神狭市で起きてることを追ってれば、だんだん大元に近づいていくんだと思ってた。街の奥に、全部につながる何かがあるみたいに」
「なかったな」
「うん」
むしろ、つながった先には中心そのものがなかった。
その事実を言葉にすると、また説明になりそうで、ユウリはそこで止めた。
反対側に座るミオは、窓の外を見ていた。
地下を抜けたらしく、夜の住宅地が流れ始める。灯りのついたマンションの窓、暗い公園、閉店した店の看板。見慣れない町なのに、生活している人がいることだけは分かる景色だった。
「私は」
ミオが静かに言う。
二人が見る。
「神狭市にしか、行く場所がないと思っていました」
それだけだった。
ユウリは続きの言葉を待たなかった。
神狭市には、ミオを神だと誤認した人間がいた。彼女を分類しようとする組織も、空いた役へ座らせようとするものもあった。それでも同時に、学校があり、友人がいて、彼女を「星宮ミオ」と呼ぶ人間もいる。
ミオは窓から目を離さない。
電車はそのまま、夜の街を走っていった。
*
神狭駅へ着くころには、日付が変わるまでそれほど時間がなかった。
ホームへ降りると、聞き慣れた発車メロディが背後で鳴る。新宿の駅とは比べものにならないほど人は少なく、ベンチには電車を待つ会社員が一人いるだけだった。
「帰ってきた感じする」
レンが伸びをする。
「今日は本当に遠足みたいでしたね」
「途中からだいぶ危険な遠足だったけどな」
「行き先が地下クラブの時点で、学校では許可されないと思う」
「天瀬、そこで急にまともになるなよ」
三人で改札を抜ける。
コンコースには終電案内が出ている。閉まった売店。自動販売機の明かり。少し離れたところでは、駅員が掲示物を直している。
見慣れた神狭駅だった。
そこで、ユウリのポケットが震えた。
一度ではない。
短い振動が二度続く。
「また?」
レンもスマホを確認する。
ユウリはAVISを開いた。
いつものホーム画面が一瞬だけ暗くなり、見覚えのない表示へ切り替わる。
《WORLD MYTH INDEX》
《CONNECTED》
その下に、少し間を置いて新しい文字が出た。
《LOG OLYMPOS GATE》
《STANDBY》
「……スタンバイ?」
レンがユウリの画面を覗き込む。
「俺のも同じ」
自分の端末を並べる。
二台とも、同じ表示だった。
「アヴィ」
「確認中」
アヴィの声には、いつもの軽口がない。
画面上に小さな地図が開き、複数の観測点が浮かぶ。新宿の地下で見たほど詳細ではないが、日本国外を含むいくつもの地点に同じ応答が出ている。
「ユウリの端末だけじゃない。こっちで観測できる範囲でも、一部ノードが同時に《CONNECTED》へ移ってる」
「誰かが操作した?」
「不明。《MISLEAD》のローカル《GATE 0》は落ちたまま」
そこでアヴィは止めた。
原因を埋めるための答えを、無理に出そうとはしない。
「ミオは?」
ユウリが訊く。
ミオもスマホを見ていた。
彼女の画面は違う。
《神格照応:対象外》
その下。
《上位構文接触:継続》
「……また、分からないって言われました」
ミオが少し困ったように言った。
ユウリはその表示を見る。
《HIGHER LAYER》が何なのかは、まだ分からない。
ミオが何に触れているのかも、ここでは答えが出ていない。ただ、少なくとも神名を探す《LOG OLYMPOS》は彼女を神として扱わなかった。
少し考えてから、ユウリは言った。
「今は、それでいいんじゃないかな」
ミオが顔を上げる。
「いいんですか?」
「分からないものを、分かったことにするよりは」
スマホの端で、アヴィが小さく息を吐いた。
「ずいぶん慣れたな。未確定に」
「慣れたくはないよ」
「だろうね」
「アヴィも分からないこと多いし」
「余計な一言を足すな」
レンが笑った。
ミオも少しだけ笑う。
三人で駅の出口へ向かった。
自動ドアが開くと、夜の空気が頬に触れる。駅前ロータリーには数台のタクシーが並び、コンビニはまだ明るい。信号の向こうでは自転車が一台通り過ぎ、住宅街の方から犬の鳴き声が聞こえた。
昨日までと何も変わらないように見える神狭市だった。
けれど、ユウリたちはもう知っている。
この街だけが壊れ始めていたわけではない。神々が戻ろうとしている場所も、ここ一つではなかった。自分たちが見てきた事件は、世界の中心で起きていた特別な異変ではなく、もっと大きな現象へ触れた一つの入口だった。
ユウリは歩きながら、もう一度スマホを見る。
《WORLD MYTH INDEX:CONNECTED》
《LOG OLYMPOS GATE:STANDBY》
神狭市は、世界の中心ではなかった。
ただ、自分たちが最初に気づいた扉だった。
画面の向こうでは今も、遠く離れた場所のノードが一つ、また一つと応答を返している。使われている言葉も、呼ばれている神の名前も、その入口の形さえ同じではない。
それでも、読み込みだけは止まっていなかった。
世界中で、同じ扉が静かに開き始めていた。




