第一節 ― レイジくん
神楽坂レイジは、思っていたよりずっと捕まらなかった。
ユウリたちが声を掛けようと神楽殿の方へ回ったときには、さっきまでそこにいたはずのレイジは、石段の下で老人から紙袋を二つ受け取っていた。
「悪いねえ、レイジくん。これ、社務所までお願いできる?」
「もちろんです。重い方はどちらですか」
「いやいや、そんな重くないよ」
そう言われても、レイジは二つとも持った。片方には飲み物のペットボトルでも入っているのか、底が大きく沈んでいる。
「ご本人が重いかどうか決める前に持っていくんですね」
ミオが小声で言った。
「たぶん、あれ断っても自分で持っていくやつだろ」
レンが答える。
老人と二、三言交わしたレイジは、そのまま社務所へ向かった。途中で子ども神輿の横を通りかかったところで、今度は法被姿の男性に呼び止められる。
「レイジくん、ちょっと縄見てくれないか」
「どこです?」
「こっち。締め直したんだけど、どうも片側だけ浮くんだよ」
紙袋を届け終えたばかりのレイジが、その場にしゃがみ込む。
子ども神輿の担ぎ棒には、白い縄が何重にも巻かれていた。その一本を指で押し、結び目を確かめる。神聖な祭具を扱うというより、長年使ってきた道具の癖を知っている人間の手つきだった。
「ここ、一周足りないです。たぶん去年と巻き方を変えましたよね」
「ああ? そうだったか?」
「去年の写真、残ってるはずです。無理に締めるより、合わせた方がいいですよ」
「じゃあレイジくん、やってくれる?」
「僕が全部やったら、来年また同じことになります」
「固いなあ」
「覚えてください」
言いながらも、レイジは縄を解き始めた。
ユウリは少し離れたところで、その横顔を見ていた。
ソウリン大御神の契約者。
神々の再臨を望み、神話をもう一度、人間の世界へ戻そうとしている者。
そういう肩書きを知ってから見ると、白い装束も、神域に立つ姿も、何か大きな意味を持っているように見えていた。
けれど今やっていることは、神輿の縄の結び直しだった。
「あ」
レンが声を漏らす。
境内の端で、屋台の照明が一斉に消えた。
「消えたぞー!」
「ブレーカー落ちた?」
「まだそんな使ってないだろ!」
声が飛び交った直後、誰かがこちらを向いた。
「レイジくん! 電源分かる?」
レイジの手が止まる。
「今、縄を――」
「こっちは俺がやる。行ってこい」
法被の男性が手を振った。
「さっき覚えてくださいって言ってなかったか」
トウマがぼそりと言った。
「地域の信頼で全部押し切られてるな」
レンが妙に感心している。
レイジは立ち上がると、今度は屋台の並ぶ方へ向かった。
数分もしないうちに、消えていた裸電球がぱっと点く。
「おお、ついた!」
「助かった、レイジくん!」
「配線を一か所にまとめすぎです。夜になって機材が増えたらまた落ちますよ」
「じゃあどうすりゃいい?」
「予備系統を使ってください。分電盤の右側です。あと、この延長コードは――」
そこまで言ったところで、別方向から女性の声が飛んだ。
「すみません! この子のお母さん、見ませんでしたか?」
今度は何だ、とユウリが振り返る。
泣きそうな顔をした男の子が、若い神職に手を引かれていた。五、六歳くらいだろう。片手には、まだ袋から出していない狐の面を握っている。
レイジもすぐにそちらを見た。
「どこで離れた?」
しゃがみ、男の子と目線を合わせる。
質問されても、男の子は鼻をすすっただけだった。
「神社のお兄ちゃん……」
「うん」
「お母さん、いなくなった」
「分かった。一緒に探そう」
レイジの声が少し変わった。
さっきまで電気系統の話をしていたときよりゆっくりで、低い。男の子が握っている狐面へ一度視線を落とし、それから周囲を見た。
「最後にお母さんといたの、どこか覚えてる?」
「……わたあめ」
「綿あめの屋台?」
こくりと頷く。
「見習いの二人は参道の入口を見て。境内放送はまだいい。お母さんの方も探してるだろうから、先に綿あめの周辺と手水舎を確認しよう」
「はい」
若い神職たちがすぐに散った。
指示は短かった。命令するというより、今やることを順番に切り分けて渡している。
「俺らも探す?」
レンが訊く。
レイジは少し考え、首を振った。
「人を増やしすぎると、今度は君たちを探すことになる」
「信用がない」
「お前の日頃の行いだろ」
トウマが即答する。
「なんで俺だけ?」
「四人まとめて言ったつもりだ」
「俺だけ見てただろ!」
レンが抗議している間に、境内の向こうから女性の声がした。
男の子が顔を上げる。
「お母さん!」
手を離して走り出した。
レイジは追わない。ただ、母親のところまで辿り着くのを見届けてから立ち上がった。
母親が何度も頭を下げる。
「本当にありがとうございます」
「見つかってよかったです。まだ準備中で車の出入りもあるので、気をつけてください」
「はい。ほら、あなたもお礼」
「……ありがと、神社のお兄ちゃん」
「どういたしまして」
レイジが少し笑う。
そのときだった。
「いたっ!」
近くで短い声が上がった。
走っていた女の子が、石畳の段差につまずいて転んでいた。手のひらと膝をつき、一拍遅れて顔を歪める。
レイジが動いた。
「大丈夫か?」
泣き声が上がる前にそばへ行き、膝をつく。
「手、見せて」
「いたい……」
「うん。痛いな」
擦りむいた手のひらを確認する。血は薄く滲んでいる程度だった。
「水で洗おう。歩ける?」
女の子は涙を溜めたまま頷いた。
「えらい。じゃあ、ゆっくりでいい」
ちょうど追いついてきた母親に引き渡し、救護の場所を伝える。そこへ今度は、神楽殿の方から声。
「レイジくん、舞台の確認お願い!」
社務所の方からも。
「レイジ、奉納札の箱どこだ!」
さらに別の若い神職が走ってくる。
「神楽坂さん、灯籠の並びなんですけど――」
「一つずつ!」
さすがにレイジが声を上げた。
境内の何人かが笑う。
本人だけが笑っていない。
「舞台は五分後に行きます。奉納札の箱は社務所奥、昨日置いた場所から動かしてません。灯籠は番号順に並べて、欠けてるところだけ教えてください」
「分かりました!」
「レイジくん、こっちも!」
「今行きます!」
また走る。
ユウリは、とうとう吹き出した。
「……すごいな」
「何がだ」
たまたま聞こえたらしい。通り過ぎようとしたレイジが足を止める。
「いや」
ユウリは境内を見回した。
高齢者。
神職。
屋台の人。
子ども。
誰も彼を特別な思想の代表として呼んでいない。
ただ、困ると名前を呼ぶ。
「思ってたより、普通に忙しい人なんだなって」
「どういう意味だ、それは」
「もっとこう……奥で難しい顔して祭祀のことだけ考えてるのかと」
レイジの眉がわずかに寄った。
「祭りは勝手にできない。人間が準備するんだ」
「神様がやってくれないんだ」
レンが横から入る。
「電源まで神頼みにするな」
「再臨派なのに現実的」
「久遠、お前は少し黙れ」
レイジが言った、そのとき。
「レイジ兄ちゃん!」
先ほど迷子になっていた男の子が、母親のそばから戻ってきた。
「どうした?」
「聞いていい?」
「今度は迷子になるなよ」
「ならないよ」
男の子は少しむっとしてから、拝殿を見上げた。
「神様って、本当にいるの?」
レイジの動きが止まった。
ほんの一瞬だけだった。
ユウリも彼を見る。
神楽坂レイジなら、答えは決まっていると思っていた。
神はいる。
神々は失われていない。
もう一度、人の世界へ帰ってくるべきだ。
そのためにここまで歩いてきた人間だ。
なのにレイジは、すぐには答えなかった。
子どもは待っている。
レイジは拝殿を見た。それから提灯を見て、神輿を見て、まだ開いていない屋台を見た。
最後に男の子へ視線を戻す。
「……いると思って祭りをやる方が、楽しいだろ」
男の子が首を傾げた。
「それ、いるってこと?」
「細かいな」
ユウリは堪えきれずに笑った。
レイジがすぐにこちらを見る。
「笑うな、天瀬」
「だって、いつものレイジなら絶対『いる』って言うと思ってたから」
「子どもにまで持論を説くほど無粋じゃない」
「持論なんだ」
「天瀬」
「ごめん」
謝りながらも、笑いは少し残った。
男の子はまだ納得していないらしく、拝殿とレイジを交互に見る。
「じゃあ、神様いたら、お祭り見てる?」
今度のレイジは、少しだけ早く答えた。
「見てるんじゃないか」
「屋台も?」
「たぶんな」
「射的も?」
「それは知らん」
「神様、射的下手かな」
「だから知らん」
男の子は満足したのか、「じゃあ後で勝負する」と一方的に宣言して母親の方へ戻っていった。
レンがその背中を見送る。
「何と勝負する気なんだ、あいつ」
「神様じゃない?」
ミオが言う。
「強いな、小学生」
トウマが呆れたように息を吐いた。
レイジは何か言い返そうとして、やめた。
境内を見渡す。
提灯。
神輿。
屋台。
神楽殿。
準備に走り回る人たち。
そこへ、また声が飛んだ。
「レイジくーん!」
レイジが目を閉じた。
一度だけ、深く息を吐く。
「……今行きます!」
結局、そう答えて走っていった。
ユウリはその背中を見送りながら、まだ少し笑っていた。




