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現代神話構文黙示録 〜スマホアプリ《AVIS》と未定義の神々〜  作者: 秋月キアラ
第10話 ― 神話は、誰のものでもない
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第二節 ― 名前を聞かない店

 放課後、三人は神狭駅へ向かう前に、旧北口商店街へ寄った。


 表通りから一本外れた裏路地は、まだ夕方なのに少しだけ薄暗い。古い建物の影が細い道へ落ち、その奥に、黒い木製の扉がある。真鍮の小さな札に嵌め込まれているのは、今日も店名ではなく、何も書かれていない白い板だった。


 ユウリが扉を押すと、控えめなベルが鳴った。


「いらっしゃい」


 カウンターの奥で、老紳士が顔を上げる。


 エル=ネフリドは、いつもと変わらない格好をしていた。きちんと整えた服、穏やかな笑み。世界のどこかで神話が暴れようが、学校に空席が残ろうが、この店の中では何も急いでいないように見える。


「三人とは珍しいね。今日は玻璃川くんは?」


「学校に残りました」


 ミオが答える。


「そうかい。では、席は三つでいい」


 名前は聞かない。予約も取らない。誰が来たかを帳面へ書き留めることもない。


 今さらそれを不思議には思わなかった。


 三人はいつものテーブルへ座った。レンは鞄を足元へ置くと、注文より先にスマホを机の中央へ出した。


「今日、ちょっと新宿まで行ってきます」


「ほう」


 ネフリドはカウンター越しにカップを用意しながら、それだけ返す。


「《Club MISLEAD》ってところ」


 手は止まらなかった。


 ユウリはその横顔を見た。


「知ってるんですか」


 ネフリドが、ようやくこちらを向く。


「若い人の遊び場を全部把握していたら」


 そこで少しだけ笑った。


「少し気持ち悪い老人だと思わないかい?」


 レンが即座に眉を寄せた。


「否定になってないんですけど」


「質問というのは難しいね。答えたつもりでも、欲しい答えとは限らない」


「そういうのいいんで」


「久遠くんはせっかちだ」


「店長が回りくどいんですよ」


「店主だよ」


「そこ訂正するんだ……」


 ユウリは二人のやり取りを聞きながら、机のスマホを見る。


《Club MISLEAD》


 その名前を口にしても、ネフリドには本当に驚いた様子がない。


 だからといって、何かを知っていると決めつけるのも違う。ネフリドを相手にすると、いつもその辺りが面倒だった。質問に答えないわけではないのに、答えを一つに絞ろうとすると、指の間からするりと抜けていく。


「ユウリ」


 スマホの画面端から、アヴィが小さく声を出した。


「何?」


「見すぎ」


「何を」


「店主を」


 ユウリは視線を戻した。


「別に」


「君の『別に』は、だいたい別にじゃない」


「うるさいな」


 ネフリドは聞こえているはずなのに、何も言わなかった。


 ほどなくして飲み物が運ばれてくる。ミオはカップへ両手を添えたが、すぐには口をつけなかった。


「どうした?」


 レンが訊く。


「いえ……」


 ミオは少し迷ってから、机のスマホへ目を落とした。


「そこに行ったら、私たちのことも知られているんでしょうか」


 レンの表情が変わる。


「可能性はある」


「レンくんの契約相まで知っていましたし」


「うん」


 ミオは自分のカップへ視線を落とした。湯気の向こうで、唇を一度閉じる。


「私の名前も、また使われるのかなって」


 小さな声だった。


 神の名なら、勝手に呼んでいいのか。


 人の名前なら、どこまでなら書いていいのか。


 検索するだけなら。考察するだけなら。噂にするだけなら。


 けれど、書かれる側にとって、その境目が軽いとは限らない。


 ユウリは何か言おうとしたが、その前にレンが口を開いた。


「今度は勝手に出させない」


 ミオが顔を上げる。


「今度は、ですか」


「……そこ拾う?」


「大事だと思います」


 真面目な顔で言われ、レンは困ったように後頭部を掻いた。


「まあ……うん。大事だな」


 ミオの口元が、少し緩む。


「ありがとうございます」


「まだ何もしてないけど」


「言ってくれたので」


「そういうので先に礼言われると、失敗できなくなるんだけど」


「してください。失敗しないように」


「圧が強くなったな、星宮」


 ミオが笑った。


 レンも、少し遅れて笑う。


 ユウリは二人を見ながら、昼休みとは別の意味で肩の力が抜けるのを感じた。


 レンは、もう「公開すればいい」で進もうとしていない。


 だからといって、全部隠せと言うわけでもない。


 まだ答えを持っているわけではないのだろう。それでも、誰の情報を開こうとしているのかを、前より先に見るようになっている。


「そろそろ行く?」


 ユウリが時計を見る。


「だな。向こう着いてから場所探す時間も欲しいし」


 レンがスマホをしまう。ミオも残っていた飲み物を口にしてから、鞄を持った。


 三人が席を立つと、ネフリドはカウンターの中から静かに見送った。


「お気をつけて」


「普通に言われると逆に怖いんですけど」


 レンが言う。


「では、もっと不穏な言い方をしようか?」


「いらないです」


「残念だ」


 レンが扉へ向かう。


 ミオもその後を追い、ユウリが最後になった。


 扉へ手をかけたところで、背後からネフリドの声がした。


「そうだ」


 振り返る。


 老紳士はカウンターの上のカップを片づけていた。こちらを見るでもなく、本当に今思いついた雑談を続けるような声だった。


「世界でいちばん厄介な扉はね」


 布巾で、カップの置かれていた場所を拭く。


「鍵を持っている人がいない扉なんだよ」


 ユウリの手が、扉の取っ手に乗ったまま止まる。


「誰も閉められないから?」


 ネフリドは手を止めた。


 ゆっくり顔を上げる。


「誰も、自分が開けたと思っていないからさ」


 それだけ言うと、またカウンターへ視線を落とした。


 ユウリはしばらく待ったが、続きはない。


「……それ、今から行く場所の話ですか」


「さあ?」


「絶対何か知ってる言い方じゃないですか」


「君は最近、老人の雑談へ意味を求めすぎる」


「あなたの場合は前科があるんですよ」


「ひどい言われようだ」


 ネフリドは楽しそうに笑った。


 答える気はなさそうだった。


「ユウリ?」


 先に外へ出たミオが、扉の向こうから呼ぶ。


「今行く」


 ユウリはもう一度だけネフリドを見た。


 老紳士はいつもの店主の顔に戻っている。


 仕方なく扉を開けた。


 外の空気が入り込み、店内の静けさをわずかに揺らす。


 三人が路地へ出る。


 黒い扉が閉まり、小さなベルが最後に一度だけ鳴った。


 店内には、また静かな時間が戻った。


 エル=ネフリドは、片づけを終えた手を止める。


 誰もいなくなった入口へ顔を向けた。


 何も書かれていない白い札。


 その奥にある、閉じた扉。


 老紳士はしばらくそれを眺めていた。


 そして、わずかに笑った。

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