第五節 ― 神話は、誰のものでもない
《BACK CHANNEL》へ続く扉を閉めた瞬間、音が遠のいた。
完全に消えたわけではない。階下の低音が壁を通して鈍く響いている。それでも、さっきまで胸骨を直接叩いていた音圧に比べれば、急に図書室へ入ったような静けさだった。
ユウリは耳の奥に残る感覚を確かめながら、細長い室内を見回した。
地下二階。
けれど、いわゆる秘密基地らしい統一感はない。
中古のノートPC。型の違うモニター。傷のある机。積まれた古書。神話辞典。民俗学の専門書。小型サーバー。無造作に束ねられたケーブル。その隣には、最新型らしい端末まで並んでいる。
壁際にはホワイトボードがあり、神名や地名、URLの断片が矢印で繋がれていた。
書いた人間が違うのだろう。筆跡も色も統一されていない。
部屋の奥では数人が画面へ向かっていた。
誰もローブなど着ていない。
パーカー。
シャツ。
仕事帰りらしいジャケット。
髪を明るく染めた女性。
年齢もばらばらだった。
「ここは、本名を聞かない」
先を歩くNOCTが言った。
「必要なら自分から名乗る。ハンドルネームだけでもいい。何も名乗らなくてもいい」
「その割に俺の本名は知ってたけど」
レンがまだ少し不満そうに返す。
「知っていることと、使うことは別だと言った」
「便利だな、その理屈」
「便利だから残ってる」
NOCTは振り返らずに答えた。
室内の中央には、低いテーブルと何脚かの椅子が置かれている。その周囲の壁面モニターでは、いくつものページが同時に開かれていた。
最初にユウリの目へ入ったのは、映像だった。
夜の住宅街。
スマホで撮られたらしく、画面が激しく揺れている。
道路の向こうに、本来あるはずのない赤い鳥居が何本も連なっていた。
映像の上には、
《削除済み投稿から再保存》
と表示されている。
その隣。
神話構文災害を経験した人物の証言。
文章の一部が二重線で消され、別の記述が追記されていた。
《行政発表:錯視現象》
《本人証言:一致せず》
《第三者ログ:保存》
別の画面では、AVISの異常挙動について相談が続いている。
《契約要求が拒否できない》
《アプリを削除しても戻る》
《神名を読み上げない》
《機内モードでは止まらない例あり》
《一人にならないこと》
短い回答が、何人もの手で足されている。
「これ……」
ユウリは画面へ近づいた。
一番下。
《救急搬送後、安定》
《情報提供者への連絡済み》
派手なことは何も書かれていない。
それでも、その数行の向こうに実際の誰かがいたことは分かった。
ミオも隣のモニターを見ていた。
そこには古い地方伝承らしい資料が表示されている。
白黒の写真。
祭具。
手書きの記録。
《自治体デジタル化時に除外》
《原本所在不明》
《旧個人サイトのキャッシュより復元》
祭りの名前。
今では使われていない地名。
土地の老人が録音したという短い語り。
「なくなっていたんですね」
ミオが言った。
「ネットからは」
NOCTが答える。
「残してた人が消して、サーバーが閉じて、検索から落ちて。そのまま誰も探さなければ終わってた」
「でも、ここにはある」
「誰かが持ってたから」
NOCTは簡単に言った。
それだけだった。
ユウリはもう一度、部屋を見る。
削除されたもの。
消されかけたもの。
誰にも信じてもらえなかったもの。
危険すぎるという理由で伏せられたもの。
間違っているかもしれないものまで混ざっている。
けれど、ここがなければ、本当に無くなっていた記録もある。
「レンが来たくなるの、分かる気がする」
ユウリが小声で言うと、レンが横を見る。
「だろ?」
「ちょっとだけ」
「素直じゃないな」
「全部いいとは言ってない」
「そこまで言われたら逆に安心するわ」
レンは軽く笑った。
けれど、その目は少し嬉しそうだった。
ユウリにも、その理由は分かる。
レンは、消されることを嫌う。
誰かが「危険だから」と決めて、見えるはずだったものを見えなくすることを嫌う。
ここには、それに抵抗してきた人間たちの痕跡がある。
ただ面白がって危険な神名をばら撒いているだけではない。
声を消された誰かのために、残してきた人間もいる。
「Rai_404じゃん」
声が飛んできた。
レンの肩がわずかに動いた。
奥の机に座っていた男が、椅子を回す。年齢は二十代半ばくらいに見えた。大きめのパーカーの袖を肘まで上げ、片手に缶コーヒーを持っている。
「その名前で呼ぶなって」
「何、リアルネーム派になった?」
「そういう話じゃない」
「じゃあ管理機構の人にでも怒られた?」
笑い声が一つ上がる。
悪意のある声ではなかった。
だからこそ、レンの顔が少し固くなったのが分かった。
別の席にいた女性が、画面から目を上げる。
「聞いたよ。《コンティニュー》の件」
レンは返事をしなかった。
「かなり消されたんでしょ?」
「消されたのもある」
「じゃあ、こっちで残して正解じゃん」
その口調も、責めるものではない。
むしろ当然のことを言っているようだった。
「管理側っていつもそうだから。危ないから非公開。混乱するから非公開。本人保護で非公開」
缶コーヒーの男が肩をすくめる。
「危険だから出さない、は管理機構と同じだ」
少し離れた机から別の声が続いた。
「本人に確認している間にログは消される」
「名前を伏せたら、権力側が事件ごと無かったことにする」
ユウリは反射的に否定しかけて、やめた。
全部が間違っているとは思えなかった。
神狭市で起きたことの中にも、一般には何も知らされていないものがある。
危険だから。
混乱するから。
被害者を守るため。
その理由が本当に必要だったことも知っている。
同時に、外から見れば何も起きなかったことになっている事件もあった。
「被害者本人が、残してほしいって言ってる場合もある」
女性が言った。
「なのに機構側が危険判定して全部消す。誰の記録なの、それ」
「そういうのまで閉じろって?」
男がレンを見る。
「Rai_404はずっと逆だっただろ」
レンはしばらく黙っていた。
机の端に指を置き、視線を落とす。
ユウリは横からその顔を見る。
以前なら。
きっと、かなり頷いていた。
ユウリ自身、そう思う。
隠された情報。
管理される神話。
誰か一人が危険かどうかを決める構造。
レンはずっと、それを嫌ってきた。
今だって嫌っているはずだ。
「別に」
レンが顔を上げた。
「消せって言ってない」
「じゃあ何?」
「公開する自由と」
少しだけ間があった。
「他人を公開する自由は違うだろ」
空気が止まった。
階下の音だけが、壁の向こうでかすかに続いている。
「……Rai_404が?」
男が笑う。
さっきより短い笑いだった。
「管理側に丸め込まれた?」
レンの口元が引きつった。
ユウリには、それが分かった。
言われると思っていたのだろう。
それでも、実際に言われれば平気ではない。
「違う」
「何が?」
「俺は今でも、隠していいなんて思ってない」
「じゃあ同じじゃん」
「同じじゃねえよ」
レンの声が強くなる。
室内の何人かが振り返った。
レン自身も気づいたのか、一度息を吐いた。
それから、声を少し落とす。
「俺が流した情報で」
指が、机の縁を掴む。
「友達が勝手に神話の材料にされた」
ミオがレンを見る。
「本人が出していいって言ってない情報が流れて。勝手に意味つけられて。面白がられて」
レンの視線は、誰か一人へ向いていなかった。
「それでも同じこと言えんなら、言えよ」
誰もすぐには返さない。
ユウリも口を挟まなかった。
レンが何を背負ってその言葉を言っているのか、代わりに説明したくなかった。
それはレンの言葉だった。
缶コーヒーの男が、少しだけ眉を寄せる。
「じゃあ、本人の許可が取れない記録は全部捨てるのか?」
「そんなこと言ってない」
「でも本人確認を必須にしたら、死んだ人間の記録はどうする。行方不明者は? 組織から逃げて連絡不能な内部告発者は?」
「だから――」
「判断する人間が必要になる。その判断役は誰だよ。結局、管理者ができるだけだろ」
レンが言葉に詰まる。
ユウリも答えを持っていなかった。
本人に決めてもらえばいい。
それが一番簡単に見える。
けれど、本人が決められない場合はある。
本人がいない場合も。
公開しなければ別の被害者が増える情報もある。
伏せれば強い側に都合よく消されるものもある。
どこから先が他人の情報なのか。
誰の体験なのか。
事件に巻き込まれた十人のうち、一人だけが公開を拒否したらどうするのか。
簡単な線は引けない。
「でも」
ミオの声がした。
大きくはない。
それでも、全員がそちらを見る。
ミオは少し緊張したように指を組んでいた。
「私について書かれたものを、見たことがあります」
誰も口を挟まない。
「たくさん説明されていました」
女神。
器。
依代。
災厄。
救済。
神話の中心。
誰かが彼女を説明するために使った言葉を、ユウリも覚えている。
ミオは視線を少しだけ落とした。
「どうして私にそういうことが起きたのか。何の神様なのか。どういう意味なのか」
一度、息を吸う。
「でも、そこに私はいませんでした」
部屋が静かになった。
「それが全部間違っていた、とは思いません」
ミオは続ける。
「誰かが本気で考えてくれたものもあったと思います。心配して書いた人もいたかもしれません」
顔を上げる。
「でも、読んでいるうちに、自分のことなのに、自分だけが知らない人みたいになりました」
女性が、小さく視線を逸らした。
男も笑わない。
「だから」
ミオは言葉を探した。
「消してほしい、とも、全部残してほしい、とも、今は言えません」
その答えを、誰も急かさない。
「ただ」
ミオはレンのスマホへ一瞬だけ視線を向ける。
「私がそこにいないまま、私のことだけ増えていくのは……嫌です」
それ以上は言わなかった。
正解を出すための発言ではなかった。
だから、反論できなくなったわけでもない。
「でも、それを一件ずつやってたら間に合わない」
奥から別の声がした。
「現実に、ログは消されるんだよ」
「だからって勝手に出していいにはならないだろ」
レンが返す。
「じゃあどこで線を引く?」
「分かんねえよ」
レンは即答した。
相手が少し驚く。
「分かんないけど、分かんないから全部開けるってのも違う」
「閉じる方が正しいって?」
「そんなこと言ってない!」
また声が強くなる。
レンは苛立ったように髪をかき上げた。
「何で二択なんだよ」
その言葉だけが、少し長く残った。
開く。
閉じる。
どちらにも、人を守る理由がある。
どちらにも、人を傷つけるやり方がある。
ユウリは壁の画面を見る。
削除されかけた地方伝承。
助けを求めた匿名相談。
補正された証言。
誰かが残したから、ここにある。
同時に。
残されたことで、もう戻せないものもある。
NOCTは、それまで議論へ加わっていなかった。
壁際に立ち、誰の側にも入らず、やり取りを聞いていた。
やがて、静かに口を開く。
「だったら」
全員が見る。
NOCTは部屋の奥へ視線を向けた。
「何がもう開いてるのか、自分で見た方が早い」
レンが眉を寄せる。
「何の話だよ」
「ここで議論してるものより、先に進んでるものがある」
「……何が?」
「見れば分かる」
「そういう言い方、嫌いなんだけど」
「知ってる」
NOCTは歩き出した。
部屋のさらに奥。
棚の脇に、もう一つ扉がある。
一般客が来るフロアよりも簡素な、金属製の扉だった。
その脇。
小さな表示。
《B3》
《OPEN VAULT》
レンが画面を見上げる。
ユウリも、その文字を読む。
開かれた保管庫。
閉じている扉につける名前としては、少し妙だった。
NOCTが認証端末へ手を触れる。
電子音。
ロックが外れる。
レンは一瞬だけ、ユウリとミオを見る。
ユウリが頷く。
ミオも、少し緊張した顔で頷いた。
扉が、ゆっくり開いた。




