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現代神話構文黙示録 〜スマホアプリ《AVIS》と未定義の神々〜  作者: 秋月キアラ
第10話 ― 神話は、誰のものでもない
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第五節 ― 神話は、誰のものでもない

 《BACK CHANNEL》へ続く扉を閉めた瞬間、音が遠のいた。


 完全に消えたわけではない。階下の低音が壁を通して鈍く響いている。それでも、さっきまで胸骨を直接叩いていた音圧に比べれば、急に図書室へ入ったような静けさだった。


 ユウリは耳の奥に残る感覚を確かめながら、細長い室内を見回した。


 地下二階。


 けれど、いわゆる秘密基地らしい統一感はない。


 中古のノートPC。型の違うモニター。傷のある机。積まれた古書。神話辞典。民俗学の専門書。小型サーバー。無造作に束ねられたケーブル。その隣には、最新型らしい端末まで並んでいる。


 壁際にはホワイトボードがあり、神名や地名、URLの断片が矢印で繋がれていた。


 書いた人間が違うのだろう。筆跡も色も統一されていない。


 部屋の奥では数人が画面へ向かっていた。


 誰もローブなど着ていない。


 パーカー。


 シャツ。


 仕事帰りらしいジャケット。


 髪を明るく染めた女性。


 年齢もばらばらだった。


「ここは、本名を聞かない」


 先を歩くNOCTが言った。


「必要なら自分から名乗る。ハンドルネームだけでもいい。何も名乗らなくてもいい」


「その割に俺の本名は知ってたけど」


 レンがまだ少し不満そうに返す。


「知っていることと、使うことは別だと言った」


「便利だな、その理屈」


「便利だから残ってる」


 NOCTは振り返らずに答えた。


 室内の中央には、低いテーブルと何脚かの椅子が置かれている。その周囲の壁面モニターでは、いくつものページが同時に開かれていた。


 最初にユウリの目へ入ったのは、映像だった。


 夜の住宅街。


 スマホで撮られたらしく、画面が激しく揺れている。


 道路の向こうに、本来あるはずのない赤い鳥居が何本も連なっていた。


 映像の上には、


《削除済み投稿から再保存》


 と表示されている。


 その隣。


 神話構文災害を経験した人物の証言。


 文章の一部が二重線で消され、別の記述が追記されていた。


《行政発表:錯視現象》


《本人証言:一致せず》


《第三者ログ:保存》


 別の画面では、AVISの異常挙動について相談が続いている。


《契約要求が拒否できない》


《アプリを削除しても戻る》


《神名を読み上げない》


《機内モードでは止まらない例あり》


《一人にならないこと》


 短い回答が、何人もの手で足されている。


「これ……」


 ユウリは画面へ近づいた。


 一番下。


《救急搬送後、安定》


《情報提供者への連絡済み》


 派手なことは何も書かれていない。


 それでも、その数行の向こうに実際の誰かがいたことは分かった。


 ミオも隣のモニターを見ていた。


 そこには古い地方伝承らしい資料が表示されている。


 白黒の写真。


 祭具。


 手書きの記録。


《自治体デジタル化時に除外》


《原本所在不明》


《旧個人サイトのキャッシュより復元》


 祭りの名前。


 今では使われていない地名。


 土地の老人が録音したという短い語り。


「なくなっていたんですね」


 ミオが言った。


「ネットからは」


 NOCTが答える。


「残してた人が消して、サーバーが閉じて、検索から落ちて。そのまま誰も探さなければ終わってた」


「でも、ここにはある」


「誰かが持ってたから」


 NOCTは簡単に言った。


 それだけだった。


 ユウリはもう一度、部屋を見る。


 削除されたもの。


 消されかけたもの。


 誰にも信じてもらえなかったもの。


 危険すぎるという理由で伏せられたもの。


 間違っているかもしれないものまで混ざっている。


 けれど、ここがなければ、本当に無くなっていた記録もある。


「レンが来たくなるの、分かる気がする」


 ユウリが小声で言うと、レンが横を見る。


「だろ?」


「ちょっとだけ」


「素直じゃないな」


「全部いいとは言ってない」


「そこまで言われたら逆に安心するわ」


 レンは軽く笑った。


 けれど、その目は少し嬉しそうだった。


 ユウリにも、その理由は分かる。


 レンは、消されることを嫌う。


 誰かが「危険だから」と決めて、見えるはずだったものを見えなくすることを嫌う。


 ここには、それに抵抗してきた人間たちの痕跡がある。


 ただ面白がって危険な神名をばら撒いているだけではない。


 声を消された誰かのために、残してきた人間もいる。


「Rai_404じゃん」


 声が飛んできた。


 レンの肩がわずかに動いた。


 奥の机に座っていた男が、椅子を回す。年齢は二十代半ばくらいに見えた。大きめのパーカーの袖を肘まで上げ、片手に缶コーヒーを持っている。


「その名前で呼ぶなって」


「何、リアルネーム派になった?」


「そういう話じゃない」


「じゃあ管理機構の人にでも怒られた?」


 笑い声が一つ上がる。


 悪意のある声ではなかった。


 だからこそ、レンの顔が少し固くなったのが分かった。


 別の席にいた女性が、画面から目を上げる。


「聞いたよ。《コンティニュー》の件」


 レンは返事をしなかった。


「かなり消されたんでしょ?」


「消されたのもある」


「じゃあ、こっちで残して正解じゃん」


 その口調も、責めるものではない。


 むしろ当然のことを言っているようだった。


「管理側っていつもそうだから。危ないから非公開。混乱するから非公開。本人保護で非公開」


 缶コーヒーの男が肩をすくめる。


「危険だから出さない、は管理機構と同じだ」


 少し離れた机から別の声が続いた。


「本人に確認している間にログは消される」


「名前を伏せたら、権力側が事件ごと無かったことにする」


 ユウリは反射的に否定しかけて、やめた。


 全部が間違っているとは思えなかった。


 神狭市で起きたことの中にも、一般には何も知らされていないものがある。


 危険だから。


 混乱するから。


 被害者を守るため。


 その理由が本当に必要だったことも知っている。


 同時に、外から見れば何も起きなかったことになっている事件もあった。


「被害者本人が、残してほしいって言ってる場合もある」


 女性が言った。


「なのに機構側が危険判定して全部消す。誰の記録なの、それ」


「そういうのまで閉じろって?」


 男がレンを見る。


「Rai_404はずっと逆だっただろ」


 レンはしばらく黙っていた。


 机の端に指を置き、視線を落とす。


 ユウリは横からその顔を見る。


 以前なら。


 きっと、かなり頷いていた。


 ユウリ自身、そう思う。


 隠された情報。


 管理される神話。


 誰か一人が危険かどうかを決める構造。


 レンはずっと、それを嫌ってきた。


 今だって嫌っているはずだ。


「別に」


 レンが顔を上げた。


「消せって言ってない」


「じゃあ何?」


「公開する自由と」


 少しだけ間があった。


「他人を公開する自由は違うだろ」


 空気が止まった。


 階下の音だけが、壁の向こうでかすかに続いている。


「……Rai_404が?」


 男が笑う。


 さっきより短い笑いだった。


「管理側に丸め込まれた?」


 レンの口元が引きつった。


 ユウリには、それが分かった。


 言われると思っていたのだろう。


 それでも、実際に言われれば平気ではない。


「違う」


「何が?」


「俺は今でも、隠していいなんて思ってない」


「じゃあ同じじゃん」


「同じじゃねえよ」


 レンの声が強くなる。


 室内の何人かが振り返った。


 レン自身も気づいたのか、一度息を吐いた。


 それから、声を少し落とす。


「俺が流した情報で」


 指が、机の縁を掴む。


「友達が勝手に神話の材料にされた」


 ミオがレンを見る。


「本人が出していいって言ってない情報が流れて。勝手に意味つけられて。面白がられて」


 レンの視線は、誰か一人へ向いていなかった。


「それでも同じこと言えんなら、言えよ」


 誰もすぐには返さない。


 ユウリも口を挟まなかった。


 レンが何を背負ってその言葉を言っているのか、代わりに説明したくなかった。


 それはレンの言葉だった。


 缶コーヒーの男が、少しだけ眉を寄せる。


「じゃあ、本人の許可が取れない記録は全部捨てるのか?」


「そんなこと言ってない」


「でも本人確認を必須にしたら、死んだ人間の記録はどうする。行方不明者は? 組織から逃げて連絡不能な内部告発者は?」


「だから――」


「判断する人間が必要になる。その判断役は誰だよ。結局、管理者ができるだけだろ」


 レンが言葉に詰まる。


 ユウリも答えを持っていなかった。


 本人に決めてもらえばいい。


 それが一番簡単に見える。


 けれど、本人が決められない場合はある。


 本人がいない場合も。


 公開しなければ別の被害者が増える情報もある。


 伏せれば強い側に都合よく消されるものもある。


 どこから先が他人の情報なのか。


 誰の体験なのか。


 事件に巻き込まれた十人のうち、一人だけが公開を拒否したらどうするのか。


 簡単な線は引けない。


「でも」


 ミオの声がした。


 大きくはない。


 それでも、全員がそちらを見る。


 ミオは少し緊張したように指を組んでいた。


「私について書かれたものを、見たことがあります」


 誰も口を挟まない。


「たくさん説明されていました」


 女神。


 器。


 依代。


 災厄。


 救済。


 神話の中心。


 誰かが彼女を説明するために使った言葉を、ユウリも覚えている。


 ミオは視線を少しだけ落とした。


「どうして私にそういうことが起きたのか。何の神様なのか。どういう意味なのか」


 一度、息を吸う。


「でも、そこに私はいませんでした」


 部屋が静かになった。


「それが全部間違っていた、とは思いません」


 ミオは続ける。


「誰かが本気で考えてくれたものもあったと思います。心配して書いた人もいたかもしれません」


 顔を上げる。


「でも、読んでいるうちに、自分のことなのに、自分だけが知らない人みたいになりました」


 女性が、小さく視線を逸らした。


 男も笑わない。


「だから」


 ミオは言葉を探した。


「消してほしい、とも、全部残してほしい、とも、今は言えません」


 その答えを、誰も急かさない。


「ただ」


 ミオはレンのスマホへ一瞬だけ視線を向ける。


「私がそこにいないまま、私のことだけ増えていくのは……嫌です」


 それ以上は言わなかった。


 正解を出すための発言ではなかった。


 だから、反論できなくなったわけでもない。


「でも、それを一件ずつやってたら間に合わない」


 奥から別の声がした。


「現実に、ログは消されるんだよ」


「だからって勝手に出していいにはならないだろ」


 レンが返す。


「じゃあどこで線を引く?」


「分かんねえよ」


 レンは即答した。


 相手が少し驚く。


「分かんないけど、分かんないから全部開けるってのも違う」


「閉じる方が正しいって?」


「そんなこと言ってない!」


 また声が強くなる。


 レンは苛立ったように髪をかき上げた。


「何で二択なんだよ」


 その言葉だけが、少し長く残った。


 開く。


 閉じる。


 どちらにも、人を守る理由がある。


 どちらにも、人を傷つけるやり方がある。


 ユウリは壁の画面を見る。


 削除されかけた地方伝承。


 助けを求めた匿名相談。


 補正された証言。


 誰かが残したから、ここにある。


 同時に。


 残されたことで、もう戻せないものもある。


 NOCTは、それまで議論へ加わっていなかった。


 壁際に立ち、誰の側にも入らず、やり取りを聞いていた。


 やがて、静かに口を開く。


「だったら」


 全員が見る。


 NOCTは部屋の奥へ視線を向けた。


「何がもう開いてるのか、自分で見た方が早い」


 レンが眉を寄せる。


「何の話だよ」


「ここで議論してるものより、先に進んでるものがある」


「……何が?」


「見れば分かる」


「そういう言い方、嫌いなんだけど」


「知ってる」


 NOCTは歩き出した。


 部屋のさらに奥。


 棚の脇に、もう一つ扉がある。


 一般客が来るフロアよりも簡素な、金属製の扉だった。


 その脇。


 小さな表示。


《B3》


《OPEN VAULT》


 レンが画面を見上げる。


 ユウリも、その文字を読む。


 開かれた保管庫。


 閉じている扉につける名前としては、少し妙だった。


 NOCTが認証端末へ手を触れる。


 電子音。


 ロックが外れる。


 レンは一瞬だけ、ユウリとミオを見る。


 ユウリが頷く。


 ミオも、少し緊張した顔で頷いた。


 扉が、ゆっくり開いた。

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