序節 ― 夏祭りの日
夕方には、まだ少し早かった。
天御柱神宮の石段を上りきると、夏の光がそのまま境内に溜まっていた。社叢から降りてくる蝉の声は途切れる気配がなく、白く乾いた参道の石は、日が傾き始めてもまだ熱を残している。
その上を、祭りの準備をする人たちが忙しく行き来していた。
「そこ、もう一回点けてみてー!」
脚立の上から声が飛ぶ。参道の両側に渡された提灯が、まだ明るい空の下で一つ、二つと赤く灯った。夕闇には早すぎて光は薄い。それでも点灯を確認した神職が下から丸を作り、次の列へ移っていく。
境内の端には屋台が並び始めていた。鉄板の上で試し焼きされたソースの匂いが風に乗り、氷を詰めた発泡スチロールの箱が積まれ、射的の棚にはまだビニールをかぶった景品が並んでいる。その前では、始まってもいないのに小学生が二人、どれを狙うか本気で相談していた。
「もう下見してる」
ミオが小さく笑った。
「祭りは情報戦だからな」
レンが、妙に納得した顔で言う。
「射的に情報戦が必要なのか」
トウマが隣から返した。
「必要だろ。倒れやすそうなやつを見極めて――」
「店の人に聞こえるぞ」
ユウリが止めると、レンは素直に口を閉じた。代わりにもう一度、景品の棚をじっと見る。
「……あとでやる」
「やるんだ」
ミオがまた笑った。
神楽殿では、白衣姿の神職が舞台の位置を確かめていた。笛の短い音が一度だけ響き、すぐに止まる。拝殿とは反対側では、法被を着た大人たちが子ども神輿の担ぎ棒を拭き、小さな鈴の結び目を直していた。
どこを見ても、普通の夏祭りだった。
神狭駅からここまで来る電車も、普通に走っていた。冷房は少し効きすぎていて、乗客はスマホを見たり、眠ったり、駅に着けば何事もなく降りていった。SNSを開けば、世界各地で撮られた説明のつかない映像や、突然表示された神名についての投稿がまだ流れてくる。
その間に、今日の気温と、限定スイーツと、誰かの猫と、夏祭りの屋台を楽しみにする投稿が挟まっていた。
世界は、止まっていない。
《MISLEAD》の地下で見た光景を思い出す。
暗い空間に浮かんだ世界地図。東京だけではなかった。日本だけですらなかった。遠く離れた土地に、言葉も神話も違う場所に、無数の光が灯っていた。
神狭市で起きていたことは、ここだけの異常ではない。
そう知ったとき、ユウリは世界が急に大きくなったように感じた。自分たちが知らない場所で、知らない誰かが、同じように神話の側から触れられている。
その世界の上で今、小学生が射的の景品を吟味している。
「動かないで」
少し前から、母親が幼い女の子の浴衣を直していた。帯が緩んだらしく、しゃがみ込んで背中の結び目を整えている。女の子はじっとしていられず、屋台の方を何度も振り返っていた。
「綿あめ、まだ?」
「まだ。今直してるでしょ」
「りんご飴は?」
「だから、まだ始まってないって」
何度目か分からないやり取りに、母親の声にも笑いが混じる。
少し離れた石段では、老人が手すりを使いながらゆっくり上がってきていた。途中で一度立ち止まり、帽子を取って額の汗を拭う。それから、追い越そうとした若い家族に道を譲り、また一段ずつ足を運び始める。
誰も空を見上げていない。
神話構文の同期がどこまで進んだのかも、《LOG OLYMPOS》が何なのかも知らない。世界中で何がつながり始めているのかなんて、おそらく考えたこともない。
それでも、その人たちの夕方はちゃんと続いていた。
「……変な感じですね」
ミオが言った。
ユウリは彼女を見る。ミオは境内の奥ではなく、浴衣の女の子を見ていた。
「何が?」
「世界がすごく大変なことになってるって分かったのに」
女の子がようやく解放され、母親の手を引いて屋台の方へ走り出す。母親が慌てて追いかけた。
「ちゃんと、お祭りなんだなって」
「中止にしたって、世界が元に戻るわけじゃないしな」
レンが言った。さっきまで射的を見ていた顔のままなので、どこまで真面目なのか少し分かりにくい。
トウマは参道脇の提灯を見上げた。
「知らないから普通にしてるやつもいる」
「うん」
ユウリは答えた。
「でも、知らないまま普通にできるなら、それはそれでいい気もする」
自分でも、結論になっていないと思う。
以前なら、世界の仕組みを知ることそのものに意味がある気がしていた。知らないものは調べたかったし、隠されたものがあると気になった。
今も、それは変わっていない。
ただ、世界中の人間全員が、自分たちと同じ場所まで降りてくる必要があるのかと考えると、簡単には頷けなくなっていた。
屋台の発電機が試運転を始めた。低い唸りが境内のざわめきに混ざり、神楽殿の横では祭りの案内板を運ぶ人たちが声を掛け合っている。
大きく書かれた文字は、《天柱夏越祭》。
神話災害の名称でも、秘密儀式の呼称でもない。
毎年ここで行われてきた、地域の祭りの名前だった。
「レイジ、どこだろ」
レンが背伸びをした。
「あ」
先に見つけたのはミオだった。
境内の奥、神楽殿と社務所のあいだを、白い神職装束の青年が早足で横切っている。
神楽坂レイジ。
こういう場所に立っていると、やはりよく似合った。
背筋の伸びた立ち姿。白い衣。黒髪。神域の中にいる方が、街で会うときより自然に見える。何も知らなければ、由緒ある神社の若い神職だと、それだけで納得しただろう。
実際、それは間違っていない。
ただユウリは、レイジがその背に負っているものも知っている。
神々をもう一度、人の世界へ。
神を忘れた世界へ、失われた理を戻す。
そう語るときのレイジは、迷いなく真っ直ぐで、ときどき近寄りがたいほどだった。
今、そのレイジは両腕に段ボール箱を抱えていた。
「……何してるんだ」
ユウリの口から、思わず声が漏れる。
箱の脇から、紙コップの束と養生テープが覗いている。どう見ても神々の再臨には使わなさそうな物資だった。
レイジはそれを社務所脇へ運び、置いたところで別の神職に何か言われた。頷いて向きを変える。
その直後、境内の反対側から大きな声が飛んだ。
「レイジくん、こっち手ぇ足りない!」
レイジは迷いなく振り向いた。
「今行きます!」
返事だけ残して、小走りでそちらへ向かっていく。
ユウリは、その背中を目で追った。
ほんの少しだけ、意外だった。




