第二節 ― 名前を聞かない店
放課後、三人は神狭駅へ向かう前に、旧北口商店街へ寄った。
表通りから一本外れた裏路地は、まだ夕方なのに少しだけ薄暗い。古い建物の影が細い道へ落ち、その奥に、黒い木製の扉がある。真鍮の小さな札に嵌め込まれているのは、今日も店名ではなく、何も書かれていない白い板だった。
ユウリが扉を押すと、控えめなベルが鳴った。
「いらっしゃい」
カウンターの奥で、老紳士が顔を上げる。
エル=ネフリドは、いつもと変わらない格好をしていた。きちんと整えた服、穏やかな笑み。世界のどこかで神話が暴れようが、学校に空席が残ろうが、この店の中では何も急いでいないように見える。
「三人とは珍しいね。今日は玻璃川くんは?」
「学校に残りました」
ミオが答える。
「そうかい。では、席は三つでいい」
名前は聞かない。予約も取らない。誰が来たかを帳面へ書き留めることもない。
今さらそれを不思議には思わなかった。
三人はいつものテーブルへ座った。レンは鞄を足元へ置くと、注文より先にスマホを机の中央へ出した。
「今日、ちょっと新宿まで行ってきます」
「ほう」
ネフリドはカウンター越しにカップを用意しながら、それだけ返す。
「《Club MISLEAD》ってところ」
手は止まらなかった。
ユウリはその横顔を見た。
「知ってるんですか」
ネフリドが、ようやくこちらを向く。
「若い人の遊び場を全部把握していたら」
そこで少しだけ笑った。
「少し気持ち悪い老人だと思わないかい?」
レンが即座に眉を寄せた。
「否定になってないんですけど」
「質問というのは難しいね。答えたつもりでも、欲しい答えとは限らない」
「そういうのいいんで」
「久遠くんはせっかちだ」
「店長が回りくどいんですよ」
「店主だよ」
「そこ訂正するんだ……」
ユウリは二人のやり取りを聞きながら、机のスマホを見る。
《Club MISLEAD》
その名前を口にしても、ネフリドには本当に驚いた様子がない。
だからといって、何かを知っていると決めつけるのも違う。ネフリドを相手にすると、いつもその辺りが面倒だった。質問に答えないわけではないのに、答えを一つに絞ろうとすると、指の間からするりと抜けていく。
「ユウリ」
スマホの画面端から、アヴィが小さく声を出した。
「何?」
「見すぎ」
「何を」
「店主を」
ユウリは視線を戻した。
「別に」
「君の『別に』は、だいたい別にじゃない」
「うるさいな」
ネフリドは聞こえているはずなのに、何も言わなかった。
ほどなくして飲み物が運ばれてくる。ミオはカップへ両手を添えたが、すぐには口をつけなかった。
「どうした?」
レンが訊く。
「いえ……」
ミオは少し迷ってから、机のスマホへ目を落とした。
「そこに行ったら、私たちのことも知られているんでしょうか」
レンの表情が変わる。
「可能性はある」
「レンくんの契約相まで知っていましたし」
「うん」
ミオは自分のカップへ視線を落とした。湯気の向こうで、唇を一度閉じる。
「私の名前も、また使われるのかなって」
小さな声だった。
神の名なら、勝手に呼んでいいのか。
人の名前なら、どこまでなら書いていいのか。
検索するだけなら。考察するだけなら。噂にするだけなら。
けれど、書かれる側にとって、その境目が軽いとは限らない。
ユウリは何か言おうとしたが、その前にレンが口を開いた。
「今度は勝手に出させない」
ミオが顔を上げる。
「今度は、ですか」
「……そこ拾う?」
「大事だと思います」
真面目な顔で言われ、レンは困ったように後頭部を掻いた。
「まあ……うん。大事だな」
ミオの口元が、少し緩む。
「ありがとうございます」
「まだ何もしてないけど」
「言ってくれたので」
「そういうので先に礼言われると、失敗できなくなるんだけど」
「してください。失敗しないように」
「圧が強くなったな、星宮」
ミオが笑った。
レンも、少し遅れて笑う。
ユウリは二人を見ながら、昼休みとは別の意味で肩の力が抜けるのを感じた。
レンは、もう「公開すればいい」で進もうとしていない。
だからといって、全部隠せと言うわけでもない。
まだ答えを持っているわけではないのだろう。それでも、誰の情報を開こうとしているのかを、前より先に見るようになっている。
「そろそろ行く?」
ユウリが時計を見る。
「だな。向こう着いてから場所探す時間も欲しいし」
レンがスマホをしまう。ミオも残っていた飲み物を口にしてから、鞄を持った。
三人が席を立つと、ネフリドはカウンターの中から静かに見送った。
「お気をつけて」
「普通に言われると逆に怖いんですけど」
レンが言う。
「では、もっと不穏な言い方をしようか?」
「いらないです」
「残念だ」
レンが扉へ向かう。
ミオもその後を追い、ユウリが最後になった。
扉へ手をかけたところで、背後からネフリドの声がした。
「そうだ」
振り返る。
老紳士はカウンターの上のカップを片づけていた。こちらを見るでもなく、本当に今思いついた雑談を続けるような声だった。
「世界でいちばん厄介な扉はね」
布巾で、カップの置かれていた場所を拭く。
「鍵を持っている人がいない扉なんだよ」
ユウリの手が、扉の取っ手に乗ったまま止まる。
「誰も閉められないから?」
ネフリドは手を止めた。
ゆっくり顔を上げる。
「誰も、自分が開けたと思っていないからさ」
それだけ言うと、またカウンターへ視線を落とした。
ユウリはしばらく待ったが、続きはない。
「……それ、今から行く場所の話ですか」
「さあ?」
「絶対何か知ってる言い方じゃないですか」
「君は最近、老人の雑談へ意味を求めすぎる」
「あなたの場合は前科があるんですよ」
「ひどい言われようだ」
ネフリドは楽しそうに笑った。
答える気はなさそうだった。
「ユウリ?」
先に外へ出たミオが、扉の向こうから呼ぶ。
「今行く」
ユウリはもう一度だけネフリドを見た。
老紳士はいつもの店主の顔に戻っている。
仕方なく扉を開けた。
外の空気が入り込み、店内の静けさをわずかに揺らす。
三人が路地へ出る。
黒い扉が閉まり、小さなベルが最後に一度だけ鳴った。
店内には、また静かな時間が戻った。
エル=ネフリドは、片づけを終えた手を止める。
誰もいなくなった入口へ顔を向けた。
何も書かれていない白い札。
その奥にある、閉じた扉。
老紳士はしばらくそれを眺めていた。
そして、わずかに笑った。




