第三節 ― 新宿幻灯街
神狭市を離れてから、車窓の外を流れる景色は少しずつ密度を増していった。
低い住宅が減り、ビルが増える。夕方の電車には学校帰りの学生と仕事帰りにはまだ少し早い会社員、それから大きなスーツケースを持った旅行客が入り混じっていた。ドアの上では広告映像が切り替わり、乗換案内の日本語に英語、中国語、韓国語が続く。
レンはスマホを片手に、《Club MISLEAD》の位置情報を何度か確認していた。
「一応、普通に地図には出る」
「普通に?」
「店名で検索しても出てくる。イベント情報もある。レビューもある」
ユウリは向かいの座席から画面を覗く。
「じゃあ秘密の地下組織ではないんだ」
「俺、そんなところに招待されてたらもっと早くマシロさんに投げてる」
「そこはちゃんとするんだ」
「天瀬、俺への評価ちょっと低すぎない?」
「今日ずっと実績で殴られてますね、レンくん」
隣に座ったミオが言うと、レンが渋い顔をした。
「星宮までそっち側についた」
「私は事実を確認しただけです」
「その言い方、マシロさんっぽくなってきてない?」
ミオが少し考え、それから首を横に振った。
「それは嫌です」
「即答なんだ」
そのやり取りに、ユウリは小さく笑った。
電車が大きく揺れる。
吊り革が一斉に傾き、車内アナウンスが次の停車駅を告げた。スマホを見ていた乗客の何人かが顔を上げ、出口に近い場所へ移動し始める。
ここまでは、普通の放課後だった。
制服のまま少し遠くへ遊びに行く。
それだけなら。
*
駅を出た瞬間、空気が変わった。
「うわ」
レンが声を上げる。
何か異常が起きていたわけではない。
ただ、人が多い。
明るい。
うるさい。
建物の壁面いっぱいに巨大な映像が流れ、交差点の向こうでは別のビジョンが同時に三つの広告を切り替えている。上を見れば看板。正面を見れば店頭モニター。少し歩けば大型スクリーン。音楽と宣伝音声と街頭の呼び込みが重なり、その合間を人の会話が縫っていく。
神狭市の駅前にも広告はある。
けれど、ここでは視界へ入るもの全部が、こちらを向いているようだった。
巨大ビジョンの中で、銀色の翼を持つ人物が空から落ちる。
次の瞬間には映像が切り替わり、生成AIを使った映像サービスの広告になった。画面中央で白い神殿が組み上がり、入力された文章に合わせて柱が森へ変わり、海へ変わり、最後には巨大な女神像へ変わる。
その横のビルには、黒い角を生やしたゲームキャラクター。
反対側では、金色の太陽冠を被ったアイドルグループの新曲広告。
英語のタイトルの下に、聞き覚えのある神名がそのまま使われている。
「あれ、新曲?」
ユウリが見上げる。
「先週出たやつ。神話モチーフのコンセプトアルバム」
レンは普通に答えた。
「知ってるんだ」
「MVだけ見た。映像すごいぞ」
「詳しいですね」
「ネットにいると流れてくるんだよ」
その少し先では、若者が天使の羽を模した白いジャケットを着て歩いていた。向かいから来る二人組の片方は、小さな悪魔の角をヘアアクセサリーにしている。
ショーウィンドウのマネキンには、宗教画を思わせる光輪の意匠。
雑貨店の棚には北欧神話のルーンを使ったアクセサリー。
ゲームショップの大型パネルにはギリシャ神の名。
書店前のフェア台には日本神話を再解釈した小説と漫画。
どれも珍しくない。
誰も立ち止まって祈ったりはしない。
神の名は商品名になり、キャラクター名になり、曲名になり、ファッションになり、映像のモチーフになっている。
ユウリは歩きながら、その一つ一つへ視線を奪われた。
神狭市では、名前は重かった。
呼んだだけで何かが寄ってくることがある。
間違った名前を与えれば、別のものへ固定されることがある。
誰かの名前が失われれば、その人へ届く道まで消えていく。
けれど、ここでは。
名前が軽い。
数秒前まで巨大画面いっぱいに映っていた神が、次の広告では跡形もなく消える。同じ神名がゲームと服と楽曲でまったく違う意味に使われ、そのどれを見ても通行人は気にしない。
「……ちょっと見てみるか」
ユウリはスマホを取り出した。
「何を?」
「《シジル・ビュー》」
「あー」
レンが周囲を見渡した。
「酔っても知らないぞ」
「そんなに?」
「やれば分かるんじゃない?」
画面に触れる。
《SIGIL VIEW》
《MYTH CORRESPONDENCE OVERLAY:ON》
視界が、一度だけ青白く揺れた。
「――うわ」
今度はユウリが声を上げる番だった。
線。
線。
線。
視界いっぱいに、細い照応線が走っていた。
巨大ビジョンに映った翼から、別の広告の光輪へ。
そこから街頭ポスターの悪魔像へ。
ゲームキャラクターの槍から北欧神名へ。
別の看板に描かれた雷へつながり、次の瞬間には線そのものが消える。
日本神話を題材にした本の表紙から伸びた光が、一度は神社祭祀系の構文へ触れたかと思えば、すぐにゲーム側の同名キャラクターへ逸れていった。
その一本一本は薄い。
神狭市で見てきた神話構文のような重さがない。
強い神格残滓が居座っているわけでも、土地に固定された神域があるわけでもない。
つながって。
切れて。
またつながる。
数秒ごとに形が変わる。
「多すぎない?」
ユウリは思わず立ち止まった。
スマホの縁にアヴィが現れ、半目で街を見回す。
「そりゃそうだろ」
「これ全部、神話照応?」
「候補。弱いものまで表示してるからね」
一つの広告へ数本の線が伸びる。
そのうち二本が消え、別の線が増える。
アヴィはそれを目で追いながら、尾の先で一つを示した。
「神狭市が古い本なら」
別の線が生まれる。
「ここは更新中のタイムラインだ」
「落ち着かない本だな」
「本じゃないって言ってるだろ」
アヴィが呆れた。
レンはユウリの画面を横から覗き込み、「ああ」と納得したように頷く。
「こっちの方がネットっぽいな」
「神狭市より?」
「向こうは何かが残るんだよ。一回出た噂とか、昔の地名とか、変な伝承とか。忘れたつもりでもどっかに引っかかってる」
レンは巨大ビジョンを顎で示した。
「こっちは次が来る。新しいゲーム、新しい曲、新しい動画、新しい解釈。昨日バズってた神が今日は別の意味で使われてる」
「楽しそうですね、レンくん」
ミオが言う。
「まあ、嫌いじゃない」
隠す様子もなく返す。
実際、レンは学校にいる時より少し歩く速度が軽かった。気になる映像があれば視線を向け、見覚えのあるネットミームが巨大画面の端へ流れれば一瞬笑う。
ユウリにも、その気持ちは分かった。
大型書店の店頭で、神話を題材にした新刊の表紙が並んでいる。
ゲームのポスターには、知っている神名がまったく違う解釈でデザインされている。
生成映像の広告では、古代彫刻と近未来都市が一つの画面の中で混ざり合う。
神話好きとして見れば、普通に面白い。
「これ、事件じゃなかったら一日いられるな」
「だろ?」
レンが嬉しそうに振り返る。
「ユウリくんも好きそうです」
「うん。かなり」
「よし。帰り余裕あったら寄り道――」
「目的を忘れるな」
アヴィが遮った。
「分かってるよ」
「特にレン」
「何で俺だけ」
「実績」
「今日それ何回目?」
ミオが笑う。
彼女も、巨大画面を見上げていた。
自分へ向けられた神話名が並んだ時のような強張りはない。純粋に珍しいものを見る顔で、宗教画を大胆に加工した映像や、古い神像を現代服へ置き換えた広告を目で追っている。
「あれ、綺麗ですね」
ミオが指した。
ビルの壁面。
夜空を模した映像の中で、月を背負った人物が踊っている。衣装には古代風の意匠があり、背後にはいくつもの星座と神話名が流れていた。
「元ネタ分かる?」
レンが訊く。
「分かりません」
「即答」
「でも、綺麗です」
「それでいいんじゃない?」
ユウリが言うと、ミオは「はい」と笑った。
そのまま三人で歩く。
信号を渡る。
人の波を避ける。
レンのスマホに表示された地図では、《MISLEAD》までもう遠くない。
ユウリは《シジル・ビュー》を切ろうとした。
その時。
少し前を歩いていたミオが、足を止めた。
「ミオ?」
後ろから来た人を避け、ユウリも立ち止まる。
ミオは答えない。
交差点の向こうを見ていた。
看板。
ビジョン。
ショップのディスプレイ。
人が持つスマホの画面。
流れていく音楽。
名前。
名前。
また別の名前。
ミオが小さく息を吸った。
「名前が、多いです」
ユウリは周囲を見る。
「人?」
「違います」
ミオは首を横に振った。
目線はまだ、街のどこかを追っている。
「呼ばれているものが、多い」
その声に、ユウリはもう一度越しの街を見た。
一つの名が光る。
別の名へ線が伸びる。
切れる。
また違う名が呼ばれる。
誰かがゲームのキャラクターを話題にする。
大型画面から神名を含んだ歌詞が流れる。
店頭広告が、別の神の姿へ切り替わる。
祈っている者はいない。
それでも、名前は絶えず口にされている。
アヴィは何も言わなかった。
レンも、今度は冗談を挟まない。
「……行こう」
ユウリが言った。
ミオが頷く。
三人は再び歩き出した。
レンのスマホの地図では、目的地を示す印が、雑居ビルの並ぶ一角へ近づいている。
巨大な光の通りを外れ、少し細い道へ入る。
背後ではまだ、いくつもの神の名前が、次々と新しい意味に着替えながら流れていた。




