第十一節 ― 中心なんて、最初からない
最初の一人が、レンの作った経路へ足を踏み入れた。
青白い雷は床を焼かず、非常口の向こうへ細い帯となって伸びている。ユウリの《未署名の観測翼》がその客に付いていた《NODE USER》を外すと、スマホの表示が《UNREGISTERED》へ変わった。NOCTがそれを確認してから肩を押すことも急かすこともせず、ただ出口を指した。
「そのまま進んで。途中で何か表示されても触らないで」
客は何度も頷き、恐る恐る一歩を進めた。光の境を越えた瞬間、身体が消えたり景色が変わったりはしない。ただ、足元にまとわりついていた薄い照応線だけが途切れ、非常階段の向こうへ普通の足音が続いていった。
「抜けた」
アヴィが告げる。
「登録の再接続も今のところなし。次」
それを合図に、二人目が前へ出た。
NOCTは一度に人を動かさなかった。客の端末を確認し、ユウリが未登録へ戻し、レンの経路が安定していることを確かめてから一人ずつ通す。途中で泣き出した女性にはスタッフが付き添い、スマホを投げ捨てようとした青年には「今は持っていて」と短く伝えた。
フロアにはまだ異常が残っている。
壁の一部へ重なっていた白い神殿は、輪郭こそ薄くなったものの消えてはいない。スクリーンでは映像が止められているのに、女神像の瞳だけが時おり焦点を変える。誰も再生していない端末から、短い祈りのような音声が漏れては消えた。
それでも、人の数が減るにつれて混乱も少しずつ小さくなっていった。
「次、三人」
NOCTが呼ぶ。
「ユウリ、いける?」
「大丈夫」
答えたものの、肩は重かった。
《未署名の観測翼》を広げ続けるたびに、視界の端へ細かなノイズが積もる。一人分の名前を消すわけではないとはいえ、《LOG OLYMPOS》が割り当てようとする役を見つけ、その欄だけを外す作業を何十人分も繰り返している。
アヴィがすぐ気づいた。
「三人まとめて見るな。一人ずつ」
「分かってる」
「分かってる顔じゃない。右端の人から。残り二人は待たせろ」
ユウリは言われた通り対象を絞った。《MYTH DATA SOURCE》と表示されていた欄が揺れ、《NODE USER》の登録要求が重なる。その一箇所だけへ翼を触れさせる。
《NODE USER:UNREGISTERED》
次。
その次。
三人目まで外れたところで、ユウリは大きく息を吐いた。
「まだいける?」
ミオが近くまで来ていた。
「うん。たぶん」
「たぶんは少し心配です」
「アヴィと同じこと言わないで」
「彼が正しい時もあります」
「『も』って何だ」
スマホから不満そうな声が返り、ミオの口元が少し緩んだ。
そのわずかなやり取りだけで、ユウリも呼吸を整えられた。
レンは数メートル先で両手を広げ、帰還経路を維持していた。派手な雷撃ではないせいか、いつもの《雷吼の荒冠》より静かに見える。だが細い経路を崩さず支え続ける方が、むしろ集中を要求されているらしく、額には汗が浮かんでいた。
「レン、あと何人?」
「上の客は……」
NOCTが人数を確認する。
「十二。スタッフ含めて十六」
「了解」
「無理なら言えよ」
「そっちこそ」
レンは視線を動かさずに返す。
「天瀬が途中で倒れたら、俺がこいつら全員の登録解除までやる羽目になるんだろ。絶対やりたくない」
「心配の仕方がひどいな」
「ちゃんと心配してるだろ」
軽口を言える程度には、まだ余裕がある。
それが分かって、ユウリも次の客へ視線を戻した。
順番に。
一人ずつ。
誰かをまとめて「利用者」として扱わず、その人に付いた登録だけを外す。
数分後、一般客の最後の一人が非常階段へ消えた。
続いてスタッフが抜ける。DJ機材を気にして振り返った男性を、NOCTが「機材はいい」と止めた。VJ担当らしい女性も、止まったスクリーンを一度見上げてから出口へ向かう。
最後に残ったスタッフがNOCTへ声をかける。
「一緒に出ないの?」
「ローカルを落としてから行く」
「でも――」
「大丈夫。ここまで切ったら追う」
迷った末、その人物も頷いた。
非常口の向こうへ足音が遠ざかり、メインフロアにはユウリ、ミオ、レン、NOCTだけが残る。さっきまで音楽と会話で満ちていた空間は、驚くほど広く感じられた。
床には飲みかけの紙コップが残り、テーブルの上には誰かの忘れたフライヤーがある。《WHO OWNS MYTH?》という文字だけが、止まったスクリーンの隅に小さく残っていた。
「これで全員?」
ユウリが訊く。
「上はね」
NOCTはスマホを確認して頷く。
「外に出た連中からも、今のところ再登録の報告はない」
アヴィも同じ結果を出す。
《LOCAL NODE USERS:0》
《REGISTRATION REQUEST:PENDING》
「要求自体は止まってない」
アヴィが言った。
「人がいなくなったから登録先がないだけだ」
「十分だ」
NOCTはそう答えて、《OPEN VAULT》へ続く階段へ向かった。
「ローカル《GATE 0》を閉める」
三人も後を追った。
*
《OPEN VAULT》へ戻ると、さっきまで点滅していた機材の大半はすでに沈黙していた。
ローカル回線を遮断したまま、NOCTが一台ずつ電源を落としていく。中古のノートPC、新しい端末、自作サーバー。形も年代も違う機械が順番に暗くなり、室内を照らす光が減っていった。
そのたびに、ユウリは妙な感覚を覚えた。
これだけを見れば、ただ店じまいをしているようだった。
イベントが終わり、機材の電源を切り、最後に戸締まりをする。
けれど、少し前までここから世界中の神話構文ノードが見えていた。
「これで最後」
NOCTが《GATE 0》の前に座る。
普通のPC。
普通のディスプレイ。
画面にはまだ、
《LOG OLYMPOS》
《USER LOGIN:DISABLED》
《INPUT GOD NAME》
と表示されている。
NOCTはキーボードへ触れず、まず物理回線を抜いた。それから端末側の接続履歴を保存せず終了し、最後に電源操作へ指を置く。
「閉じるよ」
「うん」
レンが答えた。
ユウリも頷く。
ミオは画面を見ていたが、もう近づこうとはしなかった。
クリック。
表示が消える。
一瞬だけ真っ黒な画面に四人の姿が反射し、そのままディスプレイが完全に暗転した。
「……終わった?」
レンが訊く。
NOCTが背もたれへ身体を預ける。
「少なくとも、ここは」
その言葉の直後だった。
暗くなったはずの隣の監視モニターが点いた。
「何?」
NOCTがすぐに身体を起こす。
《GATE 0》ではない。
ネットワーク監視に使っていた別端末だった。ローカル通信は切れており、外部回線も接続されていないはずなのに、黒い画面の中央へ細い白線が引かれていく。
横。
縦。
輪郭。
ユウリは数秒かかって、それが何を描いているのか理解した。
「地図……?」
世界地図だった。
国境線は簡略化され、地名も表示されていない。その上に、小さな光点が一つ灯った。
東京付近。
すぐに、もう一つ。
さらに一つ。
関東だけではない。
北海道。
東北。
中部。
近畿。
九州。
日本列島の各地へ、間を置かず光が灯っていく。
「待って」
レンが画面へ近づいた。
海を越える。
朝鮮半島。
中国大陸。
東南アジア。
次は欧州。北米。南米。中東。島嶼部。海の上としか見えない場所にも点が増え、世界地図は数秒のうちに無数の光で覆われ始めた。
「……こんなに?」
レンの声から、さっきまでの勢いが消えていた。
それぞれの光点には、小さな情報が付いている。
文字体系が違う。
使われている神名も違う。
宗教記録を参照しているものがある。
都市伝説の掲示板から伸びているものがある。
創作画像共有サービス。
動画配信。
ゲーム内ログ。
学術データベースらしい形式。
AVISに似たUI。
名前も構造も分からないアプリ。
同じシステムが世界中へコピーされているのではない。
入り口そのものが、違っていた。
「これ、全部《MISLEAD》系じゃないよな」
レンが言う。
「違う」
NOCTも画面を見たまま答える。
「うちで確認したことがない形式もある」
「じゃあAVIS?」
「それも違う」
アヴィがユウリのスマホ上で解析表示を広げる。
「似てるものはある。でも、同じ規格じゃない。接続方法も違う。神名の扱いも違う。そもそもAVISじゃないものが多すぎる」
ユウリは地図を見る。
神狭市で起きてきた異常。
無番線ホーム。
名前を奪う構文。
神格適性を数字へ変えたランキング。
空席。
神話を巡る契約者たち。
そこにいたから、ずっと、この街が特別なのだと思っていた。
何かが始まった場所。
何かが集まってくる場所。
世界の異常が、この街から外へ広がっていくように感じていた。
けれど。
「神狭市が中心じゃない」
アヴィが言った。
誰も答えなかった。
地図の光は増え続けている。
神狭市の点は、その中の一つにすぎない。少し明るく見えるわけでも、すべての線がそこへ集まっているわけでもない。
レンが画面を見つめたまま、両手を下ろした。
「じゃあ俺たちが……」
言葉が途切れる。
ユウリは続きを待った。
「俺が《ミラー・スコア》を流したから、とか。《MISLEAD》がβを開けたから、とか。そういう一個から全部始まったわけじゃないんだな」
「少なくとも、この地図はそう見えない」
アヴィは慎重に答える。
「最初がどこかまでは分からない。でも、今見えてる接続に一個の起点はない」
レンは長く息を吐いた。
安心した、と言うには表情が重い。
けれど、《OPEN VAULT》で自分より前の日付のコードを見つけた時と同じように、肩に入っていた力が一つだけ抜けたのがユウリには分かった。
「……そっか」
レンは小さく言った。
「俺一人が開けたわけじゃなかったんだ」
ユウリは何も返さなかった。
その言葉を「だからレンは悪くない」に変える必要はない。
レン自身も、そうは言っていない。
彼が流した情報は実際に広がった。
その先で傷ついた人もいる。
それは消えない。
ただ、それと「世界中の扉を自分が開いた」は同じではなかった。
しばらく画面を見ていたレンが、今度は眉を寄せる。
「でも」
「うん」
「これ、一個止めても終わらないってことだよな」
地図では、新しい光点がまた一つ増えた。
遠い海岸線。
どこの国か、ユウリにはすぐ分からない。
その点から別の点へ細い線が伸びる。
さらに、その先へ。
誰か一人を止めれば閉じる形ではない。
一つのサーバーを壊せば消える形でもない。
一つの街を守れば終わる形でもない。
アヴィは地図を見たまま、静かに言った。
「中心なんて」
少し間を置く。
「最初からなかったんだ」
レンは何も言わなかった。
ミオも、NOCTも。
ユウリもただ、世界地図を見ていた。
やがてNOCTが監視モニターの電源へ手を伸ばす。
「ここで見続けても、今はできることがない」
スイッチを押す。
世界地図が消えた。
今度こそ、《OPEN VAULT》は暗くなる。
非常灯だけが足元を照らし、さっきまで無数の光点があった場所には、黒い画面しか残っていない。
NOCTが最後に《GATE 0》の電源を確認した。
「ローカル閉鎖、完了」
アヴィも接続状態を表示する。
《LOCAL GATE 0:OFFLINE》
その下で、一度だけ別の表示が点滅した。
《EXTERNAL NODES:ACTIVE》
ユウリは画面を見た。
《MISLEAD》の地下では、もう何も動いていない。
それでも、世界のどこかでは接続が続いている。
四人は暗くなった《GATE 0》を残し、階段へ向かった。




