第六節 ― 開放されたβ
金属扉の向こうは、《BACK CHANNEL》よりさらに雑然としていた。
最初に目へ入ったのは、床を這うケーブルだった。壁際には型の違うサーバーが並び、その間へ家庭用のルーターや外付けストレージまで押し込まれている。何年も前の厚いノートPCの隣で、薄型の最新端末が複数の画面を開いていた。
机の上には、ケースを外されたスマートフォン。基板の見える小型端末。古いタブレット。AVISのロゴが残ったものもあれば、アイコンも名称も別物へ変えられている端末もある。
「……すごいですね」
ミオが足元のケーブルを避けながら言った。
「褒めてる?」
NOCTが訊く。
「少しだけ、片づけた方がいいと思っています」
「そっちか」
レンが小さく笑った。
さっきまでの議論で残っていた硬さが、ほんの少しだけ抜ける。
「分かる。俺もこれは引く」
「君に言われると傷つくな」
「俺の机、ここまでじゃないから」
「比較対象が自分なんだ……」
ユウリは二人の声を聞きながら、一番近くの端末を見る。
画面に表示されているのは、見慣れたAVISのホーム画面に似ていた。
けれど、配置が違う。
《神格照応任意検索》
《観測記録補完》
《削除ログ復元》
《近傍神話層接続》
通常のAVISにはない項目が並んでいる。
「これ、全部AVIS?」
「全部ではない」
NOCTは空いている椅子を足で寄せた。
「AVISから分かれたもの。AVISに似せたもの。機能だけコピーしたもの。どこから来たのか分からないものもある」
「最後、さらっと混ぜるなよ」
レンが眉を寄せる。
「だから見せてる」
NOCTは別の端末を起動した。
同じような画面が開く。
しかしこちらでは、機能名の位置も表記も違っていた。さらに隣の端末を触ると、今度はAVISという名称自体が表示されない。
「フォーク版」
レンが画面へ近づいた。
「かなり弄ってるな」
「世界中でね」
「世界中?」
「少なくとも、こっちで拾えている範囲では」
NOCTは簡単に答えた。
レンがマウスを借り、コード表示へ切り替える。
スクロール。
数行。
さらに下へ。
最初は軽く追っていた目が、途中で止まった。
ユウリはその横顔を見る。
「レン?」
返事がない。
レンの指がホイールを逆へ回した。
一度通り過ぎた部分へ戻る。
そこから別のファイルを開き、また戻る。
「……待てよ」
声が低くなった。
ミオも近づく。
「どうしたんですか?」
「これ」
レンが画面の一部を指した。
「見たことある」
「どこで?」
ユウリが訊く。
レンはすぐには答えなかった。
視線を画面から外さないまま、何度かコードを上下させる。
「《コンティニュー》」
その名前で、ユウリの背筋にわずかな力が入った。
ランキングボード。
勝手に表示された名前。
数値化された神格適性。
ゲームのスコアであるはずの数字が、人間の側へ意味を持ちはじめた夜。
「《ミラー・スコア》で見たやつ?」
「全部じゃない」
レンは首を振った。
「でも、この処理……並びが同じだ。ここも」
別の箇所を開く。
「名前を照応候補へ投げて、複数のログをまとめるところ」
ユウリにはコードそのものは読めない。
だが、レンの指が止まる場所が一つではないことは分かった。
「コピー?」
「かもしれない。けど」
レンがファイル情報を開いた。
画面の端に日時が表示される。
レンの動きが止まった。
「……は?」
もう一度見る。
別のファイル。
さらに別の履歴。
「何?」
ユウリが訊く。
レンは答えず、自分のスマホを出した。
過去ログを検索する。
日付。
画面。
またPC。
何度も見比べる。
「待てよ」
今度は、さっきよりはっきりした声だった。
「これ、俺が流す前からある」
ユウリも画面の日付を見る。
レンが《ミラー・スコア》周辺の情報を外へ流した時期より、前。
一日や二日の差ではない。
少なくとも、レンの投稿を見て後から複製されたものではないことだけは分かる。
「どういうこと?」
ミオが訊く。
「俺が出したコードが元なら、この日付には存在しないはずなんだよ」
レンは早口になった。
「改竄された更新日時って可能性はある。でも、一個じゃない。別のフォークにもある。こっちは保存先も違う」
さらに開く。
「……これも」
似た処理。
違う書き方。
別の作者名。
違う日付。
同じ場所からコピーしただけとは思えない程度に、形が崩れている。
「NOCT」
レンが振り返った。
「これ、いつからあった?」
「正確な最初は分からない」
「じゃあ何で」
「君一人が、最初の扉を作ったと思ってた?」
レンが黙った。
NOCTは責めても、慰めてもいなかった。
「《ミラー・スコア》の件より前から、β系の機能は複数経路で流れていた。名前も形式も違う。誰か一人が公開した一個の完成品じゃない」
レンは画面へ視線を戻す。
ユウリは、その横顔から目を離せなかった。
肩から力が少し抜けたように見えた。
自分一人が最初ではなかった。
あの時レンが情報を流さなくても、似たものはすでに存在していた。
その事実は、きっと軽い。
少なくとも、ずっと背負ってきた重さの一部は。
けれど、レンは笑わなかった。
「……じゃあ」
指先で、自分のスマホを撫でる。
「俺がやらなくても、同じだった?」
「そこまでは言ってない」
NOCTが即答した。
レンが顔を上げる。
「君の投稿から広がったコピーもある。君が拾って、整理して、分かりやすくしたものをさらに持っていった人間もいる」
画面の一つを切り替える。
そこには別の履歴が残っていた。
「君が最初じゃないことと」
一拍。
「君が広げなかったことは、同じじゃない」
レンはしばらく何も言わなかった。
「……そうだよな」
やがて、それだけ答えた。
声は沈んでいたが、顔を背けはしなかった。
ユウリも何も言わなかった。
「レンのせいじゃなかった」と言えば簡単だった。
けれど、それは違う。
全部がレンのせいではない。
レンが何もしていなかったわけでもない。
どちらか片方だけを選んでしまえば、たぶんまた誰かの都合のいい話になる。
「こっち」
NOCTが別の机へ移った。
「もっと分かりやすいものを見せる」
モニターに、古い投稿ログらしい文章が表示された。
ところどころが欠けている。
行そのものが失われた箇所。
画像リンクだけ残っている部分。
別の端末には同じ事件について書かれた短い証言。
さらにもう一台。
引用された断片。
「削除されたログ?」
ユウリが訊く。
「そう」
NOCTが《復元》を選ぶ。
処理が始まった。
《FRAGMENT SEARCH》
《CROSS REFERENCE》
《OBSERVATION LOG MERGE》
複数画面から文字列が拾われる。
欠けていた文章が少しずつ埋まっていく。
「すごい……」
ミオが画面を見る。
途切れていた文章が、読むことのできる形へ戻っていく。
別の引用にしか残っていなかった一文。
画像のキャッシュから拾われた時刻。
第三者の投稿に残った短い言及。
それらが組み合わされ、一つのログになっていく。
「こうやって消された記録を?」
ユウリが訊く。
「戻す。……つもりで使われてる」
NOCTの最後の言葉に、ユウリは画面から目を離した。
「つもり?」
「最後まで見て」
復元処理が終わる。
《COMPLETE》
欠けていたログは、一見すると自然な文章になっていた。
レンが読む。
途中で眉を寄せた。
「この一行」
指を置く。
「参照元どれ?」
NOCTは答えず、横に別窓を開いた。
引用。
保存キャッシュ。
証言。
スクリーンショット。
どこにも、レンが指した一文はない。
「ない?」
ユウリも画面を追う。
「ない」
レンが言う。
「でも、復元結果には入ってる」
NOCTが処理記録を開く。
その一文は、複数の断片の間を繋ぐように生成されていた。
前後の内容には合っている。
違和感もほとんどない。
むしろ、それが入ったことで全体は読みやすくなっている。
「これ、本当に復元したの?」
ユウリが訊いた。
「誰にも分からない」
NOCTの返事は短かった。
「元の文章がもうないから?」
「それもある」
別の証言を開く。
「人間の証言同士も一致しない。引用した側が言葉を変えてることもある。スクリーンショットが途中からしか残ってない場合もある」
「じゃあ、この一行は?」
ミオが訊く。
「元からあった可能性もある」
「なかった可能性も?」
「ある」
レンが椅子へ座った。
視線は画面に固定されている。
「復元したつもりで」
口に出してから、一度止まる。
「作り直してるかもしれない?」
「そう」
NOCTは頷いた。
モニターの中では、《COMPLETE》の文字が消えない。
完全。
そう表示されている。
けれど、何が完全なのかは誰にも証明できない。
「それ、神話でも同じことが起きたら……」
ユウリは最後まで言わなかった。
古い記録。
失われた伝承。
複数の証言。
別地域の似た話。
欠けたところを、もっとも自然に繋ぐ。
それが復元なのか。
新しく語り直したのか。
画面だけを見て判断する方法を、ユウリは思いつけなかった。
アヴィも、珍しくすぐには口を挟まない。
「だから《OPEN VAULT》?」
ユウリが訊く。
NOCTが肩をすくめる。
「閉じ込めたくないから、そう名乗ってる連中が多い」
「あなたは?」
「名前に思想を預けすぎるのは嫌い」
レンが小さく息を吐いた。
「今日それ言う?」
「今日だから言う」
NOCTは別の画面を立ち上げた。
そこには、今まで見たものよりはるかに多くのフォルダが並んでいる。
AVISの名前を残したもの。
別名になったもの。
誰かのハンドルネームだけが付いたもの。
文字化けしたもの。
国も言語も違う。
「全部フォーク?」
「全部、何かしら繋がってる」
レンがマウスを取った。
一つを開く。
接続設定。
別のものも開く。
形式は違う。
書き方も違う。
三つ目。
四つ目。
「バラバラじゃん」
「上はね」
NOCTが言う。
レンの指が止まった。
「上?」
「深いところまで追って」
画面上の階層を一つずつ開いていく。
異なるコード。
異なる機能。
異なる作者。
それでも、接続先を辿るたびに、似た記号が増えていく。
レンの表情が変わった。
「これ……」
ユウリのスマホも震えた。
AVISが自動で照合を始める。
《EXTERNAL CONNECTION DETECTED》
《MULTIPLE FORKS》
《ROUTE TRACE》
いくつもの線が画面上に現れる。
別々に伸びていた線が、途中から重なる。
さらに深く。
また重なる。
最後に、一つの表示へ集まった。
《LOG OLYMPOS》
ユウリは文字を見た。
学校でレンが見せた、照合不能の名前。
招待通知の奥に残っていたもの。
「アヴィ」
「見えてる」
アヴィの声は短い。
「何なの、これ」
すぐには返事がなかった。
画面の中では、複数のフォークから伸びた線が、同じ場所へ入り続けている。
「今分かるのは」
やがてアヴィが言った。
「名前も作り方も違う連中が、深いところでは同じ接続先を見てる。それだけ」
「それだけ?」
「それ以上は、まだ言えない」
レンが椅子から立ち上がった。
先ほどまで自分の過去のコードを見ていた目で、今度はその文字を見つめる。
《LOG OLYMPOS》
一人の投稿。
一つのフォーク。
一つのクラブ。
どこにも収まっていない。
NOCTが、部屋のさらに奥へ顔を向けた。
「この先に」
そこには、もう一台だけ置かれたPCがあった。
見た目は、拍子抜けするほど普通だった。
「その接続先を直接見てる端末がある」
モニターは、まだ暗い。
ユウリは無意識にスマホを握り直した。
背後では、何台もの改造端末が静かに動き続けていた。




